本稿は、雑誌『部落』2001年7月号 特集「新たな地域住民運動をめざして」に掲載されたものです。
                 島根県部落解放運動連合会  書記長 片寄 直行

  〜人間らしさを探求する理性の運動〜


 全解連島根県連は先進的で強大な組織ではありませんが、国家プロジェクト「中海干拓事業」の中止をかちとった住民運動の成果を肌で感じながら、島根の現状と対比して全解連運動の未来を思考してみたいと思います。


全解連との出会い

 1974年、学生時代に八鹿高校事件が起こり、部落問題への関心を持つようになりました。部落解放同盟(「解同」)朝田・丸尾派による教師への集団リンチは絶対に許せなかったし、こんなことがまかり通ったら、自由や民主主義はいったいどうなるのだろうかと危惧をいだきました。しかし、あれは部落の人たちの運動だから自分には関係ないと思っていました。
 1984年当時、私が島根において県会議員の秘書の仕事をしていたとき、はじめて島根の全解連の勇者たちと出会います。県連準備会が「真に部落解放と結びつく、公正・民主・公開・住民合意の同和行政の確立」をもとめて島根県当局と初の交渉を持つ際、県議に挨拶にこられたときです。さわやかで、明日を見つめるひたすらさ、私は大きなエネルギーを感じました。
 それまでの全解連の運動はおもに石見部(県西部)に基盤をもっていたため、県連準備会の人たちは、出雲部(県東部)に支部をつくり、県連を結成し、活動を軌道に乗せる構想でした。おりしも道祖本(さいのもと)事件(大阪で結婚差別をしたとして島根県出身の青年が矢面にたたされ、町や島根県に解放同盟が糾弾した)がおこったときでしたから準備会の人たちも非常に真剣でした。


「解同」の策動とゆがむ同和行政

1987年、私が松江市議会議員に初当選(日本共産党公認)した後、ある部落の奥さんが「遊園地に同和の共同作業所がつくられる。子どもの遊び場がなくなるので、なんとか止めさせて欲しい」と懇願されました。
 議会で取り上げることにはしましたが、遊園地問題だけでは本質に迫れないと思い全解連の同和問題資料を片っ端から勉強して初質問に臨みました。結果は、共同作業所計画は撤回され、遊園地は現状のままとなりお母さん方から喜ばれました。その頃は地域改善対策協議会が八六意見具申を発表し、87年3月に総務庁が地域改善対策啓発推進指針を通達した直後のことでした。しかし、6月の初質問で市当局はその指針をみていないとの答弁でしたし、その後も一向に変化がないのを不審に思い調べてみたら、島根県が市町村への配布を差し止めていたことが判明しました。その背景には、第一に「解同」が八六意見具申や啓発指針を差別文書だとして全国的に圧力をかけていたこと。第二に、島根県同和対策課の講師がこの意見具申のもととなった「基本問題検討部会報告」に沿った内容の講演をし、道祖本事件に批判的だったことに対して、けしからんと「解同」が糾弾した事件がありました。日本共産党の地方議員団は、島根県にただちに抗議し、総務庁とも交渉して「正式な国の通知」との言質をひきだし、市町村に配布させるようにしました。
 遊園地問題だけを追及していたら円満解決で同和問題に深くかかわることはなかったかもしれません。この件を通じて、私は同和問題の政治的・社会的な奥深さを知り、議会人の立場から同和問題を追及するようになりました。
 このとき島根県行政が「解同」に屈服しいているところに同和問題の最大の問題があり、ここをしゃんとさせなければ話にならないと思いました。県下の高校で生徒による「差別」発言を口実に「解同」の無法な介入がおもうがままにされていたときでしたから、八鹿高校の再現になるのではと危機感を覚えたのでした。


 雑誌『部落』とオルグの大きな役割

 組織をつくる思いを決定的にしたのは、雑誌『部落』の1995年11月号「特集・島根県の部落問題・同和教育」の座談会でした。東上高志先生を座長に島根の同和問題を話し合ったのです。関係者が集まって多面的に情報交換したのは、おそらくはじめてのことではなかったでしょうか。全解連運動は必ずしも部落民だけの運動ではない、国民融合の運動なんだ、と思いを新たにしました。そして、その年の11月に全解連松江支部をたちあげました。県連準備会の人たちが松江の支部づくりをめざしてから11年後のことでした。そして、翌年の1996年1月、島根県解連が結成されたのです。それ以来、私は、大衆運動として全解連運動をライフワークとする決意をかためました。松江支部の組織化が困難なときでも「また、行きましょう」と希望に満ちて声をかけてくださった中野初好前全解連中央執行委員長の情熱を忘れることができません。熱心なオルグ活動があったればこその前進でした。


 地道な支部活動が土台つくる

 島根の運動というとつい最近のこととおもわれがちですが、支部を基礎にした地道な活動は20年の歴史を刻んでいます。島根で最初の全解連組織は、1981年4月19日結成の大田支部(天野洋邦支部長)です。
前年、大田市長が「差別」発言をしたとして同和会が糾弾をしていた頃、全解連中央は機敏に対処し、中西書記長(当時)の講演会を開催しました。それに参加した人たちで全解連有志懇談会を組織、中野委員長(当時)の指導を受けて結成されました。全解連の講演会にはじめて参加して、目からウロコが落ちたと全解連にとびこんできた同和会の青年部長がいました。それが、現在、島根県解連の大西修委員長です。やればやるほど問題がなくなっていくのが部落解放運動なのだ、と中野委員長に教えられて、これまでの確認会中心の運動の誤りに気が付いたのでした。
 1987年、全解連第16回大会で決定した「21世紀をめざす部落解放の基本方向」は、私たちに不動の確信を与えました。この見地を基本に県内の支部は活動を活発化させました。大田支部は、住民要求アンケートで要求をつかみ、集会所の雨漏り対策や道路整備など住民要望を実現し、市の同和対策審議会に同和会、「解同」、全解連の三団体をいれさせるなど積極的にイニシアをとってきました。大田支部は決して活動の枠を同和地区に狭めなかったし、大田市だけにも狭めなかった。つねに島根県全体を視野に入れ、支部建設に情熱的にチャレンジしてきました。
 1995年に結成された松江支部も住民との対話活動のなかで、公職選挙の投票所となっている隣保館の付近に駐車場がなく不便であることから、市に交渉し、駐車場建設を実現させるなど少しづつ全解連運動を前進させました。
 支部活動の大切さはいうまでもありませんが、やはり、行政や「解同」の路線と果敢にたたかうには県連活動こそその要です。


 島根県連結成で情勢を動かす力が

 1996年に四つの支部が結集して島根県連を結成したとき、島根県行政の対応はひややかでしたし、翌年、全解連の全国大会を松江市で開催したとき、メッセージも来賓挨拶も拒否する旨の文書を送りつける、そういう態度でした。全解連とのかかわりを完全否定したかったらしいのですが、「同じ運動団体なのに片方は密接に連携し補助金まで出しているのに、もう一方は存在すら認めないとはそれこそ差別ではないか」と追及したところ、これに反論できなくて、1997年、島根県当局はわたしたちを正式な交渉団体として認めざるをえませんでした。
 以後、毎年の対県交渉で私たちは、「解同」追随、同和肥大化の県の姿勢を批判してきました。島根県が行った県民意識調査で‘9割以上が結婚差別の存在を認識している’と非科学的・恣意的な結論をまとめたことに対して、事実と道理に即して批判し、島根県に「啓発の材料として使わない」と明言させました。
 一昨年、邑智郡羽須美村で小学校長が職員朝礼時に「バカ保護者」「同和地区のやから」と発言し、確認・糾弾がされようとしましたが、校長が差別発言とは認めず確認会への出席を断固拒否するというこれまでにない展開となりました。たしかに不見識な発言だとは思いますが、誰かを排除しようとして人権を侵害したわけではありませんから、これは差別ではありません。全解連との交渉の席上、県教委は「(朝礼での)発言時にはその意思はなかった」といっているように朝礼時の発言に差別性がないことを認めたのです。「解同」が突き上げた結果、島根県は校長に対して一般教諭への降格処分を下し、「解同」や同和会との合作の総括書を作成しました。これらの団体とは一字一句まですりあわせをしていましたが、全解連は県と考えが違うから協議の対象外というのです。警戒しなければならないのは、県が管理職選考のありかたを反動的に強化し、「同和教育をすべての教育の基底にすえる」路線をいっそうすすめる立場にたったことです。
 交渉後、県連は記者会見を行い、「確認・糾弾」路線からの脱却とそのための県民運動を提起しましたが、マスコミはまともに取り上げようとはしませんでした。
 今年度で国の同和に関する法律が終了するという段階になっても、同和偏重の施策を変えようとしていません。同和団体に対する多額の補助金(島根県で千四百九十万円)、同和の子どもだけを探し出し教師の時間外勤務で実施されている学力促進学級(松江市、出雲市、加茂町)、人権の中で同和をことさら強調する施策の押しつけなど。この姿勢は、島根県の行政機構が<人権同和対策課(2000年度)、人権同和教育課(2001年度)>同和の名を残していることにもよく現れています。


 初の県部研を民主団体と共同開催

 20世紀最後2000年度の私たちの最大のイベントは、島根県で初の部落問題研究集会でした。実行委員会で開催した関係で集会の名称も創意に満ちた「部落問題をいっしょに考える県民のつどい」とし、テーマは「本音で語ろう!人権・教育・同和問題」です。実行委員会には全解連のほか県教組、公立高教組、日本共産党など6団体で構成、当日は約100人が参加しました。
 全教広島の岡田隆行書記次長が「部落問題の真の解決をめざして」と題して基調講演、シンポジウムでは、教師、議員、全解連の三者の報告が行われました。
 教師からは「学校現場に部落差別がないのにしつこいほど同和教育が実施されるので、無理が生じている。同和教育は終了するべきだ」、議員からは「これ以上の同和行政の実施はかえって差別をつくりだすことになる」、全解連からは「行政は差別意識があるから啓発が大事だといっているが虚構の理屈だ。差別とは人権侵害の事実をいうのであって、上からの押し付けの啓発は国民の内心の自由をおかす」と告発しました。
 
 参加者の感想文の一部を紹介します。

* 岡田隆行先生の生きたたたかいの報告に感動しました。「これをささえたのは全国からの支援だった」と言われ、民主運動の大切さがよくわかりました。
* ある会社を定年退職して3年余になります。在職中は、同和教育を10年以上毎年3時間程度、11000人余いる社員1人残らず実施されました。その基本は、被差別者意外はすべて差別者という立場で実施されました。このことは今でも納得がいかないでいます。
* 今まで解放同盟、同和会などさまざまな研修会に参加しましたが、いろんな意見を出し合うことが大切です。(その点、今回の集会は)たいへん良い会と思います。全解連の方が言われるように、自由に意見交換できる雰囲気こそ重要と思います。


 実行委員会解散の後、「部落問題を考える県民連絡会」が発足し、次回の開催にむけて準備がすすめられています。「解同」追随の行政をやればやるほど県民世論との矛盾が拡がっていくのが見て取れます。


 新しい運動体は人間解放運動

 県解連の今後の運動について考えると、全解連第31回大会で決定した「部落解放運動の発展的転換をはかる基本方針」に基づく活動が第1期の活動になります。同和の垣根を取り払い、部落内外の共通する課題で活動します。同和行政・同和教育終結の活動、「解同」の策動に注意をむけ部落排外主義の排除、人権を守る国民の主体的運動の形成、自由と民主主義、平和のたたかいなど旺盛に活動を展開します。島根県では、同和教育基底路線を突っ走り「解同」追随の異常な県行政の実態を知らせ、全解連の考えを広く知ってもらう活動を急速に強めることが大切です。そして、県内津々浦々に全解連の支部をつくり、大きな全解連組織を目指すことなしには展望は開けません。
 第2期の活動は、全解連が部落解放の運動から卒業し、新しい運動体へと発展した後の活動です。新しい運動体の活動は、人間らしい生活、生き方を実践・創造する多様な地域活動が予想され、住民運動のネットワークの結節点を担います。すなわち人間らしさを奪ういっさいの思想・策動と果敢にたたかい、発展する人権意識をさらに創造する活動になると思います。「人間解放運動全国連合会」あるいは国際化もすすむ前提で名称を考えれば「ヒューマン・リリース・ジャパン」とかという名称も創造できるところです。名称や新しい綱領的文書については、今後、全解連の機関で論議、提案されることでしょうが、この期の活動のイメージはまだ充分に結像できません。
 この運動体は、日本国憲法を守る国民的運動の一翼を担い続け、日米安保条約の破棄、国民が主人公の政治の実現を勝ち取ることでしょう。21世紀中に資本主義社会の崩壊をむかえ、社会進歩に転じることも充分に可能性があります。その後、第3期と呼べるかどうかわかりませんが、新しい運動体がさらなる発展的転換をはかるのか、それとも発展的解消なのか、そこまでは予測がつきません。
 楽しい夢を見つつ、仲間とともに現実社会を深く分析して、人権を守り発展させ、自由と民主主義の花ひらく社会を実現するために情熱を燃やしたいと思います。
 (かたよせ なおゆき/島根県部落解放運動連合会書記長)