中継ぎ投手列伝

「敗戦処理こそ天職」 岡田展和(巨人)

野球漬けで過ごした田舎の少年にとっては、野球中継といえば巨人だった。
斉藤雅樹や桑田真澄、原辰徳といったスター選手には目もくれず、
バント職人川相昌弘を追いかけていたひねくれ坊主が目を付けた投手。
それが敗戦処理の中継ぎ投手・岡田展和だった。
敗戦処理というのはその名の通りチームが敗戦濃厚の状態で登板する投手で、
プロ野球に点差コールドがない限りは必ず必要な役回りでもある。
岡田は巨人在籍の8年間ずっとその役割を任されてきた。
もう誰も見ていないようなゲームで投げる投手。
おそらくは視聴率が急落している中で、私はこの投手を見続けてきた。
 
岡田の投球フォームはまるで飛翔しているようだった。
セットポジションから足を上げ、ボールを投げ終わり体が着地する。
その瞬間、投球動作が終わると同時に小躍りするように体が浮き上がる。
目一杯のボールを投げた反動で、体を抑えることができない。
まるで投球の喜びを表現するかのように。
見る者にはそう見て取れる岡田の飛翔が、私はたまらなく好きだった。
 
しかし残念なことに、そんな岡田の雄姿が見られるのは敗戦処理の場面でのみ。
敗戦処理で小躍りするようにして投げる岡田の姿を見た首脳陣が、
なんだ岡田は良い投手じゃないか、調子も良さそうだと勝負所で起用する。
ゲーム終盤で迎える1点リード、ランナーは2塁。
途端に岡田の温厚な表情から冷や汗が流れ始める。
フォームはガチガチ。悪い時にはストライクも入らない。
あの雄雄しい岡田はどこに行ったんだ、ということになり敗戦処理へ逆戻り。
すると再び生き返ったように飛翔するフォームが甦る、そんな調子だった。
 
結局のところ岡田展和という投手を最も生かす場所は敗戦処理だった。
見る者には野球を楽しんでいるかのように見えるフォーム。
そんな感情が表れている岡田のピッチングスタイルが私は好きだったし、
それもまたプロとしての表現力の一つと言うことができるかもしれない。
 
 

130km台の究極のストレート」 小林幹英(広島)

グラブを前に突き出し、真っ直ぐな瞳が外角低目を突き刺す。
新人投手開幕戦勝利を挙げた頃の直球より速度は10kmばかりも遅い。
130km台後半が出ればいいとこ。スピードガン表示では確かにそうだ。
しかしそのストレートを各打者が打ちあぐねているこの光景はどうだ。
タイミングを外すスローカーブも、ほとんど落ちないフォークも投げない。
もはやストレートしか待たなくていいと言ってもいい。
外角低目に投げ込まれる137kmのストレート。打者のバットが空気を切った。
 
現在の言葉で説明するなら初速と終速の差が極端に少ないことで知られる
フォーシームジャイロボールということになるかもしれないが、
ブラウン管を通しては決して回転の強いボールという印象は受けなかった。
糸を引くように真っ直ぐな軌道を描いて最短距離を突っ切るストレート。
これこそが究極のストレートではないか…
まさしく私は小林幹英のストレートに魅了された。
 
頑固なピッチャーだった。
首を振って首を振って直球を投げ続け、究極のストレートで打ち取る。
スローカーブを身に付けたことで先発の経験も得ることができたが、
常に真っ向勝負の看板を下ろした時、小林幹英の投球術は乱れ始めていた。
ストレートで勝負するための制球。
その制球をなくしたのが先かスローカーブが先かは議論の分かれるところだが、
晩年の小林幹英はもう全く変化球を投げない中継ぎ投手だったことからも
自らのストレートへの覚悟の量をうかがい知ることはできるだろう。
 
弱気は最大の敵―――。
幼い頃の記憶に残る、津田恒美。
その直球を最も継承した小林幹英というピッチャーに、夢を見ていた。
西武時代の工藤が首を振ったら必ずストレートが来ると言われたように、
逆に言えばストレートのサインに首を振ったことがないことの証でもある。
首を振り、外角低目にストレート。
ああ、ここにまだプロがいる。その度に私は嬉しくなった。
 
 

「命を削る高速スライダー」 伊藤智仁(ヤクルト)

なんという死闘だろう。
息も忘れて私の視線は両者の対決に釘付けとなった。
マウンドには伊藤智仁。バッターボックスには石井浩郎。
伊藤が渾身の力を込めて投げ込んだストレートを、石井がファールにする。
「プロ野球史上で本当のスライダーを投げたのは伊藤智仁を含む3人だけ」と
言わしめた伊藤の高速スライダーに、石井が渾身の力でバットを止める。
ハーフスイングを取られて三振となるバッターは多いが、その理由の一つに
バットを止めるにはかなりのエネルギーが必要だというものがある。
無理して止めればその瞬間に手首は壊れる。
渾身の力をこめて振ったバットを止めることは至難の業だということだ。
果てしない死闘はフルカウントを数え、伊藤のスライダーを石井が見逃す。
結果はフォアボール。石井が力の限りで勝ち取った四球だった。
 
あらためて当時の映像で伊藤智仁のストレートと高速スライダーを見ると、
まるで彼が投げる時だけマウンドとホームベースの距離が近いような気がする。
バッターは当然振り遅れる。こんな球に付き合ってられるか、と帰っていく。
伊藤が繰り出す高速スライダーは、常人より肩の関節駆動域が長いことから
初めて可能になるものだが、それだけに肩を異常に酷使し、消耗させる。
「それだけのリスクを負っているからこそ、このボールを投げられる」と
解説の水野が語っていたことは今でも記憶に残っている。
伊藤が放つストレートと高速スライダーは一筋の儚い夢のようなものだった。
 
「本当のスライダーとは、スープをフォークですくうようなものだ」
という言葉が残されている。
バットに当たると思ったボールが急激な横滑りをして離れて行く。
打者から最も遠ざかる方向へスライドしていくボールなら、
誰にも打つことはできない。当てることすらできない。
投手生命を削って投げる高速スライダー。
彼の投球を見た人間は誰しもがそう思うだろう。
彼こそはベースボールの歴史上最高の投手であったと。
 
 

「打たれたら監督の責任」 小林雅英(ロッテ)

抑え、守護神、クローザー。
呼び方は様々あるが、抑えをする投手に必要不可欠なものとは何だろう。
旧来の表現を使うならまずはストレートが強いこと。
投球の中で最も多くを占める直球で勝負ができない投手では勝負の先は見えている。
逃げたりかわしても後に控えるピッチャーはいないから、追い込まれていくだけだ。
常に後ろは崖っぷち。抑えにかかるプレッシャーの強さは尋常ではない。
更には三振を取ることのできる投手であるために必殺の変化球も求められたり、
またチームの優勢が続く限り何連投でも効くタフネスも必須条件となってくる。
 
その中で小林雅英というクローザーは新機軸を作り出した。
その新しい条件とは「抑えに失敗した次の登板で無類の強さを誇る」こと。
このことは6年連続20セーブ以上の日本新記録継続中という数字にも表れているが、
別して守護神の寿命は短い。中継ぎとしての絶頂期に抑えの役割を任されたとして、
そのストレートの勢いも2年や3年でピークを過ぎる。
誰にも打たれない自信のあったストレートが、打ち返される。
抑えられなくなった守護神に待っているのは悲惨なまでの逆転負けのシーンであり、
数試合に渡りボコボコに打ち込まれてそのまま姿を消していった投手も多い。
あの高津や佐々木でさえ抑えを続けて4年もしくは5年目に不調な年を迎えており、
彼らが離脱した年は伊藤智仁やヒゲ魔人五十嵐がその代わりをこなしている。
ただし彼らが日本を代表するクローザーたりえたのはその翌年に見事に復活し、
その後再びクローザーの地位を確立し直したその反発能力にあると言えるだろう。
 
小林雅英が入団当時先発をしていた姿を覚えている方も少なくなったかもしれない。
150kmの荒れ球を尽きることのないスタミナで最後まで投げ続ける。
87失点で完投し、敗戦投手。球数はゆうに150球を超える。
ファンはボコボコに打ち込まれながらも向かっていく力強い投球に期待を寄せたが、
先に耐えられなくなったのは監督山本功児の方だったらしい。
1年をもたずして抑えのウォーレンにつなぐ中継ぎへと配置転換をしている。
中継ぎに回った小林は無類の強さを誇った。
「ボールに傷を付けて投げている(スピットボール)」という東尾のクレーム以来
調子を落としていたウォーレンに代わり、抑えの役割を任せられるようになった。
 
悪夢の大阪ドーム(97点リードで逆転負け)を乗り越え33セーブを挙げると、
この年には日本新記録の6日間連続セーブでチームの6連勝に貢献。
この5日目、1点リードの9回にマウンドに上がったのは藤田だったが、
1死を取ったところで監督山本功児は迷った末に小林をマウンドに送り出した。
この日のヒーローインタビューに迎えられた小林は
「打たれたら俺を使った監督が悪いと思って投げました」という言葉を残している。
以前豊田と小林が救援に失敗した後の心境について質問された時、
豊田「打たれた日は眠れない」小林「ベンチに帰るまでに忘れている」と語ったように、
両者の違いはこの切り替えの早さにある。まさに抑えに向いていると言っていい。
事実小林は抑えに失敗した次のマウンドで圧倒的な強さを見せた。
2005年パリーグプレーオフの第5戦において見せた鬼気迫るような表情。
これが小林雅英というクローザーを支えているプライドだった。
 
 

52試合1.79でも現状維持」 伊藤敦規(阪神)

暗黒時代の阪神のエースといえば藪恵壹ということになるが、
その時代の阪神には数多くのベテラン中継ぎ投手が存在した。
葛西稔、弓長起浩、遠山奬志、そして伊藤敦規。
この中では最も知名度が低いだろう弓長から紹介していこう。
彼のサンデーボールはスクリューだったが、それ以上に記憶に残っているのが
他人のランナーは返すが自分が出したランナーは返さないという持ち味。
満塁で登場し走者一掃されてのち抑える。8月頃まで防御率は0.00だったが、
なぜかあまり活躍している気がしないという妙な印象のある投手だった。
私が「逆クリーンアップの活躍」という言葉を作ったのもこの弓長に着想を得ている。
 
遠山という投手は何度も解雇され外野手登録と投手登録を繰り返しながら、
99年に松井秀喜キラーとして名を残し、13打数無安打と松井を封じ込めた。
それ以前の遠山を見たことがないためイメージが難しいが、
いわゆる野村再生工場でサイドスローに変わったのはこの年からだったらしい。
左のサイドハンドから繰り出される内角シュートに松井は悪夢を見た。
その遠山と一時期「遠山葛西遠山葛西」と呼ばれる野村監督の作戦により、
抑えの役割を任されていたのが葛西だった。
割とすらっとした長身だった記憶があるが、その長身が下手から投げる直球には
かなりの威力があった。後述する伊藤との差とはそのストレートにある。
ダブルストッパーで片方がファーストを守るという遠山葛西作戦だったが、
どちらかといえば右の葛西が最後を締めるケースが多かった記憶がある。
 
伊藤敦規という投手の役割は一言で言えば便利屋だった。
敗戦処理から1点リードの接戦の場面まで、あらゆるケースでマウンドに上がる。
伊藤のピッチングとは外角低目に集めるストレートとカーブ。
ほぼそれだけで、打ち気に逸る打者から最も遠い箇所をかすめていくボールに
フルスイングでこたえることはできない。丁寧かつ丹念にコースをつく投球だった。
その結果5年連続50試合以上の登板を果たし、2000年には71試合で防御率1.86
2001年にも一時期離脱したものの52試合に登板し、防御率は1.79
この年の契約更改で伊藤を待っていたのは現状維持という呈示だった。
この時伊藤は38歳、年棒8千万。
年齢を考えた球団側の措置だったが、伊藤の苦虫を噛み潰したような表情といい、
暗黒時代の阪神を象徴する出来事だったと記憶している。
 
 

「対西武とりあえず左腕シリーズ」 水尾嘉孝(オリックス)

西武は頭を悩ませていた。頭痛の種は前川という近鉄の左腕にあった。
他球団を相手にした時は打ち込まれるが、西武相手では自信満々で投げ込んでくる。
その飄々とした態度にどうしてか打線は沈黙し、完封ペースで封じ込まれてしまう。
いつしか前川は西武キラーを襲名し、ローテを崩してでも西武戦に必ず先発してくる。
もちろん手をこまねいて見ているわけではない。主軸の高木大成や鈴木健といった
左バッターを外し、9人のスタメンを全員右打者にしてもひょいっとかわされてしまう。
西武打線が左腕に弱いという評判が立つのも時間の問題だった。
 
ここにまず目をつけたのが仰木マジックだったのはむしろ自然の成り行きか。
中継ぎで実績を積み重ねていた水尾嘉孝という左腕を突然西武戦で指名した。
この水尾が結果を出す。先発の経験などほとんど無きに等しいのだが、
それでも左腕という呪縛に憑かれている西武打線は打ち崩すことができない。
近鉄前川同様に厄介だったことは、水尾は西武戦に先発した後は再び中継ぎに戻り、
西武戦が近づいて来ると再び先発の調整に入る。そして当然のように先発してくる。
西武としては歯軋りのするような思いだっただろう。
しかし西武のフロントは無能ではない。2000年オフ、自由契約となった水尾を獲得。
本人を引き抜いてしまえば西武戦には投げられないだろうという逆転の発想だった。
 
その上を行くのが仰木マジックたる由縁か。水尾がいなくなった代わりを探し、
中継ぎ不足で外野手から投手に転向させた嘉勢敏弘という左腕を西武戦に先発させる。
どこまでも西武にあてるのは左腕。それで少しでも相手が嫌がれば成功だった。
これに便乗したのがロバーツ、ノットら外国人左腕を擁する山本マリーンズ。
ロバーツで微妙な成功を収めた監督山本功児が、ノットを西武戦に先発させたが、
松井稼頭央を始めとして右打者を揃えた西武打線がこれを撃破。
逆に左投手殺しとして犬伏、平尾、佐藤友亮らが名を上げる結果を生んだ。
また99年にクリスという登録名で西武戦に先発していた外国人左腕は、
2000年には登録名をロバーツと代え平然とした顔をして西武戦に先発した。
彼は本名をクリス・ロバーツといった。