古き良きブルーウェーブ 〜最弱集団からの脱却〜
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2003年シーズンは今月末をもっていよいよ幕をあける。
更なる大量補強を実現した阪神タイガース。ヤンキースに移籍した松井を欠き
高橋由、清原、ペタジーニのクリーンアップ陣が、あいついで離脱している読売ジャイアンツ。
例年以上に松坂の仕上がりの良い西武ライオンズ。
新垣、和田、寺原ら若手投手の台頭が目立つ福岡ダイエーホークス。
補強したはずの外国人選手が来なかったりすでに帰ったりしている球団も存在するなど紆余曲折を経て、
オープン戦も後半へとさしかかり1軍メンバーが固定されつつある。
例年、最下位となるチームには偶発的な事象、つまり主力選手の相次ぐ故障などによって、
もともとそう大した戦力があったわけではないチームが選ばれる。
しかし、昨年ほど開幕前の予想最下位チームが的中してしまった年はなかった。
セ・リーグでは横浜ベイスターズ。
史上稀に見るスプレー・ヒッター、R.ローズを欠いて2年目を迎えた打線はさらにもろく、
また小宮山、谷繁を欠き、エース三浦の途中離脱にまで襲われた防御面は失点において
前年に比べ55点を増加させ、打撃面では88点を失った。
パ・リーグにおいてはオリックス・ブルーウェーブ。
日本が生んだスーパースター・イチローを流出して2年目のシーズンは、
チームの精神的な支えであった田口壮外野手のメジャー流出によりさらに粘りのないチームになった。
チームトップの39本塁打を記録し、チーム唯一の長距離打者であったG・アリアスも阪神に取られて、
シェルドン、セギノールの両外国人のほかにドラフトで15人もの新人を獲得したが、
シーズンを通して1軍で働いた新戦力は皆無に等しかった。
94年、彗星のごとく現れ、それ以降首位打者を7年間奪いつづけたイチローの活躍によって
オリックスは95年、96年と連続リーグ優勝を成し遂げる。
それからわずか6年後の最下位転落だった。
かつてのオリックスを知る者は、決してイチローだけのチームではなかったことを知っているだろう。
優勝することができたのはイチローがいたから、というのは間違ってはいない。
しかし、イチローを輝かせる数多くの脇役がいたからこそあのころのオリックスは優勝できた。
そう私は信じている。
実際、近年の巨人、ダイエーを始めとする圧倒的物量作戦により優勝した例を見ていると、
95年と96年のオリックスというチームは確かに強かったのだが、
優勝できなかったとしても別段おかしくはなかった戦力だということはできる。
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たとえば95年。
オリックスの選手の中で30本塁打以上を記録したものは一人もいない。
最高は主砲T・ニールの27本だが、彼の打率はリーグ26位の.244で、打点はわずか70打点である。
それ以外に、20本塁打以上を記録したのはイチローの25本塁打だけである。
.342で2度目の首位打者を獲得したイチローから下に進み、
オリックスで規定打席に達したのはイチロー以外では7番セカンド小川博文、2番サード馬場敏史、
3番センター田口壮、6番DHのT・ニール、5番ファースト藤井康雄と5人いるので
多いほうではあるが、はっきりと言ってレギュラーとしてはあまりにも物足りない数字である。
打率 試合数 打数 安打 本塁打 打点 三振 四死球 盗塁
10 小川博文 .272 120 379 103 6 38 66 30 0
16 馬場敏史 .262 115 344 90 1 33 51 30 4
21 田口 壮 .246 130 495 122 9 61 80 47 14
26 ニール .244 122 418 102 27 70 130 84 1
27 藤井康雄 .237 116 334 79 14 49 82 66 0
投手陣ではルーキー・平井正史がストッパーとして15勝5敗27S(勝利はすべて救援勝利)と
驚異的な成績をあげ、42SPでもちろん最優秀救援に選ばれた。
先発陣はというと、現シアトルマリナーズの長谷川滋利が先発ではチームトップの12勝をあげ、
防御率でも5位に入るが、その長谷川と先発3本柱を組んでいた星野伸之と野田浩司は
2桁勝利と防御率ではそれぞれ9、10位に入る成績を残したぐらいで、
その年に奇跡的なのか2位に入った千葉ロッテ投手陣の伊良部秀輝、E・ヒルマン、小宮山悟が
防御率ランキングで1位、3位、4位を独占したのと比べるとやはり物足りない。
防御率 試合 勝利 敗北 投球回 奪三振 与四球 自責点
5 長谷川滋利 2.89 24 12 7 171 91 53 55
9 野田浩司 3.08 26 10 7 184 1/3 208 73 63
10 星野伸之 3.39 24 11 8 156 2/3 112 52 59
オリックスの優勝に決定的なプッシュを加えたのは確かにイチローであることは、
平井を除いた他の選手に特筆するような成績が見られないことからも類推されるが、
97年以降も年々その実力を高めていくイチローとは対照的に優勝から遠のいて行った理由を
測ることは、オリックスという球団にはできなかった。
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しかし97年以降、誰にも気づかれないところで、
オリックスの優勝に貢献していた脇役たちはオリックスという球団を少しずつ離れていく。
97年途中に阪神に移籍した本西厚博外野手、98年にはヤクルトへ移籍した馬場敏史内野手、
西武へ移籍した正捕手・中嶋聡、また99年にはまたもヤクルトへ高橋智外野手が移籍した。
さらに、01年には層の薄くなっていたチームの4番も勤めた小川博文内野手も横浜へ。
02年にはとうとう田口壮までがカージナルスへ流出してしまう。
95年優勝メンバーは確実に他球団へと流れていった。
投手陣は主力となるが、早々と日本、あるいはオリックスという球団に見切りを付けた長谷川はメジャーへ、
野田と平井は故障がちでその後活躍することはなく、
そして10年連続2桁勝利の星野伸之は阪神へ移籍してしまった。
このなかで私が注目するのは本西外野手と馬場内野手の、ともに”守備職人”と呼ばれた2人である。
このプロ野球人生の過半を、守備固めですごした2人にスポットライトを当てて話を進めていく。
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本西厚博。
本西と言えば、96年オリックスVS巨人の日本シリーズにおいて起こった
”疑惑のキャッチ”を覚えている人も多いだろう。
96年10月24日、オリックスが3勝1敗と日本一に王手をかけて迎えた5戦目、
5−1とオリックスがリードした展開のなか4回表1死1、3塁でその問題のシーンは起きる。
巨人・井上真二外野手が打った打球はライナーとなってセンター前に落ちた。
かと思えた瞬間、前進してきた本西がこれを地面スレスレでキャッチする。
3塁ランナーはすでにホームインしているが、本西はグラブをかざして捕ったと主張。
しかし、2塁塁審はセーフのジェスチャーをしている。
これに怒ったのは当の本西。
温厚な性格の持ち主が初めて見せた激昂の瞬間だった。
仰木監督もダグアウトを飛び出して1塁ベース付近で猛抗議を始めたが、
煮え切らない審判団になんと仰木監督は野手を全員引き上げさせてしまう。
その間、リプレイで問題のプレイが何度も放送されたが、解説の江川卓をして
「う〜ん。これは微妙ですねぇ…。でも、捕ってるんじゃないでしょうかねぇ。」と言わしめる。
解説の人間がどちらともつかないプレーにあいまいながらも判定を下すのは異例のことだった。
巨人寄りの放送を続けていた小川光明アナウンサーも、再生されるプレーに
「たしかに捕っています。」と放送してしまう。
しかし、長引くかと思われた抗議は、10分も経たないうちに決着がつく。
結局の所は仰木監督の方が折れた瞬間だったが、
抗議の間に肩を冷やしてしまった先発の星野伸之を引っ込め、
抗議の間に着々と投球練習を進めていた伊藤隆偉を送り込む。
審判団には釘を刺しておく一方で、少し早めの逃げ切りを図る。
抗議の裏にも策を弄した仰木監督らしいしたたかな作戦だった。
本西は86年のドラフト4位でオリックスの前身となる阪急ブレーブスに入団し、
当初は内野手で入団したものの、不動のレギュラー松永の存在により外野へ移る。
しかし入団当時から守備に定評のあった本西は入団1年目から守備固めとして114試合に出場してみせる。
その後97年途中から阪神に移るまで毎年コンスタントに100試合以上に守備固めとして
出場していた本西だったが、規定打席に到達したのは91年を置いて他には1度もない。
しかしそれをさかのぼること2年、
入団3年目を迎えた本西は生涯で1度だけのゴールデングラブに輝いている。
無論その年の本西は規定打席に到達していない。この年の本西が打席に立った回数は326。
当時の年間試合数は130試合制であるから、
およそ100打席も規定打席に満たない選手がゴールデングラブを獲得してしまったのだ。
問題はその出場試合数である。本西はこの年120試合に出場しているが、
つまりシーズンのうち欠場は10試合のみでエラーは2つしか記録していない。
しかし打席数が326であるということはシーズンの半分は守備固めで過ごしていたことを示している。
この受賞は、それだけ本西のプレーに隙がなく、かつ堅守を誇った証であろう。
半レギュラーとも言うべき選手が獲得した価値あるタイトルであった。
優勝した95年には113試合に出場しているが、打席数はさらに減り245しか記録されていない。
ここまでくれば立派な守備職人であるが、成長過程にある若手や引退間近のベテランならまだしも、
こういうシーズンの大半を守備固めで過ごすような年を10年以上も続けているような選手は
今のプロ野球界においてはほぼ皆無に等しい。
レギュラーというわけではないのに、
毎日試合終盤になると必ずと言っていいほど颯爽と登場し、試合を締める。
まさに彼は守備をしてプロの世界で長く食っていた職人だった。
スーパースター・イチローをして
「走塁と守備だけは(本西さんには)かないません。」と言わしめたのは職人の真骨調であった。
95年と96年においてセンターのポジションを守っていたのは走攻守に優れた成長著しい田口壮。
事実彼は95〜97年まで3年連続でゴールデングラブを獲得している。
しかしリーグを代表する守備力を誇る田口をもってしても、
7回になると同時にレフトに追いやられて、本西がセンターのポジションにどっかと腰を下ろす。
当時高1にしてすでに巨人の川相のような職人を気に入るようになっていた私は、
日本シリーズで初めてその光景を見て、本西の放つ静やかなるオーラ(威厳)にシビれる思いがした。
レフト・田口、センター・本西、ライト・イチローの外野守備陣はまさに鉄壁だった。
この年のオリックスの7回〜9回における平均失点は1.72点。
1.54点という飛び抜けた数字を残した。西武ライオンズに続いて12球団中2位の成績である。
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オリックスにはもう1人職人が内野陣に存在した。
馬場敏史。
95年オリックスの2番サードを打っていた内野手である。いや、守っていた、という方が正しい。
福岡出身の彼は、社会人時代を経て90年ドラフト5位で福岡ダイエーホークスに入団する。
しかし、打撃センスに関しては凡人であった馬場は、その堅実な守備で徐々に出場機会を増やすも、
93年オフのトレードでオリックスに飛ばされてしまう。
しかしこのトレードが彼の人生に光を指す。
不動の3番松永浩美がダイエーに移籍しポッカリと空いてしまったサードのポジションに
馬場はするりと入り込んでしまった。
95年と96年、彼がレギュラー格として働いたのはこの2年間だけである。
しかし、その2年間で彼は2年連続でゴールデングラブ賞を獲得する。
96年のゴールデングラブは、本西と同じように規定打席不足での獲得であったが、
それゆえに価値があった。そのことが彼の守備能力の高さを証明していたのである。
しかしこの年、近鉄から移籍してきた俊足巧打の内野手・大島公一の台頭によって
馬場は2番の座席を明け渡すことになってしまう。
そして優勝した次の年にはヤクルトへまたも放出されてしまった彼は、
今度は野村ID野球の欠かせない守備固めとして活躍する。めげない選手だった。
しかしヤクルトではレギュラーの座はチームの顔であるブンブン丸・池山隆寛のものだった。
池山の成績は年々下降線をたどっていたが、
馬場がサポートしたのは衰えを見せる池山の守備面のみにとどまった。
池山がその力を急激に落とした99年、
しかしそのころには新たなる強敵である2年目の岩村明憲が急成長を見せていた。
馬場は岩村の活躍を確信して99年を最後にグラブを置く。
わずか10年の職人人生だった。
6
本西は97年途中から阪神へ、99年から日本ハム、そして00年からは千葉ロッテへと
めまぐるしく移動を繰り返すが、どこにいても本西の役割そして働きは変わらなかった。
そして01年、千葉ロッテを最後に14年間の現役生活に終止符を打つ。
そのころには千葉マリンスタジアムのライトスタンド、大阪ドームのレフトスタンドへ
しばしば出没していた私は、当然本西が守る姿を間近でよく見ている。
彼は気を抜かない選手だった。
後ろから見ていると、外野の選手というのは1球ごとにストレッチをしたり、
選手によってはダッシュの練習をしてみたりと、
準備に余念がないというよりは見ていてあわただしい選手もいるのだが、
本西は自分が守ると決めたポジションからその打者の打席が終わるまで、
インターバルの間にほとんど動作らしいものがない。
じっと80M先のバッターを見つめ続ける姿はまさに狩りをしているハンターのようだった。
求めれば野茂のマネをしてトルネード投法とかやったりする近鉄の大村直之外野手とは実に対照的である。
本西と馬場の働きがどれだけ95年と96年のオリックスに貢献していたか。
それを窺い知ることのできる資料・数字は少ない。
さきほど紹介した7〜9回における失点の少なさも貴重な数字だが、
95年には平井正史、96年には鈴木平という鉄壁のストッパーがいたことが
2人の活躍にカムフラージュをかけている。
チーム失策数も95、96年とそれ以降では極端な変化は見られない。
もともと終盤だけの選手であるから、シーズンを通した数字に絶対的な差ができるとは考えにくい。
問題はその信頼感である。
”本西や馬場がバックで守っている”という信頼感はチームに良い流れをもたらしていた。
たとえば巨人の川相選手などがその典型であるが、
すでに二岡智宏遊撃手と比べればその全ての守備能力において劣っているというのに、
桑田真澄や工藤公康などベテランの投手は川相が後ろで守っている方を歓迎すると
インタビューに答えている。
実績がもたらす安心感、投手にもたらす安定感。
これだけは表面上の数字や能力では計り知れない能力なのだ。
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97年、2人の職人はオリックスをあとにする。
それは表面上だけ見ればオリックスという常勝集団の巨大な時計仕掛けの中で、
小さなネジが2つだけ外れたようなものだった。
しかし球団はその小さなネジを補修(補強)しようとは考えなかった。
オリックスはその後毎年のように新外国人選手を補強するが、すべてパワーヒッター。
96年においてC・ドネルス、98年においてプリアム、その後もナナリー、マルセド、アリアス、
ビティエロ、シェルドン、セギノールと続き、今年はオーティズとブラウン。
ドラフトでも投手中心でたまに野手を取ったかと思えば打に定評のある外野手ばかり。
その代表格が今やチームの顔となった谷佳知外野手だが、
彼はその入団時に比べて守備が驚くほど上達した。
オリックスはおそらくここ6年間で最も多くの補強人数を誇っていることになるが、
それは止まらない優勝メンバー流出の裏返しだった。
欠けたものが小さなネジから大きなネジへと事態は大きくなる。
球団がようやくその重要性に気づいたのは、スーパースター・イチローが移籍して、
彼が直接時計の針を動かしていたことに気づいた時だったが、
そのときにはすでに歯車が止まって3年の時が経過していた。
悲劇なのは谷である。
早くも入団2年目の99年にベストナインのタイトルを獲得し、
01年にはシーズン最多二塁打52本の新記録を樹立。
今やプロ野球界で最も打率を残すことのできる右打者へと成長した。
97年のドラフト2位で入団した彼は、2年後にはセンターの定位置を獲得するが、
当時彼のまわりにいたレギュラーはキャッチャー・中嶋、ライト・イチロー、ファースト藤井、
サード・小川、レフト田口と次々と姿を消していく。
いつしか気が付けば残っているのは自分とセカンドを守る大島くらいだった。
”余ったポジション”には毎年入れ替わりで外国人選手が入り、
または新戦力が台頭してくるが2年と続かない。
谷は、自身の成長と反比例して、見るからに弱くなっていくチームを見届けなければならなかった。
02年における谷の成績はそれを象徴するようなシーズンだったと言える。
1番に固定された谷は右打者としてリーグトップの打率.326を記録し、
41個の盗塁も記録して初の盗塁王に輝く。
しかし打点はわずか39。得点もたったの49点だった。
同じく1番に固定された西武の松井稼頭央遊撃手がリーグトップの119得点を
記録したのとはあまりにも対照的だった。
あるいは仰木監督の采配と試合巧者たるチームの体質が、
その戦力の乏しさをカムフラージュしていたのか、
オリックスは97〜99シーズンにおいて1度たりとも優勝争いに参加していないものの、
毎年シーズン終盤になると千葉ロッテの初芝のようにチーム全体で帳尻合わせを始めて、
3年連続すべりこみAクラスを達成する。
9月以降のオリックスはベテラン陣勢ぞろいであった。
私は”20世紀最後のプロ野球公式戦”と銘打たれた2000年10月16日の千葉マリンを
観戦しているが、その席で試合前の打撃練習中において藤井康雄が見せた強烈なライナーが
ライトスタンドの私の3席隣に座っていた友人の弁当に直撃し、
弁当は真っ二つに割れたという体験をしたことがある。
当時プロ14年目、38歳の藤井はこの年の契約更改で大幅減棒を勝ち取っている。
その選手にしてこの打球である。
シーズン最終戦にして藤井の気迫はみなぎっていた。
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03年オープン戦、現段階でオリックスにおいて最も4番に多く座っているのは
中日ドラゴンズから補強した山崎武司内野手である。
中日時代、千葉ロッテのように選手弁当を画策した中日の球団スタッフが
ナゴヤドームに訪れたファンに対してアンケートを実施したところ、
途中経過1位は山崎武司の”チャンスでゲッツー(併殺打)弁当”だったという。
人気選手であった関川浩一外野手の”ガッツガッツ弁当”や
福留孝介内野手(現在は外野を守っている)の”いつでもホームラン弁当”を差し置いてのトップだった。
個人的には福留孝介選手に期待を込めて”ピンチでタイムリーエラー弁当”と
”外国人の打球は怖いんですよ弁当”を投票したかったが、
アンケートはすぐに中止されたので投票することはできなかった。
しかしオリックスにも光が見える。
たとえば2番セカンドに定着しつつある2年目の平野恵一内野手。
昨年千葉ロッテが開幕11連敗を喫した4月13日グリーンスタジアム神戸、私はその現場にいた。
札幌ドームの西武VSロッテの開幕シリーズにも張り切って参加していたが、2連敗。
だがいくらなんでもその2週間後に神戸に行くときまで負け続けているだろうなどとは
ちょっとだけ期待していた。
その試合はどうでもいいが、その試合は土曜日でデーゲームだったため、
ナイトゲームではサーパス神戸(2軍)のウエスタンリーグが用意されていた。
いったん球場を出る必要はなく、すべての柵が取り外されたスタジアムで、
後に残った客はその大半がバックネット裏に集結していた。
先発投手はオリックス・戎、広島・横松。
しかし私たちの印象に残ったのは戎の生シュートだけではなく、
開幕2週間ですでにショートの座を定位置としていた平野だった。
その小柄な体格と軽快なフィールディングは千葉ロッテの小坂を思わせる。
球界でトップの守備能力に君臨する小坂とヤクルト・宮本慎也遊撃手。
その守備におけるプレースタイルは対照的で、
三遊間を抜けることのない広範な守備範囲と野性的な身のこなしは
捕球してから送球までのスピードにおいては他の追随を許さない小坂。
事実彼は入団以来ずっと12球団トップの刺殺数と捕殺数を誇っている。
これに対し宮本は小坂にない強肩とそのすべてに精密機械のような確実なプレーを見せ、
また彼の取る守備位置に間違いが起こるのを見たことはない。
宮本はかつての野村謙二郎、川相昌弘を思い起こさせるが、小坂のプレーで思い起こさせる、
というよりこんな感じだったのかな、と思わせるのは往年のプレーヤー・吉田義男くらいである。
そんな小坂のプレーを思い起こさせるような選手を私は2軍戦で見つけたのである。
1軍のショートは塩崎真内野手だが、
彼もそろそろ今シーズンが終わった後の身の振り方を考えておいた方がいい。
その他にもここ2年のオリックスは意図的にかユーティリティ・プレイヤーを多く獲得し始めている。
ヤクルトから副島孔太外野手、阪神からは塩谷和彦内野手、
ドラフトでは後藤光尊内野手、高見澤孝史外野手、早川大輔外野手などがそうである。
彼らが欠けたままの大きなネジ、小さなネジとなってうまくはめ込まれた時、
錆び付いてしまった大きな歯車は動き出すかもしれない。