山陰の人  芝 木 好 子

 この小説は、昭和47年1月号の雑誌「風景」に掲載された。「大きいとは言えない空港」「古い飛行機」などという言葉から当時の米子空港の風景がうかがわれる。また、小説の前半でさりげなく昔の浜絣、藍瓶での染め方や織り方などが描かれている。
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 翌朝、小坪直子は早くから宿へ迎えにきた。この日は松江の博物館で展示している絵絣を見にゆく恭子たちの案内役になってくれた。快晴で、カメラマンだけが別行動になり、女だけで車を走らすと富士山に似た大山が雪化粧の美しい姿を見せた。
「こんな晴れた日は今年になって初めてですわ。山陰の冬は、それは鬱陶しいのです」
「松江も同じですか」
「松江だけが良いはずはないでしょう」
 恭子は松江の大学で講師をしている良人の弟子に当る青年を思いうかべて、彼も苦労しているなと思った。車は安来から東出雲を通るドライブで、町中を走りぬけても人影は少なかった。するうち島根半島に囲まれた中海が見えてきて、海面にシベリアから渡ってきた鴨と白鳥が群れていた。白鳥は物哀しい声を発しながら海面を渡ってゆく。仲間からはぐれたり、蒸発したりする鳥もいるのだろうかと恭子は目を凝らした。
 松江の町に入ると、美しい宍道湖が現れた。この城下町に恭子は長いことあこがれていたが、濠の水を写した旧い家居はほんの一画しかなかった。直子につれられて小泉八雲の旧居や、松平不昧公の茶室を見てから博物館へ向う時、恭子は直子に頼んで大学へ電話をしてもらい、宇田を呼び出した。
                      京の小袖 所収 昭和60年 講談社
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 芥川賞作家芝木好子は、古い時代のことだが島根との関わりがある。芝木家の先祖は石見の国、浜田藩の出であった。そのせいか、山陰を舞台にした短編が数編ある。


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   花いちもんめ       松 田 寛 夫

 老人問題が文学に現れてベストセラーになったのは、有吉佐和子の「恍惚の人」が最初であった。昭和47年の夏のことである。それから13年を経て、「花いちもんめ」が老年性痴呆症の代表格であるアルツハイマー病を扱った。
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 冬吉は、かつて、この松江の大学で考古学科の教授までつとめたほどの男である。定年後のいまも、同じく松江で、郷土歴史史料館の嘱託として考古学の研究をつづけている。いわば、土器や石器のかけらを相手に一生をすごしてきた学究の徒である。
 その彼が、どうしたことか、この半年ばかり、ちょっとした論文ひとつがどうにもまとまらなくなった。頭がもやっとして、働かないのである。……略……
 史料館まで、堀ばたの道を傘をさして歩いた。松江城の石垣が雪にかすんでいた。史料館は大正期の古い木造建築である。年末の慌ただしいときなので、見学者の姿もなく、もともと暖房のききがわるい。天井の高い館内は底冷えがしていた。……略……
 冬吉の表情が変わりはじめた。毎日少しずつ何かが欠け落ちていき、無の表情に近づいていくようだった。菊代はそんな冬吉を見ていて、夫が少しずつ自分の知らない他人になっていくように感じていた。冬吉のボケは、確実に、急速に、進行した。冬吉は、毎朝、新聞の一面だけを、二時間も、三時間もかけて読んだ。読むはしから数行前になにが書かれてあったか忘れ、遡って読み直した。
                                     昭和60年 講談社
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 登場する舞台は、松江、宍道湖の北岸にある田園地帯、その先にある巨大な海蝕洞窟だが、これは猪目洞窟と思われる。松江にある「郷土歴史史料館」は、興雲閣がモデルになっている。この小説は東映が映画化し、昭和60年10月に公開された。その映画では田園地帯が簸川平野、洞窟は八束郡島根町の「多古の七つ穴」である。     


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