山陰名湯〈瓜子姫〉殺人事件  野村正樹 

 松江の町を歩けば必ず川につき当たり、橋を渡る。その橋は、明治の終わりには約40、現在では600を超える。「水の都」とはよく言われるが、「橋の町」でもある。「山陰名湯〈瓜子姫〉殺人事件」は、その松江で起きた殺人事件を描く。
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 松江は「水の都」と呼ばれるように、湖と運河の街である。湖畔公園は、松江市内の西にひろがる宍道湖のほとりにあった。
 宍道湖は東西に長く伸びた周囲五十キロほどの湖で、西端は出雲大社や出雲市の近くまでひろがる。東端の松江市からは大橋川となって鳥取県の境港市で日本海とつながっている。そのために海水と淡水が微妙に入り交じる汽水湖となって、名物のしじみやうなぎなどの美味しい魚介類が取れることでも有名だ。 
 県立美術舘は大橋川にかかる宍道湖大橋の南詰めの湖畔にあり、周辺一帯は芝生、樹木、石畳や階段などで構成されたひろい公園になっている。
 ここから湖を望むと、松におおわれた「嫁が島」という小島の向こうに沈む見事な夕日が鑑貰できるビュー・ポイントとしても名高い。
 だが、美術飴が休みで夕日の時間でない朝には、誰もいなかったりするという。
 橋の北詰めの松江温泉には何軒ものホテルがならんでいるが、遠すぎて現場は見えない。しかも美術舘の建物が目隠しをしていて正面側の道路からも死角となっている、というロケーション。犯行にはうってつけの時間と場所であったのだ。   
山陰名湯〈瓜子姫〉殺人事件  野村正樹 平成12年 双葉社刊
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 山陰の三つの観光地で、三人の男女が死体となった。第一の殺人は山間の小京都と言われる出石、第二は宍道湖畔の公園、第三が日御碕である。ふとしたことで知り合った三人の女が、城崎、三朝、皆生、松江温泉をたどる旅で、三つの殺人事件に巻き込まれる旅情シリーズ。寝台特急出雲、一畑リゾートホテル、日御碕など身近な名前、加えて、松江市内の繁華街・東本町にある郷土料理『川都』という名前は少し違うものの族行ガイドに必ず載っている店などが、ふんだんに登場するのである。(潤一)

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 遙かなり江戸囃子
    
〜風流大名松平斉貴〜  海 野 弘

 松江藩9代藩主である松平斉貴は、文化12年(1815)、松平斉恒の長男として江戸屋敷に生まれた。母は侍女の八百である。幼名を鶴太郎のち直貴、8歳で藩主となり、のち、斉斎、瑶光翁と号した。
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 大きな橋が見えた。松江大橋である。その向うに、夕暮れの中で黄金色の小波を散らしている湖が広がっていた。あの荘厳とした空と海の光景をおれたちは一生忘れないだろう。
「おれたちは神さまの国に来たんだ」とだれかがつぶやいた。
 街道の両側の町並はしだいに数を増し、行列は町中に入っていた。たくさんの人たちが出迎えて、あいさつをしたり、なにか歌ったりしていた。
 行列が止まった。松江大橋の南のたもとに着いたのである。ここでほこりを払ったり、衣紋をつくろったりして、お城に到着する準備をした。
「松江の町は大橋をはさんで北と南に分かれている」と平七郎が説明した。「南は寺町と商家からなっている。お城のある北は、まわりに武家屋敷、湖と川に沿って、商家と職人町がある」
 合図の太鼓が鳴り、行列が堂々と橋を渡っていった。空は夕焼に染まり、金赤の光を湖水と橋に降り注いでいた。その橋の上を進む行列は、金屏風の時代絵を見ているかのように華やかだった。橋板を鳴らす足音が地底の大太鼓のように響いていた。
 行列の後、おれたちも橋を渡った。向う岸にお城が見えた。そして右手には、金と紅と紫と青の薄い紗がゆらめいているような湖が広がっていた。みんなは思わず立上って、夕陽に手を合わせた。 (平成12年 廣済堂文庫)
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 江戸は神田。祭囃子の練習が始まった。――「兄貴、この野郎がいきなりあらわれて、自分にも太鼓を叩かせろというんで。……略……袋だたきにして堀にでもほうりこんじまいますから、見てて下さい」――この野郎とは鶴太郎のことであり、それを機会に親しくした町人を参勤交代の折りに松江に呼び寄せる。数日後、天守閣から江戸の太鼓が響くのである。江戸時代の松江の町が濃密に描かれた小説である。