八雲半島 塚本邦雄
出雲国風土記にある幾つかの美しい地名が冒頭に掲げられ、最初の舞台は大東町海潮温泉である。書き手であってそうでない「私」は、大社町出身のドン・フワン祝部常春に出会い、彼の親族の住む恵曇の片句へ行く。時代は、戦後まもない頃である。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− バスが来た。埃まみれの車體に午後の陽が射す。「恵曇」に行くにしては空は晴れすぎてゐた。行商を終えた漁村の老婆や内儀のざわざわと乘り込むのを待つ間、向ひの家の塀の中に咲く、柘榴の花の朱を眺めてゐた。ここは奈落への出發點なのか、補陀落への渡船場なのか。祝部のみならず私まで、目の前がしづかに昏み始める。……中略……穂波の視線はなほ彼の身體を這ひ廻る。鈍感な私にも、彼女の堰きに堰いた愛が、眼にも口もとにも溢れようとしてゐるのが判る。 例によって彼はそれを知りながら、知ってゐるからなほさら、さりげなく、あらぬ方に視線を遊ばせている。……中略……結婚、一夫一婦、などといふ言葉が黴の生えた天然記念物のやうに見えて仕方がなかった。間違ひのもとはここにあったかもしれない。だが「間違ひ」って一體何なのだらう。あの狂気の季節に知り合った四人は、まさに卍巴に愛し合った。……中略……私の瞼の底には、いつの日も八雲立つ、まことに目も彩な八色の雲を撒き散らした夏の拂暁の出雲の北端の海、その岩鼻、岩鼻にはだしで立つ男の影がある。……中略……彼すら日本の「半島」のさだめに似て、成り剰りつつ永遠に満たされず、二重の性を嘆き、つひに知られることもなく一生を閉ぢたのだらうか。 (塚本 邦雄 半島〜成り剰れるものの悲劇〜 所収 昭和56年 白水社刊) −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 日本海に面した穏やかな漁村である片句で繰り広げられた愛の絵図は、一夜の夢であったのだろうかとも思わせられる。著者は、非現実的な幻想の歌を詠み、言葉の魔術師と呼ばれる歌人である。 |
闇への失踪 笹沢左保
著者の笹沢左保は木枯し紋次郎シリーズで著名であり、時代小説と現代ミステリーなど375冊の著書がある。鳥取砂丘が舞台になったミステリーも二つあるが、「闇への疾走」は、宍道湖畔を走るマラソンが背景になった。いわずと知れた昭和33年を第1回とし、今年で第43回になる玉造毎日マラソンである。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 毎陽新聞主催の毎陽国際マラソンが山陰地方で行われるのは初めてだったが、それだけに地元での人気は大変なものであった。島根県の松江市と出雲市の間にある商店は、開店休業も同様だった。日曜日だが、ほかの行楽地へ出かけるという市民はいなかった。出走の時間は正午であったが、午前十時にはすでに沿道が人波で埋まっていた。 出場選手は四人の外国人を含めて、全国から集まった精鋭八十六名であった。選手たちが勢揃いしたのは、松江のやや西にあって玉造温泉で有名な玉湯町であった。この玉湯町の出発点をスタートとして、宍道湖を右に見ながら国道九号線を西へ八・五キロ行くと宍道町にぶつかる。 宍道町からは九号線をそれて、国道五十四号線にはいり南へ十二キロ下る。そこの木次町、折返し点がある。折返し点から同じ道を、玉湯町まで戻って来るのであった。往復四十一キロのコースである。 (笹沢 左保 犯人ただいま逃亡中・ミステリー傑作選5 所収 昭和50年 講談社文庫) −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 優勝の呼び声の高かった波多野は、走りながらひとりの女のことを思う。東京立川市で練習をしていたときに知り合った衿香という女である。ひたすら走り続ける場面と女と関わったときの回想が交互に描かれている。 |