分水嶺  阿刀田高

 私は十数年前に、あるテレビ局でプロデューサーの助手をしていたことがある。そのとき、フリーのアナウンサーだった糸子と一緒に松江で仕事をした。宿は松江のホテルIだった。糸子と私は、同じ階にそれぞれ部屋を取ったのだ。ところが、糸子はどうやら部屋に男を呼んでいたらしい。
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「六時少し前に声をかけるよ」 
「ええ、でも先にロビイに行っているかもしれないわよ」
 私は風呂に入って一休みし、六時少し前に約束通り糸子の部屋のドアをノックした。
 返事はない。ノブを廻したが動かない。
――先に行ったんだな――
 私はエレベーターのほうへ動きかけたが、自分でもよくわからない衝動にかられ、ヒョイと覗き穴に目を寄せてみた。
 中が見えるはずもない。見えないように作ってあるのだから。
 だが、部屋の明るさくらいはレンズを通して見える。
 たしかにその時ボッと白いものが――おそらく窓の白が――窺えた。
 ところが次の瞬間、その白い視野を黒いものがスッと横切った。
――動くものが部屋の中にいる――
 私は咄嗟に泥棒!≠ニ言おうとしたが、かろうじて声を飲んだ。泥棒とはかぎらない。軽率に叫んでは取り返しのつかないことになる。二、三分覗き穴に眼を寄せていたが、もう部屋の中にはなんの変化も起こらなかった。
 一階のロビーへ降りると、案の定、糸子は先に降りていた。
      (阿刀田 高  異形の地図 所収 昭和57年 角川書店刊)
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「男と女はいつから恋人になるものか」――糸子を憎からず思っていた私の恋心は急速にしぼんだ。ホテルIは、宍道湖岸に建つ瀟洒なそれであろう。
 阿刀田高は、早大卒業後、国立国会図書館で司書を11年間勤めたのち、昭和53年に「冷蔵庫より愛をこめて」でデビューした。

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    鰻のたたき    内 海 隆一郎     

「松江市内では名のとおった店だが、間口一間半のカウンターだけの小さな店で、椅子の数は十五席しかない。だから予約しておかないと入れないこともある。」
  松江市末次本町にある「川京」という料理店がモデルで、鰻のたたきで有名だ。
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〔川郷〕は鰻の店という触れ込みだが、よくある蒲焼専門店ではない。
 宍道湖や中海でとれる魚なら、なんでも料理する。ネタが新鮮なのは当然だが、その料理法が独特なのでファンが多い。
 なかでも鰻のたたきは、常連たちに定評がある。これが食べたいために通う人もいる。
 天然の鰻をつかって、鰹のたたきのように調理する。にんにく、ねぎなど十種類もの薬味をのせた鰻の味はうっすらと脂を残して、えもいわれぬ美味である。
 その味に初顔のお客が感心していると、
「宍道湖と中海でとれる鰻は、それぞれに味がちがうんですよ」
 店主の講釈がはじまる。
「いま両方を白焼きにして、お出ししますから、食べくらべてみてください」
 とても素人の舌ではムリな比較だが、そう言われて食べてみると微妙にちがいがあるような気がしてくる。
 夕方の六時が〔川郷〕の開店時刻である。
                   (鰻のたたき 内海 隆一郎 平成5年 光文社刊)
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 その店を舞台に、東京から単身赴任してきた立花が、松江の女性と親しくなる。
立花が東京に帰り、病気でなくなったあと、妻と娘がこの店をたずねる。
 人間味溢れる小説、市井のドラマが、さらりとしたユーモアをも漂わせて松江の町に生まれた。

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