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 覚束ない虹 「伝説は鎖に繋がれ」より
          
                 三 枝 和 子

 離婚するつもりの女がひとり、東京に夫を残して「出雲3号」で松江にやって来た。松江でなくてもよかったのだが、そのとき、東京駅からいちばん遠いところへ行く列車がそうだったのだ。宍道湖畔旅館団地のホテルに宿泊し、翌朝、湖北線を宍道湖に沿い、西に向かって歩き出す。目的は、窓の外に鴎が飛び交う喫茶店である。歩いて行くと、前方に微かな明りが見える。湖面から茶色い喫茶店の背後にある山肌へ、中途半端な虹が出たのだった。
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 ホテルの五階の部屋からは、湖の西端を包みこむようにして弧を描いているこの街の全貌が先ず目に飛びこんで来た。続いて時折前の道路を走る車。湖畔を散歩している人と犬。水鳥だろうか、小石のようなものがぽつぽつと湖面に浮かんでいる。薄い朝霧がかかっているがまだ雨は降っていない。ジョギングの人が三人、二人、と過ぎて行く。前の道路と湖のあいだに細長い公園があり数十本の松が植えられている。ジョギングの人たちは、その松の向うの細い道を走っている。
           ……中略……
 ふと気付くと湖面に小舟が、どこからともなく湧いている。小舟の数はどれくらいだろう。二十、いやもう少し多い。丈高い竿を垂直に立てているのもあるし、人ひとり座っているだけの釣舟もある。もっとも釣舟か、どうかは分らない。何かの本で、この湖では蜆取りの舟が沢山出ると読んだことがある。それかもしれない。温泉宿に泊まると部屋係の女性にあれこれ質ねることができるが、フロントでキイを貰って一人で部屋に入るビジネスホテルではそうもいかない。
           ……中略……
 ホテルの前はいきなり湖だ。五階から見下ろしていたときとは違って、呑みこまれそうな勢いで迫って来る。風も強くなり波も高い。朝、無数に散らばって小舟の影は無い。対岸の雲に掩われて視界が開けない。そのうち雨が降り出すかもしれない。
 とにかく、湖に沿って歩き出す。
                            平成8年 青土社刊
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 19の短編小説が、人間存在の不確かさや人生の不条理を描くアンチ・ロマン風の非リアリズムで、標題そのままに繋がっている。そのうち、松江が登場するのは、「覚束ない虹」「葦舟に乗る」「潜戸の海蛇」の3編である。
 著者は、昭和44年に女流新人のための田村俊子賞を受賞した。古典物語を小説化した物語小説「小説清少納言」や「小説かげろうの日記」などもある。
 昨年は歴史小説「薬子の京(くすこのみやこ)」(講談社)で、宇治市の第十回紫式部文学賞を受賞している。