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短編小説 刺青皮の女
             週刊小説 第34回ショートストーリー賞入賞作品 
                                  平成13年5月25日

 源の定かでない水流がある。それが、ある場所から垂直に落ちるだけで滝と呼ばれる。たったそれだけの風景に憑かれている。
 渓谷沿いに進むと、川の流れとは別の幽かな水音が聞こえ出す。やがて林の間から白く長い蛇のような流身が見えたと思うと、突然、視界が開ける。黒々とした岩壁を二つに裂く白い帯が飛沫を上げている。
 着ているものをかなぐり捨てて裸になり、流れる水の下へ、そして滝壺へ躰を沈める。
 惹かれているのは、絶壁から流れ落ちる滝そのものではない。滝には命があり、その生きている滝に見られているという思いが、人知れぬ官能の愉楽を感じさせるからである。

 落日が映える宍道湖を抱く松江市から国道四三一号線を美保関町へ向かうと、北側に松江北山の連山が見えてくる。その山脈の向こうは日本海である。頼太が、その山に変わった滝がある、正確にいうと滝があるはずだ、と聞いたのは、母方の九十歳の祖父、滝本倉市からだった。
 菊開月と呼ぶのは、陰暦九月、菊の季節である。頼太は倉市から菊が見事に咲いたから見に来いと、菊の節句に誘われた。頼太は、松江市の図書館に勤めている。三十歳だが、独身の気安さで二日続きの休みを取っていた。倉市の家は、持田と呼ばれる集落にある。そこからは、松江北山を形づくる枕木、三坂、澄水、滝空、大平の五山が手に取るような近さで見えるのだ。
 庭に車を乗り入れると縁側に座っていた倉市が声をかけた。母屋の向かい側には古びた納屋があり、その後ろから聞こえる滝の音が倉市の声に重なった。滝と言っても高さ十メートルばかりの岩肌に山水が流れているだけなのだが、それでも一度雨が降るとかなりな水量になった。倉市の姓は滝本である。滝が敷地の中にあるので、その姓になったと聞いていた。
 冷たいビールの後で熱燗になった。倉市は、夏でも酒の燗をつける。(菊は明日だ)と言いながら滝の話を始めた。どうやらそれが言いたくて呼んだらしい。
「滝が好きなお前に、言うとこうと思ってな」
「ここの家の滝ですか? もう聞きましたよ」「違う。まだお前に話してない滝がある」
――澄水の山から流れ出る持田川の奥に滝がある。雨龍滝と言いもし、幻の滝とも……。国道から川に沿って山に入り、暫く歩くとふいと滝が目の前に現れる。そう深く入ったはずはないのだが、なぜか一時間ばかり歩くことになるのだった。その滝は水量は少ないが、落差があるために巨大な滝に見える。
 さらに、左側から十五メートルばかりの高さのところに棚のように岩が張り出し、滝身を遮っている。一度そこで絞られた水流は、その岩を過ぎると一気に解き放たれて滝壺に落ち込む。一年中光が射し込まず、暗く沈んでいる。しかも、龍神が住んでいる。――
「龍神は、どうだか。でも、幻の……というのはどういうことです?」
「たまにな、滝が消える」
 国土地理院は、一年を通じて水が流れているものを滝という。雨が降らないと涸れてしまうのは涸れ滝である。倉市の言うのは、そのことかとも思った。山には不思議なことが多いが、北山連山は深いそれではない。倉市の言うことが解せなかった。
――雨龍滝は、探しても見つからないことがあるもちろん、行く道も分からなくなる。里からそれほど離れてはいない。時として車の騒音も聞こえそうな山である。そんなことがあるはずはなかった。持田の里では誰もがそう思っていた。この辺りのことをよく知っている自分でさえ、四十年前、その滝に行く途中で道に迷い、丸一日どこを彷徨ったのか分からなかったことがあった。そのことは誰にも言わずにいた。――
「先祖、と言っても四代前だが、美人の娘がおって、それに好きな男が出来た。だが、男と一緒になることを誰もが反対してな、その娘は滝に飛び込んだ」
――好きになった男が土地の者ならまだよかった。だが、その男は、備前から来た三味線を弾く凶状持ちだった。その頃の滝本の家は大地主だった。持田の里を取り仕切っており、その家にふしだらなことをした女が出たことは恥だった。自分から滝で命を絶ったその娘は病死ということにしたのだ。滝が何処にあるのか分からなくなるのは、その頃からであり、そういう娘が居たことを話題にすることを滝本の家では避けてきたのだ。――
「雨龍という名前と娘の話は……」
「昔から、身内の中の妙なことは隠したものよ。それに誰も行かないのは、蝮が出るってこともあってなあ。龍になぞらえて名前をつけたかもな」
「滝に蝮がですか?」
「行く途中だ。何処ぞに蝮の巣があるかもしれん」
 頼太は、その滝を見たいと思った。時として消える滝、このところ誰も見たことがないと言われればなおさらである。倉市は、(皆が行かないということは何かがある。だから、行かない方が身のためだ)――そう言うと酔った体を揺すって笑った。(本当に女が居るかもしれない)という声を強い酔いの中で遠くに聞きながら、頼太が思い描いた女は白い裸像であった。

 昨夜の酒が体の中に残っている。二日酔いのせいか、朝の太陽が頭の芯に突き刺さる。頼太は、持田川に沿って歩いた。倉市に聞いた林道に入った。三十センチばかりの笹が繁る道を上って行く。やがて笹の丈は倍になり、しばらく歩くと一メートルを超えた。フェルト底の渓流シューズが、有るか無きかの道を遮る笹や草を踏みしだく。登山のつもりではないから軽装だった。デニムの長袖と長ズボンである。ゴルジュというほどではないが、川が足下から一メートルばかり下になり、しだいに深くなった。小さな岩のゴーロになった。カツラの大木の背にある朽ちた小さな祠が目に入った。水の神を祭ったものだろうか。滝が近いことを思わせられる。常緑樹や針葉樹が多いせいか、しだいに明るさが消えていく。時計を見ると、倉市の家を出てから一時間が経っている。聞いた話からすると、四十分もあれば着くはずだった。迂回をしているようにも思えるが、川の音が聞こえるから間違った道ではない。倒木が行く手を塞ぎ始めた。普通なら爽やかな秋の風が汗ばんだ肌を撫でるだろうが、ねっとりと澱んだ空気だ。二日酔いのせいかと、また思った。川は背丈ほどもある笹藪に遮られ、見えなくなった。幽かな水音だけが頼りである。上り下りの道がどこまでも続く。枯葉の中に細長い白色の石が見えた。珍しいと思いながら手を出そうした頼太は、それが骨であることに気がついた。肉塊から骨がはみ出している。腐乱し始めた犬の死体だった。纏わりつくような臭いだ。山の中では、鳥や獣の死骸によく出くわすことがあるから驚きはしない。手近にあった枯れ草を死体に乗せ、再び歩きだした。
 鋭く鳴く鳥の声がした。途端に、帰りが心配になるほどの急坂になった。木や岩をつかみながら上る。上りきると、そこは滝の上に近いところだった。いつの間にか、滝の周辺を回っていたことになる。また時計を見た。十一時二十分になっていた。倉市の家を十時に出たはずだが、既に昼が近い時刻だった。水を充分に吸いとった岩や地面に足が滑り、何度か体が宙に浮く。滝壺に持っていかれそうになりながら、灌木の浮き根を掴んで降りた。倉市が言ったように、一枚岩が庇のように張り出している。岩壁を滑り落ちてきた滝水がそれに当たり、再び落下する。周りを雑木が生い茂り、暗く荒れた滝という雰囲気だ。滝壺に落ちる飛沫の周囲に澱む青黒い水は、声を潜め、妖気の渦を残して岩の間に消える。何とも不気味だ。屋根のようになった岩の下は薄暗い虚になっている。
 頼太は、上着とシャツ、ズボン、ついでに下着も脱いで全裸になった。いつものことだった。滝壺を迂回して虚に入った。滝と岩壁の間が狭く、飛沫が体に降りかかる。滝を裏から見ている。落ちる飛沫が揺れるカーテンにも似て澱んだ空気を動かしていた。十分ばかりも見つめていただろうか、岩肌や樹木が上に昇っていく。落下する滝に目が慣れてしまう残像現象、つまり残効である。見つめている内に眠くなった。
 ぬるりとした苔の上に腕枕をして横になった。引き込まれるような眠りが来た。

 頼太は流れ落ちる白い滝水を隔てた岩壁に、薄ぼんやりとした極彩色の絵を見た。眠気で閉じそうな目に映ったのは、鱗文を躍らせている巨大な龍だった。視覚がはっきりしてくるにつれて、龍の背景は岩壁ではなく全裸の女の背中と思えた。二の腕から背の一面、さらに臀部にかけて、流水の上でくねる龍身に跨った観世音菩薩が描かれていた。菩薩の濡れたような細い目が頼太を見つめている。淫らにも見える美しい菩薩の頭上で緋色の火を噴く龍口が裂け、龍の両眼は天空を睨んでいる。鱗体は女の裸身に絡み付き、尾はひと回りして足首まで届いている。菩薩が笑ったように見えた途端、滝水はその量を増し、女が消えた。頼太は闇の中に吸い込まれた。
 暗闇の中で、肌の上をぬらぬらする何かが這い回っている。苔の上で体が動いたのかと頼太は思ったが、そうではないらしい。悍ましさに、悲鳴を上げようとしたが声が出ない。口の中が干上がり、油の切れたドアの金具のような音で息が洩れただけだった。起き上がろうとしたが、箍で縛り付けられたように身動きができない。腕を動かすこともできない。目を開けようとするが、瞼が動かない。何かが胸から腹にかけて撫でている。ぬるりとした細い人の指に思えるものが、脚の先へ移動していく。踝から膝裏へ、ゆっくりと腿に近づく。指ではない。生暖かいぐにゃりとした紐のようでもある。拡大した悍ましさで、さらに声を上げようとしたが、喉の奥で微かに乾いた空気が動いただけだった。舐め回されるような感覚が体の下腹部に達し、頼太のそれをまさぐる。その先端から付け根へ樹液の流れる感触があった。付け根が締め付けられ、別の何かが扱く。吐気のような不快さとは逆に、意思に反した快感が打ち寄せ、頼太のそれは熱く硬直した。纏わり付く滑りは、先端から付け根へさらに激しい動きを繰り返す。硬直の尖頭が熱湯にじわりと浸けられる感覚があり、それに覆い被さっている髪の長い女が見えた。龍の刺青をした女なのか、女が龍になったのか、前髪の中から上目遣いに大きく光る目が頼太を見つめている。それも刺花に思えた。
 女が半身を起こした。その胸に思うさま盛り上がった二つの半球へ、それぞれ二頭の龍が蠢いている。双頭は左右の乳首に向けられ、赤い舌を這わせていた。さらに、両腕の腋から一頭ずつが牙を剥き、五つの爪を持つ尾が指先まで巻き付いている。頼太は喉がひきつるような恐怖の中で、女を撥ね除けようとするが、女の足首まで届いている四つの尾で屹立と両脚は縛りつけられ、体は動かない。ざらりという音がして銀鱗が、いや、女の肌が動いた。膚を撫でる妖しく突き抜けるような快感に、頼太は思わず恐怖を忘れた。ひやりとした冷たい体に抱え込まれたまま、紅い唇で舌を絡め取られる。その痺れるような感覚と共に、女の体の中に包まれた頼太の雄茎は信じられないほどのさらなる増幅を始めた。ひんやりとした肌を吸い付けたまま、女は体を捩る。密着した下半身に、汗と体液が混じり合う。恐怖よりも快感が頼太の体の中を奔る。頼太の首筋や耳朶を紅く長い舌が執拗にまさぐる。女の両腕に力がこもる。
「絞めて……」
 突然、声がした。頼太にはそれが何処から聞こえたのか分からなかった。
「首を――首を絞めて」
 その声は女の唇から洩れていた。頼太はそれに応え、一歩踏み出そうとした。女の大きく開いた双眸から泪がこぼれ落ちたからだ。
「お前が初めてだった。何年待ったのか、私はやっとお前に巡り逢えた。絞めてくれれば、私は私に戻ることができる……」
 女は美しかった。蒼みがかった肢体は、生き生きと赤い蠱惑の輝きを放っていた。
 頼太は躊躇うことなく、両手の指を女の首に絡めた。冷たいはずなのに、そこは熱いほどに燃えていた。力を込めた。女の表情が悦びに輝き始めた。絞め続けた。女の吐く細く熱い吐息が頼太の胸から首にかかる。
「絞めてくれ――」
 恍惚とした法悦の中で、頼太は女と同じ言葉を放っていた。女の、龍の尾が、頼太の頸動脈にかかった。吸盤が吸い付いたように、容易なことでは引き剥がせそうにない指の、尾の感触があった。逃げることはできなかった。逃げたいとも思わなかった。悦びを共有できる、頼太の頭にあったのはそれだけだった。頼太の歓喜の柱は、さらに屹立を増した。力を込めて細い首を絞めた。なぜか黒く遠のく風景が見えた。ざわと音がして女の膝が崩れ落ち、同時に頼太の首も軋む音と共に強く締め上げられていた。下半身から脳髄にかけて赤く焼けた鉄の棒で貫かれた。白い火花が滝に散り、樹液と汗の匂いが混じり合う中で、繋がった体が溶けた。
 女の顔は笑っていた。
  
 どれだけ時間が経ったのか、頼太は肌を刺す寒さと滝水の音に目が覚めた。気怠く、潮が引くように、快楽の遠のきが感じられた。冷たい飛沫が体にかかる。
(眠っていた? 違う。……女は?)
 首を絞められた。そこまでは記憶がある。立ち上がろうとして、手をついたその下に、ぬるりと滑るものがあった。苔ではない。目を射たのは、色鮮やかな布と思えた。
(まさか……)
 布ではない、刺青皮だった。胸割りの形に開かれた皮膚である。下腹部の切れ込み、豊かに拡がる臀部から見ると女のそれだった。 描かれているのは、龍に絡まれた観世音菩薩である。いましがたまで抱いていた図柄が、岩に貼り付いている。寂光に濡れて光るそれは生きているように見えた。龍の首筋に僅かな亀裂があった。思わず手を伸ばそうとしたその時、突然勢いを増した滝水と共に、刺青皮はずるりと音を立てて脚先から滝壺に流れ込んだ。得体の知れない何かが引きずり込んだように思えた。叫ぶ間もなく流れに消えた。流れ落ちる白い飛沫が頼太の目を遮った。
 幻想か、夢か、ではなくて現世だったか。頼太は、首の痛みで我に返った。
 喉から首筋にかけて幾筋かの糸を曳いたような腫れがある。女に首を絞められ、そして、女の首に爪を立てて引き絞った記憶があった。両手を淡い光に翳すと、爪に薄い皮膜が絡みついていた。倉市の言ったあの女の、いや、そうではなくて時として消えるという滝に住む龍蛇の残膚の皮膚なのだ、と頼太は思った。
 もともと、滝は神霊や死霊の支配する別世界であり、古くから祈りの場でもある。だから裸形で踏み込むべきではなかった。頼太は、(行かない方がいい)と言った倉市の酔った昨夜の顔を思い出していた。

 二日後、再び山に入った頼太が見たものは、その場所に立ちはだかる黒々とした巌壁と撒き散らされた幾つかの色絵具にも似た落葉だけだった。
 滝はなかった。