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短編小説  夏の湖

                  「湖都松江」 創刊号掲載  平成13年3月

  夏 の 湖
                   芳 木 頼 太

――明治二十三年八月下旬、ラフカディオ・ハーンを乗せた人力車が中国山脈を越えて日本海側へ向かっていた。ハーンは日本での滞在生活費を得るために、東京帝国大学のチェンバレン教授に就職の斡旋を依頼し、島根県尋常中学校での英語教師の口を見つけたのだ。ハーンは、出雲が日本の古代文化の発祥地であり、しかも古い日本を残した場所だということにも惹かれたのである。――
 松江に行こうと志賀昌樹が思ったのは、ラフカディオ・ハーンについて書かれた観光用パンフレットを見たときだった。京都駅中央コンコースの壁面にあった「三古都キャンペーン」というポスターの前で手渡された。駅前ビルに用事があり、たまたま駅構内を通り抜けようとしたのだ。昌樹は、ハーンがどういうことをした外国人なのか知らなかった。だが、百年以上も前に日本に来て、人力車に乗ったということにひどく気持ちを動かされたのだ。しかも日本の女を妻にし、帰化したという。
 コンコースを出て烏丸通りに向かって歩きながら、どうしても松江に行こうと思った。一月の冷たい風が、コートの襟を立てた昌樹の横を通り抜けた。
 昌樹は、人力車夫である。
 外国から馬車が持ちこまれたのは、江戸の末期であった。開港後の横浜では外国人が馬車を使い、慶応三年には、江戸から横浜へ乗合馬車が通った。明治二年、成駒屋という馬車の会社ができ、横浜の吉田橋から東京日本橋までの四キロを四時間で走ったという。江戸の終わり、馬車に驚いた日本人がいた。参勤交代に従って江戸に来ていた筑前佐賀の和泉要助である。要助は、馬の代わりに人が曳いたらどうだろうかと考えた。それが人力車の発明だった。
 明治十年代には、十三万台もの人力車が走ったが、昭和三十年代で姿を消す。二十世紀が終わるようになって、人力車が観光地で復活したのはレトロブームからだった。
 昌樹は、京都の木屋町通りにある平楽屋という人力車の会社に勤めている。平楽屋は明治十年に創業した老舗であった。東山や嵐山の観光客を乗せたり、近くの先斗町の芸者や舞妓の送り迎えなどを仕事にしている。このところ、京都のお茶屋も少なくなり、どちからというと観光客相手が多い。昌樹は、若い女性の観光客を乗せるたびに、広島で別れた智絵のことを思い出す。もう五年になる。

 昌樹は、福山市の高校を卒業してから五つの職業を転々としてきた。どの仕事も長くて二年、短いところでは半年も続かなかったのだ。福山住宅建設に勤めたのは卒業してすぐだったが、二年で辞めた。勤めた、といえば聞こえはいいのだが、一年後に入社した遠山智絵と知り合って同棲し、それが会社に分かって解雇された。その会社は社内恋愛を禁止していたし、しかも智絵は、社長の遠縁に当たる娘だった。昌樹は高校のときから、運動部に所属はするものの、なぜかどの部も長続きはしなかった。それはともかく、陸上部に所属したり、テニス部にも入っていたこともあり、そこで養われた機敏な動作は人目を惹いた。そればかりではなかった。長身で顔立ちはテレビドラマに出てくるような俳優を思わせた。どちらかというと平均年齢の高い職場だったから、高校出たての智絵が昌樹に惹かれたのは当然であったし、若い二人がそれなりの関係になるのは不思議ではなかったのである。昌樹と智絵は、お互いの両親が止めるのも聞かず、会社を辞めて広島市へ追われるように出て行った。行けば何とかなる、お互いの若さがそうさせた。
 二人が居場所に決めたのは、広島北署に近い川沿いのアパートだった。夏の西日が射し込み、狭い部屋だったが、それはどうでもよいことだった。一緒に過ごす場所と時間があればよかったのだ。
「昌樹、よかったね。でも、事故を起こさないでね」
 昌樹はタクシー会社に営業職で就職し、その仕事の合間に普通自動車第二種免許を取ることができた。自分で費用を出して自動車教習所に行く余裕はなかった。そのタクシー会社が、免許取得の便宜を図ってくれたのだ。昌樹は知らなかったが、費用を会社が持つのは、運転手の慢性的な不足を少しでも解消しようとする手段だった。
「二種免許も取れたし、やっと一人前だ。明日から仕事だけど」
「よかった、ちゃんとした仕事ができるようになって」
「智絵に勤めさせたくないしな」
「ううん、いいのよ。パートくらいなら出ても」
 昌樹は、知らない町の男の目に智絵をさらしたくないと思っていた。パートであっても外へ出したくなかった。智絵の躰からはどことなく性的な匂いがし、地味な装いでも隠すことのできない若さが、いまにも男を誘うように呼吸をしていたからである。そのこともだったが、お互いの家庭の反対を押し切り智絵を連れて福山から広島へ出て来た以上、昌樹はまず自分が定職に就かなければと思っていた。智絵に働かせることなど、させたくなかったのである。
 タクシー乗務は、普通の会社勤めに比べれば勤務が不規則だった。昌樹の会社は基本的に通し勤務といわれる十六時間労働である。四日間の乗務をして一日の休みがある。それを三回繰り返すと、もう一日休みがつく。完全週休二日と同じではあったが、続けて働くのは辛かった。給料は出来高制で、タクシー代の半分が取り分である。一日の売り上げが五万円であれば二万五千円ということだが、そこから厚生年金、雇用保険などが天引きされる。数字だけみれば高い収入だが、このところ乗車率が悪く、空車の時間も多いために、働いた時間に比較して収入が少なかった。それよりも、昌樹は夜勤のときには、ひとりでアパートにいる智絵がどうしているのかと気になった。世間一般の暮らしのサイクルと食い違うのも気持ちをいらだたせるのだった。昌樹の我が儘だといえばそうであった。
「やっぱり俺には無理だ……」
「どうして? あれだけ喜んでいたんじゃない」
「給料も安いし、それに……」
「それに? なに――」
「いや……いつも独りにさせてるから」
 自分の目の届かないところに智絵が何時間もいる。そんなはずはないとも思いながら、智絵がほかの男とどうにかなるのではないかという妄想が浮かぶのだった。昌樹は自分が智絵を、いわば攫って来たのだから余計にそう思うのである。
 タクシー会社を辞めた後、昌樹は自分でも幾つ変わったのか思い出せない。投げやりというのでもない、その仕事に興味がないというわけでもない。というよりも、同じ会社に居続けることが怖さにつながった。このままでうまく過ごせるのだろうか、と思うのである。もっと自分に合った仕事があるのではないか、このままではいけないのではないか、という恐怖である。その反面、転職という言葉に何か後めたい感じもあった。その二つの思いが錯綜し、昌樹は居ても立ってもいられなくなるのだった。
 広島に出てから四年が経っていた。
「智絵……やはり一緒にいない方がいいかも」
「どうして、いつもそう言うのよ」
これまでに何度も繰り返した会話である。
「私が嫌いなの?」
 昌樹は、(そうじゃない)と小さく呟いた。智絵が嫌いではない。このままでは、智絵を幸せにしてやることはできないと思い始めていたからである。福山を出るときに、智絵の両親に言ったのだ。(智絵を幸せにする)と――。
「福山に帰ってくれないか」
 二月も終わりに近い日の夕方だった。冬晴れの続く瀬戸内の気候にしては珍しく、春の雪が降った。雪が止むと、大田川を渡ってきた冷たい風が吹き、建て付けの悪い窓ガラスを鳴らした。その音を聞きながら夕食の仕度をしていた智絵は、手にしていた包丁で危うく指を切りそうになった。
「子どももできていないし、籍も入れていない。いまなら間に合う」
 流し台に両手をついたまま、智絵は背中に昌樹の声を聞いていた。いつかこんな日が来そうな気がしていたのだ。確かに不安定な暮らしではあった。昌樹の仕事が長続きしないことが原因なのだが、それよりも智絵は何の手助けができたのだろうかと思った。車を買う余裕もなかった。二人でどこかに旅行をしたり遊びに行くこともしなかった。智絵は、何がなくても二人でいることだけでよかった。
「そんな……、せっかくここまで二人でやってきたのに」
「智絵――その二人でいるのがいけないのかもしれない」
「私はそうは思わない。でも……」
 智絵は昌樹がそう言うのなら、それはそれで仕方がない、いや、もしかして、自分が傍にいることで負担をかけているのかもしれないとも思った。不意に智絵は、福山の自動車博物館を思い出した。JR福山駅から歩いても十分ばかりの北吉津にあったから、高校の帰りにはよく行った。なかでも気に入っていたのは、昭和十年代から二十年代にかけて使われたバタンコと呼ばれたオート三輪、明治の風情を残す人力車だった。高校生がいつまでもその前に佇んで見ているのを館員は不思議がったが、智絵はそれらのなかから懐かしいともいえる匂いを感じていた。それは母の腕の中に抱かれたときの匂いだったのかもしれない、と昌樹の歪んだ顔を見ながら思った。この四年、一度も帰っていなかったのだ。
「一緒にいるのが良いか悪いか別れて……昌樹は試してみたら――」
 滲む目の中で、昌樹の顔が霞んでいった。止んでいた雪がまた降り出した。(帰っておいで)と雪の声がしたように思えた。
  
 山陰松江は、宍道湖を抱く湖都である。
 昌樹が松江に来たのは、冴え返る夜だった。京都駅を出た午後四時過ぎの新幹線を岡山で特急に乗り換え、JR松江駅の改札口を出たのは夜の八時前である。三時間半の距離は遠いな、と思った。
 松江大橋南詰めのビジネスホテルの窓からは、暗い闇に包まれた宍道湖が、右手の対岸には微かな灯りが明滅している。玉造温泉があるとフロントで昌樹は聞いていた。夕食は既に済ませていた。フロントが紹介した近くの「川京」という郷土料理の店に行ったのだ。
 どちちらも四十代かと思う夫婦とその娘らしい女の子の三人でやっている小さな店だった。カウンターだけで、客が十五人も入れば肩を寄せ合わねばならないだろうと思われた。
「遠くから? 仕事です?」
 客は昌樹だけだったから、体格のいい丸顔の店主が竹で造った徳利から酒を注いでくれた。その酒器は鼈甲色で、使い込まれたそれは、古いと聞いて来た街の色にも思えた。
「ええ、人力を曳こうと思って……」
「えっ――人力って、人力車?」
 背中を見せて酒の燗をつけていた女将が、驚いた顔を見せた。
「俺、車夫なんです。京都でその仕事をしてました。この松江でそれやろうと思ってます」
 カウンターから乗り出すようにして店主が、(いいなあ、いいなあ)と声を上げ、(いいことだと思いますよ。私はね、人力車に興味もあるし、いままでにこういうことがあるといいな、と思っていたんです)と切り出した。
――松江で人力車が見られるようになったのは、明治十年頃である。明治八年には、白潟本町、天神町、八軒屋町にガス灯がついたそんな時代だった。明治四十一年には、米子から松江まで鉄道が開通し、翌年に松江で英国人が乗った自動車、大正時代直前には営業用バスが走ったのである。そんな時代を縫いながら人力車は松江の街を走った。昭和三十年代前半までは松江駅に人力車の溜まり場もあったのである。だが、それ以後は自動車の普及で姿を消す。
 観光用とはいえ松江で人力車が走るのは、四十年ぶりくらいではないか。松江そのものがレトロであり、人力車はその風景にマッチする。ただ、営業的に採算が取れるかどうかだ。――
 店主が言うのはそういうことだった。もちろん、昌樹は京都を出る前に松江市の担当者と相談をし、営業についてもおおよその取り決めをしていた。人力車も新車を用意した。一人乗りが約百五十万円、二人乗りなら約百七十万円が最低で、装飾を付けると価格は上がる。自動車を買うことを思えばどうということはない。現在、人力車は全国で約三百八十台が使われ、九十パーセントが伊東市の宇佐美温泉にある升屋製作所で造られているのだ。バネやネジ一本に至るまで全て手作りだから、月に二台しかできない。一台を造るのに一か月以上はかかる。昌樹は標準的な二人乗りを手に入れていた。その製作所で、明治三十年の型をモデルに作ってもらった。
「協力しますよ。ぜひ成功させてください」
 店主は前祝いだと言いながら、地元の酒と店の自慢料理だという鰻のたたきを出してくれた。
「宍道湖と中海で捕れるんですが、どっちも味が違います。まあ食べてみてください」
「いえ、そんなことまでしてもらわなくても……」
 途端に店主が講釈を始めた。
「当地の鰻には宍道湖産と中海産がありまして、どちらも素晴らしく美味いんですが微妙に違います。本日は丸々と太った宍道湖産の鰻で、これをたたいて八種類のタレをかけてございます。このタレは当店自慢のもので、これを食べれば明日の朝の目覚めはすっきり、肌はつやつや……」
女将と娘が店主の横で微笑んでいた。昌樹も笑って聞きながら(松江に来てよかった)と思った。
 翌日から昌樹は、精力的に動き始めた。アパートは外中原町にある月照寺近くにある古いそれだったが、当分の間の住まいにと借りた。月照寺は松江市の観光施設を巡るレイクラインバスが寄るところであり、人力車の仕事にはその辺りがいいのではないかと思ったからである。
 京都では雇われていたのだから、経営については何も考えることはなかったが、松江で営業を始めるまでにはかなりな仕事があった。昌樹は松江のことを知らない。まず、観光施設を勉強しなければならなかった。ただ客を運べばよいというものではない。客の質問にも答えなければならない。観光グッドウィルガイド連絡会を訪れ、会員と一緒に観光拠点を廻りながら施設の概要を教えてもらった。グッドウィルガイドは、外国人観光客のためのボランティアである。かつてラフカディオ・ハーンがそうであったように、人力車が外国人の興味を惹くとすれば、英語での説明も必要と思えた。 人力車とはいえ車である。駐車場も確保しなければならなかった。市役所の交通局に交渉をし、松江城大手前駐車場の一画をそのための場所としてもらった。堀川遊覧船乗り場の傍らである。
 京都の東山営業所は、知恩院から南禅寺までの約一キロメートルを一人二千円、二人なら三千円だった。それに倣ったわけでもないが、走るルートも大手前から塩見縄手を通り小泉八雲旧居まで、料金も同じにした。時間は、約三十分である。ゆっくり走って説明をしたりすれば、それくらいがちょうどよかった。
 営業を始めたのは、ちょうど観光シーズン入る前の三月下旬だった。車を曳き始めてから、既に四か月が過ぎている。「松江・時代屋」と染め抜いた法被と街並みにも馴れ始めていた。うまく行きそうだった。智絵と別れて京都に来た二年目に、平楽屋の人力車に出会ったのだ。それからずっと京都で人力車を曳いて、知らぬ間に三年が経っていた。車夫という仕事の中に、やっと自分の生き方を見つけたという喜びがあった。松江に来てから更にそう思うようになっていた。
 七月二十日から立秋の前の日までが、夏の土用である。土用とは、立春、立夏、立冬の前十八日間をそれぞれいうのだが、昔から土用といえば夏のそれである。その夏の暑さをしのぐ工夫が、土用鰻、土用蜆などの風習として残っている。
 その土用の鰻を食べようと、久し振りに仕事を終えた昌樹は川京に行った。七月の二十五日、川京では夕方の混雑が引いていた。
「お客さんが乗ってくれるか、というのが一番心配だったんですよ」
 店主が(そうだろう)というように頷いた。客商売というのは、そんなものだという顔だった。
「でもね、少なくとも僕は納得した上で車を曳いてます。いままで随分いろんな仕事をしたけど、これほど素直な気持ちになれたのは人力車曳きが始めてなんです」
「やっと巡り会ったということかな」
 店主にそう言われ、昌樹はこれまでに幾つの仕事をしてきたのだろう、と思った。数え切れなかった。誰でも仕事を持っているが、最初から自分に似合うそれを見つけたのだろうか。案外、妥協しているのではないか、とも思った。高校を出てから既に十年以上経っている。今年は、三十になる。自分に似合う、やりたいことをしてみたい。自分の好きなことが仕事にできればいい。そのことを見つけるために、苦しみ、彷徨うのではないか。これまで、目的が何か分からず、情けなく、自分は何をやってるんだろう、と幾度も挫折を味わった。その無駄な時間とでもいえる時期は、必要として費やされた時間ではなかったか。昌樹は、自分でぐい呑みに酒を注ぎながら、そう思った。
「儲かってるというほどの売上げはないけれども、松江に来てくれたお客さんとの触れあいが嬉しいんですよね。一期一会みたいなものを感じる時もあるし……」
「そうですよ。この店だってそうです。ここは県外の客が多いからなあ」
 店主が嬉しそうに笑った。川京という自分の店よりも、それは昌樹に向けられた言葉のようでもあった。
「楽しかった。ありがとう。頑張ってね、って言われ、料金とは別にチップを渡してくれるお客さんもあるんですよ」
 女将の頷いた顔が目の端に見えた。
「こちらこそ、って必ず言います。お互いに感謝し合える関係っていいですよね」
 京都でもそうだったが、松江に来てからよけいに昌樹はそう思う。
「松江の人情のあたたかさがそうさせるんじゃないの」
 店主が(そうだろ)というように娘の肩をたたいた。

 九月が近いというのに、気温は三十度を超えていた。真昼の陽射しが大手前駐車場の松に照りつけている。昌樹は人力車にワックスをかけながら、背中に視線を感じていた。振り向くと、道路を挟んだ向かいの物産観光館から出て来た女が見えた。年は、二十五か六なのか、薄手の白いブラウスにズボンも白だった。何もかもの白さが昌樹を戸惑わせた。急に陽が翳った。幅広いつばの白い帽子と濃く大きいサングラスのせいで顔は見えなかった。客らしかった。昌樹は仕事用の菅笠を深く被り、紐を締めた。
「ねぇ、悪いけど県立美術館まで乗せてくださらない?」
 どこか聞き覚えのある声だったが、思い出せなかった。以前に乗せた客だったかもしれない、と昌樹は思った。(どうしてです?)と言おうとした言葉を察したかのように女は遮った。
「松江の人力車に乗ってみたかったのよ。主人が美術館で待ってるから早くね」
「どうぞ」
 くぐもった声になった。汗をタオルで拭きながら言ったからだ。女は、馴れた身のこなしで梶棒を跨いで乗った。
「暑いわね」
 どこか遠くから聞こえてくるような気がした。(ええ)と短く応えはしたが、何かがその後を言わせなかった。宍道湖大橋を渡り、美術館の玄関に人力車を着けた。女は(ありがとう。これ取っておいて)と言いながら、一万円札を昌樹の手にねじ込んだ。(こんなに――)と返す間もなく、女は停められていた銀色のメルセデスSLエディションのオープンカーに乗り込んだ。運転席にいた恰幅のいい中年の男が、女の肩を抱くようにして座らせる。
 動き出した車をよけるようにして見送った昌樹の目に、福山ナンバーのプレートが映った。
 空の車を曳いて、昌樹は宍道湖大橋を北に向かった。
 宍道湖の空はどこまでも青く深かったが、波は高かった。長い波の幾つかの曲線が、真珠でできた鎖のように揺れていた。立ち止まってそれを見ているうちに、不意に昌樹の記憶が繋がった。女の声を思い出したのだ。福山の、広島での日が鮮やかに波の間に見えた。遠山智絵ではなかったかもしれない。間違っていたとしても、昌樹は智絵だと思いたかった。そうだとすれば、少しでも汗を流して智絵を車に乗せることができたのだ。そうしておきたかった。(お互いに幸せならば、それでいい……)――夏の陽に輝く水面は、眩しいほどに昌樹の目を射た。

 人力車が狭い松江の路地を抜け、川を越え橋を渡って走る。曳き手の心が梶棒から座席へ届く。乗り手の気持ちが曳き手の背中に伝わる。春には桜の下を潜り、秋には街角の落ち葉を踏みしだき、冬には木枯らしと雪を蹴散らして走る。松江城から塩見縄手を通り、行きつく先は小泉八雲旧居である。志賀昌樹は、松江に住もうと思った。
 川京の店主の顔が浮かんだ。