短編小説 嫁が島伝説
「湖都松江」第10号掲載 平成17年10月
金色の矢を注ぎ込むような秋の落陽が、宍道湖を染めていた。時と共に変わる色は、朱、茜、紅、猩々緋――どの文字を持ってきても、言い表すことができはしない。 染め上げられた帯のような光が湖面に横たわり、松江の街も同じ色に輝くのである。 陽が沈もうとする一瞬、雲が輝き、そして松江は、夜の帷に包まれていく。 宍道湖の落日が一年中で最も美しいといわれている季節は、九月の下旬から十月上旬の僅か一週間足らずである。 嫁が島が手に届くような場所に作られた宍道湖夕日スポットには、たくさんの観光客や市民がカメラを手にして、シャッターの音をさせていた。 西本優司は、ライトブラウンのカメラマンコートから携帯電話を取り出した。デジタルが午後五時五十分の数字を見せている。十月一日、あと二分で日没時刻である。 出雲風土記に蚊島と書かれている嫁が島は、姑にいじめられた若妻が凍った水面を歩いて実家に帰る途中、水死した場所であり、一夜のうちに亡骸を乗せて浮かび上がってできたと伝えられている。 島は、長く尾を引く夕陽を背に浴びて、黒々とした姿を見せていた。 西本優司は、おそらく二度と見ることはない落日の光を浴び、二百メートルばかり先にある嫁が島を見詰めていた。 太陽は、ゆっくりと湖の果てに沈もうとしながら、松江の一日の終わりを告げ、夜が来ることを伝えていた。 フリーのライターをしていた優司が仙台から松江に来たのは、二年前の二十七歳の時だった。仙台の新聞社、東北新報社から頼まれての取材である。 全国の湖をシリーズにした企画で、優司の担当は宍道湖だった。みずうみ≠ニ聞いて、優司は山や森に囲まれたそれを思い浮かべた。だが、資料を漁るうち、宍道湖は街に囲まれた湖だと知った。 松江に来てみると、宍道湖はいかにも街の佇まいの中に溶け込んでいた。 宍道湖と松江の街に惹かれた優司は、原稿を書き上げて新聞社に送り、そのまま松江に居着いたのだ。 松江でも仕事があった。島根日報という地方紙の嘱託ライターだった。高給というわけでもなかったが、山陰の小都市で暮らすには、そこそこの収入があればよかった。それよりも、三十代になる前の一時期、気に入った街で生活してみたいという気持ちが強かったのである。 仙台に両親や兄弟がいる。今どき古いと言われそうだが、いつかは、両親のいる仙台で暮らすと決めていた。いずれ帰るのだから、東京でも松江でもよかったのである。 記事を書く合間に、時間をやり繰りしてパソコンに打ち込んでいた原稿用紙三百枚ほどの小説が、東京の文芸四季≠ニいう出版社の懸賞小説で最高賞になった。 授賞式の時、審査員のひとりから、東京で書いたらどうかと誘われた。地方に居るよりは、東京の方が出版社との関わりも持てる、文芸誌に小説が掲載されることも多いからというのだった。 暫くの間のことだと思ってはいたものの、松江には心が残る。だが、文芸四季最高賞は、プロとして認められたということである。もちろん、先のことはどうなるか分からないが、審査員の言うように掴みかけたチャンスは生かしたかった。 低い西の山に沈みかけた太陽の先端がわずかに残り、最後の輝きを見せていた。 「すみません」 女の小さな声が、背中をくすぐった。 振り返ると、色が白く細面の少し寂しげな顔立ちをした、小柄な若い女が首を傾げ、優司の後に立っていた。白いカーディガンを橙色のシャツの上に羽織っている。 呼びかけはしたものの、その後を言おうかどうしようかと迷っている。 「どうしたんですか?」 「あの……、嫁が島に行くにはどうすればいいんでしょうか」 「嫁が島に?」 陽の高いうちならともかく、夜に向かう時間帯に嫁が島へ何の用事があるのかと優司は、暫く女の顔を見詰めていた。 「今日は、もう駄目なんでしょうか?」 「普通は誰も行きませんよ。あの島は眺めるものなんです」 優司は一度だけだが、島に渡ったことがある。確かに、嫁が島から松江の街を眺めると、視界が逆転して不思議な雰囲気に見えなくもない。 「そうですねよ。でも……」 どうしても行きたいような気配を見せた。小型の黒いバッグを両手で抱くようにしていた。 「何をしに嫁が島に行きたいんですか?」 「ええ……」 ためらっている。声を掛けたのはいいが、どこの誰とも知らぬ者に言いにくいことを話さなければならないような雰囲気だ。 「僕は、松江の島根日報という新聞社で仕事をしてます。何か出来ることがあれば、お手伝いしますよ」 新聞社の社員ではないが、数日後には松江を離れる。社の名前を出したところで、どうということはないだろう。勤め先をはっきり言えば、信用するはずだ。 「あのお……嫁が島に神社がありますよね」 残り少い夕陽が眩しいのか、目を細める。可愛い顔だなと優司は思った。 嫁が島は長さが百メートルばかり、幅およそ三十メートルの平たく小さな島である。宍道湖で最も深いところは、六メートルはある。浅い場所があるにしても、そのままの格好で歩いて行けるはずがない。 浜乃木にある野代神社が、管理をしている島である。 島根県で初めて総理大臣になった若槻禮次郎は、昭和六年、東京から久し振りに松江に帰り、嫁が島にあった松が枯れているのに気が付いた。黙っていろと、植木屋に口止めをして数十本の松を植えさせたと伝えられてもいる。今は三十本ばかりに増えているが、若槻禮次郎が植えた松の幾つかは立ち続ける兵隊のように、何十年もの間、島を守っている。 昭和二十九年に始まった浜乃木の干拓と、その堤防を利用して出来た国道九号線は、嫁が島への人の流れと意識を遠ざけた。 昭和三十四年には、湖での遊泳禁止が決められた。昭和四十七年の大洪水で、宍道湖遊覧と島に渡る手段のひとつでもあった大橋川畔の貸しボートも廃業してしまった。昭和二十年頃までの祭日には、屋台が出るほどの賑わいを見せていた嫁が島は、気が付かない間に、遠くから眺めるだけの島になってしまっていたのである。 島の西側には、竹生島神社があり、東の端には鳥居もある。 「神社は、ありますよ。鳥居が見えるでしょう。それが?」 「私、昨日、仙台から来たんです」 唐突に女が言った。 仙台と聞いて、優司は神社の説明をしようとしていた言葉を思わず飲み込んだ。 女が、どうして? という顔になった。 「僕も仙台なんで驚きました。泉区の鶴が谷です」 「ええっ、そうなんですか、不思議……」 誰でも見知らぬ土地で同郷の者に出会うと、懐かしさと安堵を感じるものだ。女は安心したような笑顔を見せた。 「私は長町なんですけど」 長町は、駅から五キロばかり南にあり、鶴が谷とは仙台駅から言えば反対方向にある。その距離のせいでもないが、優司は目の前に居る女に出会ったことはない。 「奇遇ですね。仙台の方と松江で一緒に嫁が島を見るなんて」 「見るんじゃないんです。行きたいんですよ、さっきも言いましたように」 女が不満そうに口を尖らせた。 既に陽は落ち、湖北道路を流れる車のライトがそれに替わっていた。 「そうでしたね。でも、今日は駄目ですよ。渡りたくても、こんなに暮れてしまっては」 優司は、島に渡ることにこだわる意味が分からない。 「なぜ……嫁が島に?」 女は、黙ったままである。 「嫁が島に渡る船はないのです」 「そうなんですか」 呟くように言いながら、島を見詰めている。優司は少しばかり気の毒になった。 「食事でもしませんか? 新聞社でよく使うレストランが近くにありますから」 出会ったばかりの女を誘うのはどうかと思ったが、理由を言いにくそうにしていることに興味があった。 自分から名乗れば、警戒はしないだろう。 「西本優司っていいます」 妙なことを言う女のことが、もっと知りたいと思った。ライターを長い間続けていると、好奇心が旺盛になる。面白いと思ったことなら、何にでも首を突っ込むようにしていないと務まらない仕事だからだ。 「聞いてくださいます?」 誘われた店が行き付けの、それもごく普通の店だと聞いて、女は安心したようである。名前を口にした。 「私……佐藤、佐藤京子です。京子は東京の京」 平凡な名前だなと思った。東京の京とまで言うのは、いかにもわざとらしい。適当に思い付いて言ったかもしれない。ライターの癖だ。何でも疑ってかかる。男ならともかく、女が出会ったばかりの見知らぬ相手に本名を言うはずがない。これまでに何度もそんな経験をした。だが偽名であっても、それはどうでもいいことだ。 夕日スポットから歩いて数分のファミリーレストランは、夕陽を撮影したのか、カメラを手にした何人かが居たが混んでいるというほどでもなかった。 優司は夕日定食≠頼んだ。ビールが欲しかったが、思いとどまる。出会っていくらも経っていない。女に酒を飲ませようという下心があると思われるのは嫌だ。 「恥ずかしいことを言うようですけど……」 京子は、松江に来た理由を話した。 今年の春、仙台学院大学を出た京子には、二歳上の恋人がいた。同じ大学の先輩と後輩という間柄で、四年間の付き合いをし、来年の春には、東京の鉄鋼を扱う商事会社に勤めている彼と結婚をする予定だった。そのために、京子は仙台で学校の教員になりたいという思いを捨てて、新しい生活の準備を始めていたのである。ところが、一か月ばかり前に、その彼から(東京で好きな人が出来た。それに、フランスのパリ支店に長期勤務をすることになったこともあって、婚約を解消したい)と言われたのだった。 彼が大学を卒業し、東京に出てから二年が経ち、時々、お互いに行き来して会うことはあったが、京子には大学があり、頻繁というわけにはいかなかった。そのせいもあるのではないかと、京子は俯いて言った。 よくある話だと、優司は思う。 「佐藤さんは若いんだから、これから、いろいろな人と……」 誰でも言いそうなことが、つい口から出た。 「それはそうかもしれないですけど」 でも好きなんですという言葉を後に続けて呟いたように思えた。 「それと松江の嫁が島とはどういう?」 「あるところで、嫁が島のことが書かれた新聞の記事を見たのです」 優司は、仙台での最後の仕事になった宍道湖の記事を書いた。同じようなことをした人がいるのだなと思った。 「それは、どういう内容でした?」 「嫁が島の伝説が最初に書いてありました」 「お嫁に行った先の義理のお母さんに、いじめられて逃げ出し、凍った湖の上を歩いて出雲の方の実家に帰る時に、溺れて亡くなったけど、翌日、そのお嫁さんが乗った島が浮かんだという話ですね。松江に住む人なら、誰でも知ってます」 「そうなんです。それで、どうしても松江に行きたくなって」 言い伝えられた昔話だから、嫁が島のことを題材にすれば誰が書いても登場させるはずだ。だが、それだけで松江に行きたいと思うだろうか。優司の気持ちを見透かしたように女が言った。 「でも、それだけじゃないんです」 「ほかに?」 「その記事には、嫁が島に渡って鳥居をくぐると、去って行った人が自分のところに帰って来るという話がありました。私、それで……」 自分が書いた記事ではないか。 「それって、東北新報という新聞じゃないですか?」 京子が、呆気にとられたような目で優司を見た。 「普通は、鳥居をくぐるのは正面からですね。つまり、嫁が島でいうと東からですが、逆の方向からなら、縁が戻ると書いてありませんでしたか?」 「どうしてご存知なのです……」 目を大きく開き、掠れたような声で言った。恐ろしいものを見るように、京子は身を引いた。椅子が微かに音を立てた。 「あの記事は、僕が書いたんです」 「ええっ、そうなんですかあ」 京子の大きな声に、近くに居た何人かの客が訝しげな目を向けた。 「嘘を言ったようなことになって申し訳なかったですが、僕は島根日報の社員ではなくてフリーのライターをやってます。佐藤さんが読まれたのは、東北新報から頼まれた僕の記事なんです。名前が書いてありませんでした? あれは署名記事だったんですが」 「……」 「それを書くために松江に来て、そのままここに住んでしまったんですよ」 京子は、大きな目を開いたままである。 「松江が好きになっちゃったんですね。西本さんは」 京子は目を閉じ、頷きながら続けた。 「だから、私、嫁が島に渡って、裏側から鳥居を通りたかったのです。もしかして、もしかして……」 しだいに声が小さくなり、閉じた目から細いしずくが流れた。 優司は京子に言おうかどうしようかと迷う。鳥居を裏側からくぐれば、男の心が取り戻せるというのは、優司の創作だったからだ。 好きな女が仙台にいた。その女に男ができたと東北新報の記者から聞いたのは、仙台を出発する一日前だった。その男が知らない人間ならともかく、同じライター仲間の一人だったのだ。怒りがこみ上げたが、松江に行く予定は変更できなかった。女の心を変えることもできなかったのだ。 松江に来て、宍道湖の取材を進めるうちに、嫁が島が見るだけの島になり、草取りをする人もなく、神社に参拝する人も少なくなったことを聞いた。ボランティアのグループが、時々掃除をしているという。 そのことが、嫁が島の伝説に新たな物語を付け加えた理由である。 署名記事だから、新聞に載れば、仙台に居る女が見るかもしれないという淡い期待もないではなかった。 もちろん、本当にそういう言い伝えがあると書くわけにはいかない。 嫁が島の西、つまり宍道湖の出雲市側には、縁結びの出雲大社がある。男と女の仲を結ぶだけではない。参拝者が、人間の成長と幸せを願う神でもある。 出雲大社の方向から島に上がり、縁結びの神々に背中を押されて鳥居をくぐれば八百万の神も微笑むのではないかと考える人もいるかもしれないと書いた。 確かな伝承だとは書かず、曖昧にしておいたはずだった。 だが、京子は、嫁が島の物語として信じ、東北から松江にわざわざやって来た。優司の書いた絵空事の伝説を信用したのだ。 京子の願いをどうすればいいのだろうか。あれは作り事で、そんなことをしても願いが叶うことはないと言えば悲しむだろう。松江の人達が、昔からそう思っているのなら救われるが、優司だけの作り話なのだ。しかし、架空の話のままにしておく訳にはいかない。 本当のことを言っておいたほうがいい。 黙って聞いていた京子は、両方の眉を上げて言った。 「いい夢を見させてもらいました。ありがとうございます。よく考えてみれば、離れて行った人を追ってみても、お互いが辛いだけですよね」 強い力に押されるように、優司は言った。 「明日にでも、出雲の方向から島に上がってみませんか。東本町に大橋川で漁をする知り合いがいて、小さな船を貸せてくれます」 「もういいんです。嫁が島と美しい宍道湖を見ましたし、それに……素晴らしい物語から夢を見せてもらったんですから」 「僕は、東京に出るつもりです」 優司は、懸賞小説のことを言った。 「東京での新しい縁を掴むために、嫁が島に行こうかなと思い始めたんですよ。鳥居を西からくぐりにね」 「西本さんもですかあ」 京子は、嬉しそうに笑った。 「そうすれば、僕の書いた嫁が島の物語が本当のものになるかもしれない。佐藤さんと話をしていて、決めたんです」 東京へ出られるのですか……と言いながら、京子は遠く暗い空を見ていた。 「でも、いつかは仙台へ帰ります」 「そうなんですか……。西の方から鳥居をくぐるというのは、わだかまりを捨てるってことでもあるんですよね。私の場合は」 京子は言い切った。 「そうですよ。佐藤さんの明日のために」 「終わりの次にあるのは、必ず始まりですものね……」 「明日の朝、午前九時。宍道湖大橋の南詰めにある船着き場で待っています。二人乗りの手漕ぎボートを借りて」 京子は大きく頷いた。 対岸の湖北道路を西へ向けて走る車のライトが小さく瞬いて流れ、消えていった。 |