目次ページに戻る

短編小説 紅い髪の女    

       「湖都松江」第8号 掲載作品 
                                   平成16年9月

 その図書館は、ラフカディオ・ハーンの著作や研究書、関係の雑誌類が揃っていることで全国的に知られていた。自筆の原稿や写真なども所蔵している。もちろん、ハーンが住んだ町、松江にあるのだから当然といえばそうであった。
 図書館に隣接して音楽堂が建てられている。収容人数は八百ばかりで大きいとはいえないが、ドイツのベッケラート社製のパイプオルガンもあり、県内でも有数の施設だ。
 三樹有希子は音楽堂の前で立ち止まり、細い首を傾けて腕時計を見た。夕方から開かれるギター・リサイタルを聴きに来たのだが、開始時刻までにはまだ二時間ばかりある。うなじに両手をやり、背中に流れる黒く長い髪を跳ね上げた。通りがかりの若い男が、(おっ)という小さな声を上げ、立ち止まって有希子を見た。見られることに馴れている。学生時代に、絵のモデルをしたことがあるからだ。着衣だけだったが。
「まだ時間あるな……」
 呟くと、エントランスを左に折れた。始まるまでの時間を図書館で過ごすつもりだ。
 夏が背を向け、雲が川瀬のように流れ始めた彼岸過ぎの金曜日で、連休前の図書館は閑散としていた。人影はまばらで、ガラス窓を通して射し込む夕暮れの西陽が、柔らかな影を敷き詰められた絨毯の上に落としていた。
 有希子は奈良の文科大学を三月に卒業し、春から松江に本社がある島根日報の学芸記者になった。名刺に島根日報記者と刷り込めば、その時から新聞記者だった。もちろん、社内で新入社員の研修はあったのだが、特別の資格などもらったわけでもない。有希子は名刺が刷り上がって手元に届いたとき、そう思って苦笑した。ついこの間まで学生だったのに、と思ったのだ。
 秋から冬にかけて、松江ではハーン没後百年の記念事業が幾つか行われる。そのため、島根日報も特集を組むことになっていた。学芸部のデスクから、ハーンについて調べておけと言われていた。
 貸し出しカウンターを横目に見て、郷土資料が並ぶ棚に向かう。少し奥まった感じになっているその場所は、いつものことだが誰も居なかった。図書館全体からみると、死角のようなところだから、ゆっくりと本を見ることができる。
 壁に沿って、ラフカディオ・ハーンの資料が置かれた三段の低い棚がある。いちばん下には、二十冊近い小泉八雲全集が、背表紙に金色の文字を光らせていた。有希子はジーンズを太腿に食い込ませながらしゃがんだ。
 棚の左端に第七巻がある。日本の各地に伝わる恐ろしい話や不思議な話を再話した八雲の怪談集だった。その本を引き出すと、奥の方でガサと音がした。のぞき込んで見ると、並んだ本の背中に僅かな隙間があり、押し込まれたようになった小さな冊子があった。五冊ばかりの本をどかせて取り出した。
 四六版くらいの二十ページばかりで薄い本だった。表紙は紫色で、長い髪の若い着物姿の女がモノクロで描かれ、題名は隷書体で『紅い髪の女』と書かれている。文字の色は、題名に合わせたのか濃い赤だった。何となく陰惨な感じがする。
「誰かが忘れたのだわ」
 皺のよった埃だらけの冊子は、図書館のラベルも押印もない。奥付には、著者、深田波瑠、発行が昭和十九年と書かれている。著者の住所は書かれていないが、電話番号があった。〇四〇で始まる十四桁の番号だった。その隣に書かれた発行所を見て有希子は、(なに、これ……)と思った。島根日報とあったからだ。昭和十九年には島根日報社は、設立されていない。いくら駆け出しの新米記者でも、自分が勤めている会社がいつ頃出来たかくらいは分かる。どうしてこんなものが作られているのか、不思議だった。図書館のものではないらしいから、持って帰ってもいいのだろう。いや、持ち出すというより、暫く借りると思えば罪にはならない。有希子はそう思った。
 それにしても、こういう冊子に小説らしきものを書いた深田波瑠は、どういう人なのか。有希子はそう思いながら、図書館を出て梅謙次郎の顕彰碑がある市民の杜のベンチに座り、冊子を広げた。
 薄汚れた表紙をめくると、前書きらしい文章がある。
――私はラフカディオ・ハーンに惹かれ、四国の往村から出雲にやって来た。そして、加賀の潜戸で、黄泉の国から来た女に出会った。それは紅い髪をした女だった。女は、百年ほど前、この潜戸を訪ねたハーンに死の国から来た自分のことを語ったのだが、著作の中に入れてはくれなかったのだ、と、恨めしげに言ったのである。
 私は、ハーンの著作や幾つかのハーン研究資料を調べてみた。しかし、ハーンが加賀の潜戸で、紅い髪の女に出会ったとは、どこにも書かれていなかった。
 とすると、私が女に出会ったの夢であったのかということになる。だが、確かに私は女と対峙したのだ。女の顔は、いまでも目の奥に焼き付いている。能面にも似ていたが、恐ろしいほどに美しい顔だった。
 ハーンが取り上げなかったのなら、私が書いておこうと思った。それがこの紅い髪の女の話である。――
 それに続いて書かれている話は、次のようなものだった。

 十月のある晴れた朝、山間の道に祝い歌が響いていた。嫁入りの行列が、佐草の里をゆっくりと進んでいる。山の麓に立って見詰めている娘の目にも、美しく見えた。
「私には、あのような日が来ることはない。この髪さえ黒かったら……私も」
 娘は古びた稲藁のような紅い髪を引き抜いてしまいたい衝動を覚えた。娘の肌は絹蒲団のように白く滑らかで、何とも言われないような甘い匂いが体を包んでいるのだった。
 季節ごとに衣を変える美しい森は、山の幸をふんだんに抱き、中腹には沢が流れている。水は清らかで、名も知らぬ沢山の魚が群れていた。鳥は澄んだ声で鳴いたが、娘の気持ちを和らげることはなかった。
 人目を忍ぶ娘は深い池の畔に家を建て、山深い森の中で独り淋しく暮らしていた。長い間、森から一度も出なかった娘は、自分がすでに老婆になっているのではないかと思った。
「こんな紅い髪では、誰も私を嫁にはしてくれないだろう。誰とも顔を合わせず、独りで暮らしていくより、死んだ方が……」
 娘は豊かな水をたたえる池に身を投げようと、かがみ込んだ。のぞき込むと、不意に水は墨を流したように黒く濁り怪しげな光を放って、地獄の入り口のように見えた。足がすくんだ。目を閉じて体を乗り出すが、どうしても一歩が踏み出せなかった。
「何み楽しみもなく、このまま齢を取るよりも……」
 心を決めた娘は、草履を脱ぎ身を乗り出した。その時だった。
「止めなさい!」
 男の太い腕に肩を掴まれ、抱き止められていた。いつの間に来ていたのか、旅姿の若い男だった。何年ぶりかで聞いた男の声に、娘はまるで紙で作った姉様人形のように、地面に崩れ落ちそうになった。娘の体からは、甘い匂いが漂った。「死ぬ気なのだろう。馬鹿なことをしちゃいけない」
 香りに酔い、娘の白い肌に眩暈を感じた男は、思わず唇を寄せながら娘を地面に横たえていた。娘は見ず知らずの男の重みを全身に感じながら嬉しさに震えていた。
「ああ、こんな私を望んでくれる男がいた……」
 初めての痛みに、娘はそれが紅い髪を黒くしてくれる訪れだと思った。なぜかそう信じた。
 その夜から、二人は一緒に暮らし始めた。娘は男を離さなかった。男が身を寄せるたびに、ほんの少しずつ娘の髪は黒くなっていったのだ。片時も男をその手から離さず、一緒に居るようにした。男が猟に行くときも、沢で魚を釣るときも……。だが、あまりの激しさに、男はしだいに鬱陶しさを覚えるようになった。
 そのうち、男は独りで森の中で過ごすようになった。娘は狂ったようになって探し回った。男に捨てられたら、と思うといても立ってもいられなかったのだ。体中を鋭い茨や小枝で傷つけ、血を流しながら探し回った。
 男を見つけると胸ぐらを掴み、血にまみれた獣のような姿で抱きついた。
「俺はもう山に住むわけにはいかない。古里へ帰らねばならない」
 男は疲れた目を向けて女に言うのだが、娘はどこまでもついて行く叫んだ。男はその激しさに驚き、娘の腕を振り払うと、大声を上げた。
「いくらお前が好きでも、その紅い髪では……。もう少し黒い髪であったなら、一緒に俺の古里へ連れて行くのだが」
 娘は両耳に手を当てて頭を振ると、頂上めがけて走り出していた。樹木の根につまづき、泥にまみれながら娘は自分の生まれを呪った。泣きはらした目は、何も見えなくなった。気がつくと、霞んだ目の先にひとりの女が立っていた。
「お前は紅い髪を恨んでいるようだが、いい方法があるのだ」
「教えてください。どうすればいいのです」
 娘は女の足元に、転がるように跪いた。
「簡単なことだ。池の水で髪を洗えばいいのだわさ」
 聞いた途端に女の姿は消え、娘は自分の家の近くにある池の畔に戻っていた。娘はその日から、一日に何度も洗った。洗うと髪が濡れている間は黒くなり、乾くとまた元の紅い色になるのだった。
 冬になった。それでも娘は、凍るような池の水で洗った。水の冷たさに両手はしだいにひび割れがし、美しかった肌は茶色になった。
 春が来た。来る日も来る日も、娘は洗い続けた。いや、洗っているのは娘ではなく老婆だった。山姥だった。
「嘘とも知らず、洗い続けた馬鹿な娘だ。私は、若い男と一緒に暮らしているのさ」
 娘の耳に届いたのは、あの女の声だった。谷底から噴き上がる風のように、娘を襲ったのは血の滾るような怒りだった。
「騙したな――」
 娘は鎌を持ち、女の嗤い声を頼りに山を駆け降りた。
「殺してやる」
 紅い髪が森の中を飛んだ。沢を跳んだ。鳥が驚き、ざわざわと木々を揺らした。里の集落が見えた。どこからか男の笑い声が聞こえた。娘は、初めて男に出会ったことを思い出した。あの時の抱きとめてくれた男の腕の強い力、温かかった肌、吸われた唇の感触を。
「私を愛してくれた、ただひとりの人……」
 娘の目から流れ出る涙が頬を伝い、足元に咲く名も知らぬ花を濡らした。娘は、山に向かって引き返した。
 池の淵に立った娘は髪を左手で掴み、右手に持った鎌でざっくりと紅い髪を切り落とした。
「この紅い髪が、私の一生を無茶苦茶にしたのだ」
 娘は髪を池に投げ込んだ。髪は水に沈んだ。と見る間に、その髪は無数の紅い蛇になって水面から跳ね上がり、娘の体に巻き付いた。限りなくわき上がる真紅の蛇は一筋の綱になり、娘を池の中に引きずり込んだ。
「誰もが幸せに暮らしているのに、なぜ私だけが不幸な一生を終えなければいけないの! 一体、私が何をしたというの。何の罪を犯したというの」
 娘は冷たい氷のような水底に沈みながら、叫んだ。その水底から、重い声が聞こえた。
「人は生まれながらにして、生きるさだめを持っているのだ。お前はそれを呪った。呪い、恨みが、お前の心と体を鬼にしたのだ。だから、男は去ったのだ」
 繰り返し聞こえる声に包まれた娘は、水底に沈んだ。
 鏡の池へ行く道を知っている村人は、一人もいなかった。

 有希子は、最後のページをめくった。そこには深田波瑠の名で跋文があった。

――ハーンは、なぜこの話を怪談集に取り入れなかっただろうか。想像でしかないが、髪が紅いことからくる娘の悲哀や苛立ちを自分の目の不具合に重ねたのではないか。娘の苦しさや悲しみが自分の心に映し出され、それが理解できたから、著作の中に残したくなかったのだと私は思う。――

 そこまで読んだ有希子は、小泉八雲旧居の前にあるハーンの胸像を思い出した。ハーンは遠いギリシャのレフカダ島から、山陰の小さな都市、松江まではるばるとやって来たのだ。初めてそれを見たとき、いったい誰なのだろうと思ったのだ。それまで、やや横向きのハーンの写真しか見たことがなかったからである。
 有希子は少し顎を上げ、遠いところを見ているようなハーンは、何を考えているのだろうと思った。
 ハーンの怪談は、化け物や幽霊が醸し出す恐怖の世界ではなく、それを通じて人間の生き方を書こうとした。『飴を買う女』の話などは典型的な例なのである。そうであるならば、どうして『紅い髪の女』を取り上げなかったのか。そう考えていくと、深田波瑠が言っていることも分かるような気がする。だが、それならば、収録しないことの方が不自然ではないか。
 有希子は、そこまで考えて本を綴じた。
「返しておこう。忘れ物であれ何であっても、黙って持ち出すのはよくない」
 奥付に書かれていた深田波瑠の電話番号を記者用の手帳に書き留め、図書館に引き返した。開架の部屋には、数人の来館者が居るだけだった。有希子はハーン全集を数冊取り除き、元あったように棚の奥へ小冊子を押し込んだ。

 島根日報社は松江市の北部、北山山脈の麓にある。もともと内中原町にあったのだが、社屋を新築し新年度になって移転した。南向きで高い位置に建っているせいもあり、かなり眺めがいい。晴れた日には、東に伯耆大山、西に目をやると宍道湖のきらめきが見える。周囲には、情報技術センター、大学の研究機関などが並び、情報分野の企業が集まっている、いわば島根県の情報産業の拠点となっていた。
 新聞社の朝は遅い。十時に出勤すると、学芸部長が声を掛けてきた。
「よお、有希ちゃん。小泉八雲の取材は進んでるかい?」
 部長は、いつも有希ちゃんと呼ぶ。親しみを込めたつもりかもしれないが、(ちゃん)は止めて欲しいと思う。
「ええ、面白い話が書けそうです」
 図書館で見た島根日報発行の小冊子のことは、暫く黙っていようと思った。何かありそうだった。それを自分で確かめたかったのだ。
「いい材料を集めてくれよな」
 有希子は手帳を取り出し、深田波瑠の電話番号を暫く眺めていた。〇四〇から始まる十四桁だ。桁数も妙だが、〇四〇が付くのは、沿岸船舶電話ではなかったか。深田波瑠は、船に乗っているのだろうか、と有希子は思った。
 プッシュした。呼び出し音が鳴っている。少し遠い感じがする。ルルル――という音が切れ、女の声がした。波瑠は男の名かと思っていたが、女だったのだ。
「もしもし……」
 なぜか深い闇の底からのように思えた。
「島根日報学芸部の者で、三樹と言います」
 どういう用件かと聞かれたのに答えて、『紅い髪の女』という冊子のことだと言うと、女は(くくくっ)と笑った。
「私、深田よ。やっとあなたに渡ったのね」
「やっと?――私に?」
「そうよ。ほかの人ではいけないの」
 あの冊子は、私のために作られた? まさか、そんなことがあるはずがない。
「どういうことなんでしょうか」
「電話では駄目よ。答えられないわ」
 有希子はスクープになるかもしれない、と思った。ハーンに関する未知の研究者かもしれないのだ。
「深田さん、会っていただけます?」
 女が指定したのは、翌日の午後五時半、八束郡の加賀だった。潜戸が見えるところで待っていて欲しい、と言う。
 潜戸しかない、ただの漁港だった加賀の港は、高速船が発着するようになって、姿を変えていった。隠岐と加賀を結ぶレインボーの案内窓口でもあるマリンプラザしまねや朝市などが立つマリンゲートしまね≠ネどの洒落た建物ができ、整備されている。
 有希子が着いたのは、午後五時過ぎだった。隠岐の別府行きレインボーが四時前に出た後の港には、人の姿がなかった。有希子は駐車場に車を停め、携帯で時刻を確かめてから、波打ち際まで出てみた。まだ少し時間がある。
 陽が沈み始めた海は波もなく、灰色の絨毯を敷き詰めたかとも思えるほどだった。空は水平線に向かって、足早に薄墨色を増し始めている。
 不意に、有希子の足元でざわという微かな波音がした。
 両手で包み込めるほどの紅いボールのようなものが、水の中に漂っている。引く波が持ち去ろうとする前に、有希子はそれを掴んだ。細く紅い糸で編んだ手鞠のように思えた。木綿糸や毛糸ではないらしい。何で出来ているのか、それは海水をはじき、艶やかだった。水を吸っているのだろうが、なぜか軽かった。爪ではじくと、鋭い音がした。芯になっている丸い球体は、ガラス玉のようだった。
「それは私のものです」
 不意に、有希子の背中で声がした。振り返ると、西側の突堤の先端に女が立っていた。背中を向けて海を見詰めている。薄明かりの中で透かすようにして見ると、青い色の着物を着た長い髪の女である。後ろ向きだが、声をかけたのはその女だろうと有希子は思った。だが、確か、そこには誰もいなかったはずである。突堤は十五メートルばかり海に突き出ていて、そこへ行くまでには有希子の後を通らねばならない。足音に気が付くはずであったが、有希子の耳に聞こえなかった。
「持って帰ってはいけません」
 気が付くと、女は有希子の手が届くような所まで来ていた。どうやって側まで来たのだろう。歩いて来るのを見てはいない。なぜか、あたりは薄闇に包まれていた。女が背中を見せたままで、また言った。
「持って行くつもりなのですか?」
 女が言っているのは、有希子の手にある手鞠のようなもののことだろう。
「どうして? 拾ったのです。あなたのものだという証拠でもあるのですか?」
 有希子は、そこまで言って気が付いた。
「深田……波瑠さんですか?」
 思いのほかあたりは暗くなっていたが、約束の時間に近い。
「そう――。あなたは三樹さんよね」
 青白く、鼻筋の通った細面の顔の女である。着物は、少し濡れているように見えた。
「そうです。三樹有希子と言います。お電話で……」
「ええ、分かっています。それで――何が知りたいのですか?」
「図書館で見た『紅い髪の女』という本は、私のためにとか……」
「そう、あなたがハーンの、いえ、ヘルン――私は、いつもそう呼んでいたものだから、ヘルンと言っているのですが、彼のことを記事にすると知って」
 有希子は、この女、つまり波瑠は何を言っているのだろうと思った。(いつもそう呼んでいた)、(記事にすると知っていた)と言うのである。記事にするなどということは、島根日報社の中だけのことである。外部の人間が知るはずはない。それに、ハーンのことを(いつも呼んでいた)とは何なのか。
「あなたの言っていることは……」
「そうでしょう。分かるはずがないわね」
 海辺は、闇の中にあった。波瑠は語り始めた。
「確か九月だった。夏が過ぎ秋が駆け足でやって来ようとしていたから。松江から島根半島の山を越えて、ヘルンは御津へ出たのよ。そこから船を雇って、岬を回り、加賀にやって来たわ」
「潜戸に?」
「そう。神が生まれ、子どもの霊がある洞窟にね。潜戸に来る者は、加賀の海岸から船で来るのよ。ところがヘルンが乗った船は、潜戸の岬を回って外海から入って来たのだと私は思うの」
 その方向がどうしたのと聞いた有希子に、波瑠は驚くべきことを口にした。
「死の国では、陽を背中にして洞窟に入った者と死者が出会えば蘇るという定めがあるの。ヘルンは、太陽を背中にして洞窟に入り、賽の河原に船から上がったの。ちょうどその時、私はヘルンと出会った……」
「あなたは、潜戸の何なのです?」
「私は、四国の往村から潜戸に来た女」
 有希子の頭の中で、『紅い髪の女』の前書きに書かれていたことと波瑠の話が結び付いた。
「まさか、あなたは……」
「そう、そうなのよ。『紅い髪の女』の本は、一冊しか作られてはいないの。あなたを呼び寄せるために書いたもの」
「あの話は、本当のことなのですか」
 有希子の声は、かすれていた。
「私はヘルンに頼んだのよ。私のことを書いてくれれば、元の人間になれるからと。でも、なぜかヘルンは書かなかった」
「でも、どうして私を……」
「あなたは美しいから、髪が黒いから、私の代わりになるのよ。入れ替わるの」
 有希子は叫んだ。
「いやっ、いやよ」
 その声は、突然吹き始めた強い風に遮られ、僅かに小さく有希子の顔の周りを巡っただけだった。
 波瑠は両手をうなじの辺りに手をやり、背中に流れる髪を後へ跳ね上げた。どこかで、そんな光景を目にしたような気がした。
 有希子の目に映ったのは、薄明の中に光った紅い髪だった。闇に吸い込まれるような激しい悪寒を背中に感じて、思わず有希子は吐いた。しゃがみ込み、幾度も吐いた。しまいには、口から出るものは何もなく、黄色い胃液が喉までせり上がるだけだった。
「さあ、私と」
 波瑠の手が肩にかかった。砕けそうな膝を立てた。
「賽の河原へ」
「いやーあっ……」
 立ち上がった有希子は、手に持っていた紅い手鞠を波瑠に向かって、力いっぱい投げつけた。
 手鞠が顔に当たって砕けた。巻かれていた糸、いや、紅い髪が波瑠の顔に巻き付き、ガラスの破片が皮膚を切り裂いたのか、鮮血が飛んだ。流れる血に波瑠の紅い髪と手鞠の紅髪がべたりと貼り付いた。頭から流れる血が、波瑠の目に入った。血に汚れた波瑠の両手が、有希子の肩を掴んだ。おぞましいほどにねっとりした粘液質の血が、有希子の肩から胸に流れ落ちる。
 有希子は、あるだけの力を込めて波瑠の頭を右手で殴り付けた。なぜか有希子の手は、鋭い刃物になっていた。頭が割れ、血が噴き出した。
「ぐぇっ」
 叫びながら海に向かって駆け出した波瑠を波がさらった。
 再び、有希子は崩れ落ちるように膝をついた。雨が降り出した。重く厚い闇が、石の柩のように有希子を包んでいた。