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短編小説 闇に待つ女
                         『湖都松江』所収  平成15年10月

 女が初めてその男に出会ったのは、四十歳になったばかりの冬、小料理屋愛川≠ノ勤めていた時だった。
 愛川は、女の伯母が経営する店で伊勢宮町にあった。江戸時代までは水田地帯であったが、明治の終わり頃に和多見の妓楼が移転して、新地遊郭となった土地である。黒門本通りと呼ばれた通りがあり、両側には幾つかの張り見世が並んでいた。
 太平洋戦争が終わってから十四年後、遊郭が強制的に廃止され、居酒屋、料理屋が並ぶ夜の繁華街になる。
 愛川はもともと妓楼のひとつであり、そのせいでもあるまいが何とはなしに淫猥で、よく言えば艶めく雰囲気を持つ酒場であった。
 女が愛川に勤めるようになったのは、市内の私立高校を出てすぐだった。それを待っていたかのように両親は離婚し、それぞれがごく当然のように女と男をつくり、県外に出てしまったのだ。両親がいざこざを起こすことを女は情けないと思ったが、どうしようもなかった。
 心配した伯母に声をかけられ、店を手伝い始める。女は弦歌さんざめく夜の酒場に浸ることで気が紛れた。昭和三十五年のことだった。三味線や掠れたような音を出すレコードに合わせて男達は酔って歌い、大声を出して騒いだ。その頃まだカラオケはなかったのである。
 五年ほど勤めた頃、伯母の勧めで貨物船に乗っている司厨員と所帯を持った。夫の乗る船は、荷物ごとの契約で航海の日取りが動く不定期航路の貨物船だった。夫は、少ないときで半月も家を留守にした。長い航海になると、ひと月にもなった。
 結婚して十年目の師走、鼠色の重い空が裂け、白い粉のような雪が舞い始めた夕暮れだった。
 女はぼんやりと店の格子戸を叩く風の音を聞いていた。週明けの夜、それも宵の口で客は未だ誰も居なかった。今夜は客が少ないのだろうと女は思った。もう店はまかせた、とでも言いたげにこのところ伯母は八時を過ぎないと店に出て来ない。
 格子戸に黒い影が映ったとたん、冷たい風と一緒に男がひとり舞い込んで来た。
「あ、いらっしゃい」
 黒っぽい背広だったから、女には言葉通り風のように入って来たと思えたのである。男は(いいの?)というような顔をして客が居ない店の中を見回した。
 入ってすぐの右手に十席ばかりのカウンター、左に三席ほどの小上がりがある。その奥に障子で仕切られた狭い座敷がつながっている。壁には一面に黒い木の短冊板が並び、品書きが白い隷書体で書かれている。
 居酒屋というのは、店のあちこちに酒の染み込んだ空気が漂っていなければ本物ではない。そんな居酒屋で飲むということは、酒と客達の膨大な長い時間の堆積の中に身を沈めることなのだが、愛川はそんな雰囲気をも感じさせる店だった。
「寒いですねえ」
 女は付き出しをカウンターに乗せ、男の顔を見た。
「あっ」
 背骨を一本の指ですっと撫でられ、息が詰まったような気がした。男は(なに?)というように両方の眉を上げた。鼻筋が通った白い細面の寂しげな顔だった。白いというよりも蒼白く、寒い町を歩いて来たからかとも思えたが、そうでもないらしかった。
 女は男と酒を飲み、饒舌になった。どうでもいいような話も男は熱心に聞いてくれた。女は男の目に惹かれた。時々、その目が女の口許を見詰め、眸がきらりと輝く。
 その夜から男は、週に一度は来るようになり、それが二度に、そして一日おきになった。
 女が男と寝たのは、それから二か月にも満たない頃だった。
「あなたの髪、好きよ」
 女は客が居ないときを見計らい、カウンター越しに男の細く少ない髪に指を入れた。その男の髪は年齢にほどよく似合っていた。十ばかりも上だと聞いた男の揉み上げには少しばかり白いものがあり、細い油気のない髪が額にかかっていた。十歳上だと言うのは、本当にそうなのか分かりはしなかった。十五か、ひょっとして二十も歳上かもしれなかった。男がこの世界で本当のことを言うはずはない。そんなことはどうでもよかった。
「ねぇ――」
 誘ったのは女の方だった。男は女とそうなりたいと思ってはいたが、自分の五十という年齢やおそらく独り身ではないはずの女の暮らしを考えて言い出せずにいたのだ。
「今日は留守なの」
 女の夫は、広島港を出て北海道までの二週間の仕事だという。
 男は、カウンターの隅にある電話機を借り、百番を回して米子市の自宅に電話をかけた。仕事で、明日から三日ばかり帰れない、と。
 女はその電話を横で聞き、男が東京に本社のあるコンピューターソフトの松江支店に勤めるプログラマーで、米子から通勤しているということを初めて知った。
 店が看板になると、女はタクシーを呼んだ。伯母は(おや?)という顔をしたが、酒場の女が客と一緒に店が終わってから夜食を取りに行くことは珍しくない。伯母の怪訝な顔が一瞬だったのも、客を店に引き付けておけると思ったからである。もちろん、女は男と食事に行くつもりはなかった。
 女の家は松江市の外れにあり、北山の麓だった。枕木山の下まで農道が走っているが、それを横切り更に奥へ入る。山谷という名の集落だが、その名のとおり山手に入ったところに数軒の農家があるだけの深い谷の里だった。どの家も、手の平を合わせたような形の茅葺き屋根である。それが谷間に点在していた。
 女の夫は空き家になっていたその内の一軒を手に入れ、分家をして実家を出たが農業を嫌い、貨物船の料理人になったのである。女は愛川の二階で寝泊まりし、夫が航海から帰ると山谷の家へ戻った。女が独りで暮らすには、ただでさえ広い家は不気味としか言いようがなかったからである。
 店のある伊勢宮から山谷までは、タクシーで三十分ばかりである。隣の家といっても数百メートル離れており、誰にも見咎められることはない。女は夫を嫌っているわけではないが、航海に出てしまえば、女は独りになる。淋しくないわけはなかった。
 女は、暗い入口のガラス戸に鍵を差し込み、佇んでいる男を振り返った。 
「あなたの髪と目が好きなの」
 淋しい、とは言えなかった。その言葉を口にすれば、哀れさが自分の胸を突き抜けるような気がしたからである。
 女は手探りでスイッチを押した。灯りが点き、太い大黒柱とその上に横たわる幾本かの手斧梁が黒く光った。男はそれを見ながら足を踏み入れ、冷気に包まれた黴の匂いを嗅いだ。左側の上がり段と呼ばれる式台から座敷に入ると、囲炉裏が大黒柱の側にあった。家は田の字造りで、かなり大きめの四部屋があった。縁側が三方にあり、明るい昼ならば開放的な感じがするのだろうが、夜の闇の中で雨戸に包まれた家は、そこへ男を閉じ込める獄舎のように思えた。
「寒いでしょ。ちょっと待ってね」
 女は座敷の奥の部屋に入り、古い家には不似合いなガスストーブに火を入れた。かなり大きなそれは、たちまち部屋を暖かくした。女は納戸から客用の布団を出し、二つ重ねて敷いた。
 男がその家を訪れるのは女の夫が居ない時、それも夜に限られていた。そのせいでもないが、日常の暮らしの陰影がないこともあって、男には家の匂いや女の夫の影も見えなかった。
 男が行く夜、女は伊勢宮の愛川を早退けをした。いつの頃からか、伯母は男との関係に気付いたが何も言わなかった。家庭のある女であれ、独り身であっても夜の世界では日常茶飯事の出来事だったからだ。それに、船乗りの夫であれば一年中一緒に居るわけではない。独り寝の寂しさを女である伯母は、分かっていたからである。女がいまさら夫と別れて男と一緒になる、などと言うはずはない、と伯母は思っていたし、女もそんなことは考えてもいなかった。
 女の夫は、あのことに淡泊というわけでもないが、酒場に来る男達から聞く限り、回数は多いとは思えない。もちろん、航海が終わった日から数日は毎晩のように続くが、その後は途切れる。女は夫の年齢のせいか、あるいは、航海の途中でそれなりの場所に行くのではないかと勘ぐってみたりもする。聞いてみたこともないし、聞いたとしても本当のことは言わないだろうと思った。
 ともかく回数は別として、夫は時間をかけて丹念に仕上げていくという感じだった。女は夫が船の上で調理をしているところを見たことはないのだが、肉であれ魚であれ、無駄な場所は取り去って美味な場所だけを残すように自分の躰が料理されているような感じを受けるのだった。激しさはないが、手馴れたというのか幾つかのバリエーションがあり、それが繰り返されてパターン化しているようでもあった。少しばかり物足りない気もしないではないが、抱かれれば、声を上げるまで料理されることに満足していたのである。
 子どもでも居れば夫の留守の淋しさはまぎれるのだが、なぜか出来なかった。その理由を詮索しようとも思わなかった。子どもは授かりものという昔風な考えもあり、出来ないならそれはそれで一つの運命だと割り切っていた。女が四十にもなれば、いまさら子どもというわけにもいくまいとも思っていた。三十を半ば過ぎた頃から、そのことは考えないようにしていたのだ。その隙間を埋めたのが男との夜であるかもしれない、と女は思った。
 薄暗い部屋の中で、二枚重ねて敷いた布団に埋もれた女の裸を神経を集中した男の細い指先がまさぐる。女は、蔦が樹木にからみつくように手と脚を男の躰に巻きつける。昼はキーを叩いているはずの男の指が湿った空洞に滑り込み、卑猥な音で女は両耳を擽られ、否応なしに声を上げさせられる。そのうちに、お互いの汗ばんだ肌が吸盤のように吸いつき、男もなく女もなく絡み合った二つの躰が一つの生き物のようになって蠢き、夜の更けるまで続くのだった。
 男が明るい昼間に来ることはなかった。いつも夜の闇を背負って来るように見えた。男と二人で伊勢宮からタクシーに乗り、家から少し離れた山道で降りる。もつれるようにして歩く。女がバッグから鍵を取り出して戸を開けると男はいつも振り返り、誰も居るはずもない暗闇をうかがい、身を隠すようにして家の中へ入った。
 男は灯りの少ない部屋で女と交わるのを好んだが、女もその方が気が楽だった。四十を過ぎた肌の翳りや、くすみをあからさまにしたくもなかったからだ。
 男は、必ず乳首と下腹部を長い時間をかけ、細い指先と舌でもてあそんだ。乳首は子どもを産んだことのないせいもあるが、少女のように薄茶色の小さなそれで、乳房も男の掌に隠れるほどだった。だが、揉みしだかれたそれは、小さいけれども弾けるほどに男の掌を押し返した。
 女の夫が家を買った当時から、そのままに打ち捨てられていた行灯をいつしか男は納戸から見つけ、枕元にそれを置くのを好んだ。角形の木の枠に紙の火袋が張られ、中には油皿がある高さ五十センチばかりのものだった。寝室用に作られたものなのか三日月の形をした窓があり、そこから洩れる微かな明かりで照らされた女の裸を男は美しいと思った。特別に細工がほどこされたものらしく、下部には枕箱が取り付けられている。女は終わったあとではいつもそこから桜紙を取り出し、男と自分のそれを包むようにしながら扱うのだった。
 古い王朝時代の男にとって、女の裸は見る対象ではなく、触覚もしくは嗅覚でそれを愛でるものだった。闇、あるいは顔も定かには見えないほどの月明かりが射し込む僅かな光に照らされて、そのことは行われたのだ。腰まである長い髪と香を焚き込んだ衣服の匂いの中で、忍んで来た男は指と唇で暗闇に浮かぶ裸をなぞった。
 薄暗い灯りの部屋で男がそんなことを思っているのだと女は考えていたが、そうではなかった。男の頭にあったのは、女の夫のことだった。女は夫にどの部屋で抱かれているのか分からなかったが、それがどこであるにせよ、いずれかの場所であることは間違いないのだった。女の夫の影が薄い家だとは思いながらも、それが頭の中をよぎるのである。見たこともない影が、見えるようなそうでないような輪郭をもって浮かび上がる。そんな時は、必ず畳の上を百足が這うような微かな灯心の音がした。焦げるような匂いと音をさせて、暫く揺れていた炎は、堪えかねたように、ふっと消える。その後も暫くは真の闇ではない。あるのかないのかの空の光か星のそれなのか青味がかった色が、男と女が寝ている部屋の襖や障子、吊された男の背広をも浮かび上がらせるのだった。それらを見ていると、男の感覚はさらに研ぎ澄まされた。誰も居ないのに、ピシと板の間の木が弾ける音がする。深夜のはずなのに、夜の鳥がバサと音を立てる。それが途絶えると、微かな女の息と自分の心臓の音を男は聞いた。灯心の焦げた匂いは既に消えていたが、両腕の中に抱き込んだ女の躯から滲み出る汗と香料の匂いが溜息のように男の鼻孔をくすぐり、誘うように思えた。だが、男のそれは女の躰の中には届かない。
「疲れてるのね?」
 黙ったまま、男は女の口を自分のそれで覆いながら細い躰にわざと重みをかけた。男は女の乱れた後れ毛の中にある薄赤い耳たぶを噛み、浮き出た鎖骨の辺りを濡れた唇でなぞった。ずり下がりながら脇腹に舌を這わせた。右手の指は、脹ら脛から太腿の後ろの何かを探すように動き回る。
「ねぇ――」
 女のくぐもった声を聞き、男は初めて女が誘ったときのことを思い出した。女の夫のことは頭から消え去り、男は腰を女の両脚の間に落とした。

 女の夫が太平洋に沈んだことを男が聞いたのは、そうなって十年が過ぎた冬、年の暮れも近い夜だった。横須賀沖の太平洋上で、女の夫が乗船していた貨物船に海上自衛隊の潜水艦が衝突した。貨物船は沈没し乗員全てが海の底に消えた。いつかは司厨手、できれば料理長になりたいと言っていた夫は、遺骸が発見されなかったうちの一人になった。
 男が女の家を訪れたのは、四十九日が過ぎた翌年の二月だった。座敷の奥に扉が閉じられた真新しい小さな仏壇があった。おそらくそこには写真があるのだろうと思い、どんな顔なのか見たい気もしないではなかった。だが、そんなことをしても仕方がないと思ったし、仮に見たとすれば、その夜は女を抱くことが出来ないという気持ちがふいと胸をよぎったからである。
 例年になく寒い二月で、降り積もった雪の上に屋根からずり落ちた厚みのある重たい雪がさらに積み重なり、庭を埋め尽くしていた。
「ねぇ、早く来て……」
 素裸で布団にうつ伏せになった女は、部屋の隅で洋服を脱ぎ始めた男に白いシーツへ顔を埋めたまま囁いた。男は厚い掛け布団を捲ると、女の躰に寄り添った。
 強い香水の匂いがした。何十日かの間、家の中に立ち込めていたはずの線香の香りを消すためなのかと思えた。深々とした布団に沈んでいる女の躰を両腕で掘り起こし、後ろから抱いた。
「寒いわ」
 男は女の細い肩に唇を付け、指を前に回して躰の奥に滑り込ませた。女はくぐもった声を出し、腰を高く上げた。
 裏庭にある竹藪では、雪の重みに耐えかねた枝の撥ねる音が一晩中響いていた。男が女の両脚のはざまに、体を打ち付ける音に似ていた。
 男が女の家を訪れた、最後の夜だった。

 女は待っていた。外に買い物に行くことを出来るだけ少なくし、伊勢宮の店に出ることも、何もかも止めて待っていた。明るいうちは、家の周りや座敷の掃除をし、料理は二人分をいつも作っていた。座敷の真ん中に磨き上げたテーブルを置き、花を活け、大振りの盃を二つ並べた。酒屋から酒を配達させ、いつも切れないようにした。夜更けになると、女は酒を飲み干してしまったからである。
 夏になった。酒屋からはビールを届けさせ、盃に替えてグラスを並べた。奥の部屋には、夏用の布団を二つ並べて敷き、クーラーは付けたままにしていた。そのため、家の中はいつもひんやりとしていた。
 クーラーの冷たい空気が、いつしか冬のそれに取って代わる季節になっていた。女の飲むビールが焼けるような熱い酒になった。冬の乾いた空気で荒れた肌を隠すため、女は、しだいに化粧を厚くしていった。
 年が明けて春になり、梅雨が来た。雨の音だけが女が待つ部屋に響いていた。梅雨が終わり、家の周りに雑草が生い茂る夏になった。女は草取りも止め、ひたすら待ち続けた。
 二度目の秋が来た。草が延び放題の庭にも季節は同じように訪れ、萩、菊、鶏頭、そして名も知れぬ秋の草が咲き乱れた。秋が終われば冬が来る。そのことが分かっていながら、冬に向かう季節にどうして秋の花や草は懸命に咲き誇るのか。草であれ花であっても生き続けるものの営みだとは知っているが、秋が終わりに近付くと、それが定められたことであるにせよ、身の引きどころが分かっているように一つずつ消えていく。女はそう思って、一日中、縁側に座って待った。
 数え切れないほどの何度目かの冬が来て、春が、夏が、そして秋が来た。
 女は、男を待っていた。それしか女にはすることがなかったのだ。
 かつて、女はいつも激しく男に抱かれた。仰向けになったまま躰を折り曲げられ、うつ伏せにされて後ろ向きに這わされながら、女は男のどんな要求にも応じたのだ。
 男には妻があり、もちろん家族や仕事があった。だが、女にとって男は、何物にも代え難い存在だった。
「まさか……。帰って来ない?」
 そんなはずはなかった。男は言ったのだ。
(これまでの働きを認められ、札幌支社長に抜擢された。札幌で支社長をした者は、本社に帰れば重役になれる。家族と一応は転居するが、いずれ帰って来る。二年という約束だ)
 東京本社へ戻るのを止めて、(必ず帰って来る)と言ったのだ。
「騙されている? 聞き間違い?」
 そんなことがあるはずはないのではないか。
(札幌が終わったら、妻と離婚して、この家に住む)
 確かに男は言った。札幌で株をやって資金を作る、その金で、何もせず、ずっとここで、死ぬまで一緒に暮らす、と熱っぽく語ったのだ。だから、最後の夜に、泣きながら寝もせずに抱かれ、男の躰の隅々までしゃぶりつくし、自分の口と肌に焼き付けたのではないか。
 女は、男の言ったことを信じていた。信じなければ生きてはいけなかった。明日には離婚届を持って、ここに来てくれるはずだ。そう、今夜かもしれない。
 男が帰って来てくれさえすれば、何もかもうまく行く。里人の目を盗んで、この家に男が来る必要はない。夫婦になれるのだから、入口の表札にも名前を書くことが出来る。昼間から雨戸を開け放し、お茶を飲み、人が訪ねて来れば一緒に酒を酌み交わすことも遠慮することなく出来るのだ。
「そうなんだ。必ず帰って来る」
 女は待った。
 再び、幾つかの季節が巡り、また季節が変わった。
 ひたすら待った。辛抱強く待った。
 男に抱かれ、あられもなく寝乱れた夜を思い出して、再びその時が来る、と頬を染めた。女の場所が熱く疼いた。毎夜のように、そこに指を入れて呻いた。
 世の中がどう変わろうと、女は関心がなかった。テレビを見る必要もなく、新聞を読むこともなかった。そんなことはどうでもいいことだった。男と何の関係もなかったからだ。男と関わったあの日の、あの時のことを思い浮かべることだけが女の生き甲斐だった。
 春が来て庭の桜が咲いた。夏になり肌を焼く太陽が照りつけて蝉が鳴いた。秋が来て家を取り囲む島根半島の北山の紅葉が鮮やかになり、そして散った。冬になり日本海を渡って来た風が雪を運び、家を埋もれさせたが、女が季節を感じることはなかった。季節は必要ではなかった。欲しいのは男だった。あの指と男のものだった。
 女は風呂の鏡に映る裸を見た。腰まで届く長く艶のある髪、ほっそりとした手足、美しく透けてみえる乳房、白い腹部から流れるように続く亀裂と、それを覆う黒い茂み、バランスよく整った裸体はビーナスの彫刻にも似ている、と女は思った。
 躰を半回転させて、背中から臀部に目を遣った。引き絞るように締まった丸く白い小さな双丘があった。その奥で、男のものを幾度締め付けたことだろう。そう思いながら微笑んだ。
 だが、ぼろぼろにはげ落ちた鏡に映っているのは、あるとは言えないほどの白髪、醜く痩せ細った肉の塊だった。乳房や尻はだらしなく垂れ下がっていた。
 女には、それが見えなかった。
 女の眼は既に衰え、殆ど視力が無かったのだ。
「もう今日は来ないかもしれないわ」
 風呂場から出た女は躰を拭くことも忘れ、裸のままで戸締まりをしようとした。
 思いがけないことに、突然、聞こえたのだ。
 草と雑木が覆い被さり、朽ち果てて跡形もないような家の前に止まったタクシーのブレーキ音が女の耳に届いたのだ。
「あっ、来てくれた!」
 女は涙を流しながら入口まで走ろうとしたが、脚が砕けて歩くことも出来なかった。
「やっと来てくれた。でも、どうして? 歩けないの……」
 女は嘆いた。
「ああ、嬉し過ぎてなんだわ」
 風呂場の前で倒れ込み、声を上げて泣いた。
 軒が傾き、動きにくいはずの入口の戸が無雑作に開けられる音がした。
(随分、待たせたね。やっと帰って来たよ)
 男の、あの男の懐かしい声がする。
 女は思い出していた。伊勢宮の愛川で初めて誘った夜のしなやかな男の手と指の感触を……。痩せて細く、骨と皮ばかりになった手が、襖の前に立っている男の躰に縋りつこうとした。
 だが、そこにあるはずの男の姿はなく、精一杯伸ばした手がずるずると襖紙を下に向けて引き裂いていた。裸の女は、倒れかかる数枚の襖と共に崩れ落ちた。
 腐った畳の上に、黒ずんだ薄い皮膚と細い骨が散らばった。
 土塊となった家が、どうと音を立て、骨と皮を埋め尽くしたのは暫くしてからである。


 深い霧と紛うような秋の細い雨だった。男は、札幌から帰って来た。午前零時に近い時刻だった。新幹線とスーパーやくも最終便を乗り継ぎ、松江駅で下りた。雨に遮られ、駅前のビルが暗い色の中に沈んでいる。その向こうには、北山の連山があるはずである。
 最近になって作った遠近両用の眼鏡を両手で外し、両肩をせり出すようにして見た。夜の闇に溶け込んではいるが、茫漠とした北山であることは間違いなかった。麓にある女の家へ行く前に店に寄ってみようと思った。未だ女は店にいるかもしれない。
 駅を出て左に行くと、深夜まで営業をしている飲食店街である。そこには、明るいネオンが輝いているはずだった。だが、歩いて行く先には底なしの暗闇が果てしなく続いていた。
 レインコートの襟に首を埋め、その漆黒を掻き分けるようにして急いだ。髪の毛を濡らした雨が水滴になって首筋に落ちると同時に、欅だろうか、街路樹から枯れ色の葉が数枚ばかり落ち、幽かな音を立てた。
 男は、さらに急いだ。朝日町の四つ角を北に向かって折れた。突然、明るい通りに出た。女の店は新大橋に近く、伊勢宮町のはずれである。幾人かの酔客と擦れ違った。
「おい――」
 不意に、暗く沈んだ太い声がした。どこかで聞いたような声に思えた。いや、いつも聞くまいと、意識の底に押しやるようにしていた声だった。違う、そうではないと無理矢理に納得させようとした。
 ぞくりとする冷たい視線を男は背中に感じた。
 追われている。そう思った。明るい通りから、暗い路地に入らなければと思った。さらに急いで足を運んだ。足を止めなかった。
 それを遮るように再び背中を声が射た。
「逃げるのか――待て」
 振り返ると、頭は丸刈りで背が高く屈強な黒い影が、刺身包丁を逆手に持って暗闇の中に立っていた。原色のネオンの灯りを受けた包丁が、きらと赤く光った。黒いジャンパーに同色のズボンの影が、ずるりと寄って来た。全身にどす黒い闇の網を被せられたような気がした。(逃げるつもりではない)――そう言おうとしたが、声帯が潰れたように、ひぃと鳴っただけだった。
 初めて見る男の顔だったが、女の夫だと直ぐに分かった。背中に悪寒が走り、冷たい汗が流れるのを感じた。黒い男が、刺身包丁を振り上げた。殺される、と思った。手や足を動かそうとしたが、そうすればするほど筋肉が硬くなり、汗が溢れた。
 立ち止まり、目を凝らして女の夫を見据えようとしたが消えていた。汗が引いた。
 女の店に寄ることを止め、新大橋に向かって歩き出した。北山が不意に迫って来た。
 男は気が付いた。女の店と北山の麓に通ったのは、もう五十年も前である。そこに女が居るはずはない。
 そう思った途端に目が醒めた。夢を見ていたのだ。
 目を開けようとしたが、瞼は動かなかった。気持ちを落ち着けようと大きく息をしたが、胸の中でそれは止まった。
「もうこれ以上は無理でしょう。婦長、酸素マスクをはずしたら、ご家族の方をお呼びして……」
 頭の上で囁くような声がし、足早に走り去る音がした。
 橋のたもとにある古い寺が見えた。
 寺の門の前で、金色の袈裟を着た僧侶が手招きをしている。手にした数珠がざらりざらりと音を立てた。吸い寄せられるように境内に入った。本堂に続く敷石の両側に、数え切れないほどの地蔵が並んでいる。どの地蔵も毛糸で編んだ赤い頭巾を被り、赤い前掛けをしている。地蔵の一つに手を取られ、本堂に進んだ。
 その奥には、どこまでも続く闇があった。
「九十七歳まで、よく頑張られました……」
 医師の呟きが聞こえ、両手が胸の上で組まれる感触があった。
 男は本堂に上がり、さらに黒洞洞とした暗闇に向かって歩き始めた。その闇の中で、女が待っているように思えた。