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    湖都の夜(一部)

 能登は冬が似合う。桜木伊紗子はそう思っている。 七尾湾のほぼ中央に浮かぶ能登島の漁
村では、越中立山から富山湾を超えて吹く風を、あいの風という。あいの風が吹く日には、風が
波を騒がせ、沖からの白波が口を開けて岩を呑む。激しい波音のなかで飛沫が岩を洗い、波が
裂け、砕け、散っていく。そんな日は、不思議と漁にならないのである。
 冷たい風にさらされて耳たぶが切れるほどに痛い。手がかじかんで自分のものではないように
思える。能登の冬、十二月の初旬であった。

 かつて涌浦と呼ばれていた和倉温泉は、いま能登随一の温泉郷である。江戸時代には海中の
泉源を石垣で囲って湯島が作られていた。賑わうようになったのは昭和三十年代あたりからである。
 七尾湾を抱くようにして五十軒ばかりの宿があり、このところどの旅館も設備に資金を投入してい
た。そのなかでも、和倉温泉街から能登島に向かう大通り沿いにある錦水荘は、七尾湾に面した海
辺に建ち、二百年を超える古さを誇っている。
 その宿に着いたばかりの伊紗子は、八階の部屋からガラス戸越しに能登島と能登島大橋を眺め
ていた。薄日の中にあった能登島は、吹雪の中に閉じ込められている。しばらくするとまた陽の中
に浮かぶ。かと思えば横なぐりの雪にふたたび消えてしまう。その繰り返しを伊紗子はあかずに見
ていた。
 冬の能登にいるのだと思った。天候のせいばかりではないが、暗い夕暮れが海面にあった。
「桜木さま、お邪魔いたします。よろしゅうございますか?」
 ドアが開く音がして、次の間から女の声がした。


 松江は、宍道湖と中海を結ぶ大橋川を中心に北と南に広がり、宍道湖から水を引いた堀川と橋
の町である。町中の川に架かる橋は数え切れない。
 平成九年七月、その川に遊覧船が就航した。三十隻の船が十五分おきに客を乗せ、約三・七キ
ロの流れをまわる。
 三つある乗り場のうち、松江大橋に近い京店のカラコロ広場で伊紗子は順番を待っていた。川向
こうの左にある旧日本銀行ビルの上には、冬とは思えない澄んだ午後の青空が広がっていた。山
陰は北陸と同じで寒いと聞いていたが、風は冷たいものの、着込んで来た毛皮のコートの襟を立て
るほどでもなかった。このところ暖冬が続いている穏やかで静かな松江である。伊紗子は、この街
にしばらく住んでみようかと思った。 堀川遊覧船の客は十人ばかりだったが、どうしても舳先から
座席が占領されていく。先頭の方がよく見えるのではないかと思うのは人の心理である。伊紗子は
おかしかった。久しぶりに笑ったような気がした。最後に乗り込んだ伊紗子は、船頭に近い場所へ
座った。 
 船頭は、艫で十馬力くらいの小型エンジンを操る。小さな屋根があり、思いがけないことに炬燵が
前後に二つあった。見知らぬ他人が、ひとつの火を囲む。素朴なぬくもりを持つ松江の町と文化がそ
こにあるような気がした。
「お嬢さん、炬燵に入ったらぁ。豆炭の火だけど暖かいよ」
 紺色の法被を着た船頭が間延びをしたような言い方で呼びかけた。帽子を目深にかぶっているの
で、どれくらいの年齢か分からない。大柄な体と笑っている小さな目があった。ええ、いいの、と伊紗
子は言いながら、お嬢さんと言われたことでまた笑った。
「ありがとう。ここに居るわ」

                                    古浦義己 平成10年9月

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