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短編小説  背徳のグラス

                  『季刊山陰』 第6号掲載  平成17年8月
                    初出 「LaZuDa」 平成12年1月号/改題・改訂

 大きめのグラスに注がれた酒は、まるで女を誘うためにあるようなカクテルに見えた。紅桜≠ニいう名の日本酒である。
 彩子は、これほど美しく赤い色の日本酒があることを松江に来るまでは知らなかった。その酒蔵が、独特の酵母と発酵方法で開発した赤い酒である。
「またそのお酒なの?」
 米子空港の二階にあるレストランの窓からは、東京から到着したばかりのジェットが、手の届きそうなところに駐機しているのが見えた。一階にある出発カウンターで手続きを終えた彩子は、一枚の羽田行き搭乗券を手にしたまま由樹の前に座った。
「ああ、いつものな」
 由樹は手にしていたグラスを持ち上げ、流し込むように飲んだ。夕陽が反射し、赤い色が更にグラスの中で増幅した光をみせた。
「私も、それを……同じもの」
 彩子は、思わず口をついて出た自分の言葉に驚き、後悔した。
 ウエイトレスに手を挙げて注文をする由樹の顔に、一瞬だが安堵の微笑みが浮かんだからである。
 彩子は、知らぬふりをして窓の外を見た。
「私が乗るのは、あの飛行機なのね」
 このところ、東京から来る最後の便は、夜間駐機をするようになっていたが、昼の便は整備が終わるとたちまち折り返してしまう。ローカル空港はどこでもそうで、米子も例外ではなかった。
「もうこの空港に来ることもないわ。さよなら……ね」
「どうしても行くのか……」
 彩子は、初めてこの空港に来た一年前のその日を思い出していた。
 東京の西北大学大学院を出てすぐ、松江市の北陽大学に、一年契約の化学の非常勤講師として羽田から米子空港に着いた日であった。
 由樹に初めて出会ったのは、確かこの窓際の席だった。
 赤いグラスを手にしていた由樹に、醸造学専攻の彩子が、その酒のことを尋ねたのだ。それがきっかけだった。
 由樹と一緒に暮らすよになるまでに、長い時間はかからなかった。
 それまで全く知らなかった松江で暮らそうとする不安の中で、由樹の優しさに惹かれたのだ。
「やっぱり甘いんでしょう?」
 今はもう、その甘さが厭になっている。
 彩子はもともと辛口の酒が好きだったが、紅桜≠ホかりしか口にしない由樹と暮らすようになって慣らされたのだ。酒ばかりではない。何もかもだった。
 男にしては白過ぎる由樹の手が幾度も肌を這った感覚が、いまとなってはおぞましい。その感触が、スェーターの下で澱のように残っている。
 電源が入れっぱなしのパソコンのキーに何気なく指を置いたとたん、メールソフトが起動した。由樹は、パソコンをパスワードでロックしている。それが、なぜか起動した。ロックを忘れたのかもしれない。
 画面に現れたのは、トランスセクシャルと思われる男からの電子メールだった。
 彩子の目に飛び込んで来た文字は、衝撃的だった。
 ゲイが本当の姿で生きることは、この現実世界では不可能だ。――と書き出され、望まれない肉体に生まれた自分を愛して欲しい。――と結ばれていた。
 それに応じて由樹が書いた返信メールがあった。
 赤い酒に愛着を持ち始めていた彩子が、紅桜≠断ったのはその日からである。
「彼とはももう関わりはないんだ。それでも駄目かい……」
 羽田行き出発便へ搭乗を促すアナウンスを聞いた彩子は、黙って立ち上がった。
 飲み干されることのなかった赤い酒が、白いテーブルの上に残っている。
「さよなら……」
 彩子は、もう一度、赤い酒に呟いた。
 背徳の赤いグラスが、夕陽に澱んでいた。