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               通り過ぎた風(抜粋)

 あの時からもう九年になるのだ、と芳彦はパソコンの画面に流れるメールをスクロールし、最初の
行に返しながら思った。
 芳彦は、西日本情報システム研究所の指導部長だった。初めて会ったのは、北星ビジネス専門
学院のアシスタントである亜希子がワープロインストラクター研修生としてやって来た時だった。
 たっぷりとした髪、豊かな躰つきのわりには、ほっそりした脚に年甲斐もなく胸の奥が揺さぶられ
た。彫りが深く気の強そうな顔立ちに見えたが、意外に繊細だった。
 芳彦は、その年齢からいえば顔や腹部などに贅肉がついていても不思議ではなかったが、仕事
に打ち込んでいる精悍さが体型にも現れ、筋肉質ですらりとしていた。そして、中年の雰囲気がそ
れを更に魅力的にしていた。 
 芳彦から好ましいと思われている、愛されていると思うことで亜希子は嬉しかった。年は離れてい
るが、何でも言うことを聞いてくれそうな優しさがあり、九年前の亜希子は、それに惹かれた。
 二人が他人でなくなるのに長い時は必要ではなかった。


 国道から左に折れて緑風湖を迂回し、恋人岬まで乗り入れた。
 まさかと思った。亜希子のクラシックレッドのシトロエンが、木蔭に隠れるように停められていた。
山手の遊歩道側に駐車した車の中には人影はなく、湖に目を移すと石段に腰かけた亜希子が目
に入った。
「アキ……、どうして……」
「駄目みたい」
 芳彦の広げた脚の間に亜希子は背を向けて座わり、赤のパンプスを脱いで両脚を伸ばした。芳彦
は豊かな胸を抱えて引き寄せると、顔を傾けた亜希子の耳に、とがらせた唇から息を吹き込んだ。亜
希子の口から笛に似た音がもれ、芳彦の腕の中で捕らえられた魚のように跳ねた。
「上手なのね。やっぱり……」
「やっぱり?……」
「ごめんなさい」
「いい匂いだ」
 芳彦は亜希子の髪の中に顔を埋めた。あの日と同じ少しばかり動物的な匂いを吸い込んだ。や
っぱり、という言葉が胸の奥を刺したものの、その匂いは数か月の時間を埋めるのに十分だった。
亜希子の体を左に倒し唇をふさいだ。何も変わってはいない、と思った。 すぼまった亜希子の小さ
な舌が動き、芳彦の奥底であの感覚が甦った。亜希子が呟いた。


                   古浦義己 「雨に咲く」より 平成10年10月刊

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