目次ページに戻る  TOPページに戻る

   島まつりの日(抜粋)

 今年も隠岐の島へ帰って行く。いや、そうではなくて、年に一度の訪問者なのだろうか……江原
洸司は、松江からの隠岐島行きフェリー連絡バスに乗るといつも思う。
 帰郷する者は別として、観光客は島に渡った目的と日数が過ぎれば本土へ帰っていく。 洸司は
隠岐の人間ではないのだが、島に家を借りている。となると島に帰るということなのかもしれないと
思った。
 午前九時に七類港を出たフェリーしらしまが島後の西郷港に着くのは、十一時二十分である。隠
岐の島は、フェリーが寄港する西ノ島と島後、中ノ島、知夫里島の四島と大小さまざまな一八〇余
りに及ぶ無人島の総称である。
  洸司は、少しばかりの初夏の暑さと乗客のざわめきに取り囲まれて桟橋を降りた。
 中町から西町通りの両側には、大漁旗や短い間隔を置いて立てられた幟が鮮やかな色を見せて
いる。明日からの祭の準備に町の男も女も追われていた。
 今年も島まつりの季節が来た。


 いつものように酒になった。
 遅くなって佐藤が帰った後、都会では信じられないような闇と静けさが来た。
「ねぇ、庭の花は夕菅でしょ?」
 縁側に座っていた奈生子が振り向いた。
「隠岐ではキスゲって言うらしい。夕方咲いて、朝にはしぼんでしまう」
「かわいそう」
「どうして」
「だって、夜だけしか生きてないんでしょ」
「それでもいいじゃないか。いい香りがする」
 洸司の手が灯りを消した。花はその夜眠らず咲き続けた。


 島まつり最後の日は、午後三時からしげさ節全国大会がある。隠岐文化会館で行われるその大
会を見に行くために洸司は玄関の戸を開けた。危うく声を上げそうになった洸司の前に信じられない
ような人の姿があった。まさかと思った。そんなはずはない。時間が逆に走り抜けたのかとも思った。
どこかの女子大の制服らしいベージュのスーツに艶やかな長い髪、そして大きな目が洸司を見つめ
ていた。奈生子がそこに居た。若い日の奈生子だった。
「あなたは?」
 言う必要もないはずの言葉だった。
「福波です。母の……私、福波志麻と言います」
「どうしてここを」
 そう言いながら、座敷に上がるように勧めた洸司の言葉が遮ぎられた。
「……母は亡くなりました」
 思わず両膝をついた洸司をひたむきな目が見つめていた。
「膵臓ガンでした。二月、寒い日でした」
 去年のしげさの日、倒れるようにしゃがみ込んだ奈生子のうなじの白さが洸司の目に浮かんだ。
「去年の今頃でした。松江の里に行くって出たんですが、帰って来てからの母は、ときどきぼんやり
って言うか、ともかく変だったんです。それによく寝込むようになりました」
「……」
「ここに来る前に、私、松江の母の里にいたんです。偶然、母が大学生だった時の日記を見ました。
おじさん……あっ、ごめんなさい、江原さんのことがいっぱい書いてあって、その最後のページに去
年の、ここの家のことが書き加えてあったんです」
「私がお母さんを……」
 志麻が強い言葉で遮った。
「いいえ、母はここに来て幸せな時間を過ごしたと私は思います」
「お父さんは、このこと……」
「知ってはいません。いまさら父に言ってもどうなるものでもありませんから、黙っているつもりです。
母は、病気のことを自分で知ってました。だから、亡くなる前のいい時間だったと思います」
 そうだったのかと洸司はうなづいたものの、奈生子を分かってやれなかった悔いがあった。
「私、変かもしれませんが、ありがとうって言いに来ました」
「それで……」
 洸司は、奈生子の様子をもう少し聞きたかったが、志麻はそうは取らなかった。
「三時二十五分にフェリーが出ますから、それに乗ります」
 さよならと言いながら志麻は坂を駆け下りて行った。大会が始まったのか、しげさ節が聴こえて来
た。奈生子への挽歌であった。
 来年、島まつりの日に帰って来るのだろうかと洸司は思った。

                   古浦義己著 「雨に咲く」より 平成10年10月刊

目次ページに戻る  TOPページに戻る