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長短編   悲しい酒
                         『青藍』掲載  平成21年7月

 出雲市随一の繁華街と言われる代官町は、今夜も人が少なかった。ネオンの灯りだけが、そぼ降る雨の中に浮かび上がっている。

 省吾は足を止めた。板に墨で居酒屋奈津≠ニ書かれた文字が雨に滲んでいる。初めての店だ。

「奈津……か」

 省吾は呟き、黒ずんだ格子戸を横に引いた。五人も座れば満員という、カウンターだけの酒場だ。客は省吾、ひとりだった。

「何かわけあり? しけた顔して。女……図星だろ」

 カウンター越しに、店主らしい和服の女が言った。六十近いだろうか、白髪を後ろでまとめて括ったのが齢を感じさせる。注文もしないのに、熱燗のコップと竹輪の切れ端が出た。

「いんや、なんも」
「そう? ばあさんだと思ってんだろうけど、これでも若い時があったんだよ」

 聞きもしないのに、よく喋る女だと省吾は思いながら、熱燗を呷った。
「そんな飲み方しちゃ、こっちまで切なくなるわさ。振られたんだな」

「分かるかい」 
「当たり前だよ。この店、四十年近くやってんだから、いろんなお客を見てるよ。その酒、別れ涙の味がするだろ?」

 図星だった。省吾は、空になったコップを女の前に突き出した。薬罐で沸かした酒が、コップから溢れた。

「飲んで棄てたい面影が、ほら、酒に浮かんでるだろ?」

 省吾は、目尻に滲んだ涙を人差し指で拭った。女がちらりと視線を投げたのが見えた。

「酒は、人の心を悲しくさせるんだよ。お客さん」
「畜生、今日は、あいつ、奈津ってんだが、結婚式だった。二十八だから、先を急いで……」
「やっぱりね。好きな子だったんなら、祝ってやりなよ」
「ばばあに、俺の気持ちが分かってたまるか」
「ばばあ……。嫌な言葉だねえ。けどさ、娘さんは、あんたの気持ちが分かってたのかい?」
「当たり前だ。三日前、力まかせに押さえつけてキャミソールを……。だが、そこで逃げられた」

 乱暴だねえ、だから嫌がったんだよ、と女が小さく言った。

「左胸に二つある、小さいホクロが好きだったんだが」

 ナツ、結婚式、二十八歳、二つのホクロ――と、女が呟き、目をきらりと光らせたが、省吾は気づかなかった。

「好きでも添えないってのが、人の世かね。俺、怨むよ」

 女が早口で、まくし立てた。
「おにいさん。今日は、わたしゃ、いいことがあったんだ。早じまいにするから、もう帰んな」
「なんだよ。邪険にすんな」
「勘定はいらないから、早く、帰んな、とっとと出ていきな」
「なにい――」

 省吾は、座っていた椅子を蹴倒して立ち上がった。女が、グラスを片付けながら言った。

「おにいさん、孫娘に、もうこれ以上、手を出したら承知しないからね」
 押し出されて外に出た省吾の背を、隣のスナックでがなり立てている悲しい酒≠フ歌が追ってきた。