目次ページに戻る

長短編   あいつ
                         『青藍』掲載  平成21年4月

あいつ≠ェ、三十五年ぶりにブラジルから帰って来る。あいつと知り合ったのは、出雲市にある西北学院大学三年のときだった。

 あいつは法学部で、しかも弁論部に所属していたこともあり、何かあると、天下国家を論じた。私は文学部の日本文学専攻だったから、いま思えば軟弱な恋愛小説ばかり読みふけっていた。そのせいか、あいつの議論は難しく、まるで理解できなかった。だが、凄いやつだとは思っていた。

 驚いたことに大学四年になった春、あいつはブラジルで一旗揚げるとか、革命を起こすのだなどと言い出した。やめろと説得したが、あいつは出雲空港から飛び立ったのである。

 出発の日、あいつは私を空港の物陰に呼んで言った。

「俺、好きなひとがいるんだ。彼女に、待っていてくれと話しておいてくれないか」

 まるで恋愛小説だと、私は思った。打ち明けられた彼女とは、私と同じ日本文学を専攻している亜沙というひとで、よく三人で飲み食いをした仲だ。私も実は、好ましいと思っていたひとだったから、「この野郎……」と思いもしたが、あれだけ口が立つのに、そんなことも言えないのかと半ば呆れもした。だが、純粋で素直なやつだと思ったのである。

 一年経ったが、私にも亜沙にも何の連絡もなかった。亜沙は大学を出た年の夏、見合いの末、結婚してしまった。

 ブラジルから帰るという知らせがあったのは、一週間前だった。かつて弁論部だった仲間から連絡を受けた私は、亜沙に電話をした。

「いいわよ。私も迎えに行く。だって、待っていてくれと言われて、私も彼が好きだったことに気づいたんだから」
「あいつは、ブラジルから君を迎えに来たんじゃないかな?」
「まさか、でも……」
 亜沙は、そこまで言って黙った。 

 紗のカーテンを広げたような春の黄砂が、出雲空港の滑走路を包んでいる。午後三時二十五分、羽田発JAL一六六七便が到着した。

 到着口から、あいつが出て来た。一人ではなかった。ひと目で外国人と分かる五十代の女性が寄り添っている。その後ろには、二十代の、あいつによく似た風貌の男と女がいた。どう見ても四人の家族だ。早口の英語が耳に飛び込んでくる。

「あいつ……。私、未だ独身だって言ってやる」
 隣で、亜沙が小さく呟くのが聞こえた。