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長短編   一度だけ
                         『青藍』掲載  平成21年4月

 五十歳になったばかり、平成二年の春でした。「あと二年で鳥取県警を退職する」と言った夫の言葉を聞き、人生の半ばにさしかかった私は、平穏だったそれまでの人生を振り返ってみました。

 残りの人生で何か打ち込めることをしてみたいと思ったその日の新聞で、ケーブルテレビ局が主催する写真教室受講生募集という文字を見付けました。
 すぐに申し込みました。米子市にある西陵高校に通っていたとき、写真部だったことを思い出したからです。

 教室の先生は、優しそうな方でした。お聞きしてみると七十歳と言われましたが、とてもそのようには見えません。小柄でしたが若々しく、いつも笑顔でした。

 同じ高校の卒業生だということが分かり、喫茶店でコーヒーをご一緒するようになるまでに、そう時間はかかりませんでした。

 しだいに好意を持つようになりましたが、先生には奥様もいらっしゃいます。私は若くはありませんし、夫は仕事がらか真面目で優しく、先生との間に何かが起こるなどとはまったく考えてもいませんでした。先生は、万葉集の歌にある花を題材にした写真がお得意でした。そんな楽しいお話をお聞きするだけで満足だったからです。

 ある日、先生からお手紙が来ました。心が揺れました。「恋ひ死なむ後は何せむ生ける日のためこそ妹を見まく欲りすれ」と、それだけ書かれていたのです。文学には疎い私にも、その万葉集の歌から先生のお気持ちが分かりました。「恋ひ死なむ」という言葉に、残り少ない人生を見たのです。

 ですが、「あと二年で退職する」という夫が長い間、支えてくれたことなど思うと、裏切ることはできません。どう返事をしようかと迷いました。いえ、返信さえしなければいいのです。書店に走りました。万葉集を買い、「うつつには逢ふよしもなし夢にだに間なく見え君恋ひに死ぬべし」という歌を見付け、迷わず、その歌を手紙を書いていました。

 写真教室には行かない、先生にはもう会わないと決めました。

 折り返し、お手紙が来たのです。「たまさかに我が見し人をいかならむよしをもちてかまた一目見む」という、これも万葉集の恋の歌です。追っかけるように、また届きました。「かくしてぞ人は死ぬといふ藤波のただ一目のみ見し人ゆゑに」と。「こうして人は死ぬのですね」という言葉に、先生のただならぬ思いを感じました。

 好きな万葉集の、それも恋の歌を使った先生の遣り方に惑わされたのかもしれません。送られてきた万葉集の歌を繰り返し読むうちに、このまま人生を終えていいものかという思いに駆られるようになっていました。先生しか見えなくなったといえばそうなのでしょうが、焦る気持ちがわき上がってきたのです。私は今生きているのだと思いました。女として生きていることを感じてみたい、いえ、そうすべきだと思ったのです。

 送られて来た歌にある、「かくしてぞ人は死ぬ」という言葉が胸の中で響きました。人は誰でも明日は死ぬかもしれないのだと思ったとたん、「私もお逢いしたいです。ですが一度だけ……」と書いて送っていました。

 十一月の中旬でした。夫に、「写真教室をやめるので、一泊の送別会がある」と言いました。カメラや望遠レンズなどの代わりに、その日のために買った肌着などを詰めたバッグを肩にし、夫には心の中で詫びながらコートの襟を立てて家を出ました。

 寒い日でした。例年になく早い積雪をみた大山山麓にある大山国際パステルホテル≠フ部屋で「一度だけ、一度だけですよ」と何度も叫んでいました。

 そして……。先生からはメールが途絶えました。約束を守ってくださったのです。

 三週間ばかり過ぎた、十二月初旬のことでした。郵便物の中に、年賀欠礼の葉書を見付けました。先生の名と、初めて知った奥様のお名前がありました。

 先生が以前から患っておられたガンで亡くなられたという文字を見て愕然としました。

 メールにあった、「かくしてぞ人は死ぬ」という言葉は、密かなメッセージだったのです。
 夫が先に逝ったこの冬、七十歳になった私は、二十年前のあの夜を思い出しています。