神楽の里(一部)
源流を奥深い中国山地に持つ斐伊川は、八十に近い支流を抱き、仁多、飯石、大原、
簸川の四郡を貫いて宍道湖に注ぐ巨大な流れである。その支流のひとつである赤川は
大原郡の毛無山を源にし、谷や平野部を蛇行しながら斐伊川に合流していた。
赤川の畔にある牛尾は、古くから温泉の湧く集落である。夏に飛び交う赤川の蛍が居
なくなり、秋の紅葉が過ぎると、集落を取り囲むようにそそり立つ山からは、雪を背負った
冬の風が足早に駆け降りて来る。春の花が咲くまでは、山腹や河畔に点在する温泉宿
や民家を白く塗り込める日が続くのである。
鳥取県の伯耆富士と呼ばれる大山の環状道路周辺には原生林が広がっている。
秋であった。ブナが黄色に色づき、楓が紅色に燃えている。
「あの頃は、毎日のように集まってたな。演劇の練習をやり、酒を飲んで何かといえば議
論した……。おれ、みんなを引き留める力がなかったかな」
良貴は久しぶりに乗った君恵のバイクの後方シートから、ヘルメットに仕掛けた無線機
のマイクに大声を出した。
「違うよ。タカちゃんは一生懸命やったのよ」
ヘッドフォンから、君恵の柔らかな声が聞こえた。
「でも、誰もいなくなった……」
「私が……」
バイクは上り急勾配の坂道にかかった。スロットルを回したのかスピードが上がり、激し
いエンジン音で良貴のヘッドフォンには君恵の声が届かなかった。
「なんて言ったぁ……」
返事の代わりに、巧みに体を傾斜させてカーブを曲がる君恵の若い髪の匂いが良貴の
鼻孔をくすぐった。
牛尾の集落に良貴と君恵が帰って来たのは、夕暮れであった。
夏を名残惜しげに追いかけている秋の夕闇の中で、子どもたちの神楽囃子が聞こえて
いた。
古浦義己著 「雨に咲く」より 平成10年10月刊