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       残 夢(抜粋)


 うっぷるい――。元坂李夜子は、島根半島の脊梁山脈を跨ぐ峠に立つと、いつもその言葉を口に出してみるのだった。その峠にはやせ衰え、骸骨のようになった松が乱立している。なぜか島根半島の松に限って、松食い虫にとりつかれていた。濃い緑の雑木がそれらの松を取り囲んでいるから、よけいに陰惨に見える。茶色を残している幹はまだいいが、灰色になってしまえば老婆の痩せ細った体のように見えるのかもしれない。
 日本海から吹き上がる風が、運転席の窓から李夜子のどちらかというと細い顔をくすぐり、肩を飾っていた長い髪をふいと持ち上げた。
 李夜子は車を停め、四月の海を眺めた。いま駆け上がって来た峠の下に二百戸ばかりの十六島集落が見える。 

「シャワー……」
 李夜子のくぐもった声に浦木は応えなかった。
 浦木の唇が李夜子の耳朶から首筋に移動した。
 ベッドの上で李夜子の体がうねる。浦木の右手が乳房の上で探るように動く。李夜子の胸は着ているものの上からは薄く見えるが、裸にされると白磁の壺にも似てかなりな量感のある乳房が現れる。浦木の手が胸から下へ這い、さらに奥深く進む。滑り込んだ二本の指先が小さな隆起を探り当てた。堰き止められた水が溢れるように、目を閉じた李夜子が喘ぎながら体を弓なりに幾度もしならせる。眉間が痙攣する。
 浦木は首筋から乳房、胸、脇腹へと唇を動かし、細い腰を軽く咬んだ。(うっ)という呻きをもらした李夜子の両脚が自然に開いた。唇はそのまま内腿にまわり、深みの淵に行く。(そこ、そんな……)という嫌がるのでもない、求めるのでもない中途半端な小さな叫びの中で、李夜子の喘ぎが高まった。
 李夜子の両腕が浦木の背中を探し、締め付けるように引き寄せた。
 浦木は向きを変え、李夜子の腕の中で体を埋め込んだ。李夜子は幾度となく悲鳴をあげ、浦木は呻いた。

 どれだけの時間、夢の中を彷徨っていたのか、雪の礫がフロントガラスを叩いていた。
 怒り、怨み、悔しさが消えたというわけではなかった。だが、浦木が、直美がどうであろうと、李夜子は浦木聖士に、いや、あのときの聖士に愛されたと思っている。幸せな時間を過ごしたのだ。夢ならば夢でいい。それを大事にしておけば、いつかまた新しい夢を見ることができるはずだ。
「さよなら」
 李夜子は、いま上がって来た峠を振り返り、小さく声を出した。たった四文字のさよならだが、美しく響きのいい言葉だと思う。だから、何でもないときに使いたくはなかった。だが今は違っていた。
 十六島へ帰ろう、と思った。随分長い間、忘れていたような気がした。なぜか懐かしかった。
 李夜子はトリビュートのエンジンキーを回し、シフトノブをドライブレンジに入れた。
 車は十六島の集落を目指して駆け下りて行った。

                                      平成12年4月
 


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