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     家 族 一 座(抜粋)

「おい、いくぜ。用意はええかや」
 三度笠に長脇差の男が声を殺して囁き、若い男が答えた。
「大丈夫だ、座長……」
それを見て、舞台の袖で拍子木を手にした芸者姿の女がほほ笑んだ。拍子木が鳴り、ざわめ
きが一瞬途絶えた。緞帳用のモーター音が微かに響き、舞台の幕が揚がった。
 十日前から出雲劇団一座が興行をしている玉造温泉は、奈良時代以前に発見されたといわ
れるほどの古い歴史があり、出雲古代文化と深いかかわりを持つ瑪瑙も産出する。旅館の数
は多くはないが、どの旅館も巨大で和風の雰囲気の中にも近代的な施設を持ち、山陰地方で
も老舗の風格を誇る温泉の街であった。
 その中でも一流といわれる梅の湯旅館の大広間では、夜には間があるというのに五十人ば
かりだろうか、ホロ酔い加減の団体客が酒を酌み交わしてい た。相当の年配の男女ばかり
だから老人会であるらしい。誰もが浴衣の胸に旅行会社名が印刷された名札をつけている。
 秋の夕暮れであった。長い日射しが、広間の中ほどまで入り込んでいた。
 宿に来る団体客のために一座を呼んだのは旅館である。座長の映太郎と妻の真美、長男の
忠、次男の秀二郎の四人家族で巡業する一座であった。


新しく会館を作るため、その翌年には解体が決まっていた松江市公会堂の二階ホールを自前
で借り切り、引退興行を打った。入場料だけでは引き合わないほどの出費は大きかったが、
後悔はしなかった。映太郎の意地であった。
 最終日である。最後の演目の前に、座長である映太郎は口上を述べた。
「……今日を限りの出雲劇団一座。いまより演じまする『与話情浮名の横櫛』を最後に解散
いたしまする。これを限りの本日の……いえ、出雲劇団一座の千……千、秋ー楽ッ……」
 声が掠れた。半分の入りも無かったものの、幾千、幾万かの大観衆のざわめきが止まった
かと思えた。客席は静まり返った。映太郎の目がかすみ、客席が滲んだ。溢れる涙が化粧を
流していった。
 これまでにないような大きな拍手の中で、映太郎はいつまでも深々
と頭を下げていた。舞台の袖に立つ真美の頬にも涙が流れた。
 昭和四十二年師走、明日は平野部でも雪になると天気予報が告げた
厳冬であった。


「いろんなことがああが、お客にの、芝居を楽しんでもらわええんだが。そーが役者てぇー
もんだわや」
「そうだなぁ、座長」
 忠に座長と言われて映太郎は片頬で笑った。『座長、座長』といわれる時期はもう数年も
ないであろう。いつかその時が来たら三代目の座長を長男の忠にさせねばならないと映太郎
は思った。
「忠、子役になる孫を早く見せてごせや」
「なにダラズ言っちょうかい……。まんだ早えわ」
 忠の出雲弁を久しぶりに耳にした映太郎は、ふいに潤んできた目を隠すように両手で顔を
こすった。
「おい、あさってから玉造温泉だがな。稽古すーぞ。誰んも呼べや」
 映太郎はそう言うと立ち上がった。
 背筋が伸びていた。


 「水の面渡る秋風に、馴れた水棹の声色船や、灯なまめく柳橋……」
 梅の湯旅館の舞台では、真美が舞っている。秀二郎が拍子木を手に持った。
 モーターの音が微かに響いて幕が降り、同時に拍子木が鳴った。
 映太郎は、お客の大きな拍手を聞いていた。


               古浦義己著 「雨に咲く」より 平成10年10月刊 

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