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    優しさの季節(抜粋)

 赤いランチアが右手の坂を下りて来るのが見えた。カーブした変形三叉路から伸びる
下り勾配のきつい坂だから、人も車も突然に現れる。イタリア製二百十五馬力ターボの
デルタHFインテグラーレの低く唸るような排気音が聞こえた。どんな騒音の中でも、宮
本浩樹はその音を聞き分けることができた。そのあたりをいやというほど走っている国
産車とはどことなく違う。
 磨きあげられた赤いボディに二階建ての小さな青果店が映ったと同時に、微かなタイ
ヤの音と一緒にランチアが浩樹の店の前で停まった。左ハンドルの運転席には、淡い
スモークのスクリーンが貼ってある。
 浩樹の目の前でドアが開き、深紅の皮ミニスカートから伸びた細い二本の脚が躯より
先に見えた。スカートと同色のハイヒールが鮮やかだった。


 夜の伊勢宮は、昭和三十年代の初めまでは古くからの遊廓の街であった。明治二十
年代から妓楼があり、俗に「新地」と呼ばれていた。新大橋から南への通りを築港本通
りという。その通りから東に折れた黒門本通りの突き当たりには和多見病院があった。
黒門本通りとそれに並ぶ二つの裏通りがあって、大正楼、新開楼などという名の遊郭が
軒を連ねていた。芸者の斡旋や玉代の精算をする検番を中心にして、昭和十年代初め
には三十を超える見世があり、猥雑な夜を作っていた。娼家の造りはどこも似たようなも
ので、玄関を真ん中にした両側の薄暗い格子戸の中では、決まりきったような赤い着物
を着た白い女の顔が並んで見世を張り、男を誘うのだった。その街は、昭和三十二年の
売春防止法で、スナックや小料理屋で占められた飲み屋街に変わっていった。


 泉は馴れた手つきで、祖母の頭と体を洗った。
 石鹸の泡と数本の抜けた髪の毛が、排水溝に吸い込まれて行く。風呂場の中は、温
かくなっていた。
「高校を途中でやめたってこと言ったわね。それから、ゲーセンとかさ、スナックで遊んで
た。男がいつも居たわ……。誰とでも……そうだった。でも、何であたしこんなことばかり
してんだと思うようになって、定時制に行った。高校のね。定時制だから気持ちが楽だっ
た。衛生看護科ってのがあって、准看護婦の資格が取れたのよ。その高校出た、ちゃん
と。それから看護学校に入ったわ。大学の附属だし、三年間だから正看コースなんよ。も
っとも国家試験があるんだけど。あんときは、それでもマジだった」
 マットの上に寝せた祖母の胸をゆっくりとなでている泉を、浩樹はきれいだと思った。
「……あの病院、老人のリハビリテーション専門だった。ちょうど卒業したときに新しくでき
たんだ。これでも正看の免許あるんだから……。そこであの医者とね。情人、愛人、恋人
……、どれだって本当は気持ちってのか、心かな、つながりがあるのよね。ほら、どの言
葉もココロって字があるでしょ。あたしにあのとき、それあったかなあって……。ヒロと付き
合うようになってから、なんか、そう思うのよね」
 泉は祖母の痩せこけた胸を両手で抱いた。
「ヒロ、取ってよ、タオル……。突っ立ってないで、あんたも拭いたら」
 浩樹は泉と一緒に祖母の細い体をタオルでゆっくりと拭いていった。
 祖母が頭を左から右に動かし、泉の顔を見上げた。祖母の目から涙が流れたように見
えた。浩樹は、洗った髪から流れる滴だったかもしれないと思いながら、それを拭いた。
 ぬくもりのある泉の大きな目が浩樹をまっすぐ見て、黙ったまま微笑んだ。
 秋も終わりに近い季節の午後であった。
 

             古浦義己著 「雨に咲く」より 平成10年10月刊

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