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    陽 炎(抜粋)
 
  モーテル硝子の城のフロントは、誰も居ない形ばかりのものである。横の壁面に、幾つか
の部屋のスライド写真がはめ込まれ、裏から当てられた照明で誘うように輝いている。すでに
使われている部屋の写真は暗く陰っていた。
 どの部屋にしよう?……と目で合図をしながら丈史は尚子の顔を見た。写真の下にあるスイ
ッチを押すと、指した部屋のロックは自動的に解除される。尚子はサングラスを額のあたりに押
し上げ、どこでもいい……と口の動きで答えた。丈史は洋室の写真を選んだ。
 部屋の窓ガラスと、その外側にある観音開きの鎧戸を押し開くと、いま通って来た温泉街が見
下ろせた。
 日本でも大きい方に属する湖である宍道湖にそそぐ川が中央を流れるその温泉街は、奈良時
代以前に発見されたといわれるほどの古い泉源を持っている。温泉旅館の数は多くはないが、
和風の建物が多く、どの旅館も巨大で近代的な施設を持ち、山陰地方でもその風格を誇っていた。


 宍道湖の西端に沈む夕日は、この湖岸から見るのが最も美しい。大学から車で二十分ばかりだ
が、市内から外れていることもあって、気に入った場所であった。
 五時に大学を出た尚子がラフカディオに行くと、すでに丈史は窓際のボックスに座っていた。夕映
えが丈史の横顔にあたり、入り口からみると顔の半分が陰になっている。眩暈を感じた尚子の頬が
火照り、何かが疼いた。
「待たせた?」
 かけていた薄いサングラスをはずしながら尚子が聞いた。
「そうでもない」
 尚子は手を上げてウエイトレスを呼び、丈史と同じコーヒーをオーダーした。
「素敵だわ、いつ見ても」
「何が?」
尚子は、夕日とあなたよ、と言いかけて止めた。丈史が軽く笑った。
「……で、昼の続きだが」
 真顔になった丈史が呟いた。
「もしかして、オレの?」
「そう……」
 衝撃的な意味であった。講義が終わってからも考えていたことがそうであったのだ。
 自分の子どもが生まれる。それも他人の家である。当たり前のことだが、その子どもが育っ
て大きくなる。分身が生きていることを尚子と自分しか知らない。尚子は運ばれてきたコーヒ
ーカップの向きを変えながら丈史を見た。
「昼に話した友達の……康子が言うのにはね。大阪なら自分のよく知ってる不妊専門クリニッ
クなんだけど、産婦人科診療所があるから、そこでなら大丈夫だって」
「診療所?……」
「そう、診療所の方がいいのよ。大学病院なんかは入院しなきゃならないの。けど、診療所は
七十パーセントくらいが通院で済むから……簡単」
「簡単って言っても……」
 体外受精、つまり顕微授精は、不妊治療以外に親が子どもを思いのままに産むことができ
るという、本来の目的でない別の問題を生み出した。結婚をしないで子どもだけ欲しいという
場合もあるが、日本では日本産婦人科学会の取り決めで、体外受精は夫婦の間に限られて
いる。しかし、人工受精では以前から他人の精液も使われる場合があった。
尚子の言うことは、そのことであった。
「だから、あなたのを私がもらうの……」
「どうやって?……」
「あなたがドナーになるの。康子がその段取りはつけてくれるって言ってる」
「ドナー……?」
「そう。あなたのあれを提供するってこと」


             古浦義己著 「雨に咲く」より 平成10年10月刊
      

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