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     雪の空港(抜粋)

 午後五時半に東京を出発したニューヨーク行きユナイテッド航空八〇二便は十二時間半後
にジョン・F・ケネディ国際空港に到着した。ケネディ空港はマンハッタンの南東、クイーンズ区
にあり、アメリカに来る旅行者のうち三分の一が利用する世界中で最も忙しいエアポートであ
る。
「なぜ好きなんだろう、このニューヨーク? ジャズなのか、それとも純一?」
 ユナイテッド航空のターミナルからマンハッタンへ向かうエクスプレスバスの座席に江美子
は体を沈み込ませ、絶滅寸前の古代怪獣にも似た大都会の風景を目で追いながら呟いた。


「松江は何の用だったんだ?」
 冷蔵庫から缶ビールを出した純一が振り向いた。
 江美子は窓から夕暮れのハドソン川を眺めていた。対岸の明かりがしだいにその数を増し
ていく。
「聞きたい?」
 江美子は、両親から結婚するように言われたこと、帰国すれば見合いの段取りがすすむだ
ろうということを話した。一週間後の航空券のことは黙っていた。
 いままで純一を結婚の相手として考えたことはなかった。ジャズのことだけが頭にあったが、
このところ広いニューヨークでジャズだけで生きるのは難しいということが分かり始めていた。
その空しさにも似た気持ちを受け止めてくれる空間が欲しかった。それが純一との時間だった。
 純一が独身でないことも、もちろん子どもがいることも知っていた。江美子にとって、そんなこ
とはどうでもいいことだった。
「純。どうしたの?」
 缶ビールを片手にした純一が黙ったままソファから江美子を見つめていた。
「……別に」
 江美子は窓に背を向け、振り返った。
「日本に帰るのか」
「純……私のこと、好き?」
 小さい子どもがそうするように、いままでに何度も口にした言葉だった。
「好きだよ。でも、江美子にずっと好きでいてくれてるかって………言えない」
 『好きでいてくれてるのかとは言えない』、江美子は小さく呟き、それは純一の優しさなのだ
と思った。
 純一の横に座り、江美子は日焼けした頬を両手で挟んで唇を重ねた。ビールの味がした。

                古浦義己著 「雨に咲く」より  平成10年10月刊

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