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   雨に咲く
(抜粋)
 

 抱えきれそうにもないほど大きく見える。周囲が四十七キロにしか
過ぎない宍道湖だが、広く見えるのは北岸に連なる山並みがとりわけ
低いせいであった。
 広島市内にある医療福祉専門学院の理事長をしている高野優之は、
山陽と山陰を区切る峠を北に向けて下り、湖の見えるところまで来る
といつも安らぎを覚える。
 一年前、人口十五万の山陰の小都市松江にチェーン校を開校した優之は、山陽の街とはま
ったく違う静謐とも言える穏やかな風景が好きになっていた。宍道湖を左に見て東に向かう
と、カンバスに描かれた風景ではないかと思えるほどの小さなその街が湖の東端に姿を現す。

 忙しさの中で季節を忘れているうちに、五月の終わりになっていたる松江は、というより
この時期の山陰は天候が定まらない。
「河合さん、月照寺へ一緒に行ってみませんか」
 雨の夕方だった。帰ろうとしていた美知は理事長の優之に誘われた。
「私は好きでよく行くんですよ。月照寺の境内は三千坪くらいだっていうけど、そこに二万
本の紫陽花があってね……」

  
                 
 城の西側に広がる外中原町の山手にある月照寺は、古くから松江藩主松平家の菩提寺で
ある。七代藩主松平直政が、生母月照院の菩提を弔うため、禅寺の洞雲寺を寛文四年に改
修したものであり、三百年を超える歴史を持つ寺は風格があった。美知は、近くの病院に一時
期勤めていたことがあるものの一度も訪れたことがなく、誘われたことは嬉しかった。行ってみ
たいと思った。

 月照寺境内に入るのと唐門右点前に、高さが背たけの倍、幅は両手で抱えるほどの松江藩お
抱え力士雷電の碑がある。左下には雷電の手形が彫り込まれ、ほとんどの観光客が自分の手と
比べては山門に吸い込まれて行く。正面には松が植えられた本堂跡がある。左の一段高いとこ
ろに松平不昧公の墓があって、そこからは城の天守閣がまっすぐに見えた。
 雨に濡れた紫陽花は、古刹によく似合う。紫陽花は色が変わるから、別の名を七変化、中国
では八仙花というのだが、広く園芸用に使われている。高さは約一メートルほどで、六月から
七月にかけて枝先に半球状の花を咲かせる。淡い青紫色の小花に見えるのは、花弁ではなく萼
なのである。
 美知は優之の傘の中で一緒に歩きながらそんなことを教えられ、濡れるから七回も色を変え
美しくなる。乾いた花には艶っぽさがない、そう思った。見とれていると優之が一足先になり、
美知のグレーのスーツに雨跡が散った。傘の下へ小走りになりながら、夕暮れに一つの傘で男
と歩いている、知っている人に出会いはしないかついう思いがちらと顔を出してすぐ消えた。
 境内の一角には宝物殿がある。松平直政以後の藩主の陣羽織、秘伝書や書画などの展示を見
て外に出ると、雨はやんでいたが暗くなり始めていた。閉門が近いのか、人影はなかった。ひ
と足先にで紫陽花を見ていた美知は、不意に後ろから抱かれた。なぜか雨の匂いがした。男の
手が胸のふくらみを掴んだ。
「いやっ……、止めてください」
「好きなんだ」
 後ろ髪に顔を埋める気配があった。体に回された優之の両手をはずそうとしたが、手にした
大きめのバッグが邪魔であった。

 県道をはずれた車は、美知がいままで通ったことのない山の中を走っていた。かなりな勾配を上がったあと、
急な下りの坂を降りた。高速のエレベーターにも似た吸い込まれそうな感触を覚えながら、美知は堕ちるのか
なと思った。それならそれでもいいような気がした。
 自分が未だ女なのだと知らされたのだ。体の奥に知らぬ間に閉じこめてしまっていた何かが動き出そうとして
るのを感じた。
 車一台がやっとという狭いガレージに、優之が車を入れた。ガレージの後方出口の横に、シャッターを降ろすボ
タンがある。幽かな音を立ててシャッターが下がり、わずかな光をも遮っていく。車の中が暗くなった。どこにでも
あるようなモーテルだった。
 優之は助手席のドアを開け、いつまでも座っている美知の手を取った。
「いやだぁ……、ワタシ。夫がいるんですよ」
 そう言いながら助手席から両足を揃えて降りた美知の声にいつもの媚びがあった。
 夫と一緒になってから他の男を知らなかった美知には、もう若くはない、この人といずれどうなるというものでも
ない。だから一度くらいならという囁きが聞こえたような気がしたのだ。心が昂ぶることない単調な日ばかりだった
せいかもしれない。
「好きだ。君といると気持ちが安らぐ」
 その言葉と一緒にベッドの上に押し倒され、天井に貼られた鏡に気がついた。抱かれることよりも、鏡に映る恥
ずかしさで抵抗したのだが、好きだと言いながら唇を重ねてきた優之の体の下で力が抜けた。
 ジーパンのボタンに優之の指がかかった時、それでも幾度となく体を捩って避けようとした。
腰を包む小さな布が腿の付け根まで強引に下げられた感触があった。
「分かったから……乱暴にしないで」
 背を向けて裸になりながら、頭の隅で河合さんという呼び方が、あなたから君に変わったと美知は思った。背中
から肩、首へと優之の唇が這うのを感じた。


                古浦義己著「雨に咲く」より 平成10年10月刊
                
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