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島根日日新聞 連載小説 『風の狩人』

第001回  東風一

 JR玉造温泉駅から、玉湯川岸にある桜並木のところまで歩き、西本優司は軽い疲れを覚えた。歳のせいかと、満開の桜を見上げて苦笑した。五十六歳という年齢は、まだまだ若いはずなのだがと思いながら肩をすくめる。
 山陰の東部ではそれなりの新聞販売部数を持っている島根日報社に勤めてから三十四年になった。
 島根日報は昭和四十五年の夏に、松江で創刊した小さな地方紙だったが、優司はためらうことなく大学を出てすぐに入社した。縁故があったわけでもない。たまたま島根日報が人手を必要としており、厳しい採用試験も無く、優司も地元で勤めたいと思っていたからである。
 昭和四十七年の春だった。
 新聞記者のつもりで入ったのだが、最初は新聞の配達や営業も仕事のうちだった。創立二年目の新聞だから、そんなものだろうと思った。もちろん、いまは会社全体が肥大し、セクションも細分化されたこともあって、新入社員が配達をすることはない。
 定年まであと九年だなと考えながら、右肩に落ちてきた花びらを左手で払った。
 玉湯川の桜並木は戦前から有名で、第二次大戦前までは、十メートル間隔で桜の大木が植えられていた。だが、炭を作るためにかなりな数が伐採されてなくなった。戦後になって植樹されたものが多いが、おおよそ二キロばかりだろうか、温泉街の奥まで約四百本の桜が立ち並んでいる。温泉入口の辺りが最大の見所のように思えた。
 玉湯川は温泉街の真ん中を貫いている。川幅はさほど広くはないが、川底がよく見えてきれいである。
 川土手に小さな木製の看板があった。顔を寄せて見た。いちめんの花の陰なる玉湯川≠ニあり、その隣には、満開の桜の下に玉湯川≠ニあった。句が上手いかどうかはともかく、町の人達が風景を大事にしようとしている風情がうかがえる。
 三番目の看板に目を留めた。桜咲くセーラー服の紺眩し≠ニ達者な筆で書かれている。セーラー服かと呟き、優司は、高校同期が集まる今日の同窓会に思い至る。
 松江市にある県立青山高等学校を卒業して、三十八年目である。
 同窓会は数年おきに開いていたようだが、仕事の忙しさに託けて、これまで一度も出たことがなかった。

第002回 東風二

 初めて出る同窓会である。
 六十が間近になり、一度くらいは顔を出さないと同期の者に何を言われるか分からないと思ったからであった。
 もっとも、仕事の関係もあって市内では、時々、何人かに会うから、ことさら同窓会に出なくてもという思いもあった。だが、松江を離れ、東京や関西に住んでいる者からすれば、古里に帰る口実でもあり、何年かに一度のそれは楽しみに違いない。
 松江で生まれながら、都会に出て行く者の気が知れなかった。優司が卒業した頃は、東京や大阪に出るのが、ある意味でステータスシンボルだという風潮があった。優司は大学を卒業して松江に帰って来た時、誰それが都会に出たという話を幾つか聞いて、腹の中でせせら笑ったものである。
 玉造温泉は奈良時代以前に発見されたと言われ、歴史の古さを誇っていた。
 玉湯川の両岸には、いずれも巨大な旅館が並んでいる。粒ぞろいの施設を持っているものばかりだ。旅館の格差が少ないので、旅行エージェントからすれば、団体などの割り当てには好都合らしいと聞いたことがあった。
 同窓会は、玉乃湯≠ニいう旅館である。温泉街のはずれにある玉作湯神社に隣接していた。神社は、出雲國風土記にも書かれている古社である。境内は全域が国指定史跡で、花仙山周辺では最も古い玉作りの遺跡といわれていた。
 優司は、明日の朝にでも行ってみようと思いながら、玉乃湯旅館のロビーに入った。
 白布を掛けたテーブルの横に、島根県立青山高等学校第六期同窓会様≠ニ隷書で書かれた立て札があった。
「よお……。久し振りだな」
 受付係らしい数人の中から、立ち上がって声をかけたのは、東京の著名な私立大学を出て、これもまた有名な商事会社に勤めた岩池清市という男だった。
 岩池とは同級生であったにも関わらず、高校の時から何となく反りが合わなかった。何かと言えば知識をひけらかす癖があり、学校の行事などでも自分で気に入らぬ仕事はほかの者に押し付けたりもした。
「お前、久し振りというよりも初めてじゃなかったか?」
「まあな……」
 そんなことはどうでもいいだろうにと、優司は鼻白んだ。

第003回 東風 三

 岩池の隣に居た女が、西本さんね、と言いながら名簿に印を付け、名札と数ページばかりの冊子を手渡してくれた。顔も胸に付けた名札の名前にも記憶がなかった。
「西本さん、あなた変わらないわ」
 そう言われても、誰だか思い出せないと返事のしようがない。
「ああ……」
 曖昧な顔になった。
 青山高校は、いまではどうか分からないが、その当時、一学年が五百名を超えていた。それだけの人数になると、三年間一緒だったのにと言われても思い出せない顔があるのは当然だ。それに優司は、熱心な生徒ではなかった。始業時刻ぎりぎりに駆け込み、終われば真っ先に帰ってしまう方だったからである。
「あ、そうだ。翔子が……もう来てるわ」
「ショウコ?」
「忘れたの? 南田翔子よ」
「南田――」
 優司は、翔子が好きだった。大きな眼と彫りの深い顔に腰まである長い髪がよく似合っていた。誰からもカップルだと認められていたのだ。
「確か、売店の辺りに居たから、行ってみたらどう?」
 岩池がそれを聞いて頬を歪め、薄ら笑いをしたのが、ちらりと見えた。相変わらず感じの悪い奴だと優司は思った。
 売店の方に向かって歩きながら、優司は渡された冊子を開いた。いわゆる同窓会の栞という体裁のものだった。幹事の挨拶や会の進行順序などが書かれた後に、同期の名簿が載せられている。翔子の名前は終わりの方にあった。旧姓南田という文字が括弧で括られ、福宮翔子となっている。(結婚しているのだ)と、優司は当たり前のことを呟く。住所は、京都の北区だった。
 目を上げて売店の中を見回した。数人の客が居た。長い髪を目当てに探したが、見当たらない。
 仕方なしに、土産物を見て歩く。瑪瑙やまんじゅうなどが、買って欲しいというような顔で並んでいた。然りとて欲しいと思うようなものがない。
「西本さん――」
 知恵の輪のような形をした曲玉の木製品を手にした途端に呼ばれた。
「知らん顔で通り過ぎて……」
 男のように髪が短く背の高い女だった。

第004回 東風四

 女は、左目を意味ありげにちらりと閉じて笑っていた。大きな衿が目を惹くライトグレーのジャケットと同じ色のパンツを穿いている。ブーツカットになっていて、よけいに背が高く見えた。
「忘れてる……」
 言われて、やっと優司は気がつく。南田翔子だった。
「やあ、どうも、久し振り」
「言うことは、それだけ?」
 翔子は高校の時から、きつい言い方をする女だった。だが、本当は怒っているわけではない。変わらないな、と優司は思った。
「相変わらずだな」
「何が」
「きれいだってことさ」
 優司も翔子の調子に合わせる。
「だったら、どうして知らんふりしたの」
「美人過ぎるから、分からなかったんだ」
「じゃ、前はそうでなかったってこと?」
 そういうつもりじゃない――と言い、翔子と一緒に声を上げて笑った。
「西本さん、コーヒー飲もう。いろいろ話もあるし」
 翔子が目をやった先に、小さな喫茶室が見えた。見覚えのある顔もあった。同窓会が始まるまでの待ち合わせ室のような感じになっている。
「同窓会は六時からだから、まだ時間があるわよ」
 優司は腕時計を見た。五時だった。
「写真を写すのが六時だろ」
「そうらしいわ。でも、いやあね。こんな顔を並べるなんて」
「そうでもないさ。味がある」
「何、それ。味なんかみてないくせに」
 おや――と思って、優司は翔子を見た。顔がまた笑っている。
「俺、コーヒーは飲まないから」
「どうして?」
「午後から飲むと眠れなくなる」
「まさか……」
 翔子がコーヒーと葡萄のジュースを注文した。
「懐かしいわね」
 品定めをするような目で翔子が見回しながら言った。
「西本さんは、新聞社に勤めてるんだ。島根日報……」
 翔子の手が名簿をめくっている。住所と電話番号の後に勤務先が書いてある。  

第005回 東風五

 個人情報保護法が、去年の四月から動き出した。優司の勤める島根日報でも、個人情報の扱いを新聞購読読者に知らせたりした。そういう意味から、学校の卒業生名簿などにも、個人的な情報を載せなくなっている。同窓会の名簿くらいは、どうでもいいということなのだろう。
「大学を出てからずっとだ。もう三十年を越えてる」
「そうなんだ。確か、大学は津山だったわね。岡山の」
 優司は早稲田の文学部の試験に落ち、滑り止めに受けた津山大学文学部に入った。早稲田から東京の出版社に勤めて、編集をやりたいと思っていたのだが、その夢は叶わなかった。
「よく知ってるな」
「そうよ。ずっと気にしてたもの」
 翔子は、顎を突き出して見せた。
「気にしてた?」
「ええ、もし早稲田に入っていたら、東京で会うことも出来るなと思ったことがあったわ」
 女子大では指折りの関東女子大学に合格したと聞き、東京の大学に入った仲間を羨ましいと思ったことを思い出した。
「遠い昔のことさ」
 自分で言いながら、優司は(そうだな、若かった頃のことだ)と、また思う。
「西本さんは、新聞社で何をしてるの?」
「俺か? 派手なとこじゃないよ」
「経済関係?」
「いや……社会部とかも歩いたけど、結局は学芸部長だ」
「いいじゃない。似合ってる。高校の時、小説なんか書いてたんだから」
「まあね。それで満足しなきゃいけないのかもしれない」
 どこの学校でもそうだが、青山高校にも文芸部があった。青山文芸≠竍煤煙≠ネどという文芸誌を作り、いま思えば恥ずかしいような小説を載せていた。読み返してみたいと思ったことがあるが、何冊かの雑誌は、どこに行ったのか手元にはない。
「俺のことばかりじゃなくて、南田さんは」
 翔子が遮った。
「今日くらいは、翔ちゃんって言ってよ。あの頃のように――」
「この歳でか?」
「いいわよ。久し振りで会ったんだから」
 翔子が両方の眉を上げてみせた。

第006回 東風六

 お互いに五十代半ばである。そういう呼び方をするのは何となく照れくさい。
「じゃあ、俺を優ちゃんと呼ぶのか?」
 ふふ――と翔子が笑った。
「私ね、大学を出てすぐに水道屋と結婚したのよ」
 隣の椅子の上に置いてあった小型の黒いバッグを翔子は引き寄せた。グッチのロゴネーム入り金具が付いている。
「こんなことしてる」
 取り出した名刺には、福宮管工株式会社専務福宮翔子と書かれていた。
「どんな仕事をするんだ?」
「水道、空調、スプリンクラー、ドレンチャー工事とかね。何でもするわ」
「そういう会社の専務か……」
「名前だけ。主人が社長だから、私は何もしてないのよ」
「それにしても、どことなく貫禄がある」
「やめてよ、そんな言い方。もっとも肉が付いたけどね」
「高校の時に比べれば、誰だって体型は違ってくるさ」
 高校三年の夏だった。文芸部の仲間と美保関の海に行ったことがある。
 青山高校は県内一の進学校で、秋を前にして受験勉強が追い込みにかかっていた。最後の遊びだと誘われ、優司は翔子を連れ出した。
 翔子は水着にはなったが、長い髪が濡れるからと泳ぐのを嫌がった。優司は海辺の岩に座っている翔子を見て、ヨーロッパの人魚伝説を思った。
 望遠レンズを使い、翔子に分からないように写真を撮った。大学に入るまでは机の引き出しに入れていたが、いつしか見えなくなった。津山の大学に行ってからは、翔子に会うことがなかったからである。
「高校時代か……。絵津子を覚えてるでしょう? 今日は欠席になってるけど」
「エツコ?」
「やあねえ。みんな忘れてる。田野絵津子よ。陸上やってたでしょう」
「ああ、岩村という大学病院の医者と結婚したな。米子市近くの奥大山町に住んでる」
「明日、行かない? 仕事は休みなさいよ」
 休まなくても、米子の支局に行くことにすればいい。それ位の自由はきく立場だ。
「午後一時に携帯に電話してよ」
 絵津子はともかく、翔子とゆっくり話してみたいと優司は思った。

第007回  東風七

 翔子と米子へ行くのに、クラウンかセドリックのレンタカーを借りようかと考えた。だが、今更、体裁を繕う齢でもないと思った。
 優司は、マツダの白いオフロードを使っている。普通の軽自動車と違って、タイヤは内径が十六インチもあり、ボディはフレームの上に乗っている。オフロードという名の通り、軽自動車にしてはかなりハードな悪路にも耐える四駆だ。
「いい車……。大山まで行くんだし」
 JR松江駅の南口にある松江ロイヤルホテルから出て来た翔子は、車を見てそう言った。
 翔子は、松江に居る間、駅に近いという理由でロイヤルホテルに泊まっている。
「しがない月給取りは、軽自動車で十分だ」
「そうは言うけど、商売をしてると大変なの。黙っていても給料が貰える方が楽よ」
「……」
「私、何もしてないって言ったけど、それでも苦労はしてるの。お金、お金だからね」
「……」
「いつも考えてる。会社から出て行くお金よりも、入るのを多くしないと……」
「それは当たり前だろう」
「そうだけど、なかなかそれが難しいんだなあ。だからね、金額は少なくてもいいの。少しずつ、少しずつでもお金が入るように考えてるわ」
「そういうものかね……」
「でも、出し渋る人は嫌われるわよ。本人には分からないでしょうけどね」
「なるほど」
「変な話はやめましょ」
 国道九号線を通らずに、高速に乗った。米子までは三十分もかからない。
「そうだな。しかし、今日は何で絵津子と会う気になったんだ?」
「ここ十年ばかり会ってないのよ。年賀状のやりとりだけで」
「仲が良かったはずなのにか?」
「そう。でも、彼女が町会議員になってからはご無沙汰」
 田野絵津子が町会議員になっているとは知らなかった。確か、高校の体育教師だったはずだ。
「へえ、町会議員にね」
「その頃から、何でか疎遠に……なったわ」
 翔子は、同窓会で貰った冊子を開き、絵津子の住所を確かめている。

第008回 東風八

 伯耆大山は、中国地方では最も高い山である。形のよいことから、俗に出雲富士と呼ばれたりもする。
 奥大山町は、その南麓にある小さな町である。だが、大山の観光客を当てにしたホテルや民宿が並び、山の中にしては、賑やかな町だった。
 麓に点在する幾つかの町の中には、西日本でも最大規模を誇る大山ペンション村を持つものもある。山麓周辺のそれらの町は、自然に囲まれたロケーションが売り物だ。 翔子はオフロードから降りると、両手を広げて深呼吸をしながら空を見上げた。薄青い絹の衣装の上に、白い斑点のような雲が広がっていた。
 町の入口には案内図を書いた大型の看板があった。翔子は首を傾げながら同窓会名簿と見比べている。
「場所……分からないか」
 優司は冊子を覗き込んだ。翔子が手にしている名簿の白いページが風にあおられ、春の太陽が反射した。翔子の耳の辺りから微かなヘリオトロープの匂いがした。
「よく分からない」
「電話をしてみたらいい」
「だって、電話番号も書いてないから聞きようがないわよ」
「絵津子は町会議員だろ? その辺りで聞けば分かるはずだ」
 そう言えばそうね――言いながら翔子は、振り返った。目の先に酒屋が見えた。
「家は分かったけど、絵津子は留守みたい」
 程なくして戻って来た翔子が言った。
 ちょうど町会議員の視察旅行があって、三日ばかりの予定で出掛けたというのだ。絵津子の家が得意先だという酒屋は、よく知っていた。というよりも、狭い町だから何でも直ぐに伝わるのだろう。
「留守か……」
 翔子はともかく、優司としては、殊更、絵津子に会う理由もない。
「折角来たのに」
 訪ねるなら約束をしてから行くのが本筋だ。翔子は、何でも不意に思い付いたことを始める癖があったことを優司は思い出して苦笑する。 
「何――笑ってんの」
「別に……。絵津子に会えないなら、国際スキー場の辺りまで行ってみるか」
 大山北側には幾つかのスキー場がある。そこからは、日本海がよく見えるはずだ。

第009回 東風九

 鏡ヶ成、桝水高原から、大山寺の辺りまでを繋ぐ約二十キロの大山環状道路は、西日本有数の山岳ハイウエイと言われている。日本の道百選にもなっているくらいだから、ただ走るだけではもったいない。
 優司は、そう思い、翔子と二人で景色を眺めながら昔話でもしようと思った。
「中学生の時に、大山登山をしたことがあったわね」
 車を停めることの出来る展望台から日本海を遠くに眺めながら、翔子が呟いた。
 小学校からの同期なのだが、お互いに意識し始めたのは中学生になってからだと優司は思っている。もっとも、それは思春期にありがちな異性に対する好奇心とでも言えるものなのだろう。だから何かのきっかけがあれば、不意に好ましいと思うのだ。 中学校に入った時の担任は、大学を出たばかりの教員だった。日曜になると、担任と一緒に数人の仲間で、郊外に自転車を走らせたり、夏休みには弁当を持って何度か遠出をした。翔子の言う大山登山は、一年生の時、秋の連休のある日だった。
 民宿に泊まり、早朝から頂上を目指した。右も左も見えない霧の中で、狭い登山道を登った鮮明な記憶がある。日の出を迎えた感動は、今でも忘れていない。
 今の学校の様子はよく知らないのだが、昭和三十年代のその頃は、どの中学生も遊び呆けていたような気がする。と言うよりも、教員と生徒の結び付きが、学校以外でも濃密であったということなのではないだろうかと優司は思っている。
「いつも遊んでばかりいたもんな」
「ねえ……」
 遠くには、隠岐の島が霞んで見える。離島だとはいうが、近いなと優司は思った。
「え?」
「何考えてるの?」
「別に……」
「うそ。当てようか――。ヘプバーンのことでしょう」
 図星だった。翔子に奥大山に誘われた時、大鳥浩子とのことを思い出したのだ。優司は翔子もだったが、それ以上に浩子が好きだった。
 その頃、ローマの休日、麗しのサブリナ、尼僧物語などの外国映画をよく見にいった。主演のオードリー・ヘプバーンと浩子を重ねていたのだ。誰もが、大鳥をオードリーにもじり、そう呼んでいた。

第010回 東風十

 浩子は、どちらかというとエキゾチックな顔だった。少し持ち上がった鼻の先、彫りの深い顔が、そう思わせるのだ。
 そのこともあって、外国映画俳優の名から取った渾名は、男生徒達に人気があった。だが、浩子はそれを嫌がっていた。
 浩子の家は父が早く亡くなり、いわゆる母子家庭だった。歳の離れた兄が居たが既にどこかの会社に勤めているらしかった。成績は良い方で活発だったから、生徒会などの役も進んで引き受けていた。
 優司にとってそんな浩子は、少しばかり近寄りがたい存在だったが、だからこそ余計に好ましいと思っていた。
「知ってたのよ」
「何を?」
「オードリーを好きだってこと。私よりも」
「いや、そういうわけでは……」
 言いながら、確かにそうだったと思う。それにしても、浩子の方が好きだったなどと今更言えるわけもない。四十年以上も前の話だ。そうではなくて、古い話だから、子どもの頃の色恋が衒いもなく言えるのだろうか。
 中学校を卒業すると、浩子は同じ市内にある商業高校に進んだ。担任は普通高校から大学へと勧めたらしいが、家庭の事情がそうはさせなかった。浩子の兄でさえ、高校を出て勤めていたのだ。
 狭い松江のことである。違う高校だからといって、その気になれば会うことも出来たのだろうが、優司の思いは、卒業した春で終わった。
「さっきの話だけど――、大山に登った時にね、忘れてはいないと思うけど……」
 翔子に、いたぶられているような感じだ。 あの秋の日、浩子も一緒で、担任も含めて男が四人、女が二人の仲間だった。
「汗だぐで、昼過ぎに山から降りてきてみんなが着替えたわよ。民宿の座敷を借りて」
 言われて優司は、顔を赧らめた。
 もちろん、女と男は別の部屋だったが、誰もの脱いだ衣服が庭に面した軒下に張られたロープに引っ掛けられていた。
 食堂で摂った昼食を早めに終えた優司は、仲間の目がないことを幸いに、浩子のシャツに顔を埋め、目を閉じて思い切り息を吸い込んだ。 
 汗の匂いがした。髪の毛の匂いのようでもあり、動物のそれのようでもあった。心地良さに体の力が抜けるようだった。

第011回 東風十一

 匂いを吸い込んだというより、浩子のシャツに、もっと言えば女の体に包まれたという思いがした。
 中学二年生である。男や女というまでには程遠い年齢だが、優司は成熟した女性の残り香を感じたのだ。
 悪いことをしているという思いもあったが、初めて出会った異性の生々しい匂い、それも好きな浩子の匂いを逃すまいと、優司はそのまま暫くじっとしていた。だが、いつまでもそうしているわけにはいかなかった。
 見付かれば、何をしているのだと笑われる。笑われるのはまだいいが、浩子が見たらいやらしさに呆れ、蔑まれるに違いない。
 優司は辺りを見回し、誰も居ないことを確かめると、さりげないふうを装って食堂に戻った。だが、心臓の高まりは治まってはいなかった。
 浩子は担任や仲間と笑いながら、話し合っている。戻って来た優司を見て、(どこに行ってたの?)という顔をした。優司は思わず目を伏せた。
 翔子はタオルを手にしていた。顔でも洗っていたのだろう。
「ああ、秋の日にしては暑かった」
「忘れてはいないでしょ?」
「だから――何を」
 優司は、翔子から目をそらした。
「とぼけないでよ」
「……」
「見てたわよ。浩子の下着の匂いを嗅いでるの」
「下着じゃない」
 藪蛇だった。しまったと思ったが、既に遅かった。
 翔子は声を出して笑った。
「ほら、やっぱり覚えてるでしょう。私、洗面所に行った時に、見てしまったの。シャツだろうと下着だろうと同じことよ」
 車のウインドガラス越しに、豪円山スキー場のリフトが見えた。シーズンが終わり、取り外し作業が始まっていた。
「そう言えば、そんなこともあったな」
「あの時、私、口惜しかったわ」
「たまたま……だった」
「駄目よ。言い訳は……。でも、浩子には好きな子がいたの。川向こうの中学校の米山という男の子。だから、今は米山浩子よ」 
 そういうことだったのかと、優司は翔子の顔を見た。  

第012回 東風十二

 翔子に睨まれた。だが、顔の半分は笑っている。
 高校一年の正月だった。(うちに遊びにおいでよ)と誘われた。
 翔子の家は、松江城の近くで酒屋をしていた。店の前は堀川である。
 それでというわけでもなかったのだろうが、翔子の部屋には、炬燵の上に数の子と紅白の蒲鉾、それに一本の徳利が用意してあった。
「酒? 飲んでもいいのかな」
 何度か、二階にある翔子の部屋には来たことがあるが、酒が出たのは初めてだった。
 優司の父は酒が好きで、いつも台所には一升瓶が置いてあった。目を盗み、ほんの少しだが時々飲んでいる。
 初めて酒を飲んだのは、中学校一年の時だった。神棚にお神酒が置いてあった。どんな味がするのか試してみるのも悪くはない。神様に供えてあるのだから、ご利益があるなどと勝手な理屈をつけた。
 幸い、家族は全員留守だった。飲んだ。旨いものだなと思った。
「いいわよ。中学生じゃないし、それにお正月だから」
 向かい合って炬燵に入ると、翔子が盃に注いでくれた。翔子の長い髪が、両肩から前に垂れていた。
 一気に酒を喉に流し込む。不意に、大人になったような気がした。
 徳利が空になった。翔子は炬燵板の上に顎を乗せている。優司は手を伸ばし、髪を一本抜いた。
「痛いじゃない」
 三十センチばかりの髪を左手の薬指に巻き付けた。
「何するの……」
「持って帰る」
「ばか」
 優司は、その髪を箸袋に入れ、制服の胸ポケットにしまった。その後、何を話したのか記憶にない。夕方になっていた。
「帰る」
 部屋を出る時、翔子の手を掴んだ。翔子はただの握手と思ったのか、握り返して(じゃあ、また)と言っただけだった。
 天井から下がった灯りを受け、窓の障子に二人並んで立っている影が映っていた。
 家の前に出ると、堀川が暗く澱んでいた。今は遊覧船が通い、綺麗な水が流れているが、その頃はまだ汚れていた。

第013回 東風十三

 松の木の辺りに、近所の人達なのか、数人が堀川を見て立ち話をしている。誰もが、おや――という顔をして振り返った。
 翔子の部屋を見上げると、窓の障子が明るくなっている。影が映ったのを見られたかなと、優司は思った。
 手を握っただけで抱き寄せもしなかったと、近頃の高校生が聞いたら大笑いするかもしれない。まだ、そんな時代だった。
 あの時の一本の髪は、多分、暫くは取っておいたはずだが、その後、どうしたのか、水着の写真と一緒に忘れてしまった。
 それにしても、遠い昔だ。
 優司は助手席に座っている翔子を見た。
 高校一年の翔子ではなかったが、短い髪から、また微かなヘリオトロープの匂いがした。
 あの時、引き寄せて抱いていたら、どうなっていたのだろう。右か左かで、行く道が違ってしまう。
 浩子の方は匂いの記憶と共に、ふとした時に思い出す。
 昨日の同窓会で、翔子に(私を忘れていたでしょう)と言われたように、浩子の印象が強い。もっとも、何かがあったわけでもない。
「米山浩子……」
 優司は、その名を口に出して言ってみる。「オードリーは――もう大鳥じゃないわ。米山浩子が商業高校に行ってくれて、私、安心したのよ。ああ、よかったって」
「恐い――女」
「なにそれ。私のこと?」
「BSフジのドラマシリーズ」
「ああ、十年くらい前のね」
 翔子は、口をへの字にして睨んでみせた。
「冗談さ。それで浩子は?」
「米山君は一年上だったけど、商業高校に行ったから。それで浩子も……ってことかな。ずっと仲が良かったわ」
「結婚したというわけか」
「米山君は、商業を出ると東京へ出て会計事務所に勤めたの。浩子は彼を追って上京したわ」
 あの浩子なら、やりかねない。
「何年かして、米山君は独立してね、自分で事務所を持ってる。浩子も一緒に仕事してるわよ」
 中学生か高校生に戻ることが出来たとしたら、自分はどうするのだろうと優司は思う。やはり、浩子を取るのか。

第014回  東風十四

 高校を出てから同窓会に一度も出なかったことが悔やまれる。もっとも、そんな話を聞いたとしても、それでどうだということはない。だが、翔子と話をしていると、何十年かの空白にも似た期間が、まるで消えてしまったようである。 
「高校の時が昨日のようだ」
「そう……。でも、お互いに齢を取ったわ」
 一時間ばかりも車を停めて話していたのだろうか、優司は喉の渇きを覚えた。
「大山寺の方に行ってみるか。ジュースが飲みたい」
「え? あ、そうだった。コーヒーは午後になると駄目なんだ」
 同窓会の前に喫茶店で翔子と暫く話をしたが、午後になるとコーヒーは飲まないのだと言った優司の言葉を覚えていた。
 豪円山を右に見て、西に向かう。自然科学館の前で車を停めた。優司は、自販機で缶コーヒーとジュースを買い、車に戻った。
「大山寺へはどうする?」
「私は、行かないよ」
 優司は何度か訪れている。大山寺や大神山神社は杉の老木に囲まれ、いかにも古刹という雰囲気があった。町は対照的に、スキー客相手のホテルや土産物屋が少しばかりの猥雑さを見せて並んでいる。
「もう四時が近いものな」
「それより、あなたの話が聞きたいわ。浩子の話ばかりじゃないの……」
「俺? 変わったことしてるわけじゃない」
 新聞社の話をしても、翔子には面白くないだろう。
「本業とは別に、去年の春から出雲市の西北学院大学で講義をしてる」
「私立ね? 名前は聞いたことがあるわ」
 特色を出すために、西北学院大学ではパブリックオファー科目制度を創設した。
 市民から学生に教えたい科目を公募し、座学でなく実践的な内容を講師として授業をしてもらう。教員以外の者が講義をする場合、大学の人脈を通じて企業などから講師を求めるのが普通だ。西北学院大学が考えた公募形式は、全国でも珍しいはずだった。優司は、そう説明した。
「それで、何をするの?」
「新聞記者をやってるから、要するに文章をどう書くか……。それと小説の書き方」
「小説……。今でも書いてるの?」
 叶えられなかった編集者の夢の代わりだと優司は付け加えた。

第015回 東風十五

 青山高校では文芸部に入って、小説を書いていた。目標は、早稲田の文学部を出て、東京の出版社で編集者になるということだった。だが、早稲田を落ちたことで、夢は脆くも崩れる。
 知名度が低く、中央出版業界への就職実績もあまりない津山大学では無理であった。書くということや出版ということにどうしても関わりたかった優司は、卒業すると新聞社に入ったのだ。
 小説を今でも書いているかと翔子に聞かれ、どう答えようかと優司は迷う。
「書いてはいるが……。それが」
「それが……って?」
「中央の文学賞を取ったわけでもないし」
 若い時にもう少し書くことに力を入れていたら、何とかなっていたのかもしれないとは思う。
 もっとも、小説を書いている者は誰でもそうだ。いわゆる作家を夢見る。
 殆どの人間はごく普通に大学を出て、無難なところに勤め、いつしか定年を迎える。小説を書くことを仕事にすることが出来るのはほんの一握りなのだ。
 小説家になるのは、何十万という作家予備軍の中の、ほんの数人にすぎない。
 翔子は、なるほどという顔で聞いていた。
「でも、書いてるんでしょ。さっき、そう言ったじゃない。どんなの? で、どんなとこに載せてる?」
「立て続けに言われても……」
 昔と変わらないなと優司は思う。翔子は、いつでも性急だった。
「サクセス文学という雑誌とかに……」
 優司の勤める島根日報では『サクセス文学』という文芸誌を発行している。作家への登竜門にしたいというねらいで、名前に、成功の意味を持つサクセスを使った。
 タイトル通り、地方の作家を育てるという趣旨である。十年前の創刊で、いわば投稿誌だが、参加者の中から力量のある書き手が少しずつ出始めている。
 優司は、学芸部長という立場から、編集を担当していた。役得というわけではないが、幾つかのペンネームを使い分け、毎号のように複数の作品を載せている。
「いいじゃない。若い時の夢、実現というわけね。編集もして、恋愛小説を書いて?」
「まあ、そうだけど」
 頷きながら優司は思わず、いい齢をしてと頬を赧らめる。

第016回 東風十六

 翔子は、その顔を見逃さなかったようだ。
「照れてるの?」
「いや、そんなんじゃない」
 嘘、おっしゃいと翔子が右手の小指を伸ばして肩をつつく。
「勉強もせずに、小説を書いてた高校の時に戻れたらいいのにね」
 小説ばかりじゃない、どう引き返すのだ――と、優司は言いかけて止めた。
 帰れるものならそうしたい。お互いに五十六歳だが、だからと言って、枯れてしまうにはまだ早い。
 男と女を問わず、その年齢から滲み出る魅力や美しさがある。二十代と四十代の女を並べてみれば、四十代は、格段に魅力的で美しいと優司は感じる。
 なぜなら、二十代は若さはあるが、磨かれてきた仕事や暮らし、恋や愛はまだ薄い。醸し出す厚みや深みがない。体つきも、それこそ若いのだ。自分ではいいつもりだろうが、年齢の離れた者からみるとまるで子どもだ。
 それに比べて、長い日々を積み重ねてきた四十代は、蠱惑とでもいうような魅力がある。
 表向きには、もう齢だから――などと言いはするが、年齢は問題じゃないのだと優司は心の中で呟く。
「高校の時にでなくて、若い頃にだろう」
「もしあの時に……」
「何?」
「ほら、高校一年の正月。私の家に来たでしょう」
 翔子も覚えていたのだと、不思議な気持ちになる。
「お酒をご馳走になった――」
「帰る時に手を握ったわ。そのまま何もしなかった」
 思わず、隣に座っている翔子の手に目がいく。高校生であった翔子の手は、もっとしなやかで艶があったはずだ。
「四十年も前の話さ」
「今だったら、どうしたんでしょう」
 ある意味で際どい問い掛けだが、言われなくても分かる。もし、強く手を引いたら、そのまま倒れ込んだに違いない。
 何かに背中を押されるか、そうでないかのほんのちょっとした分かれ目が、男と女の行き先を決める。
「さあ、どうしたかな――」
 翔子の目が笑っている。

第017回 東風十七

 大鳥浩子――オードリーは中学校を卒業すると商業高校に行き、それらかずっと会ってもいなかった。
 その隙間に、少しずつ翔子が入り込んできたと言えば、男の身勝手さだと譏られるかもしれない。
 一本の髪を指に絡めて抜き、(持って帰る)と言い、手を握ったのは精一杯の表現だった。
 中学校を卒業したばかりの少年にとって、あの頃は、それだけでもときめきを感じることだったのだ。
 思わず頬がゆるむ。
「いまの時代とはまるで違うから、そういう意味では懐かしいわよ」
 翔子の言う懐かしさとは、セピア色になってしまった思い出だろうが、その頃は、まだ手を握って頬を染めるような高校生が多かった。
「もう少し遅く生まれていたら、どうなっていたか分からないってことか」
「そうよね」
 ダッシュボードの時計は、鮮やかな濃いオレンジ色に縁取られている。デジタルは午後五時半を指していた。あと一時間くらいで日が沈む。
「日の暮れるのが、少し遅くなったけど」
「もう一度、日本海を見て帰りましょうか」
 車を移動させた。
 島根半島が弓ヶ浜の向こうに、黒い影を作り始めていた。もう暫くすると、皆生の旅館街が明るくなる。夜の歓楽が、その時を待っているように思えた。
「米子まで行って、夕食でもどう?」
「帰らなくてもいいの?」
 家には米子の支局へ行くと言ってある。新聞社の仕事というのは、時間があってないようなものだ。だから、どうということはない。
「久し振りに会ったことだし、ご馳走するよ。いつかの正月のお返しだ」
「もう時効だわよ」
「時効は今日の夜までだ」
「面白いことを言うのね」
 米子市内までは、大山から二十分もかからない。優司は皆生プラザホテル≠フ駐車場に車を停めた。温泉街に近い。
「飲むんですか?」
「残念だが車で帰るから、それは無理」 本当は翔子と飲みたいが、そういうわけにはいかない。  

第018回 東風十八

 時効――という言葉をどういう意味で翔子が使ったのか分からない。
 中学校から高校にかけての幼い恋は、もう終わりだと言っているのかもしれない。
 四十年も前の、そういう思いを今更引きずっているわけでもないし、焼け棒杭に火を付ける気もないのよと、翔子は思っているということなのだろう。 
 皆生プラザホテル九階のレストラン漁り火≠ノは、カウンター席と灯りが煌めく温泉街や黒い弓ヶ浜が見える窓側に小さく仕切られた部屋が幾つか並んでいた。時間的に早いのか、どの席も空いていた。
「よく来るところなの?」
 翔子が窓ガラスに額を付け、北に広がった皆生の街を見下ろしている。
「時々ね。社のお客の接待が主だ」
「そう……」
「簡単なものでいいだろ?」
 優司は、漁り火弁当≠注文した。定食に近いものだから、直ぐに出来る。豪華な料理というのではないが、外の景色がご馳走だと優司は勝手に決める。
 コップに一杯くらいならいいだろうと、優司はビールを注文した。
「車で帰るって言ったでしょ?」
「そうだよ。俺は飲まない。一杯だけ」
「じゃ、私が……」
 翔子は、優司が飲んだ残りを全部開けた。様子からすると、かなりいける口らしいが、ほどなく目の縁が薄く染まった。
「飲めるんだ」
「実家が、酒屋ですからね」
 そうだったと、優司はまた高校一年の正月を思い出す。
「奥さんは、お仕事?」
「まあね、教室をやってる」
 翔子が、何の? という目で促す。
 どこの新聞社でもそうだが、いわゆる文化教室のようなものを開講している。俳句だとか絵などと、さまざまである。
 島根日報も小規模だが、幾つかの講座を事業として開いていた。妻は講座で、お茶と書を教えている。
「何の教室なの?」
「表と書道だ」
「表……、私もそうなの。不審庵の講習会に行ったりもするのよ」
 不審菴は茶室の名だが、表千家の全体をいう。不審庵に行くくらいだから、それなりの資格も持っているのだろう。

第019回 東風十九

 それにしても、茶道と、かつての高校生だった翔子は似合わない。長い年月が経ったなと、優司はまた思う。
「同窓会の名簿には、住所が北区になっていたけど、家からは近いんじゃないか?」
 不審庵は上京区だが、同志社大学の少し北に位置している。
「私の家は、上賀茂神社の近くだから」
 京都は北に行くに従い、静かな街になる。翔子の家も、街の喧噪から離れた場所に建っているのだろう。
「お子さんは?」
 翔子が、また聞く。高校の頃とはいえ、お互いに憎からず思っていたのだから、相手がどうなったか知りたいのは当然だ。
「二人だ。上は男で、東京の通信社に勤めている。もう一人は嫁に行ったよ」
 大学を出て直ぐに結婚し、二人の子どもに恵まれた。家庭生活も順調で、何さら問題はない。編集者になりたいという夢は実現できなかったが、新聞社でそれなりに楽しくやっている。
「いいわね。気楽で」
「まあな……」
 五十を過ぎると、何となく人生の先が見えてくる。あがいても仕方がないとも思う。
 新聞社の仕事は、一般の事務系の会社のそれとは違って、きついと思うのだが、無理を出来るだけしないように考えている。
「そっちはどうなんだ?」
「三人よ。男、女、女。長男に会社を手伝わせているし、女の子は、それこそどっちも嫁いでしまったわ」
「お互いに、似たようなものか」
「そうよ。幾つになったと思うのよ」
 それもそうだなと、優司は呟く。
「浩子のところは、どうなんだろうな」
「やっぱり気になるのね」
「そんなんじゃないが」
「よく知らないのよ。どこも似たようなもんじゃないの……」
 言いたくないような口調が尖っていた。気にしているのは、お前の方じゃないかと言いかけたが、聞いたとしてもどうなるものでもない。
 同期生の誰彼の話をしている内に、ふっと、話が途切れた。いつの間にか、店は半分くらいが客で埋まっている。
「帰るか――」
「そうね」
 潮時だった。

第020回 東風二十

 店を出て、来た時とは反対側にあるシースルーのエレベーターで降りた。下がるにつれて、街の灯りがしだいに濃くなる。
「食事……不足だったかな?」
「いえ、美味しかったわよ。私、あまり食べないようにしてるの。そうだ、お勘定――払わせて悪かったわね」
 二人で四千円にも満たない。VISAのカードで払った。
「それはいいさ。でも、制限しているというのは、分かる、分かる」
「どういう意味よ。それって」
 体型を気にするようになったのは、いつの頃からだったろうか。翔子だけでなく、優司も同じだ。共犯者のような目を合わせて笑った。
 フロントが軽く頭を下げたのを横目に見て、駐車場まで出た。並ぶ車は、どれも普通車で、優司が乗ってきた白い軽自動車はいかにも貧弱に見えた。雨が降ったのか、ボンネットから水滴が流れ落ちている。余計に侘びしげだった。
「帰るんだろ?」
「そうよ。どうして?」
「どっか……もう一軒」
「もう食べないって言ったじゃない」
「それはそうだが……」
「まさか、変なこと考えてるんじゃないでしょうね」
「変なって――何だよ」
「分かるわよ。言わなくても」
「……」
「旬ってものがあるじゃない」
(シュン?)――何のことか分からなかった。黙っていると、翔子が続けた。
「ほら、食べ頃よ。何でも味のよい時期ってあるでしょうが」 
 思わず優司は翔子の顔を見詰めた。
「ああ、頃合いのことか?」
 それにしても、取りようによってはドラスティックだ。翔子こそ何を思っているのだと優司は呆れる。
「もう少し若い時期だったら、誘われれば考えなくもないけど」 
「じゃあ……」
「ばかね。さっきの話じゃないけど、見せたくないわ」
「……」
「何もかも、昔のことね」
 雨が上がったのか、暗い空の切れ目から小さい星が遙か遠くに見えた。

第021回  東風二十一

 翔子は、実家に寄ってから、JR松江駅南口にある松江ロイヤルホテルに行き、そこで泊まるのだと言う。
 皆生から弓ヶ浜半島を縦断する四三一号線、外浜産業道路に出た。その道を境港まで走る。境大橋を渡り、美保関線に出るつもりだ。
「自分の家があるのに、どうしてホテルなんかに泊まるんだ?」
「だって、北堀町の家は狭いし、それに弟が跡を継いでるから、私の居場所はないの」
「そんなもんかな」
「実家で誰もと一緒にお茶でも飲んで、それからもう寝るだけだから、ホテルの方が気楽よ」
 そう言われると、確かにそうかもしれない。実家で暮らした時間よりも、嫁ぎ先の方が長くなっている。
「何度も言うようだが、月日が経ったということなんだな」
「そうなのよねえ。でも、浩子のことは忘れていなかったわね」
「オードリーって渾名だけはな」
「嘘よ。ちゃんと彼女の顔も覚えてるでしょう。今でも……」
「さあ――」
「私ね、同窓会の幹事に聞いたのよ」
「何を?」
 思わず優司は、翔子に目を向けた。
「ちょっと、危ないじゃない。ちゃんと前を見てよ」
 美保関線は車は少ないが、小さなカーブが多い。しかも、左側は境水道から中海、大橋川へと続く水路が見え隠れする。
「西本優司君は、出席かどうかって……」
「それで――」
「出席と聞いたから、私、出ようと」
「どういうことだ?」
「一日、一緒に居たいと思ったからよ。田野絵津子を訪ねるというのは口実……」
 それにしては、何もない一日だったじゃないかと優司は言いかけて止める。
「浩子のことを――どう思ってるか確かめてみたかった」
「何を今さら」
「それはそうだけど、今頃になって気になるようになったの。おかしい?」
「変じゃないが、どうしてまた」
「齢のせいかな?」
 呟くような小さな声だった。
 それにしても、遠い昔だ。

第022回 東風二十二

 浩子と最後に会ったのは、高校に入った年の初夏だった。
 大山へ一緒に行った仲間で、目的もなく松江城の辺りを歩き回ったことがある。
 城の西側にある椿谷は、かつて屋外のバレーボールコートがあったところだ。今のように体育館でバレーボールをするようになるとは、考えもしなかった。
 コートの横は、遊園地のようになっていた。ブランコに乗ったり、ジャングルジムによじ登ったりしている写真を撮った。
 幼い子どもの遊びのように、ブランコを漕いではしゃいだ。
 あの時、優司は、ファインダーを通して浩子だけ見ていた。
 出来上がった写真を見ると、翔子も浩子も何れ劣らぬ可愛い顔をしていた。
 その年――。どうしているのだろうと思いはしたが、浩子と違う学校に通い、しかも、何もかもが新鮮で珍しい高校の生活に馴染むことで精一杯だった。
 いつしか浩子は遠くなった。
 それ以後、オードリーに会うことはなかった。椿谷で、浩子はレンズを通して何を見ていたのだろう。
「中学生の頃、私と浩子を両天秤にかけてたでしょう。分かってたのよ。だから、今日も言ったけど、オードリーが、そう、彼女が商業高校に進学したことで、私は安心したのよ」
「青山高校では、お互いに付かず離れずだったけどな」
「私……気紛れだったもの」
「今日もそうかい?」
「……かもしれないし、でもないような」
 返す言葉がない。それにしても、遠い昔だ。車のライトが、長い道を照らしている。 翔子は言いながら、どうやら楽しんでいるようだ。
「大学に入って、それっきりだったわね」「それが気紛れか? というより、覚えているかどうか分からないが、三年の夏に海に行ったよな。あれで高校生活は終わったんだよ」
「記憶にあるわ」
 文芸部で小説を書いたのも、その辺りまでだった。誰もが目標以上の大学を目指し、本格的に勉強を始めた頃だった。
 そして、優司は早稲田を落ちた。
 もう一度、あの時に戻ることが出来たら、早稲田の文学部に入れるかもしれない。

第023回 東風二十三

 島根大学近くまで戻ると、交通量が多くなった。学園通り、くにびき道路などと呼ばれる幹線道路が出来てから、学生の街として賑わうようになった。そのせいもあってか、朝夕はラッシュ状態が続く。
 優司は、菅田変電所前の交差点を直進した。昔ながらの狭い道だが、翔子の実家のある北堀町へは、そこを通れば直ぐである。
「今度は、いつ会えるかな?」
 何十年振りに出会ったが、また会ってみたい気がする。
「そうねえ。さっきも言ったように実家には、あまり帰らないのよね」
「同窓会とか……」
「毎年やるわけじゃないし、何年かに一度でしょう。その時に都合が悪いと、飛んじゃうから、なかなか会えないということになるわよ」
 五年に一回開く同窓会ならば、一度欠席すると次は十年先になる。
「そうだよな」
「でも、会いたいのは私じゃなくて……」「浩子だと言いたいのか?」
 翔子は、小さく笑った。
「でも、西本さんを私が一日独占したってことになるから、許してあげます」
 冗談だろうが、子どもみたいなことを言う翔子が、おかしかった。
「浩子も田野絵津子も、二人で半日過ごしたことなんか知らないわよね」
 まるで高校生の時の科白じゃないかと、優司は妙な気持ちになる。
「それはそうだが、別に悪いことしたってことじゃないしな」
「また、変なこと考えてる。もう、そんな齢じゃないって言ったでしょうが」
 優司は苦笑するしかない。
 どうでもいいような話をしている内に、翔子の家に着いた。
 堀割越しに見る松江城は、黒い闇に沈んでいた。桜も終わり、ライトアップの季節は、終わったということなのだろう。
 ハンドルに顎を乗せ、透かすように見上げた。天守閣が微かに見えるだけだった。
「また会えるかもしれないわね。今日はありがとう」
「いつか、またな……」
 実家の酒店は、まだ営業をしていた。
 優司の声を背中に、翔子は明るい店の中へ走り込む。優司は、ふっと大きく肩で息をして、エンジンキーを回す。

第024回 東風二十四

 翔子と会ってから、一週間ばかり経った日曜日だった。翌日付けの新聞は、月に一度の休刊で、久し振りの休日である。
 優司は、書斎でパソコンの電源をオンにしてからコーヒーを沸かした。十二畳の部屋には小さな流し場と、隣には四畳ほどの寝室がある。
 新聞社は当然のことだが、通常の会社と違って五時では終わらない。半日くらいズレた生活になる。そういうこともあって、妻と寝室を別にしたのは四十代の半ば過ぎからだった。
 茶色の濃いコーヒーから白い湯気が立ち上がるのを眺めながら、二日間のことを優司は思い出す。
 同窓会で翔子に会うとは、思ってもいなかった。
 その翌日、二人で奥大山町の田野絵津子に会いに言ったのだが、どうやら翔子の目的はそうではなかったらしい。
「私より、浩子が好きだったんでしょう」
 翔子は、そんなことも言ったのだが、それはともかく、優司と半日を過ごし、あの頃の雰囲気に浸ってみたかったのだろう。
「また会えるかもしれないわね」
 そう言い残して、帰って行った。多分、特別のことがない限り、もう会うことはないだろう。
――東風(こち)吹かばにほひをこせよ梅の花 主(あるじ)なしとて春な忘れそ――
 優司は、不意に菅原道真の歌を思い出した。道真が大宰権師(だざいのごんのそち)として筑紫に流された時、京都の自邸の庭にあった梅を偲んで詠んだ歌である。
 伝説には、この歌の思いを知った梅の木が、太宰府まで一夜の内に飛んで行ったとある。歌の通り、東風に乗って行ったのだろうか。
 翔子は、京都から吹いて来た突然の東風であった。
 一刻(いっとき)、優司の胸を嵐のように騒がせて、また京都に戻ってしまった。
 東風は春を感じさせる柔らかな言葉として使われるが、漁師の間では、その風が吹くと、時には雨や時化になるので東風時化などと言って用心されている。 
 優司はコーヒーを飲みながら、そんなことを思った。
「青山高校か……」
 呟きながら、進学した津山大学の頃を思い出す。春日遅々――。