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  難波利三 車夫一代 

 今の言葉で言うとタクシードライバーだが、明治時代に人力車を曳いた岩吉
という男の物語である。岩吉は軍隊から帰り、父が残した人力車で生計をたて
ているが、道路で出会う他の人力車と競争をするのが常だった。
 岩吉はある医院の専属であったが、その競争から喧嘩を起こして医院を解雇
され、和多見町の芸者屋専属人力車夫になった。しかし、それも長続きせず、
車夫組合に入って街頭曳きになる。これも同僚との折り合いがうまくいかず、
組合に入らない流しの人力車曳きになり、いろいろな事件に出会う。
 半世紀にも満たなかった明治の時代の流れは早く、馬車鉄道や乗合自動車が
登場するのだが、岩吉はそれをかたくなに拒否する。最後は人力車で乗合自動
車と競争をし、車に両脚を轢かれ病気でなくなる、というストーリーである。
 この小説は、文明開化の明治、その流れに逆らいながら文明の利器に抵抗し
続け、人力車と共に駆け抜けた男の一代記である。「葬式の日が丁度、次の時
代の門口に当たった。」という文章がそれを象徴している。

 舞台は明治の松江である。慶長12年、堀尾吉晴による築城以来、架橋の変
遷を経た松江大橋を「野郎っ」という威勢のいい声と共に、人力車で競争を始
める描写が、勢いのある小説の展開を予想させる。
 小説の背景にある人力車は、明治2年に東京の八百屋である鈴木徳次郎、車
の職人であった高山幸助などによって発明され、翌年には東京日本橋で営業を
始める。最初の頃の人力車は、4本の柱を立てた箱に車輪と屋根をつけただけ
のものだった。松江に人力車が入ったのは、それにさほど遅れることはなかっ
たのだが、的確な時代考証と共に人力車の歴史などの変遷を面白く読ませてく
れる。
 主人公岩吉にはモデルはないが、明治の松江、いまではもう見ることの出来
ない人力車、魚町、伊勢宮遊郭、天神町、ガス灯、松江停車場、岩吉の妻にな
ったキヌエの里である島根町瀬崎など、身近にある地名がふんだんに出てくる
のは嬉しい。
 また、明治16年に結成され、即日、時の政府によって解散させられた「車
会党」などの話も面白い。
 著者は邇摩郡温泉津町に生まれ、昭和47年にオール讀物新人賞を受賞して
デビュー、昭和59年に「てんのじ村」で直木賞を受賞した。著作には、「天
皇の座布団」「漫才ブルース」「大阪笑人物語」「舞台の恋人」「芸人横町花
舞台」などがある。現在、堺市に住み、大阪の庶民を描く。島根を舞台にした
作品も多く、「イルティッシュ号の来た日」は、日露戦争の日本海海戦で被弾
し自力航行できなくなったイルティッシュ号が、江津市和木の海岸に漂着し、
投降した顛末を書いている。

     昭和57年 実業之日本社刊 天皇の座布団 所収 


                 島根日日新聞連載1 平成12年1月1日 古 浦 義 己