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   藤田武嗣  汽水の街へ

 ハヤカワミステリーワールドのひとつ「汽水の街へ」という小説がある。
汽水というのは、汽水湖である宍道湖のことであり、街とは言うまでもなく
松江市である。著者は、昭和17年、松江市に生まれた。「汽水の街へ」と
いうタイトルも古里への思い入れであろう。
 「汽水の街へ」は、フリーの雑誌記者津田とマイラという外国人女性の短
い恋物語を発端とする長編小説であり、舞台は松江大橋北詰の旅館「望湖亭」、
末次神社(正しくは須衛都久神社)、神社湖岸に打ち捨てられた廃船など松
江がふんだんに登場する。


 フリーの雑誌記者である津田は東京六本木で、マイラという外国人女性を
争いの中から助け同棲を始める。3ケ月後に津田は、取材で松江に行くこと
になるが、その間にマイラは見えなくなる。松江で泊まった宿の「望湖亭」
の老主人が土蔵の中で焼死体となる事件に遭遇し、それをきっかけにして更
に古い殺人事件に関わるというミステリーである。
 この小説のキーワードは火事である。昭和24年夏に起きた白潟大火が巧
みに取り入れられ、ちょうど同じ時刻に神社の沖の埋め立て地で燃えた廃船
に殺人事件がからんでいるという設定である。一畑電車や松江温泉、京店か
ら松江城に至る風景などの昭和30年代の松江を生き生きと描き、東京など
で起きた事件の全てが松江で集約される。
 更に、出雲方言もふんだんに取り入れるなど、読む人に懐かしい松江を思
い浮かべさせる好編である。
 松江の町を「……京店から茶町へ続く通りに出た。店終いした商店街の濡
れた舗道を歩いた。この道を左に折れると宍道湖、右へ曲がると松江城の堀
にぶつかる。どっちを向いても暗い路地の奥に水が見えるはずだ。城を中心
に宍道湖の汽水が人家の隙間を巡っている。松江はそんな町だ。宍道湖を淡
水にすると、姿を消すのは汽水の生物だけではあるまい。……」と描写して
いる。

 大団円は須衛都久神社の境内である。かつて神社は宍道湖に面していた。
 その名残が、駐車場に隠れる大鳥居と境内に残る灯台であり、いま誰にも
知られずひっそりと昔の面影を伝えている。
      
                             

平成4年 早川書房刊


               島根日日新聞連載2 平成12年1月8日 古 浦 義 己