笹沢左保 闇への疾走
左保というペンネームを奥さんの佐保子からとったという著者は今年(注:平成
12年)70才だが、数百冊に及ぶという膨大な作品が生まれる力はどこにあるの
だろうか。この著者の名前は知らなくても昭和40年代から登場した「木枯し紋次
郎」の作品名は誰もが目にしたはずである。虚構の紋次郎生地「上州(群馬県)三
日月村」、そこに「木枯し紋次郎記念館」があり、著者の書斎が再現されて著作な
どの展示物があるのも面白い。
「闇への疾走」の舞台は宍道湖畔である。そこで行われた毎陽国際マラソンは、八
束郡玉造の玉作資料館前を出発して大原郡木次町で折り返す。優勝の呼び声の高か
った波多野は、走り続けながらひとりの女のことを思う。東京立川市で練習をして
いたときに知り合った衿香という女である。ひたすら走り続ける場面と女と関わっ
たときの回想が交互に描かれる。波多野が練習する土曜日の数時間、新婚の妻は彼
の同僚と不倫をしていた。雨が降ると練習を中止してタクシーで家に帰るのだが、
そうさせまいとする衿香は波多野を自分のアパートに引き入れる。結婚前の波多野
の妻が、刑務所に入っている衿香の男の強盗事件をかばったことで短い刑期になっ
た。その見返りに衿香は女の武器を使ったのである。
マラソンの後半、波多野は走りながら、必ず土曜日の雨の日に衿香が自分を呼び
寄せる理由に気づいた。雑念に惑わされると走れなくなる優勝候補の波多野はしだ
いに遅れ、無名の選手に追い抜かれて行く。波多野の頭には、マラソンの起源と言
われるアテナイ軍の伝令が「わが軍勝てり」と告げて絶命したことと自分を重ねな
がらひたすら走り続ける。しかし、体力は既に限界であった。そして波多野は、つ
いにゴール前で死の闇の中へと走り込むのである。
ミステリーは、さりげない出来事の中におく違う視点から発見できた意外性が書
き手の目に光って見えたとき、それをテーマにした作品が生まれる。この著者には
その天分というようなものがあると言えるかもしれない。
「闇への疾走」はそのミステリーだが、舞台は必ずしも宍道湖畔でなくてもよか
ったのである。だが、なぜかこの小説は舞台は出雲、それも宍道湖を眺めながらラ
ンナーは走る。山陰は小説の舞台になる。作家を惹きつける何か言いしれぬ魅力が
この地にはあるのであろう。
「犯人ただいま逃亡中・ミステリー傑作選5」所収
昭和50年刊 講談社文庫
島根日日新聞連載8 平成12年2月19日 古 浦 義 己