津 村 秀 介 宍道湖殺人事件
山陰の城下町松江は、水の都だ。 宍道湖と中海を結ぶ大橋川が、人口十四万の町を南北に分けている。南側が新市街地、北側が旧城下町となる。 周囲約五十キロの湖は、朝霧と夕映えの美しいことで知られるが、その夜の宍道湖はどうしようもないほど濁っていた。 八月六日、火曜日。 蒸し暑い夜だった。東海地方に接近した台風12号の余波で、城下町には、時折り強い雨が降った。雨は風を伴っていた。 風と、雨のせいか、町は夜のくるのが早かった。 暗い湖面に浮かぶ嫁ケ島の、何本かの松の木も激しく揺れている。投身した若い美女のなきがらを乗せて、一夜のうちに浮かび上がったという伝説を残している島だ。 事件は、その、島とはいえないはどに小さい嫁ケ島を眼下に見る、湖畔のホテル六階で起こった。 『松籟ホテル』は宍道湖大橋の北側、旧城下町の末次公園を背にしていた。二年前に増築された、白壁、七階建てのホテルだ。 付近には格式のある古い旅舘とか、松江名物のスズキの奉書焼きを看板にする料亭などが並んでいる。 『松籟ホテル』605号室と607号室の宿泊客が異変に気づいたのは、間もなく午後八時になろうとするころである。 605号室に投宿した、岡山から観光に来た初老の夫婦連れはソファでテレビを見ており、607号室の、大阪から出張してきた三十代の会社員は、入浴をすませた矢先だった。 騒ぎは、双方のの部屋に挟まれた606号室で生じた。 「だ、だれか来てくれ!」 男の絶叫が、突然、夜の雨を引き裂いたのだ。叫び声と同時に、なにかをぶつけ合う大きい音が、壁越しに聞こえた。 「殺される! だ、だれか!」 救いを求める絶叫は、引きつるような、金属的な声に変わった。 6055号室の夫婦は思わず肩を寄せ合い、607号室の会社員は浴衣の胸をはだけたまま立ち上がっていた。 606号室のベランダのガラスが、物すごい音を立てて割れたのは、会社員が、フロントヘ急報するために、電話機に手を伸ばしたときだった。 |
平成元年 光文社文庫