開 高 健 新しい天体
夜、松江についた。湖に面した古くて荘厳な気配のただよう旅館に入る。松江は地震、大火、空襲のどれにも出会わなかったので、古い旅館にはいい旅館がある。木組み、柱、廊下、いたるところに澄んだ艶がでていて、、また明るい灯のついた部屋にすわってひとりで酒を酌んでいると白い障子のすぐそとに、すぐそとのすぐそこに闇のうずくまる気配が感じられる。……中略…… 「だんべらが降ってきました」 といった。 「雪のことをそういうの?」 彼がたずねると、 「そうです」 老女はわらった。 「このあたりでは雪のことをだんべらといいます。ぽたん雪のことでございますね。だんぺらが降ってきたとか、だんべらがたまるとか。そういうんでございます。だんべということもあります」 「そりゃたいへんだ。松江だからいいけれど、東北へいってだんべなどといったら、えらいことになる」 「そうでございますね」 老女は無邪気にわらった。 |
昭和49年 潮出版社刊