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  塚本邦雄  八雲半島 

 ――私は初めて「能登半島」へ赴いた。たが、「半島を見た」とは言へない。半島は「瞰る」他はないのは自明のことで、同時にそれは「知り」「識る」こととは無限に隔る。瞰ることも識ることもせず、私はこの「半島」を書いた。――
 著者は、「半島〜成り剰れるものの悲劇」という小説の跋文で述べている。この「半島」は、能登半島、幻想半島、火の國半島などの章から成り、著者であって著者でない「私」の語りから構成されている。
 この書は、小説の分野なのか、随筆なのか、判断に迷う。だが、最後の章「八雲半島」は確かに小説である。
 ――昭和二十七年か八年、ある雪の夜に、この生温い温泉で、全く偶然に、私は會ふことなど夢にも考へなかった、名のみ知る歌の仲間と、ばったり顔を合はせ、彼の人生の側面を見てしまった。――
 生ぬるい温泉とは、大原郡大東町海潮温泉である。そこで会ったのは大社町出身のドン・フワン祝部常春。語り手の私は、常春と彼の親族の住む恵曇の片句へ行く。そこで常春の父の後妻である七瀬、妹八春を巡る一族の愛欲絵図を聞かされる。
 ――あの狂気の季節に知り合った四人は、まさに卍巴に愛し合った。今だから言ってしまはう。儂は七瀬も八春も抱いた。彼だって同様だ。それどころか男二人で寝ることも珍しくはなかった。男二人の間に姉妹が挟まることも、姉か妹のどちらかを加えることも、逆に姉妹の間に男のどちらかが交ることもあった。考へてみたまへ、姉妹同士の愛の交驩まで入れれば、四人がそれぞれに味はへる快楽の種類の合計は、極く基本的なパターンだけでも十はあるんだよ。――
 異常なまでの愛欲図を出雲風土記に載る美しい地名を下敷きにして、作者であって作者でない「私」は小説とは思えないほどの迫真性のなかで語る。
 ――私の瞼の底には、いつの日も八雲立つ、まことに目も彩な八色の雲を撒き散らした夏の拂暁の出雲の北端の海、その岩鼻、岩鼻にはだしで立つ男の影がある。……中略……彼すら日本の「半島」のさだめに似て、成り剰りつつ永遠に満たされず、二重の性を嘆き、つひに知られることもなく一生を閉ぢたのだらうか。――
 静かな日本海に面した穏やかな片句の漁村で繰り広げられた相姦は、一夜の夢であったのだろうかとも思わせられる。著者は、歌人であり、非現実的な幻想の歌をむ詠み、言葉の魔術師と呼ばれる。

昭和56年 白水社刊


    平成12年8月  松江市立図書館定期講座
                ふるさとの文学を読む会 (古浦義己)