阿刀田 高 分水嶺
「列車の中でまどろで、おもしろい夢を見た。」という書き出しで始まる「分水嶺」は、松江のホテル
で起こったある事件についての「私」の思い出話である。ここでいう「私」とは、私小説的にいう「私」で
はない。物語の語り手としての「私」である。
私は田島保子とPR誌の仕事で出雲大社に行くために、伯備線を行く列車に乗っている。ちょうど、
背中合わせに座った二人の男の話を聞くともなく聞いていると、男と女の話をしていた。夢うつつで聞
いているうちに汽車が「ガクンと揺れ」て、浅い居眠りから醒める。
田島保子と聞いたばかりの男達の話をなぞるようなやりとりをしている間に、列車は米子平野のあ
たりに差し掛かり、山陽と山陰の風景の違いを、ああでもないこうでもないと話したりする。出雲大社
での仕事を終えた後、私は松江の「ホテルI」に泊まるのである。
松江で「I」のつくホテルは2軒しかない。一文字屋と一畑であるが、この小説に登場するホテルは一
畑である。なぜなら一文字屋は、「一文字屋ホテル」であり、一畑はホテルという文字が先にあるから
である。
そのホテルで私は14年前のことを思い出す。糸子という女とこれも仕事で来たのである。私は糸子
を憎からず思っていたのだが、彼女はそのホテルの自分の部屋に男を引き込んでいた。私は糸子を
呼びに行き、ドアの覗きレンズから、男を見たのである。好きである女の部屋に男が居たのを知った
私は心穏やかではないが、仕方がない。14年前は「傷心の旅」だったのである。
その糸子が乳ガンで死んだことを数年後に私は昔の仲間から知らされる。男関係が薄いと乳ガンに
なり易いというのだが、とすると、糸子の部屋に居たのは何だったのだろうと私は思いめぐらすのであ
る。
小説の書き手は自由自在に登場人物を操ることができる。好きであった糸子を他の男に取られたの
だが、その男のものにならないように書き手は糸子を殺してしまったとも言えないこともない。
この小説は、昭和56年5月号の「野性時代」に掲載され、翌年の4月に「異形の地図」という単行本
に収録され、昭和59年には「異形の地図」は文庫になった。
昭和57年 角川書店「異形の地図」 所収
松江市立図書館定期講座「ふるさとの文学を読む会」第13回 古浦義己