内海隆一郎 鰻のたたき
短編「鰻のたたき」は、松江市末次本町にある「川京」という小粋な料理店が
モデルになっていることもあり、食通には知る人ぞ知るという小説である。
その小説の冒頭に、小料理店「川郷」の名物料理「鰻のたたき」が登場する。
その店へ20歳ばかりの娘と一緒に中年の女性がやって来る。この女性の夫であ
る立花は、かつて松江に単身赴任をしていたが、松江から東京に帰った二年後に
急死した。立花は松江で或る女性と親しくなり、結婚の約束をしていたのだが、
亡くなる前に、「松江、松江」とうわごとのように言う。死ぬ前に松江の誰かに
会いたかったのではないかと想像し、それを確かめるために二人は松江に来たの
である。娘は父に女がいたのではないかと考えていて、東京に帰る日、ひとりで
店に来るが、店主は思い違いであることを強調する。しかし、立花と相手の女性
に好意を寄せていた店主夫婦は、なんともやりきれない思いで、その夜、酒を飲
む。
著者は、昭和12年の名古屋生まれ。平成3年3月から、簸川郡斐川町の「あ
かつきの家」に執筆のために滞在した。島根に関心を持つこの作家の「鰻のたた
き」は、その土地に住む者すら忘れてしまいそうな松江の風景や風物を懐かしい
世界として思い出させるような筆致で書いている。
――松江市内では名のとおった店だが、間口一間半のカウンターだけの小さ
な店で、椅子の数は十五席しかない。だから予約しておかないと入れな
いこともある。――
モデルの店は、旅行ガイド本に必ず登場する店であり、確かに店の自慢料理は
鰻のたたきである。小説の最後のところで、店を終えた店主夫婦が立花のことを
思い出しながら鰻を食べる場面がある。
――「へい、鰻のたたき、お待ちどう」「あら、二本も作ったの?」「中途
半端はいけないっていうからな」店主がふくみ笑いをして言った。「お
れも一緒に食べてやるよ」「効きめが、ほんとにあるかしら」「それは
食べてみてのお楽しみだ」二人はカウンターに向かってならんだ。――
人間味溢れる小説、市井のドラマが、さらりとしたユーモアをもただよわせて
松江の町から生まれた。この小説は、平成4年に「夕映えの松江・鰻のたたき」
としてテレビドラマ化されている。
平成5年 光文社刊 鰻のたたき 所収
島根日日新聞連載10 平成12年3月4日 古浦義己