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田辺聖子 いま、何時?
「すみません。いま、何時ですか」という会話から始まるこの小説は、軽快な
短編である。この小説の面白さは、「いま、何時ですか?」とやたらに話しかけ
る独り旅の女が男と仲良くなるというその会話を含めた軽妙さである。
大阪のアパートで独り暮らしをしている30歳の独身の女が山陰への旅に出る。
鳥取県大山で絵を描いている男に「いま、何時ですか?」と声をかけるが、男は
素知らぬ顔をする。そこへ若い娘の一団がやって来て、何のてらいもなく男と親
しくなってしまう。女はなぜ自分が「いま、何時ですか?」と男に声をかけるの
か自問自答したり、いろいろな男との出会いを空想したりする。
境港からフェリーで対岸の美保関町に渡り、そこで吉峰という素敵な男に出会
う場面がある。読者は、後半になって初めて、その女の名前が比佐子であること
が分かるのである。
比佐子は「失礼、いま何時でしょう?」と声をかけ、吉峰と一緒に車で北浦や
笠浦などの島根半島の美しい風景を楽しみながら加賀の潜戸に行く。潜戸の賽の
河原では、死んだ次男を思い出して男が泣いたりするのを見て、比佐子は好意を
持つ。
その夜の宿をどこにするかという話から、松江をやめて、どうやら二人は一緒に
三瓶に行くことになりそうな雰囲気を残しながら小説は終わるのである。
加賀の潜戸でのそんな会話のテンポの良さがこの小説を面白くしているし、天
気のよい海のようにからりとした雰囲気で書かれている。
田辺聖子は「感傷旅行」で芥川賞を取ってデビューするのだが、結婚したあた
りから作品発表誌が純文学系から中間小説雑誌に変わっていく。その中心は、男
と女の関係をユーモラスに書いている作品であり、それに大阪弁がうまく取り入
れられているのである。
「いま、何時?」も短いのだがこの地方の風景を下敷きにして、日常の暮らしの
なかでの男と女のかかわり、女の気持ちをうまく描いた作品である。
この小説の初出は、昭和50年10月17日号の「週刊小説」であった。
昭和53年 実業之日本社刊 三十過ぎのぼたん雪 所収
島根日日新聞連載3 平成12年1月15日 古 浦 義 己