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連載小説「原色の構図」 島根日日新聞掲載

第301回

 千秋と抽象の話をしてから一週間目だった。郵便受けで、微かな音がした。遠慮をしているような音に聞こえた。
 出雲のアトリエに、郵便が配達されるのは昼前である。
 出てみると、『美苑』という美術雑誌を出している美苑出版社からの封筒が入っていた。
 封筒の表に、公募結果通知在中と赤い印が押してある。
 その出版社は、美苑だけを出しているのではない。写真、デザイン、絵画、彫刻などの多様な雑誌や書籍を出版している美術関係出版の大手である。
 一年に二度だが、その出版社は美術展を開く。洋画、日本画、デザインの三部門である。亮輔が洋画部門に出展したのは、夏の盛りだった。二か月が経っていた。
 洋画部門にも幾つかの賞がある。
 今年で第四十回になるが、その都度の記念大賞、特別賞、優秀賞、奨励賞と入選である。記念大賞は三百万円の賞金が付く。賞のランクが下がるにつれて、賞金の額は少なくなる。入選にはない。
 亮輔は封を開く。
 初めて出した抽象画である。成命2005≠ニ題名を付けたもので、書き始めて間もないものの自信はあった。
 大賞とまではいかないにしても、いくら悪くても奨励賞にはなるだろう。
 審査員のひとりに倉敷中央美術館の館長、岩谷昌行が名を連ねている。岩谷賞を取った時の受賞パーティで、岩谷が囁いた言葉を忘れてはいない。(伊折さん、私が力になりますよ。いい後援者、それも美しい方がおありで羨ましい)と言ったのだ。すぐそばに千秋も居た。印象に残っているはずだ。
 頬がゆるんだ。審査方法が、どうなっているか分からないが、岩谷ほどの実力者なら、多少のさじ加減は出来るのだろう。
 折り畳まれた通知を開いた亮輔は、唖然とした。入選≠ニいう予想もしなかった文字が目に飛び込んで来たからだ。
 入選といえば体裁はいい。だが、亮輔にしてみれば、それは落選と同じだった。趣味で描いている素人ではない。幾つかの賞も取り、林という画商も付いている。プロとまでは言えないかもしれないが、それでも、賞という字が付かなければ意味がない。
 足もとの崩れる思いがした。通知を持つ手の震えが、少しずつ、少しずつ大きくなっていった。

第302回

 今までに何度か公募に出して、落選したことはある。それは、もっと以前のことだ。東洋自動車販売という会社に勤め、いつかはプロになれるかもしれないと思っていた頃だ。
 高校生の時は別として、大学を出てから最初に入賞したのは、県の文化美術展だった。それまでに何度か応募した記憶がある。殆どが落選だった。当然のことだった。
 落ちた淵から這い上がろうとして、描いてきた。そのことが、いい作品を生み出すことだと信じていた。それが間違いではないことは分かっている。懸命に描いた。だからこその今がある。
 分かってはいるが、このところ何もかも順調にきていたことからすれば、落選に匹敵する入選はショックだった。
 電話が鳴った。
「伊折先生ですか」
 受話器から聞こえてきた声は、倉敷中央美術館館長の岩谷だった。
 亮輔は、岩谷から電話をもらったことに驚きながら、美苑出版社の公募のことだと咄嗟に思う。
「今年の授賞式では、いろいろとありがとうございました」
「こちらこそ……」
 暫く当たり障りのない話が続いた。
「ところで、伊折先生……」 
 岩谷は、少し間を置く。
「美苑の公募のことですが、ご存知だったと思いますけれども、私も審査員の一人でしてね」
 亮輔は背中に汗が流れるのを感じた。
「ええ、承知しておりました。お恥ずかしい結果で」
「名前は公表しないで審査をすることになっているのですが、私は、ちょっと事情があって先生の作品が出ているのを知っていました」
 実力者である。事情というのはそういうことなのだろう。
「成命2005という作品を出させていただきましたが、力不足で……」
「いや、そんなことはないと思います。なかなかよく出来ていました。ですが……」
「抽象画というのが、問題だったということでしょうか」
「言いにくいですが、そうですね」
「勉強中と言えば、言い訳ですけれども」
 とは言うが、亮輔にしてみれば、かなりの自信作であった。だが、それはいかにも驕りにしか過ぎなかった。

第303回

 この一年間、知らず知らずのうちに、何でも描けると思い込んでいた。何を描いても、ある程度の水準に到達出来ると考えていたのだ。岩谷の言うように、絵としての形は整っているということだ。だが、それはそこまででしかないのではないか。
「公募に出すというのは、自分の画風を追求というのか、確認しようってことでもあるんですがね」
 パリでの二十日間は、新しい自分の画風を創るということに繋がったはずだ。
 岩谷が、さりげなく言った。
「あの絵は売れませんな」
 背中に冷たい氷を当てられたようである。千秋も同じことを言っていた。
 それにしてもと亮輔は思う。岩谷が売れる、売れない≠ニいう視点で言っていることがいささか解せない。
 純粋に絵の価値を語る美術館の館長という立場であれば、それではどうかと思えなくもない。何か別の意味があるのかもしれないのだ。
 だが、正面切って、ぐさりと刺されると、どう返答していいのか分からない。こんな経験は初めてである。
「絵の値打ちと、売れるということとは、また別の問題ではないかと……」
 亮輔は言ってみるが、歯切れが悪い。
「それは分かりますよ。伊折先生のお考えと、買い手があるというのが、常に一致すればいいんですよ」
 確かにそうであるが、それは理想論だ。
「……」
「いろいろ言いましたが、私は先生の力量を信じていますから、気にしないで下さい。応援をします」
 気にしないで欲しいと言われても、額面通り受け取る訳にはいかないが、何はともあれ、岩谷の言葉はありがたい。
「私がね、先生にお願いしたいのは、描きたい時に、描きたいだけ描いて欲しいということです。先生は、それが出来る環境をお持ちだから」
 環境か……と岩谷の言葉を反すうしながら、そう言ってもらえれば、入選に拘ることはないと亮輔は思う。
「ありがとうございます」
 いい絵はいいんですよ、売れますよと岩谷は言って電話を切った。要するに描けということだなと、亮輔は安堵する。
 微かにチャイムの音がした。振り返ると、パソコン画面にメールが到着したという文字が見える。それを知らせる音だった。

第304回

 松江と出雲のアトリエで、インターネットが出来るようにした。どちらのパソコンの前に座っても、違和感のないようにするため、システムを全く同一のものにした。パソコンも、インストールしたソフトも同じだ。
 パソコンの画面に流れたのは、七瀬からのメールだった。
――お久し振りです。あれから随分と長い日が経ってしまいました。――
 亮輔はインターネットが使えるようになってから、夏夫に聞いた七瀬のアドレスに、松江のパソコンからメールを出しておいたのだ。つい、五日ほど前のことだった。
 オーストラリアで元気に過ごしているかと書き、パリから帰って抽象画を始めたこと、美苑の公募に出した作品が入選にしかならなかったと知らせたのだ。
 メールを書くのに時間がかかった。
 キーを打つ度に、七瀬のことが思われたからである。無機質なパソコンのディスプレイの向こうに、七瀬が居るような気がした。メールを送ったのは夜の十一時だった。もう寝ているのだろうとも思った。
 オーストラリアの季節は日本とは逆だが、時差は殆どない。国土は広いから、場所によって多少の違いはあるが、おおむね三十分から一時間の差である。シドニーは、日本時間に一時間を足せばいい。
――パリに行かれたのですね。一人だったのですか? そうかな? いい人と?――
 一人だ、と画面に向かって呟いた。
 千秋がパリに来たものの、数日だけのことで、滞在は一人だったのだと、聞こえもしないのに亮輔は口に出して理屈を言う。
――抽象画にされたんですね? 私の代わりのモデルは、どうされたんですか?――
 若い女の子らしく、やたらに疑問符が使われている。だが、それを読むと一緒に話をしているような気になる。
――入選だったそうですが、いいじゃないですか? 筋を通して描き続けられたらと思います。私も描いてるんですよ。――
 夏夫が、そう言っていた。どんな絵を描いているのだろう。
――シドニーは快適で、季節の変わり目が無いんです。またメールします。――
 そう書かれて、メールは終わっていた。
 七瀬……思わず亮輔は名前を呼ぶ。自分の声に驚き、千秋に聞こえたのではないかと振り返る。アトリエには誰も居ない。亮輔は、ふっと肩を落として安心する。千秋が意識の底から遠のく。

第305回

 千秋という女がありながら、七瀬の顔が見えると、そちらになびく。七瀬が遠くなると、千秋に寄り添う。
 亮輔は我ながら、節操のない男だと少し反省するが、男の気持ちの中には時々そんな芽が出てくるから仕方がないのだと、言い訳を口に出してみる。
 七瀬にメールの返事を書いた。
――描き続けて欲しいと言ってもらって、嬉しかった。――
 そこまで書いて、亮輔は倉敷中央美術館の岩谷が言ってくれたことを七瀬に知らせようと思った。
――入選というのは美苑の公募では落選と同じだが、館長の岩谷さんが、応援すると言ってくれているし、七瀬も励ましてくれるので、意欲が出てきた。――
 書いた画面を見ながら亮輔は、いかにも空々しい文面だと苦笑する。
 夏夫に聞いたことも付け加えた。
――英検を取ると聞いたけれども、随分と勉強するのだな。通訳にでもなるつもりかな?――
 最後に、時間でもあればメールが欲しいと書いて送信する。
 思い付いて、コーヒーを沸かした。松江にも同じものがあるが、千秋が買ってくれたデロンギのコーヒーメーカーである。
 秋が深まると陽射しが、しだいに長くなる。窓から入る陽が、午後のコーヒーを飲んでいる亮輔の足元に延びていた。
 パソコンがメールの到着を知らせた。オーストラリアからである。七瀬だった。
 季節は違うものの、時差は殆どないから、シドニーも午後である。
 七瀬もパソコンの前に居たということだ。インターネットだから当たり前のことだが、目に見えない回線を通じて、七瀬と繋がっている不思議さに亮輔は感動する。送信してから三十分が経っていた。
――絵のことで気落ちしてなくて安心しました。元気でよかった。――
 七瀬の口調だな、と懐かしさが溢れてくる。学校が休みの日で、朝からパソコンの電源を入れていたのだとも書いてある。
――三月に日本へ帰ったら、英会話教室でもやろうかなと思ってます。――
 七瀬は日本に帰ってくるのだと、亮輔は改めて思う。それまでに、まだ半年近くもある。不意に、会いたいという気持ちが湧き上がってきた。
 亮輔は、七瀬を描いたデッサンの幾つかを思い出した。 

第306回

 七瀬のデッサンを頭の中から振り払い、美苑で入選にしかならなかった成命2005≠ノついて亮輔は考えてみる。なぜ、より高いランクの賞に入らなかったのだろうか。
 出品された他の作品との相対的なこともあるだろうが、それはあまり問題にならないはずだ。倉敷中央美術館の岩谷が言うように、よいものはよいのである。
 作品は、憑かれたように描いたものだ。というよりも、絵筆が勝手に動いて作品が出来上がった。絵具は原色を使った。原色には躍動感や激しさを表現する力がある。
 亮輔は、このところ手帳の空白ページやチラシの白い裏などにスケッチをする。風景ではない。ふと思いついた形や線である。殆ど無意識に描いたものだ。
 無意識は、直感的な閃きを作り出すのである。一瞬に感じたものだからといって、何も表現していないとは言えない。思いが現れるのである。
 頭で描くと、どうしてもある考えを表現しようとする。観念的になってはいけないと思う。
 方向は間違ってはいないはずである。ともかく描くしかないのだと考えて、亮輔はひとまず落ち着く。
 思いが収まると、入れ替わりに七瀬が気持ちを占領する。
 亮輔は考えたことをメールに書き、また七瀬に送った。パソコンが目の前にあると、ついキーを叩いてしまう。手書きと違っていかにも便利である。
 思い付いて夏夫の会社に電話を掛けたが、席を外しているが直ぐに戻るという。手が空いたら電話をもらうように頼んでおくと、折り返しのように掛かってきた。
「報告をしておかないといけないんで」
 亮輔は成命2005≠フ入選のことを言った。
「そうか、入選か……」
「お前が、まあまあだと言った絵だ」
「抽象画の出品第一作としては、入選ならいいんじゃないかと思うがね」
「落選ではないからか?」
「次は、その上にということだよ」
 慰めるような口調になっている。
「そう思って書き続けるしかない」
 亮輔は七瀬に書いたメールの内容と同じことを夏夫に言った。
「佐木君とメールで連絡が取れている」
「そうか。それはよかった」
 夏夫と話して、亮輔は再び安堵する。

第307回

 晩秋から年末にかけて、亮輔は松江のアトリエで二つの百号を仕上げた。
 出雲のアトリエでは、小品を描いた。千秋が言うように、一般受けする作品である。 四季それぞれの日本海や出雲平野などを題材にした十点の油彩だ。
 カフェ・ロワールに並べたうち、半分が一か月のうちに買い手がついていた。相良美樹の作品も、少しずつ売れているようである。
 千秋も(これでいいわ)と、さしたる口も挟まない。百号は、一度だけだがレンタカーのワゴン車を借り、松江から出雲のアトリエに運び、千秋に見せた。
「いいじゃないの」
 いつかのように、分からないとは言わなかった。
「原色は原色でも、これまでのものとは違うみたい。配色がいいのね」
 松江で描いた百号の一つは、ひざまずいた裸の女が両手を遠くの太陽に伸ばしている構図のもので旅立ち≠ニ名付けた。
 デフォルメをした女だが、イメージは七瀬だった。それは千秋に言えない。もう一つは、幾何学的に交錯する水平線、垂線、曲線を配置した作品で、タイトルは成命2006≠ナある。いずれも原色を使った。
「旅立ち……」
 千秋が呟くように題名を読んだ。
「亮輔さん、これはどうするの?」
 夏夫が、北陽放送のテレビ番組で使いたいと言っている。
「米子の本山君、僕の友達だが、地方に住む画家の特集番組を作るので、取り上げようという話にしてくれた」
「亮輔さんだけ?」
「いや違う。二人ということだった」
 夏夫には、パリで出会った榊竜司の絵の話をした。そのことから思い付いたようだ。
「二人って?」
「パリで見た絵の、榊竜司……」
「デ・ジュールの?」
 夏夫が番組担当を説得したようだから、奇遇という程でもないだろうが、それにしてもパリのデ・ジュールという画廊に、もし入らなかったら、トリュフォーが榊の絵を見せてくれなかったら、この話にはならなかったはずである。
「どういう構成の番組にするか聞いてはいないけれども、少なくとも画面には、この絵が出る」
「そうなの……」
 千秋が下唇を噛む。淋しげな顔に見えた。

第308回

 千秋の顔に愁いがあるように見える。化粧が少し薄いせいかもしれない。
「どうした?」
 そう聞くと、千秋は両瞼を上げるようにして、(何?)という顔をした。
「顔色が悪いような感じだ」
「そうかな?」
 千秋が手を左頬に当てた。左手の薬指にはめられた赤いダイヤモンドの指輪のせいで、よけいに頬が白く見える。
 赤いダイヤは、珍しいなと亮輔は暫く見詰めた。
「萩と出雲を往復しているから、疲れが出たんじゃないかな」
 指輪から目を離して亮輔は言う。
「そうかなあ」
「そりゃそうだ。若くは……」
 千秋が睨んだ。
「そうよ。ごめんなさいね……年上で」
 そんなつもりで言ったんじゃない、と亮輔は慌てて言い訳をする。
「いいのよ。亮輔さんと十歳は違うから、今更、亮輔さんに言われなくても自分で分かってるわ」
「いや、それは」
「でも、羨ましい。これからいろんなことが出来るから……」
「それは千秋のお陰で。これからも」
「ずっといつまでも……そうはいかないわ」
 どういう意味で、そう言うのか。亮輔は計りかねる。
「それはそうでしょう。私には主人と、それだけじゃない。子どもも居るわ。つまり家庭があるということなのよ」
「……」
「私は、亮輔さんの才能に賭けてみた。別の言い方をすれば、私は好きなのよ。あなたの絵と亮輔さんが」
 年齢の差は初めから知っている。金銭的な援助をしてくれていることもありがたいと思っている。
 だが、亮輔も、それがいつまでも続くとは思っていない。
 それを知りながら、常に意識の外におこうとしているのも事実である。
「初めて宍道湖の畔にある美術館で会ったときから、私は好きになったの。亮輔さんという男が」
「男……」
「少し飲もうか。そうすれば顔色もよくなるかも」
 千秋がグラスの用意をした。いつの間にか、外は闇になっている。

第309回

 翌日、千秋は、疲れているかもしれないから休むと言い、萩の家に帰って行った。
 じゃあ、と言って振り返りながら左手を上げた薬指に指輪が光った。小粒のダイヤにV字型のアームを組み合わせた指輪である。昨日の赤いダイヤではなかった。
 このところ、千秋の指が白く細くなったように思える。アームがV字になっていると指を長くほっそりと見せるからかと考えながら、千秋の車が走り去るのを見ていた。
 亮輔は、昨夜のことを思い出す。
 顔色がよくなるかもしれないと言って、千秋はブランデーを飲んだ。だが半分も飲まずにグラスを置いてしまった。
 ベッドに入ってからも、いつもの千秋とは違っていた。少し痩せたように思えた。
「どうしたの?」
 そう聞いた亮輔に、黙って顔を横に振っただけだった。
 知り合ってからの千秋を見ていると、仕事があまりにも多いようである。
 マンションを建て、亮輔のためとはいえ画廊に近いものまで経営している。画商という程のものではないにしろ、絵を売るのも事業の一つである。
 萩にも不動産の会社がある。亮輔はあまりよく知らないが、マンションや貸しビルなどの経営も少しずつ広げているようだ。 千秋が昨日言ったように、家庭もある。いくら事業主とはいえ、仕事ばかりという訳にもいかないはずだ。家事手伝いを雇っているにしても、子どもも居ることだから親の役目や立場もある。
 千秋が出雲に来ると、少なくとも一週間は居る。家庭があるのに、いいのだろうかと思う。それを言えば、千秋が出雲に来る日数を減らすのではないかと、他愛のないことも考えたりする。
 出雲と萩の行き来も、おそらくかなりな負担になっているのではないか。
 これまで、そんなことについて話をしたことはない。亮輔が聞いても、避けるようにして話題にしたがらないのだ。
 千秋は確かに疲れているようだ。それだけならいいが、何かの病気のせいかもしれないのである。
 しだいに亮輔は不安になる。もし、千秋が居なくなったとしたら、自分はどうなるのか。
 絵は、抽象は別としてそれなりに売れている。少しずつだが、認知されているとは思う。だが、それで生活が出来ると言える程でもない。

第310回

 亮輔は夏夫と話をしてみようと思った。結論が出なくてもいい。とりとめのない話でも気が休まる。
 夜になって、夏夫の家に電話を掛けた。
「例の番組のことだが……」
「山陰の美術家達というシリーズで、三回の予定だ」
「絵だけではないのだな」
「彫刻とデザインが加わる」
 美術家達ということだから、幾つかの分野が入らないと不平等というのが理由だ。
「もめ事が起こっても困るから」
 夏夫は、そう言って笑った。
「三十分番組で、最初のタイトルやエンドのスタッフロールもあるし、途中にCMも入るから、一人が十二分というところだ。収録日が決まったら連絡する」
 十五分と思っていたが、なるほどそうなのだと亮輔は納得する。
「ところで……」
 抽象画は売るということからすると、なかなか難しいがと、亮輔は話題を変えた。
「そうかもしれない。抽象を好む人もあるんだが」
「一般的には、絵というと、やはり具象ということになるだろうな」
「お前の描いた成命2005は、置く場所によってはいいと思うけどな。どうして、そういうことを聞くんだ?」 
「出雲でもそうだが、観る人も買う人もどうしても具象中心になる」
「確かにな。値段も具象と抽象では、ゼロが一つ違うと言われたりもするから」
 夏夫は評論専門だから、売買には関わりはないものの、知識は持っている。
「極端に言うと、抽象の作品を売るというのは間違いかとこの頃思うようになった」
「生きるために具象を描くというのは、芸術じゃないと言う輩もいるが、伊折画伯の描いた風景を好む人もあるからな」
 画伯などと言って、冗談めかした夏夫は慰めるつもりだ。
「本当は、売れる絵を描くのではなくて、別の仕事を持つということもあるが……」
 絵に専念するには、仕事をしていては駄目だから、勤めを辞めたのだろうと、夏夫は少し語気を強くする。
「何かあったのか? 弱腰だぞ」
 美苑の入選から千秋のことなどで、そうだろうと思う。
「お前なら大丈夫だ」
 亮輔は頷いて、電話を置いた。いつものことだが、夏夫との話でまずは落ち着く。

第311回

 一週間後だった。萩に帰った千秋から電話があった。
「少しの間、出雲に行くことが出来ないわ」
 珍しく沈んだ声だった。
「何で? 出雲は嫌いになったかな」
 仕事が忙しい時には、よくあることだった。冗談めかして言ったのだが、意外な言葉が返ってきた。
「……どうやら、白血病らしいの。検査の途中なんだけれども」
 精力的に仕事をこなしている千秋を見ていると、病気はまるで遠い世界のようでもある。
「そんな……。元気なのに」
 電話の背後から、ざわめきが聞こえる。病院から掛けているようだ。
「山口市の日赤病院で診てもらってる」
 白血病は、白血球が異常に増え、貧血を起こしたり出血が止まらないこともある。
 萩に帰る前の夜、千秋の体がいつになく青白く見えたことを亮輔は思い出す。
 気のせいだろうが、背中がすっと冷たくなった。
「なんでそんなことに……」
「そう言われても……私の祖父っていうか、母の父だけれども、白血病で亡くなってるの。だから遺伝かも」
「遺伝?」
「だから、そんな気もしないではなかったのよ。私もいつかは……って思ったりしたこともあったから」
「そんな」
「検査に何日か掛かるからね。その結果でということもあるけれども。今のところの話では、急性かもしれないって」
「治るの?」
 千秋の気持ちを逆なでするような馬鹿げたことを聞いたなと、亮輔は言ってから気が付く。
「何言ってるの。治るわよ。いえ、治すわよ。私、死なないわよ」
 考えたこともなかった死≠ネどという言葉を聞くと、足元が崩れて暗闇の中に吸い込まれそうである。
「死ぬなんて、簡単にそんなことを言っちゃいけない」
「死なないと言ったけど、人間はいつか死ぬのよ。早いか遅いかの違いだわ」
「何を言ってる」
 亮輔は電話に向かって声を上げる。
「ごめんなさい。また電話するね」
 千秋はそう言い、電話を切った。携帯が手の汗で濡れていた。

第312回

 白血病か……亮輔は携帯の蓋を閉じながら呟く。血液の癌だと言われているが、初期のようだし、発見も早いから治療は可能だろう。
 大正時代から昭和二十年代辺りまで、怖れられていたのは結核で、死亡原因の第一位であった。だが、今でも感染する人があるから、過去の病気ともいえないようだ。
 千秋は、死なないわ、治すわよと言ったが、白血病の死亡率や治癒率はどうなのだろうと、亮輔は不安になる。
 どういう治療をするのか分からないが、これまでのように仕事をしながら治すということにはならないだろう。入院をすることになるかもしれない。
 白血病といっても、いろいろな病状があるのではないか。リンパ性とか骨髄性などという言葉を聞いたことがある。
 千秋が白血病に……と、もう一度繰り返してみる。思ってもみなかった千秋からの電話で、亮輔の思いは悪い方へと動き出すが、いずれにしても結論が出る訳ではない。
 不意に思い付く。
「萩に行こう」
 亮輔はそう考えたものの、そんなことが出来るはずがないと思い返す。
 萩に行けば、千秋の家族と顔を合わせることもあるかもしれない。
 千秋は夫や子どものことをあまり話したがらなかった。
 夫は、萩焼の真彩窯という窯元をやっている。男の子どもが二人居て、東京と大阪の大学に通っている。
 亮輔はその程度のことしか知らない。千秋の夫にもし出会ったとすれば、自分をどう紹介するのか。知らぬ顔で知人だと言えなくもないだろうが、それは出来ないと亮輔は思う。
 ひたすら千秋からの連絡を待つだけである。亮輔の方からどうこうすることは出来ない。考えてみると、千秋とのことは世間から隔絶された二人だけの世界の話でありはしないか。
 それにしても、どうすればいいのか。そう思った亮輔は、相談する相手が誰も居ないことに気付いて唖然とした。
 アトリエの中を閉じ込められた獣のように亮輔は歩き回る。
 ブランデーのボトルが目に入った。落ち着けば、いい考えが浮かぶかもしれない。グラスに注いで一気に飲んだ。
 ボトルが三分の一ばかり減ったところで、亮輔は酔ってソファに倒れ込む。

第313回

 どれくらい眠っていたのだろうか。頭を起こして時計を見ると、午前三時だった。ソファで酔いつぶれてから、六時間は経っている。冬の夜明けは遅いといっても、いつも起きる五時までには二時間しかない。起きてしまおうかどうしようかと思いながら、亮輔は仄暗い天井を見ながら千秋のことをまた考える。萩に行こうかと思ってもみたが、どうやらそれは無理のようだ。まさか千秋が死ぬことはないだろう。
 少し重い瞼を再び閉じて、亮輔は一年を振り返った。
 倉敷中央美術館での授賞式の後、記念にとフランスに飛んだ。
 パリに行ったことは、ある意味で大きな収穫だった。ルーヴルや小さな画廊での出来事も懐かしく思い出す。
 だが、亮輔が知らない間に、七瀬はオーストラリアへ行ってしまっていた。そして、相良美樹とのちょっとしたわだかまりが残り、更に、千秋の病気と続いた。
 絵の方では、パリで得た感触を確かめるために、抽象画を描いたが、今のところ成功したとは言えていない。
 千秋と出会い、出雲にアトリエを構えて描き始めた頃と比べると、何もかもが明らかに下り坂であるように思えた。
 このままではいけないと亮輔は考える。
 千秋の病気のことは、とりあえずはどうしようもない。医者まかせである。
 ともかく、絵を描くことしかないのだ、と自分に言い聞かせた。新しく開拓しようとする抽象絵画を何とか自分のものにしたい。描き始めたシリーズ成命≠ヘ、我田引水かもしれないが、不出来ではない。
 日本には、まだ抽象を受け入れる素地が少ないのではないか。亮輔は、美術史を特に研究した訳ではない。確かなことは言えないが、そういう気もする。
 西欧での抽象画の歴史は伝統的に長い。第一次世界大戦の直前、ヨーロッパで抽象絵画が現れ、いち早く日本の絵画界は取り入れたものの、未だ百年にもならない。
 昭和三十一年に亡くなった坂田一男という岡山の画家が居た。現在、日本抽象画の先駆者として認められてはいるものの、生前は必ずしも正当な評価を受けていなかった。地位や名誉には目もくれず、中央画壇から離れ、玉島のアトリエで清貧の抽象画家として生涯を終えた。
 亮輔は、坂田一男に、自分をなぞらえてみる。今は売れなくてもいい。いつかは認められる日が来るはずだ。

第313回

 千秋が萩に帰ったように、亮輔は出雲から離れ、松江のアトリエに暫くこもって描くことにした。展覧会に出すという目的ではない。誰に頼まれたというのでもない。ただひたすら、憶いを練る。
 赤、青など、原色の鮮やかな色彩が、強い波動で胸の奥から湧き出てくる。
 何かが誕生しようとする命の隆起ともいうべきものが、大きく脈打つ瞬間を想像する。うねりが迫ってくる。
 うねり……そこまで考えて、亮輔は米子の夢の杜美術館で見た河内幸成の版画を思い出した。河内の版画は、独創的な木版画凹凸摺りだったが、斬新なイメージで表現されていた。
 展示されている中に、飛べ北斎≠ニ題した版画があった。波の中から鶏が飛び立とうとする構図である。
 北斎の波のうねりは壮大である。河内は北斎の版画に触発されたのである。
 うねりの果てに、壮大な空間があった。というよりも空白である。日本画でいう余韻でもあった。
 亮輔は、成命シリーズの幾つかに、それを使おうと思った。
 白い空間を大胆に取り込んでみた。白は画面の背景なのだが、別の色でもいいのではないかとも思った。
 更に、筆で描くばかりでなく、原色の絵具をキャンバスに垂らすことも取り入れた。もちろん、この方法は亮輔の考えたことではない。今から六十年ばかり前、アメリカのジャクソン・ポロックが開発した技法である。
 キャンバスを立て掛けた状態で描くという常識的な方法とドリッピングとも呼ばれる描き方を併用するということの是非は別として、何か新しい試みをする必要があるのではないかと亮輔は考える。
 小さなキャンバスの幾枚かに、それをやってみた。少しばかりだが、思いが乗ったように思えた。
 千秋のことは忘れた。あえて意識から遠ざけようとし、ともかく描きに描く。
 亮輔は、それらの試作をもとにして、百号に取り組んだ。いつ完成するのか自分でも分からない。
 一週間が経っていた。
 朝、起きてみるとパソコンに七瀬からのメールが入っていた。
――今年も暮れが近いですね。お元気のことと思います。――
 師走も終わりに近い日だった。

第315回

 千秋のことが気になり、暫く七瀬にメールを出さなかったことに亮輔は自分でも呆れる。
――亮輔さん、日本は冬ですね。シドニーは夏です。気温が三十度を超える日はあまりないので、過ごしやすいのです。山陰の九月くらいな気温だからです。私がホームステイをしている家には、空調がありません。想像もできないでしょうね。――
 亮輔さん、と呼びかけた七瀬のメールの文字が懐かしいもののように見えた。
 亮輔は青味を帯び、はがね板にも似た冬の空を見上げながら、シドニーは夏なのだと改めて思う。この空を七瀬も見ているのではないかと、少年のような想像を巡らしてみる。
――語学の勉強は、自分で言うのもおかしいですが、思っていたより進みました。なにしろ周りは英語だらけですから、日本語を忘れそうです。――
 パソコン画面の後から、七瀬の顔が出て来そうな気がして、亮輔は思わず笑う。
 七瀬が書いているように、来年になれば、もう一年が過ぎることになる。早いものだと思う。
――シドニーの風景をスケッチしています。油絵の道具を買う余裕もないし、時間もありません。ですから、コンテなんかでの素描だけですが、日本に帰ってから、それをもとにして大きな絵にしてみるのもいいかなあなんて、楽しい空想もしているのです。――
 メールを読んでいると、日本が懐かしいという思いが伝わってくるようだ。
――以前、メールにも書きましたが、英会話の教室が出来そうです。帰るまでに、もっと勉強しなければいけないんですが、こんなことを考えていると、早く日本に帰りたいような気にもなるのです。――
 英会話の教室はともかく、帰ったらどうするのだと亮輔は問い掛けたい。
――亮輔さんは、その後、絵の方はどうですか? 新しい方向、つまり抽象は描いておられますか。私は亮輔さんなら、どういう分野でも出来ると思っています。応援するとは言うものの、何も出来ないのですが、気持ちだけは十分ありますから。それを亮輔さんに伝えたいのです。いい絵を描いてください。お願いします。――
 分かったと、亮輔は画面に向かって話し掛けた。メールは、また書きますという文字で終わっていた。  
 亮輔は返事のメールを書き始める。

第316回

 年が明け、例年になく穏やかでゆったりとした正月である。
 格別何があって気ぜわしいという程でもなかったのだが、このところ出雲と松江を往復することがなかったせいである。
 千秋は萩に帰り、山口市の日赤病院で受けている検査が終わるとそのまま入院した。時々、携帯にメールが入るが、大丈夫、元気だからという簡単な連絡しかない。詳しいことは分からないままである。
 一月も四日目になっていた。年末から、松江のアトリエで描いていた絵は、この数日、そのままにしている。
 出雲に居ることが多かった亮輔は、せめて正月くらいは両親のそばにで過ごしてやりたかった。県の東京事務所に勤めている妹の真沙子は、同じ事務所の職員と結婚し、今年の正月は帰らないという。
 四人の家族が三人になった。そのせいか、両親に少しばかり淋しさの影が見える。
 正月の訪問客も、さすがに途絶えた。静かな夜だった。
「そろそろ、どうなの?」
「何が?」
 母の言いたいことは分かっている。
「真沙子も今年からは、お正月といっても、そうそうは帰らないし……」
 結婚したらどうかという話である。
「ああ……」
「会社を辞めて絵の方にって聞いた時、どうなることかと思ったけど、何とかうまくいってるようだしね」
 亮輔は千秋と七瀬の顔を思い浮かべる。
「そういう人はいないんだ」
 新聞を見ていた父が、ちらりと顔を向け、直ぐに目を戻した。
「米子の夏夫さんの……」
「夏夫がどうかした?」
「違うの。夏夫さんの紹介で、あなたのモデルになっていた佐木さんというお嬢さん。いい人のようね」
 アトリエで七瀬のヌードを描いていた頃、何度か来たことがあるから知っているはずだ。夏夫の知り合いだということも、言ってあった。
「いつもきちんと挨拶をしてたわ。でも、この頃は見えないようだけど」
「仕事が終わったから」
「お元気なの?」
「そうらしい」
 亮輔は、七瀬のメールを思い出す。
 もう二か月もすれば日本に帰ってくるはずである。

第317回

 七瀬が日本に帰ったら、モデルと画家の関係が復活するのだろうか。
 そんなことを思っていると、母がまた聞いてくる。
「佐木さんは、何をしておられるの?」
「オーストラリアへ英語の勉強に行ってるから」
「どれくらい?」
「ああ、去年の四月から一年間っていう予定らしい」
「ということは、三月にはお帰りになるってことなのね」
「そうだな」
 へえー、そうなの。勉強家なんだね、と言いながら母は新聞を読んでいる父の方を見た。
「何のために英語を?」
 新聞から目を上げ、父が聞いた。
「よく分からないんだが、英会話教室をやりたいとか言ってた」
「最近は、外国の人が教える教室が多いんじゃないか?」
「多分ね」
 父に言われるまでもない。小さな子ども相手ならともかく、大人は日本人が先生なら不満だろう。七瀬も本当に教室をすると決めているかどうか分からない。
 初めて出会った時、英語を生かす仕事が出来たらいいと言っていたことを亮輔は思い出す。
「英語が出来れば、教室じゃなくても、いろんな所で仕事があるだろうな」
「島根県にも、外国の人が沢山来てるからねえ。でも立派ね、佐木さんは」
 母が何となく意識して七瀬のことを言っているようで、亮輔は苦笑する。
「最近の若い人はいいね。外国にまで勉強に行くんだからな」
 新聞を閉じて、父が言った。
「誰も好きなことをやってるさ」
 言いながら自分はどうなのだと思い、亮輔は首をすくめた。
「そうよね。あなたもそうなんだから、結婚して安心させて欲しいわ」
 母に言われると辛い。我が儘ばかり通す訳にもいかないなと、少しばかり殊勝な気持ちになる。
「分かってる」
「あなたがいいと言う人なら、それでいいわ。ね、お父さん」
「まあな……」
 亮輔は、ふっと隣に七瀬が座っている風景を想像してみる。

第318回

 携帯が音を立てた。電話番号と一緒に、紗納千秋の名前が画面に浮かんでいる。
「ちょっと待って」
 亮輔は携帯を耳に当てたまま、アトリエに向かった。千秋からの電話は、久し振りだった。
「心配していた。その後、どう?」
「ええ、ありがとう」
 千秋の声は、以前のような勢いがない。「元気出して」
 声だけで顔が見えないというのは、不安である。どう言っていいのか分からない。
「いろいろ言っておこうと思って……」
 検査の結果ということもあるのだろうが、いずれにしてもいい知らせではないようだ。白血病に間違いはないだろう。そう簡単に治りはしないと覚悟はしていたが、言っておきたいことがあるというのは、余程のことなのだ。
「急性の骨髄性ってことだった」
 やはりそうなのだ。
 胸の奥から、淋しさにも似た悲愴な思いがせり上がってくる。
 急性骨髄性白血病は、白血球が悪性腫瘍、つまりは癌化したもので、増殖していくはずである。亮輔は、白血病のことが書かれた本を買って来て読んだ。専門的な用語もあり、半分しか分からなかったが、厄介な病気であることには間違いない。
「遺伝かもと言っていたけど、医者はそう言ったのか?」
「遺伝子レベルでの異常だとか言われたけど、それでどうなるものでもないし」
 治るのかと聞きたいが、それを言えば千秋の気持ちを抉ることになる。
「でもね……」
 千秋は続けた。
 早いうちに検査をして治療を始めるので、完全に治る可能性が高い。ただし、放っておけば急速に進行する。日赤病院の医師は、そう説明したと言う。
「私、少し安心はしているんだけど」
「治療の方法も近頃は進んでいるから、大丈夫だよ。直ぐに治るよ」
「病院には、ちょうど白血病専門の先生がおられるのよ」
 白血病は、血液専門家のいる病院での治療が必要である。
「先生も言われるんだけど、少し長くかかるって。それで、仕事のことなど亮輔さんに話をしようと思って電話をしたの」
「長い……」
 千秋とは当分会えないということだ。

第319回

 千秋の入院は、どれだけの期間になるのか分からない。一年か、もしくは二年にもなるのか。亮輔は、そう考えると暗澹とした気持ちになる。
「仕事のことだけど。亮輔さん……」
 千秋が少し口ごもる。
「何かすることがあれば」
「いえ、そうじゃなくてね。出雲の仕事から当分の間、手を引かなくちゃ」
 それはそうだろうと言いながら、亮輔は携帯を左手から右手に持ち代える。
「それでね……」
 出雲のカフェ・ロワールの経営と、ビルの管理は萩の会社から派遣する幹部社員に任せる。事務所は人数を減らして、これからは新しい事業は当分の間、見合わせると、千秋は言った。
 亮輔は、ビルなどの管理には関わってはいない。最初からの約束通り、インテリアなどの相談に乗るだけだったから、それはどうということはないのである。
「あなたが使っているアトリエは、これまで通り自由に使っていいから」
「自由に?」
 今でもそうして使っている。千秋は何が言いたいのだろうか。
「そう。今までのように、いつでも」
「どういう意味?」
 出雲には、もう帰って来ないというようにも取れる。
「別に意味があってのことじゃない。うちの社員に言ってあるから、私が居なくても自由に出入りしていいってことよ」
「それはそうかもしれないが」
「治るのにどれくらいかかるのか、お医者さんもその辺りのことははっきり言わないから分からないけど、ともかく長引くことは確かだから、そう思っただけ」
 千秋が遠くなっていきそうである。
「会いたい……」
 千秋の含み笑いが聞こえた。
「分かっているわ。でも当分は駄目ね……お預けよ」
 亮輔は、(お預けよ)と聞いて、少し安堵する。冗談めいた言い方をする千秋が、元気そうに思えた。 
「萩へ行こうか」
「駄目よ。亮輔さんは、出雲に居たらいいのよ。出雲の人でいいのよ」
 出雲の人か、と亮輔は繰り返す。確かに言われればそうである。
「電話するからね。心配しなくていいの」
 亮輔は頷くしかない。  

第320回

 山陰という言葉を聞くと、いかにも雪国のようだが、積雪がある日というのは珍しいようになった。
 師走に入っても雪の降らない日が多く、年が暮れていくという感じがしなかった。
 正月には新雪を踏みしめながら初詣をしないと、新しい年が来たという気持ちにはなれない。
 思い出したように霰が屋根を打ち、積もるほどではないが、それでも一月の終わりから二月の初めてにかけて、時々雪が降るようになった。
 雪が数十センチも積もる日があったのは、昭和四十年代辺りまでではないかという話を父から亮輔は聞いたことがある。町中でも、スノータイヤにチェンを巻いて走ったという。
 人の気持ちというものは面白いもので、雪が降ると大変だ、困るなどと言いながら、反対に降らないと、逆に何となく物足りなくなる。
 そんな身勝手な雪を待つ思いが届いたのか、節分が近くなると、冷たい風が吹き、積もる程ではないにしても、雪の降る荒れた日が続くようになった。毎年のように暖冬だと言いながらも、季節は間違いなくやって来るようだ。
 節分に、あと二日という日の午後であった。出雲のアトリエの窓からは、北山の峰が斑に雪を乗せているのが見えた。空は鈍色である。
「行ってみようか……」
 不意にそう思った。
 千秋からの電話は毎日とは言わないまでも、一日おきくらいに掛かっていた。それが三日から五日に一度となり、少しずつだが間遠になっていた。亮輔は、それが気になる。
 千秋は、山口に来る必要はないと言っている。行ってどうなるというものでもないが、千秋が帰って以来、一度も会っていないのは不自然でもある。ましてや、病気である。見舞うのが当然ではないか。
 車でゆっくり行っても、一日もかかりはしない。日帰りというのは無理だから、どこか適当な所で泊まればいい。連れがある訳ではないから、細かい予定を立てる必要もない。
「やはり……行こう」
 亮輔は決める。
 描き続けたせいで、疲れていた。
 暫く絵から離れてみるのもいいかもしれないのである。

第321回

 困ったような、それでいて少し笑いを含み、仕方がない人という言い方だった。
「津和野まで来たの……か。亮輔さん」
「明日、そこに行こうと思って」
「駄目よ」
 いつになく激しい口調である。亮輔は思わず携帯を耳から離した。
「どうして」
「いつか言ったでしょう。亮輔さんは出雲の人だと」
 山口の日赤病院で検査をした結果を知らせてきた時に、千秋はそう言った。
「私……亮輔さんが好きなの。あなたという人が好きなんだけれど、それと同じくらいに描いている絵も。だからいい絵を描いて欲しい」
 千秋に出会った夏、最初に聞いたのは、素敵だわ、という言葉だった。宍道湖岸にある松江現代美術館で美樹と二人展をした時のことである。千秋が指差したのは、紅葉の鰐淵寺を背景に若い女を描いた絵だ。
 千秋は、(私もこんなふうに描いてもらいたいわ)と言ったのだ。それが全ての始まりだった。
「勝手な言い方かもしれないけど、私は家庭を壊したくないの。もちろん、主人にも亮輔さんとのことを知られたくない」
「……」
「来てくれるのは嬉しい。でも、亮輔さんが病院に来た時、家族か私の知り合いの誰かに会わないとも限らないでしょう」
「どういう関係かなんて言うことはないし、そんなことは」
「嘘がつけないの。仕事では、もちろんいろんなことを言うわよ。でもね、家族には」
 思いもかけない千秋の一面を知ったような気がする。
「だから、出雲の人だと?」
「そう。亮輔さんとの出雲の暮らしは、私にとって別世界なの」
 だとすると、もし千秋が消えたとすれば、自分は存在しなかったことと同じではないかと、亮輔はいささか憮然とする。
「変な女だと思うでしょう。仕方がないの、私はいつもこうだから」
 千秋の言っていることは、筋が通らない気もするが、今更とやかく言っても始まらない。
「遠くから来てくれたのは、本当に嬉しい。津和野に美術館があるでしょう。そこに行ってから帰ってね……好きよ」
 亮輔は、分かったと言って、電話を切る。千秋の言うようにしようと思った。 

第322回

 困ったような、それでいて少し笑いを含み、仕方がない人という言い方だった。
「津和野まで来たの……か。亮輔さん」
「明日、そこに行こうと思って」
「駄目よ」
 いつになく激しい口調である。亮輔は思わず携帯を耳から離した。
「どうして」
「いつか言ったでしょう。亮輔さんは出雲の人だと」
 山口の日赤病院で検査をした結果を知らせてきた時に、千秋はそう言った。
「私……亮輔さんが好きなの。あなたという人が好きなんだけれど、それと同じくらいに描いている絵も。だからいい絵を描いて欲しい」
 千秋に出会った夏、最初に聞いたのは、素敵だわ、という言葉だった。宍道湖岸にある松江現代美術館で美樹と二人展をした時のことである。千秋が指差したのは、紅葉の鰐淵寺を背景に若い女を描いた絵だ。
 千秋は、(私もこんなふうに描いてもらいたいわ)と言ったのだ。それが全ての始まりだった。
「勝手な言い方かもしれないけど、私は家庭を壊したくないの。もちろん、主人にも亮輔さんとのことを知られたくない」
「……」
「来てくれるのは嬉しい。でも、亮輔さんが病院に来た時、家族か私の知り合いの誰かに会わないとも限らないでしょう」
「どういう関係かなんて言うことはないし、そんなことは」
「嘘がつけないの。仕事では、もちろんいろんなことを言うわよ。でもね、家族には」
 思いもかけない千秋の一面を知ったような気がする。
「だから、出雲の人だと?」
「そう。亮輔さんとの出雲の暮らしは、私にとって別世界なの」
 だとすると、もし千秋が消えたとすれば、自分は存在しなかったことと同じではないかと、亮輔はいささか憮然とする。
「変な女だと思うでしょう。仕方がないの、私はいつもこうだから」
 千秋の言っていることは、筋が通らない気もするが、今更とやかく言っても始まらない。
「遠くから来てくれたのは、本当に嬉しい。津和野に美術館があるでしょう。そこに行ってから帰ってね……好きよ」
 亮輔は、分かったと言って、電話を切る。千秋の言うようにしようと思った。 

第323回

 白壁と堀割りの街、津和野の朝は穏やかだった。山に囲まれているせいか、冷たい空気が頬を切る。
 ホテルの部屋を出て、駐車場に停めた車のエンジンを温めながら、亮輔は辺りを見回す。
 それにしても、津和野まで来たのに少しでも会ってくれればいいのだがと思わないでもない。
 ふと思い付いて、津和野まで車を走らせて来た。出掛ける前に、千秋に連絡した訳でもない。まるで、子どものようである。亮輔は衝動的な自分の行動に呆れはするが、いいのだそれで……と自分に言い聞かせる。なぜなら、確かにその時、気持ちが動いたからだ。
 山口の日赤病院まで五十キロである。行こうと思えば行けなくはない。だが、千秋は、来てはいけないと言う。やはり、家庭的なことで何かあるのか、それとも臥せっている姿を見せたくないのだろうか。
 いつか、化粧もしていない素顔は見せたくないと言っていた。あるいはそうかもしれない。若くはないという年齢が言わせた言葉だろうか。そこまで考えて、亮輔は頬をゆるめる。
 安野光雅美術館は、津和野駅の前だった。平成十三年に出来たという。漆喰の白壁と赤い色の石見瓦が葺かれた屋根が、どっしりとした重みを見せていた。何となく酒蔵を思わせる。ロビーの壁面は、魔方陣のタイルで飾られていた。
 幾つかの絵を見た。いずれも淡い色調の水彩だった。安野光雅は津和野の人だというが、優しさに満ちた街の佇まいに似合っていると亮輔は思った。
 千秋に会えなかったのは、いかにも残念だが、(美術館を見て帰ったら……)と言った思いが分かるような気がした。
 美術館を出て、太鼓谷稲成神社に詣る。
商売繁盛や五穀豊穣の神社で、稲荷でなく、稲成という文字が使われている。日本五大稲荷の一つだが、稲成としたのは大願成就の意味を込めてのことだという。
 平日だったがかなりの人である。節分だと気付く。困った時の神頼みだとは思いながら、千秋の病気回復と絵のことを祈った。
 父と母にと思い、駅前の店で源氏巻と地酒を買う。遠出をして、家族に土産を買うなどというのは久し振りだった。
 結婚して安心させて欲しいわ、と言った母の顔が浮かんだ。千秋の顔と七瀬のそれが、交互に目の奥で行き来した。

第324回

 津和野から帰ってみると、一通の手紙が来ていた。画商の林からである。ありきたりの時候の挨拶から始まっていた。フォーマットがあるのだろう。パソコンのワープロ打ちである。
――東京のコレクターの方から、先生の絵が欲しいという連絡がありました。所用で米子に来ていた時、北陽放送の山陰の美術家達≠ニいう番組を見て、是非にと思われたようです。――
 正月明けに、その番組は放送されていた。亮輔の紹介は約十分ほどの時間で短いものだったが、作品の写真をかなり入れてくれていた。
――その方は、浅田学園という医療福祉関係の学校を全国規模でやっておられる方です。東京にある専門学校の玄関に、伊折先生の絵を飾りたいということでした。――
 どの絵だろうかと、亮輔は読み進める。
――ご希望の絵は、旅立ち≠ニいう題名のものだということです。――
 林の言う絵は、膝をついた裸の女が両手伸ばし、空に輝く太陽に向かっているものである。
――私は実際に先生のその絵を見てはおりませんが、その方は生徒が勉強を終えて巣立っていく気持ちを現していると感じられたようです。旅立ち≠ニいう題名も、学校に飾る絵としてちょうどよいと思われたのではないかと思われます。――
 晩秋から年末にかけて描いたものだ。気に入っている絵である。抽象に取り組み始めた最初の作品であり、しかも、七瀬をイメージして、デフォルメをしたものだ。出来れば手放したくはない。だが、そういうことを言っていると、何のために描いているのか分からなくなる。
――近いうちに、お訪ねをして、価格などのご相談をさせていただきたいと考えております。――
 暫くぶりの林からの連絡である。だが、絵を売ることについて、千秋とはどう関わりを付けたのだろうか。
――勝手でしたが、紗納千秋様に連絡を取らせていただきました。今後、先生の絵は私の手を通して売って欲しいというご返事をいただいております。――
 千秋が林にゆだねた。亮輔は愕然とする。入院をしているのだから無理であることは分かるが、(今後……)というのは、千秋は手を引くということではないか。いや、そうではなく、病気が治るまでだと言っているのかもしれないのである。

第325回

 抽象画に買い手が付いたのは、これが初めてである。倉敷中央美術館の岩谷は、美苑の公募に出して入選になった成命2005≠フ絵を売れないと言った。初めての抽象で応募した絵だった。
 考えてみれば、入選でもよい方だと思わねばならない。ましてや売れないと岩谷が言うのも、もっともなことなのだ。世の中は、そう甘くないのである。
 画商の林が亮輔のアトリエを訪ねて来たのは、手紙を受け取ってから一週間経った日曜であった。
 時ならぬ雪が降り、林は渋滞に巻き込まれて困ったと、予定の時間より遅くなった言い訳をした。
 明るい感じの茶色の背広を着た林は、以前より太ったようである。画商というより、どこかの経営者という感じである。
 当たり障りのない世間話が暫く続いた後、林が切り出した。
「手紙にも書きましたように、先生の絵を欲しいと言われる方がありまして」
「浅田さんでしたね」
「なかなかの事業家のようで、福祉関係の専門学校もそうですが、施設も経営しておられるようです」
「以前からお知り合いで?」
「そうじゃありません。北陽放送の方へ、先生との仲介をしてくれる者を紹介して欲しいという連絡があったそうで……」
 林は言いながら小さく笑った。
「電話に出た人が、うまい具合に私の店を知っていたということでした」
「偶然ですね」
「ええ、ありがたいことです。ところで、先生の絵は百号ですが、お値段は……」
 どうでしょうかと、林が出した額は五十万だった。
 亮輔は、立て掛けてある旅立ち≠ノ目をやった。材料などに十万円ばかり使ったはずだ。少し安いように思えなくもない。気に入っている絵だが、今は売れるということが大事である。
 亮輔は頷いた。
 自分の手から離れてしまえば、林が浅田に幾らで渡すか分からない。だが、それはどうでもいいことだった。。
「まさに旅立ちですね」
 亮輔は言いながら、イメージした七瀬の絵が自分の手から離れ、どこか知らない場所に飾られる不思議さを思った。
 もちろん、絵を売るということは初めてではないが、なぜか心が痛む気がした。

第326回

 画商の林が帰ってから、亮輔は絵を見ながら、(旅立ち)と口に出してみた。
 以前、七瀬を描いた絵を東洋自動車販売の社長である美郷に売ったことがある。美郷の会社に勤めている頃で、頼まれて描いたものだった。代価を貰うという約束で描いたから、同じ七瀬を描いても旅立ち≠フ絵とは意味が違う。しかも、七瀬との関わりが、未だ深くはない時期の作品だった。
 浅田が欲しいという旅立ち≠ヘ、七瀬をモデル台に立たせて描いたものではない。目の前に居ない七瀬を思い描きながら、幾つかのデッサンをもとにして構成したものだった。
 だから、それだけ余計に思い入れがある。それを手放すのは、いかにも惜しい。まるで七瀬が自分の手から離れて行くようでもある。
 心が痛むような思いがするというのは、そういうことだろうと亮輔は考える。
「旅立ちか……」
 立て掛けられた絵に向かって呟いた途端、チャイムに似た軽い音がパソコンから聞こえた。メールが来た音だった。
 画面を見ると、十通ばかりの見出しが並んでいる。どういう訳か分からないが、妙な誘いかけをする内容のものが多く来るようになった。その中へ埋もれるようにして七瀬のメールがある。
 開いてみると、亮輔さんという呼びかけで始まっていた。
――来月の初め、日本に帰ります。――
 ということは、一か月もすれば、七瀬は帰ってくるのだ。もうそんな時期なのだと、亮輔は改めて思う。
――学校は二月で終わるのですが、シドニーで出来た友達と、あちこち観光もして帰ろうと思いますし、何かと手続きもあるので、三月の十日過ぎには帰ろうという計画を立てました。――
 無くしていたものが戻ってくるような、懐かしさを覚えた。
――英語の勉強ですが、私としては十分に出来たと思ってます。実力がついたとかってことでなく、私の決めた勉強が目標通りに終わるということです。――
 そんなことはどうでもいい、早く帰って来いと亮輔は画面に向かって話しかける。
――亮輔さん。私を待っていてくださいますか。――
 当たり前だ、と亮輔はまた声を出す。千秋の顔が浮かんだ。ごめん、と言いながら亮輔は頭を二度ばかり振った。

第327回

 何かが動き出したような気がする。
 落ち込んでいた谷間から、脱出する転機が訪れるのかもしれない。
 身勝手に考えれば、夏夫が企画してくれた北陽放送の山陰の美術家達≠ニいう番組が、そのきっかけになった。
 それを観た東京の浅田が旅立ち≠買ってくれることになった。売れた額は小さいが、それよりも認めてくれる人の存在が大事である。
 そして、七瀬が帰ってくる。
メールのやり取りをする中で、オーストラリアに出発した時の七瀬の素っ気なさ、そして亮輔自身のわだかまりは解消に向かっている。
 気持ちの中で薄い皮膜に包まれた澱のように残っているのは、七瀬が北海道に美郷と旅行をした、いや、行ったのではないかということである。確証はないが、あの頃の七瀬のしぐさや言葉からは、そう思えたのだった。
 亮輔は、推測に過ぎないのだと自分に言い聞かせようとする。
 思いは、また堂々巡りである。
 ならばお前はどうなのだ、千秋という女が居るのではないかと別の声が微かに囁いてみせる。
 七瀬が日本に居なくなってからの一年の間、二人の女のはざまにある気持ちが右往左往していた。
 千秋が白血病で入院しているのをよいことにして、七瀬に傾くのかと、二つめの声が聞こえる。
 違う。千秋も大事なのだと、亮輔はその声の主に向かって言い返す。
 あっ、と亮輔は気付く。間違いなく千秋も≠ニ言ったのだ。
 ごめん、と亮輔は見えない千秋と七瀬に向かって呟く。
 千秋が居たからこそ、今の自分がある。決してないがしろにしているのではない。とは言え、千秋ばかりではない。
 オーストラリア留学の費用を捻出するためであったとしても、七瀬は裸のモデルになってくれた。
 だが……と、亮輔は考える。
 理屈を言いはするが、詰まるところ千秋の力は大きいのではないか。
 何を考えているのだと、亮輔は混乱し始めた頭を両手で叩き、ブランデーのボトルを取り出す。グラスに注いで一気に飲む。
 屋根から、雪が滑り落ちる重い音がした。
 夕暮れの粉雪が、舞い始めている。

第328回

 三月に入ると、松江に住む気の早い人達の話題は、桜の開花時期だ。
 三月十二日からは、お城まつりである。
下旬には、三百六十本もの桜が咲く松江城の公園はライトアップされ、見慣れた筈の桜も幻想的なそれに変わる。
 さすがに、財団法人日本さくらの会≠ェ選定した桜の名所百選に入っているだけのことはあると、亮輔は季節が巡って来るといつも思うのである。
 七瀬が帰ってくるのは、三月十五日とメールに書かれていた。
 会いたいと七瀬は言っている。もちろん、亮輔もそうである。
 初旬には帰るという予定をしていたのだが、どうやら少しずらしたようだ。
 オーストラリアに一年も居た。おそらく、もう二度と長く滞在する機会はないはずだ。遅かれ早かれ帰るのだから、楽しんで数日を過ごせばいいと、見えない七瀬に亮輔は語り掛ける。七瀬が帰ってくる、絵も売れた。何となく気持ちに余裕がある。
 そんなことを思っていた日の午後だった。千秋から電話が掛かってきた。
 元気かと聞かれ、うん、そうだと答えると、千秋は元気そうな声だわ、と言う。
 七瀬のことを考えていたせいかと、亮輔は後ろめたい気がする。
――仕事からリタイアしようと思う。――
 不意に千秋が言い、亮輔は驚いて(どうして?)と問い返す。
――入院は短い期間では終わりそうにないのよ。――
――それはそうかもしれないけど、いつかは治るんだから。――
 山口の日赤病院の医師は、少し長い時間が必要かもしれないが、治ると言ったはずだった。
――長男が大学を卒業するわ。――
 次男は大阪の大学生だが、長男は東京と聞いていた。
――私がしている仕事をさせるの。萩に帰ってくるようにって話はしてたし、子どもも承知してるの。いい機会だから。――
 いずれは仕事を継がせたいと思っていた。他人に会社を任せるよりは、身内なら安心である。家族なら仕事の指示も自由に言える、と千秋は言う。
――治るまでに半年なのか、一年か分からないわ。退院を待つ間に、手を打っておきたいの。――
 仕事は千秋程には出来ないだろうが、そのうちに覚えていくだろうと亮輔も思う。

第329回

 千秋は妻であり、母親でもある。家庭があって、しかも事業を女の手でするというのは大変だろう。だからと言って、男ならよいのだ、女では駄目だと区別するのは千秋に対して失礼でもある。
――本当に撤退するのか?――
 亮輔は、確かめてみる。
――完全に手を引くということはしないとは思うけれども、今はそういうことを考えないことにしているの。――
 長い間、一人で仕事をして来たのだ。休むのもいいのかもしれないと亮輔は言う。
――佐木さんのことだけれども。――
 千秋が話題を変えた。
――七瀬? あ、佐木七瀬君が?――
 七瀬、と思わず言った名を言い換え、見えない千秋に向かって顔を赤らめた。
――そう。その七瀬さんのこと。――
 千秋が、ふっと笑った気配がする。
――いつだったか、佐木さんはオーストラリアに行ったと聞いたけど、一年経つからもう帰ってくるんでしょう?――
 七瀬との間に関わりがあったということを知っているのよ、と千秋が言ったことがある。その時にオーストラリアの話をした。
――今月には帰るはずだと思う。――
 知ってはいるが、口を濁す。
――亮輔さんのモデルだったわ。だから、私は佐木さんを使わないでと言って、京都からモデルを呼んだ。――
 あの時、千秋は強い口調で(佐木さんは駄目よ)と言った。
――いいのよ、もう。……亮輔さん、佐木さんと仲良くしてね。――
 目の奥が熱くなった。言葉が出なかった。――佐木さんは、私と違って若いわ。亮輔さんもそう。――
 そんな……と思わず亮輔は叫ぶ。まるで決別ではないか。
――でも、私は亮輔さんを応援はするわよ。あなただけでなくて、二人をね。――
 あまり根を詰めた仕事はしない方がよい。少なくとも、この一年はゆっくりしないといけない。医師はそう説明したと言う。
――若いっていいわね。――
 どう答えていいのか分からない。
――出雲のアトリエは、亮輔さんの好きにしていいのよ。――
 ありがとう、と亮輔は小さく言う。
――いつか会えるからね。亮輔さん。――
 少し震えているような声だった。千秋は(じゃあ……)と言って電話を切った。
 目の前に並んだ絵具が滲んで見えた。

第330回

 イギリスには、三月はライオンのようにやって来て、子羊のように去って行くという諺がある。三月は寒風が吹き荒れる季節であり、花の季節の前には嵐があるという意味である。
 冬の北風と春の南風が激しく衝突する三月には、春暖という春の長閑さを表す言葉がある一方、春疾風などという季語もある。
 七瀬が帰って来る予定の一週間前に届いた手紙は、まさに春嵐であった。
 絵を買ってくれた浅田学園から一通の速達が届いた。
 開いてみると差出人は総務部長になっている。旅立ち≠フ絵の礼が最初に書かれており、続いてお願いをしたいことがあるのでお訪ねをしたいというものだった。何をどうとも書かれていなかった。
 絵の依頼に違いない。注文が来るというのは久し振りである。まさに嵐かもしれない。それにしても、画商の林を通じてというのが普通だろうが、特別の絵だから部長が担当しているのだろう。
 都合のよい日を学園事務局へ電話で返事が欲しいとある。
 亮輔は指定された電話番号に掛けた。
「人事課です」
 亮輔は思わず、(人事?)と聞いた。
「総務部の人事担当です」
 間違いではないかと亮輔は思ったが、事務局に絵の担当などあるはずがないから、どの係でもいいのだろう。学園の内部のことは分からない。
「連絡をもらった松江の伊折ですが」
 ちょうど、亮輔に文書を発送した職員だったようで、話は直ぐに通じた。
「今月十四日の火曜日では、どうでしょう」 暫くこのままでと、電話に出た男の職員が言い、他の電話で誰かとやりとりをしている声が聞こえた。
 絵の注文にわざわざ東京から松江までというのは、いかにも大袈裟なと思いながら待っていると、(ご指定の日の午前十一時に、ご自宅へ総務部長が……)という返事である。
 亮輔は、予定表に浅田学園から来訪と記入した。
 十四日に特別の意味はない。七瀬が十五日に帰ってくるはずだから、つい十四日と言ったまでだ。勤めているのではないから、自分の予定はどうにでもなる。
 沈み込んだ冬の季節から春になり、嵐という訳でもないだろうが、上向きの風が吹き始めたようだ。

第331回

 午前十一時、符牒を合わせるように浅田学園の総務部長が亮輔の家に着いた。
 明日は七瀬が帰ってくる日だ、と考えていた時だった。
 客間に通すと、松江の街と亮輔の絵を褒め、いいお住まいですなと雪の無くなった庭を眺めながら言った。そつがない。
 体格のよい体を細い縞のある、濃紺のダブルの背広で包んでいる。学校の事務職員という感じではなかった。名刺には、浅田三郎と書かれている。おそらく、学園は一族が主体になって経営しているのだろう。
 浅田が、突然にお邪魔をして申し訳なかったがと切り出したのは、絵の話ではなかった。
「実は、伊折先生にアメリカの学校で講義がお願い出来ないかということなのですが、いかがでしょうか」
 思いもよらない話である。いかがでしょうかと問われても返事のしようがない。
 浅田学園は、全国に福祉専門学校の幾つかを開校し、ネットワークを作って経営をしている。このところ、修了生の中でアメリカの大学へ編入を希望する学生が多くなり、海外進出を計画した。とりあえず、九月からニューヨークにある私立のジュニアカレッジと提携をすることになっている。
「その学校で私が?」
 そうだという顔で浅田が頷いた。
 アメリカには、二年制大学が約二千校近くあり、日本と違って男女共学で二種類が選択出来る。職業と直結する技術を学ぶ課程と、一般教養を学んだ後に四年制大学へ編入するコースがある。職業訓練のコースは、舞台芸術、グラフィックデザイン、幼児教育などが人気だ。授業料も安く、入学基準も緩やかだから、日本から入学する学生も増え続けている。
「アメリカン・アカデミー・カレッジと言いまして、職業訓練の学校です」
「それにしても、英語の出来ない私のようなものになぜ」
「英語のことはともかく、理事長が先生のご経歴を知りまして……。それに、向こうの学校から講師依頼があった時に、倉敷の岩谷さんにご相談申し上げたのです」
「倉敷中央美術館の」
「そうです。ご推薦くださいました」
 一美術館館長というよりも、日本洋画界の裏で隠然たる勢力を持っている長老だ。
 亮輔は岩谷が(力になりますよ)と言った言葉を思い出した。細い糸かもしれないが、人はどこで繋がっているか分からない。

第332回

 人間は、網の目のように、どこかで関わり合っている。それが、ふっと顔を出すのである。考えてみると恐ろしい。
「岩谷館長は、伊折先生は独身だし、自由がきくだろうともおっしゃいました」
 亮輔は思わず笑う。妙なところで独身が役に立つのだろうか。
「失礼しました。独身はともかく、暫く外国で腕を磨く機会にもなるからいいだろうとも……」
 浅田が、岩谷の言葉を付け加えた。
「それにしても、私のような学歴もなく、教えるという経験もない者がどうなんでしょうか」
「学問研究というより、先ほど申し上げたように、実技の面を重視しているようです。それにですね、絵画だけではないのですが、日本の新進アーティストを広く求めているということでした」
 このところ、四年制への移行が話題になっている日本の短期大学のイメージとは、かなり違うようである。
「岩谷館長のご推薦もあり、理事長も先生にと言っておりますから」
「日本ならともかく、外国は……」
 パリに行った時もそうだったが、語学が出来ないというのは致命的ではないか。
「生活はともかく、英語の話せない者が、仮に実技が主だとしても」
「大丈夫です。通訳が付くようです。少し勉強されれば、簡単な英会話は出来るようになられるでしょうから。ただし、申し訳ないですが、勤務条件は、とりあえず非常勤で、そのうちに常勤ということで」
 通訳、と聞いて亮輔は七瀬の顔を思い出した。七瀬が一緒にアメリカに行ってくれれば言うことはない。
 だが、そのことの前に、カレッジの講師が勤まるかどうかが問題である。しかも、生活が全く違う外国である。降って湧いたような話で、即座に返答が出来ないのは当たり前だった。
 亮輔の懸念を聞いた浅田が言った。
「理事長は先生を講師にと決めていますし、それは問題はないのですが、その前に簡単な論文を書いていただきたいのです」
 驚いた顔を見せる亮輔に、浅田は、形式的なものですと言う。
 教授や助教授なら、それなりの審査があるのだろうが、非常勤であれば形だけという意味である。
 浅田は、事務的な幾ばくかのことを言い、予定があるのでと断って帰っていった。

第333回

 浅田の言う論文を書かなければいけないが、そう長いものでなくていいらしい。それにしてもと、亮輔は思い倦ねる。英語で書くことが出来ないのである。
 浅田は日本文でもよいとは言ったが、せめてタイトルや導入部分だけは、英語で書きたい。
「七瀬に頼もう」
 承知してくれるのかどうか分からないが、亮輔はそう決める。いずれにしても、明日には帰って来る。数日後には会えるだろう。そのことがアメリカに行きたいという気持ちを昂ぶらせる。
 だが、論文は出来るにしても、浅田の話を受けるかどうかが問題である。
 パリに二十日ばかり行き、日本という日常から離れて暮らす面白みも知った。ましてやアメリカには数年、少なくとも二年間は居ることになりそうである。岩谷が言うように、巡って来たチャンスである。手にした方がいいようだ。
 抽象も始めた。アメリカに行くことによって、別な展開も見えるかもしれない。
 亮輔は話を聞いているうちに、行きたいという思いが強くなり、気持ちの中では決めてしまっていた。
 浅田には、一週間後に返事をすることになっている。
 夜になり、父と母が揃ったところで亮輔は、実はアメリカの学校で、と切り出した。
「どうしてまた、そんな遠くへ」
 母はそう言ったきり、黙ってしまった。
 東洋自動車販売を退社する時、父と母は何も言わずに頷いてくれた。今度はアメリカである。亮輔は、親不孝をしているのではないかと思う。
「いいじゃないか。職のないお前が就職する訳だから」
 父は母の顔を見ながら、冗談めいた口調で言った。形としては、千秋の会社である防長住建の社員ということになっているが、まともに勤務していないことは知っているはずだ。
「大学教授ってことなの?」
 母の言葉に、亮輔は思わず笑う。
「まさか。カレッジだけれども、専門学校のようなものさ。それに教授でなくて、取り敢えずは非常勤の講師だから」
「賛成だね。まだ若いし」
 父の言葉で、母は渋々(そうね)と言った。
「でも、結婚してから行った方が……」
 母がいつも気にしていることだ。亮輔は、また七瀬の顔を思い浮かべる。

第334回

 何かがあると亮輔は、夏夫に話をしなければ気が済まない。午後十時前だったが、かまわず亮輔は夏夫の家に電話をした。
 出て来たのは、明子だった。
「お久し振り。どうしたんですか?」
 北陽放送の山陰の美術家達≠フことで話をして以来である。夏夫が企画してくれた番組のお陰で、また一つ新しい展開が見えた。
「放送では、随分お世話になって……」
「ああ、あれね。よかったわ。あちこちから問い合わせがあったらしくって、喜んでましたよ」
 浅田学園から電話があったことも、そうなのだろう。
「実は、アメリカ行きの話があって」
「アメリカ?」
 呆れたような明子の声だった。
「パリに続いて、今度はアメリカに行くんですか。何日くらいの予定で?」
 そうではないと亮輔は言い、浅田学園からの話をする。
「ちょっと待ってください」
 途中まで聞いた明子は、夏夫に電話を代わると言った。
「アメリカに行くんだって?」
 少し飲んでいるのか、声が大きい。思わず亮輔は受話器を耳から離した。
 明子に言ったことを亮輔は繰り返す。
「ツキがあるってことだなあ」
「それはないだろう。浅田学園が絵を買ってくれたということが始まりだった」
「確かにそうだ。しかし、少しばかり運がよすぎると違うか?」
 冗談めいた口調で夏夫は言うが、そうかもしれないと亮輔は思う。
「賛成するね。それにしても独り身というのは、なかなかいいもんだな」  
「母は気乗りがしないようだったが、結婚でもしてたらという感じだった」
「アメリカに行くなら、それこそ二人の方がいいと思うがね。体をこわすようなことがあったら困る」
 母と同じことを夏夫が言った。
「そのためにというのは、どうかと思うが」
「そんなことはない。ところで、佐木君が帰って来ることは知ってるだろ?」
 羽田に着くのは明日である。
「俺の所に挨拶に来ることになっているから、お前も一緒にどうだ?」
 そう言われると、二人だけで会いたいというのは言いにくい。四日後に、夏夫の家に行くことにして電話を終えた。

第335回

 論文を書いたのは、卒論が最後だった。漢字・仮名の読みの速度と文脈の効果について≠ニいう題目だった。自動車販売という就職先のせいもあって、何の役にも立っていない。
 亮輔はパソコンの電源を入れ、ワープロを起動する。浅田の指定した内容は、抽象絵画に関したことである。日頃思っていることが書いてあればいいのだと、浅田は少し笑って言った。
 形式的なものだからとは聞いたが、それにしても、いい加減なことは書けない。
 抽象と聞けば、よく分からないと答える人が多いようだ。亮輔は、そのことから書いてみようと思った。とりあえず、思い付いたことを打ち込むことにする。
――描かれている対象物は、見慣れていないか、もしくは現実には存在しないものである。そのことに、拒否反応があるのではないか。――
 どうして拒もうとする意識が働くのかと、亮輔は考える。もちろん、抽象画を観る側に立ってのことである。
――自分の絵に対する経験や常識が通用しないから、不安になるのだ。もっと言えば、それまで築いてきた美に対する尺度が役に立たない、足元から崩れていくと感じるからではないだろうか。――
 書きながら、亮輔は自分もかつてそうであった時期があると振り返る。どう観たらいいのかという言葉を聞くのは、こういうことである。
――具象と比較すれば、ある意味で抽象は創り上げられたものとも言える。――
 次に書かねばならないのは、どう対峙するかということになる。
――絵と対話をすべきである。形と色が何を語りかけようとしているのかを心で問い掛けてみるのである。――
 直感で絵の語るものを受け止めるという、幾つかの事例を書くことにする。
 具象でも同じである。そのように絵と向き合えるようになれば、いい抽象画に出会えるはずだと結論付けたい。そう亮輔は思った。
――直感による感性の交流である。――
 結論は、こう書こうと考えた。下書きは原稿用紙にして二十枚ばかりになった。論文というより意見文である。仕方がない。
 二日ばかり掛かって、四十枚にまとめることが出来た。七瀬に渡し、英文にしてもらおうと、とりあえず亮輔は、荷物を一つ下ろしたような気になる。

第336回

 米子駅前に並ぶビルの間から、春の暮れなずむ空が見える。建物に切り取られた部分だけ見ていると、夕暮れが近いとは思えないくらいの明るい空間だが、目を落とすと既に街中は灯が点き始めている。
 土曜日のせいか、かなりな人が行き来していた。
 亮輔は、暫く振りの米子の雑踏を眺めていた。夕暮れの風景は、気持ちをほっとさせるものがある。一日が無事に終わり、酒でも飲むかという気になるからである。
 夏夫の家に着くと、既に七瀬は来ていた。玄関を入ってすぐ右の客間で、夏夫と七瀬が座卓を間にして、コーヒーを飲んでいた。
 亮輔は目映いものでも見るように、目を細めた。
「こんにちは」
 七瀬が、くずしていた膝を揃えて挨拶をする。亮輔は不思議なものを見るような気がした。どこがどうというのではないが、落ち着いた感じだった。
 胸元が少し開いたシルクの白いブラウスにピンクのカーディガンを羽織っている。グレーのスカートが広がっていた。
 亮輔は敷居に手を着き、(どうも……)と二人のどちらに言うでもない曖昧な挨拶をした。夏夫が笑った。
「ちょっと待ってくれ。コーヒーを」
 夏夫は、そう言うと亮輔にちらりと目をやって出て行った。 
 綺麗になったな、と亮輔は思わず七瀬の顔を見詰めた。
「元気でよかった」
 亮輔が座るのを待ちかねたように、七瀬が言った。
「ごめんね……」
 俯いて七瀬がまた呟く。顔を上げると、目が潤んでいた。亮輔は潮が引くように、一年間の何もかもが遠くに行ってしまうように思えた。 
「どうだった。オーストラリアは」
「収穫がありました。先生」
 笑顔になった七瀬が、生徒が答えるような言い方で大きな声を出した。
「あら、お邪魔だったかしら?」
 明子が、コーヒーを持って来た。
「そんな……」
 七瀬が首をすくめた。
 まるで見合いのようだと思いながら、亮輔は両肩を上げて七瀬を見た。 
 夏夫が、二本の徳利を両手に下げたまま、(佐木君の歓迎会だ)と言いながら、亮輔の前に座った。

第337回

 夏夫の家で、七瀬と初めて出会ってから、もう何年にもなる。オーストラリアへの留学費用捻出のために、亮輔のモデルになりたいというのが始まりだった。
 七瀬は願い通り、語学のための留学をして帰って来た。歓迎だという夏夫の言葉を聞いて、亮輔は改めて、七瀬と関わりを持ってからのことを思い出す。
「歓迎もだが、送別ということもある」
 七瀬が不思議そうな顔になった。
「送別って何?」
「そうよね。七瀬ちゃんは未だ知らないのだから」
 明子が、七瀬に酒を注ぎながら言う。
「えっ、何なんですか? 私、蚊帳の外ですか」
 蚊帳を知っているのだろうかと、亮輔は思わず笑う。七瀬が、何で? という顔になった。
「アメリカに行くことになってね。それで送別さ。もっとも未だ先のことだけども」
 夏夫が、明子の後を引き取った。
「だから……誰がです?」
「画家の先生だよ」 
「先生が? いいですね。パリに続いてアメリカですか」
 明子が亮輔の顔を見た。
「だったら、七瀬ちゃんも一緒に行ったらいいわよ」
「まさか。もうお金ないんです」
 七瀬が頬を膨らませた。
「観光じゃなくて、先生で行くんだ」
 夏夫の言葉に、また七瀬が驚く。
「実はね、ニューヨークのアメリカン・アカデミー・カレッジに……」
 北陽放送の番組で紹介され、それを見た東京の浅田学園が絵を買ってくれたと、亮輔は七瀬に話す。
「それが……どうしてアメリカに?」
 話を急がせないでもと、夏夫が言いながら酒を注いだ。
「浅田学園が九月から提携することになっているカレッジで、美術を教えて欲しいという話になったのだ」
 亮輔の説明に、七瀬がふーんと言いながら息を大きく吸った。
「でも、凄いじゃないですか。先生になるなんて。けど、もともと先生なんだ」
 自分で言いながら、七瀬は笑った。
「簡単な論文が欲しいと言われて書いたんだが、それが英文に出来なくて……」
「手伝います」
 亮輔の言いたいことを先取りした。

第338回

 何本かの徳利が並んだ。
 上気した七瀬の顔を見て、明子が縁側の先にあるガラス戸を少し開けた。
 少しばかり暖かみを帯びた春の夜風が吹き込み、白地に小花の柄をあしらったボイルカーテンが揺れた。
 酒の匂いで澱んだ空気が、外に出て行く。
「いい気持ち……」
 七瀬が両手を広げて風を吸い込む。
「さっきの話だけど、七瀬ちゃん」
 明子が七瀬の顔を見た。
「何でしたっけ」
 七瀬が振り向いた。
「論文を英語にするという話もあるけど」
「ええ、やりますよ。それこそオーストラリア語学研修の成果ってことで」
 顔の前で手を振りながら、明子が言った。
「違うのよ」
「え?」
 七瀬が呟いた言葉に、夏夫が何だ? という目で明子を見た。
「七瀬ちゃんも、ニューヨークに一緒に行ったらということよ」
 酔った亮輔には、カーテンを翻した風が言ったように思えた。
「そんなあ……」
 七瀬の大仰な声を聞き、夏夫が酒を燗してくる、と言って立ち上がる。
「伊折先生、そうでしょ」
 明子は、いい気分なのか横座りになって亮輔を睨む。明子が、伊折先生などと言うのは珍しい。頬が少し赤い。
「佐木君の英語の勉強にはいいんじゃないですか?」
 亮輔は、はぐらかす。
「違うって。伊折さん」
 明子が、また絡むように亮輔に言った。七瀬は困ったような顔を見せている。
「熱燗だ」
 夏夫が持ってきた徳利を持ち上げ、亮輔の盃に酒を注いだ。
 盃に映る蛍光灯の灯りを見ながら、亮輔はニューヨークの暮らしを思い、千秋のことを考える。
「いろんな人生があるものね。でも、亮輔さんの生き方は羨ましいと思うわ」
 明子が頬杖をついて言い、七瀬が亮輔の目を見て顔を伏せた。
「俺は駄目か?」
「そうは言ってませんよ」
 夏夫が茶化し、明子が笑った。亮輔は七瀬と顔を見合わせながら、何年か前にこんなことがあったなと思い出す。

第338回

 何本かの徳利が並んだ。
 上気した七瀬の顔を見て、明子が縁側の先にあるガラス戸を少し開けた。
 少しばかり暖かみを帯びた春の夜風が吹き込み、白地に小花の柄をあしらったボイルカーテンが揺れた。
 酒の匂いで澱んだ空気が、外に出て行く。
「いい気持ち……」
 七瀬が両手を広げて風を吸い込む。
「さっきの話だけど、七瀬ちゃん」
 明子が七瀬の顔を見た。
「何でしたっけ」
 七瀬が振り向いた。
「論文を英語にするという話もあるけど」
「ええ、やりますよ。それこそオーストラリア語学研修の成果ってことで」
 顔の前で手を振りながら、明子が言った。
「違うのよ」
「え?」
 七瀬が呟いた言葉に、夏夫が何だ? という目で明子を見た。
「七瀬ちゃんも、ニューヨークに一緒に行ったらということよ」
 酔った亮輔には、カーテンを翻した風が言ったように思えた。
「そんなあ……」
 七瀬の大仰な声を聞き、夏夫が酒を燗してくる、と言って立ち上がる。
「伊折先生、そうでしょ」
 明子は、いい気分なのか横座りになって亮輔を睨む。明子が、伊折先生などと言うのは珍しい。頬が少し赤い。
「佐木君の英語の勉強にはいいんじゃないですか?」
 亮輔は、はぐらかす。
「違うって。伊折さん」
 明子が、また絡むように亮輔に言った。七瀬は困ったような顔を見せている。
「熱燗だ」
 夏夫が持ってきた徳利を持ち上げ、亮輔の盃に酒を注いだ。
 盃に映る蛍光灯の灯りを見ながら、亮輔はニューヨークの暮らしを思い、千秋のことを考える。
「いろんな人生があるものね。でも、亮輔さんの生き方は羨ましいと思うわ」
 明子が頬杖をついて言い、七瀬が亮輔の目を見て顔を伏せた。
「俺は駄目か?」
「そうは言ってませんよ」
 夏夫が茶化し、明子が笑った。亮輔は七瀬と顔を見合わせながら、何年か前にこんなことがあったなと思い出す。

第339回

 夏であった。松江の伊勢宮の愛川≠ニいう店で夏夫と飲んだ。モデルをしたい学生がいるのだが、どうかと夏夫が聞いたのだ。松江の私立世徳大学の三年生、佐木七瀬だった。
 明子の知り合いということから、米子の夏夫の家で初めて会った。
 夏夫と妻の明子、七瀬の四人で酒を飲んだ。七瀬は二十一、亮輔は三十五だった。数えてみると、もう二年半が過ぎたことになる。
 年齢は待ってくれない。母が、早く結婚をと言うのは当然だった。明子が、身近なところで七瀬とどうだろうかと思うのもそうである。
「一緒に行きなさいよ」
 明子が蒸し返した。
「行ってどうするのだ?」
 夏夫が、わざととぼけて言う。
「どうするって、二人で暮らせばいいのよ。ね、亮輔さん」
「そう言われても……」
 亮輔は口ごもる。
「だから、英語の出来ない亮輔さんの通訳をすれば、七瀬ちゃんの留学も意味があることになるでしょ」
「確かに、英語は出来ない……」
 亮輔はパリでのことを思い出し、素直に認める。外国語が出来たらどんなにいいかと思ったのだ。
 あの時の風景を背景に、ちらりと千秋の顔が浮かぶ。
「どうなの。七瀬ちゃん」
 黙って下を向いている七瀬に、明子が問い詰めようとする。
「私は……」
「分かってるわ。あなた達のことは」
 夏夫が盃を一気に干して言った。
「それは二人のことだから、また話をすればいい」
「それもそうね」
 やっと明子が引き下がる。いつの間にか、午後九時半過ぎになっていた。
「そろそろ電車で帰るよ」
 夏夫が腕時計を見た。
「十時二十分の松江行きがあるはず。ちょっと確かめる」
 夏夫が立ち上がった。
「七瀬ちゃんは、ここに泊まるって言ってますから……。駅までタクシーでね。電話をして呼ぶわ」
 亮輔は七瀬に(明日、電話する)と囁いた。七瀬が顎を引いて頷いた。

第340回

 春の日本海は、青い草原のようだった。午後の海に、波が水銀を転がすようなうねりを見せている。
 灯台に向かう小道をたどりながら、亮輔は七瀬に話しかける。
「この前、来たのは夏だったな」
 初めて七瀬とドライブがてら来た場所だ。もう一度、やり直せるかもしれないと思ってのことだった。
 誘ったのは、亮輔である。
 日御碕は、相変わらず観光客が多かった。
 土産物屋の店先で店員が(どうですか?)と呼び込む声も、あの時と同じだった。並べられている商品も、何もかも変わってはいなかった。
 亮輔は七瀬と坂道を下りながら、そんなことを考えながら灯台の下まで来た。
 入場料を払えば展望台まで上がることも出来る。
「上がってみるか?」
「うん。そうだね」
 初めて七瀬と来た時には、下から眺めただけだった。
 狭く、急な階段を七瀬が先に上がった。見上げると七瀬のスカートの中が見えそうで、亮輔は俯いたままで階段を昇る。
 展望台には、何人かの先客が居た。日本海からの春の風に髪が舞う。
「わあ、きれい……」
 七瀬が声を上げた。
 遠い水平線に小さな船影が見える。動いているのだろうか。止まっているようにも思えた。左に目をやると、経島が逆光になって光っている。七瀬の長い髪が、亮輔の頬を撫でた。
 灯台を下りて、経島に向かった。
「あの島は?」
 七瀬が小さな島を指差した。
 筆投島だった。平安時代の画家である巨勢金岡が、その島を描き始めたが、時が移るにつれて変化する島影に、どうしてもついていくことが出来ず、絵筆を投げ捨てたといわれている。
「そうなんですか。亮輔さんなら描けるかもしれない」
「何をばかなことを……」
 笑った七瀬を見て、亮輔は久し振りに穏やかな気持ちになった。
「本当に行くんですね?」
 不意に七瀬が呟くように言った。七瀬に英文化してもらう原稿を持って来ている。「もちろん、行くよ」
 その先の言葉が亮輔には出ない。

第341回

 明子の言葉が大きく膨らみ始めている。「一緒に行きなさいよ。二人で暮らせばいいわ」
 明子は、亮輔と七瀬の顔を見比べなが言ったのだ。冗談めいた口振りではなく、本当に、そう思っているようだった。
「出雲で蕎麦でも食べるか?」
 駐車場まで戻ると、食堂の呼び込みが喧しいくらいだった。あまりにしつこいと、食欲もなくなる。
「いつか行ったことのある大社のお蕎麦屋さん?」
 亮輔は、七瀬に言われて思い出す。出雲大社の近くにある明治屋という蕎麦屋だった。お互いに苗字でなくて、名前で呼び合うようにしようと決めた店だ。
「七瀬さえよければ」
「いいですよ。あれからもう二年になるのね。早いわ」
 停めてあったオフロードに乗ると、七瀬が大きく息を吸い込んだ。
「亮輔さんの匂いがする」
 新車に替えたいと思っていたが、七瀬にそう言われると惜しい気もしないでもない。だが、アメリカに行くとなれば、車もいらなくなる。
 七瀬が頭を左肩に寄せてきた。微かに乾いた夏草の匂いがする。
 亮輔は、気になることを思い出す。
 二年前の夏、七瀬の北海道行きのことだ。 出雲空港で見かけたのは、七瀬だったのではないか。一人ではなかった。連れの男がいた。東洋自動車販売の美郷だという疑念が未だに消えていない。
 世徳大学のサークルで、北海道旅行に行くからと、七瀬はモデルの仕事を休んだ。
「あの年の夏、北海道に行ったんだよな」
 今しか言う時はないと思った。気持ちにけりを付けたい。
 そうよ、あの時は楽しかった。学生時代の最後の夏だったもの、と七瀬は何の衒いもなく言った。
「米子空港のキャンペーン価格で、すっごく安かったこと覚えてる。でも、何で?」
 七瀬の聞いたことに答えず、亮輔は(米子から?)と呟く。 
「ええ、住んでたとこが米子の久米町だったでしょ。安い航空券があるっていう情報を仕入れたの。それで私がみんなのチケット手配したわ。亮輔さんに言わなかったかしら……」
 もうどうでもいいと思った。七瀬の笑顔から、嘘を言っているとは思えなかった。

第342回

 七瀬と美郷が北海道へ一緒に行ったというのは、妄想だったのだ。
 亮輔はハンドルを握りながら、七瀬の横顔に目を走らせる。七瀬の幻像を苛んだことを忘れようと思った。
 西に傾いた陽を受けた七瀬の顔は、穏やかだった。
「亮輔さん、行くんですね?」
 また七瀬が確かめた。
「夏夫の所で話をしたように、こんなチャンスは滅多にないから」
「私もそう思う。でも、亮輔さんがカレッジで教えるなんて思ってもみなかった」
「七瀬だって、そうだろ? 英会話の先生をしようかという考えもあったんだし」
 困ったような表情になった。
「無理じゃないかって、父や母は言うんですよ。女が一人でそんなこと出来る訳はないぞなんて言われて」
 思わず亮輔は、声を上げて笑った。七瀬が頬を膨らます。
「笑ったわね、亮輔さん」
「ん、まあ……」
「でもいい。許してあげる。けど、確かにそうだろうなあと、自分でも思わないでもないんです」
「で、どうする? これから」
「充電……。ゆっくりこれからのことを考えます」
 オーストラリアに行くことに、両親は反対したと聞いていた。もちろん、大学で絵を描くことも、あまり賛成ではなかったはずだ。だから、七瀬が世徳大学に入った時も、夏夫に面倒を見てくれるように頼んだのだ。だが、七瀬は思い通りのことをしてきた。
「少しばかり、家の仕事を手伝ってみたりして……」
「お父さんやお母さんへのお礼か?」
「……かも」
 大学とオーストラリアでの五年間、七瀬は自由に過ごしてきた。それくらいは当然だろうと亮輔は思う。
「七瀬の家って、どんな所だろうな」
「来てみます?」
「いいのか?」
 七瀬が前を向いたまま頷いた。
 大社で蕎麦を食べ、木次線で帰るという七瀬を宍道駅の前で降ろした。
「英訳は、三日の内に送ります」
 そう言われて亮輔は、(そうだった)と気が付く。楽しかったわと言いながら、七瀬は改札口で手を振った。

第343回

 宍道駅から出て行く列車を見送り、亮輔は千秋にアメリカ行きのことを言わなければいけないと思った。
 いずれ連絡をしなければと考えてはいたのだが、どうでもいいような理由を付けて先送りをしていた。
 夏夫と明子に話し、七瀬には論文の英訳を頼んだ。父や母も日本を離れることに、いろいろな思いはあるのだろうが、何とか賛成してくれた。
 浅田に英訳を送ってしまえば、話は直ぐに進むはずである。千秋だけ何も知らないというのは、順当ではない。
 手紙を書いてもいいが、思いは伝わりにくい。亮輔は車に戻り、携帯を取り出した。
 午後の七時前である。病院では夕食も終わり、寛いでいる頃ではないか。
 呼び出し音が一度鳴っただけで、千秋の声がした。
――亮輔さんね? 元気なんでしょ――
 千秋と電話で話をしたのは、浅田が来る前だった。久し振りである。
――どうしたの? いい話があったんじゃないの?――
 千秋が知っているはずはない。
――いい話って?――
――そう。声が弾んでいるような気がするけど――
 思わず、亮輔は車の外を見る。列車の姿はもうない。千秋に見通されているようである。亮輔の話が終わるのを待っていたかのように千秋が言った。
――いい絵が描けるようになるわ――
――何もかも、千秋のお陰だ――
 僅かな沈黙があった。 
――亮輔さんは、私が考えていた通りになってくれた――
――だけど、アメリカまで行くなんてことになると、不安だらけだ――
――大丈夫よ。あの人がいるじゃない――
 あの人? と亮輔は繰り返す。
――佐木さん……。助けてくれるわ――
 一緒にアメリカに行ったらどうなの、と千秋が言葉を足した。そんな……と言いながら千秋が隣に座っているような気がして、亮輔は誰も居ない車の中を見回す。
 千秋は、亮輔のこれからの予定などを聞いた後、早口で言った。
――当分、病院から出ることは出来ないみたいだわ。佐木さんと仲良くしなさいね。じゃあ、また電話してね――
 くぐもった声のように聞こえた。
 宵の空気が、窓から忍び込んで来た。

第344回

 七瀬に英訳をしてもらった論文を浅田に送ってから十日目の昼だった。
 亮輔は、浅田学園理事長名で書かれた講師依頼についての文書を受け取った。
 アメリカン・アカデミー・カレッジからのEメールもプリントされて一緒に入っている。当然だが、全て英語で書かれたもので、亮輔には詳しいことが分からない。
 まるで、それを見越していたかのように総務部長の浅田から電話があった。
「理事長からも、よろしくお願いしたいということでしたから」
 本当に動き出したのだなと思いながら、亮輔は身震いを感じた。
「カレッジからのEメールにも書いてありますように、七月の初めには来ていただきたいということなんですが」
 アメリカの新学期は、日本と少しばかり事情が違う。
 アメリカでは、九月から十二月にかけての秋の学期と、一月から五月までの春学期という二学期制の大学が多い。
 従って、入学も九月と一月の二回ということになる。三学期制もあるが、更にクォーター制とも言われる四学期の大学もあるのだ。
「先般、お話をしましたように、私どもの学園は、今年度から初めてアメリカの大学との提携事業を始めたもので……」
 九月からと聞いていた。七月ならば、渡米するまでに三か月もない。
「それがですね……」
 初めての提携ということもあるのだが、美術ばかりではなく、他の学科の講師も派遣することになっているので打ち合わせや準備があるという。
「そのこともあって、大学の近くに現地事務所も開設しております」
 亮輔は、そんなものかと感心する。
「早く慣れていただくためにも、早い方がいいかと思っておりますので」
 一切の手続きなどは全て現地の事務所がする。今後の連絡はEメールで取っていただきたいと浅田は言った。
 電話を終えて、亮輔は思わず大きく息を吸う。アメリカの話が始まってからのあまりの慌ただしさに、時間が駆け足で過ぎて行くようだ。
 落ち着かない日が経つなかで、このところ絵を描くことからも遠ざかっている。千秋の言うように、環境が変われば絵の方も新しい展開が見えるかもしれない。
 思わず亮輔は、ふっと大きく息を吐く。

第345回

 アトリエの窓を開けると、北山が迫ってくる。新緑の季節が近いことを思わせるように、木々の緑が濃くなり始めていた。
 来年の初夏、この北山を見ることが出来るのだろうか。ニューヨークで、どんな生活をしているのだろうと、亮輔は不安に思いながらも、多少の期待を持つ。
 ニューヨークには、メトロポリタンなどの有名な美術館が幾つかあるはずであり、そこに行くだけでも滞在する価値がある。
 だが、それにしてもと、亮輔はまた不安になる。生まれてこの方、独りで暮らしたことがない。しかも、行くのは外国である。更に、経験もしたことがない教えるという仕事に就くのだ。英語での会話もできない。不安ばかりである。
 三十も半ばを過ぎた年齢になって、お前は一体どうしたのだ、と亮輔でない自分が言う。
 まるで子どもではないかと、千秋なら笑うかもしれない。そんなことを思っていると、七瀬の顔が浮かぶ。一人の女を思っていると別の顔が重なることに呆れる。
 その思いを振り払い、七瀬に電話をしてみようと、亮輔は携帯のキーを押した。
「あ、亮輔さん……」
 声を聞いた途端に、考えていた不安がなぜか吹き飛んでしまう。あまりにも単純な自分に思わず亮輔は、ふっと笑った。
「何なんですか? 笑ったりして」
 いや何でもないと、亮輔は弁解する。
「この間はありがとう。英訳を送ってもらって……」
「役に立ちました?」
 亮輔は、浅田に言われたことを話す。
「七月……ですか」
 七瀬も驚いたようである。
「すごく早いんですね」
「いろいろ準備もあるらしいんでね」
 七瀬は、そうですかと言ったきり黙っている。
 忘れていたことを亮輔は思い出した。七瀬の家に行ってみたいと言いはしたが、考えてみれば訪ねる理由がない。
「一緒にスケッチをしに、どこかに行かないか?」
「仁多に来るって、亮輔さん言いませんでしたっけ」
「でも……」
「じゃあ、亀嵩の方はどうですか?」
 場所は、どこでもいい。七瀬に言われて、久し振りに描いてみたいという気持ちが湧いてきた。

第346回

 本当は、七瀬が生まれ育った家がどんな所なのか見たい気持ちがある。しかし、突然に見知らぬ者、それも男が訪ねて来たら家族は何と思うだろうか。七瀬は、どう紹介するのだろう。
 七瀬と落ち合ったのは、亀嵩にある玉峰山荘≠フロビーだった。連休前の平日、それも朝の十時ということもあって、山荘は閑散としていた。七瀬は、未だ来ていないようだった。
 亀嵩は、松本清張の小説『砂の器』の舞台の一つである。左手には、映画砂の器≠ノ使われた亀嵩駐在所が復元され、駅の写真なども展示されていた。
 駐在所を覗き込んでいると、背を叩かれた。振り向くと、七瀬が立っていた。
「面白いでしょ?」
 七瀬は、(ここはかめだけうさぎはいない)と、歌うように言った。
「何それ?」
「ここの地域の標語っていうのかな、言われてみればそうですよね」
「なるほど……。よく考えてある」
 七瀬は、肩をすくめて笑った。
「コーヒー、飲みます?」
 七瀬は言いながら、もう自販機の方に駆け出している。
 初めて会った頃、こんなことがよくあったなと亮輔は思い出す。
 ロビーの椅子に座ってガラス越しに外を眺めていると七瀬が両手にコーヒーを持って戻って来た。
 山荘は玉峰山を背にした高台にあるせいか、ロビーのガラス窓に広がる風景が雄大に見える。
「見えにくいけど、向こうに湯野神社があって、鳥居の左横に記念碑がありますよね」
 亮輔も一度だが行ってみたことがある。小説とはいえ、穏やかな山里とミステリーはそぐわないようにも思える。だが、清張の記念碑は、さすがに重厚だった。
「もう一つ面白い話をしましょうか」 
「……」
「私、演歌歌手になったんです」
 唐突に話を変える七瀬は、まるで悪戯を始める子どものような目をしている。
「ばかなことを言ってる」
 七瀬が、頬を膨らませてみせた。
「演歌歌手、七瀬もみじ」
「七瀬……もみじ?」
「ええ、そう。歌は忘れないで奥出雲≠ナすよ」
 亮輔は、呆気にとられて七瀬を見詰める。

第347回

「歌手の七瀬というのは、ほんとなのに」
 子ども騙しのような話をするな、と亮輔は笑い、額を右の人指し指で小突いた。
「嘘だろ」
 七瀬は亮輔の耳に口を寄せ、玉峰山から日昏れて雨が……と小さく歌った。
 亮輔は、思わず七瀬の顔を覗き込む。
「私が歌手というのは冗談だけど、歌は本物ですよ」
「……」
 煙るばかりの奥出雲と、七瀬は続けた。
「七瀬もみじってのは何?」
「コロンビアレコードの歌手なの」
「そうなのか……」
 奥出雲町は横田と仁多の合併を記念して、いわゆるご当地ソングを制作した。CDも売れているという。 
「七瀬って苗字が、不思議よね」
 偶然だろうが、七瀬の名前が苗字になっている。
「珍しい苗字だ」
「そうなの。島根県にはないけど、鳥取県には五つ、広島に三つあるの。山口は……」
「どうやって調べた?」
「電子電話帳。CDーROMだけど。もちろん歌手の名は芸名だわ。広島の府中の人らしいけど」
 知らない間に、七瀬はいろいろなことが出来るようになっている。和文を英訳するというのもそうだ。
「さっき歌った歌詞は、街であなたは幸せですか、私が泣くのを知りながらって続くんです」
 呟くように七瀬は言った。
「奥出雲の歌だなあ」
「そう?」
 七瀬の目は遠くの山を見ていた。
「あ、そうだ。スケッチしに来たんでしょ」
「うん……」
「その気はないんじゃないですか? 亮輔さんには」
 見透かされている。仁多に行くための、思い付きの口実だった。
「前にも、こんなことがあったわ。日御碕に行った時」
「日御碕?」
「そうよ。スケッチに行かないかって誘われた」
 そうだったと思い出す。もう随分前のことになる。七瀬と知り合った最初の頃だ。
「それより、昼ご飯食べたら、私の家に来てみません?」 
 いいのか? と目で聞きながら頷いた。

第348回

 七瀬の家は、三成の中心から北に少しはずれた県道沿いの高台にあった。茅葺き屋根の古い建物で、藁や茅を積み上げ、棟が反り上げてある典型的な民家だった。
 亮輔は松江から出雲への行き帰りに、簸川平野の反り棟民家を目にするが、奥出雲に向かうと、棟の反りが緩やかになっていくのに気付いている。七瀬の家は、そんな建物の一つに思えた。このところ葺き替えをする職人が少なくなったということだが、手入れが行き届いていた。
 古い民家は時代遅れだとする地域もあるらしいが、文化の伝承という点からみると意味のあることではないか。
 住んでいない者が、とやかく言うことはないかもしれない。もともと民家は個人のものだから、維持や管理は持ち主の考えである。
 亮輔は、暫く下から七瀬の家を見上げながら、ふるさと≠ニいう言葉を思い浮かべた。
 建物の後の方には、鶏小屋があるのか微かに羽音が聞こえる。ゆっくりとした時が流れているように思えた。
 七瀬はここで暮らしてきたのかと、羨ましい気になる。
「お母さん……居るの?」
 座敷から庭を眺めていると、奥の方で七瀬の大きな声がした。どれくらいあるのか分からないが、かなり広い家に思えた。
 お茶を持って出て来たのは、絣の着物を着た七瀬の母だった。六十前くらいに見える。七瀬に顔立ちがよく似ている。
「私の絵の先生で、伊折亮輔さん。スケッチに来られたので」
 七瀬が亮輔をちらりと見て笑った。
 何となく面映ゆく思いながら、亮輔は挨拶をする。
「主人は、ちょっと山の仕事に出てまして、ごめんなさい」
 七瀬が後を引き取った。
「いつも留守なんです。あちこちに造林した山があるので、見て回ってるんです」
 煎茶を入れながら、七瀬の母が続ける。
「兄が一人居ますが、安来の病院で医者をやってますので、いつも私と七瀬だけなんです」
 初めて聞く話だったが、穏やかな空気の中に浸っていると、以前から知っていたような気がした。
「ニューヨークに行かれるそうですが、いいお仕事をされますね」
 七瀬が既に話したのだ。

第349回

 どの程度のことを話したのか分からないが、七瀬の母は、かなり知っているようだ。
「思いがけないことからアメリカに行くことになりましたが、やったことのない仕事なので……」
「絵の先生なんですね。娘がいろいろお世話になっていまして」
 そう言われると、どこまで母が承知しているのかとまた気になる。絵のモデルのことは当然かもしれないが、まさかそれ以上のことまでは知ってはいないだろう。
「こちらこそ……」
 もう少し、七瀬に聞いておけばよかったと思う。
 七瀬は素知らぬ顔で、庭を眺めている。
「大学を出たものの、遠くには行きますし、帰ってからも勤めるのでもなくて」
 七瀬の母は、とりわけ困ったような顔でもない。
「オーストラリアのことですか? でも、好きなことをされていて、羨ましいです」
 学費捻出に協力したのだから、恨まれているかもしれないと思ったが、そうでもないようである。
「早く片付いてくれればと思うのですが」
 ものではないのだろうにと思いながら、片付けるという言葉を亮輔は久し振りに聞いた。差別的なニュアンスがあるのだが、夏目漱石の小説『明暗』にも出て来るように古くはそのような言い方をした。もちろん、今では通用させるべきではないだろう。
 案の定、七瀬が口を挟んだ。
「片付くだなんて。先生、済みません。お母さん、変なことを言わないで」
「以前は、使った言葉だったんだから……」
 取りなすように亮輔は言いながら、七瀬が、この辺りのどこかの家に嫁ぐことを母親は願っているのだろうかと、ふと思う。
「この頃になって、娘には自由にさせてやりたいと思い始めたんです」
 七瀬が、(おや……)という表情になって、亮輔を見た。
「オーストラリアから帰って来て、生き生きしてるように見えるんです」
「そうかなあ」
 七瀬が首を傾げた。
「好きなようにさせればいいって、主人も言うんです。時代が変わったからなって」
「そうなの、知らなかった」 
 言いながら、七瀬がまた亮輔を見る。

第350回

 七瀬と母のやり取りを聞いていると、奥出雲のゆったりとした暮らしと、穏やかな時の流れを感じる。
 出雲國風土記は、是は爾多志枳小國なり≠ニ、仁多のことを書いている。潤いがあって肥えている土地という意味である。そこに住む人の心も豊かなのだろうと、亮輔は思う。
 七瀬が自分の考えを通して外国まで行ったのも、気持ちがおおらかだからではないか。狭い世界に閉じ籠もっているのではないのだ。
「でも、女の子がオーストラリアに一年も行って勉強するなんて、昔は考えられなかったことなんですが」
 母親としては娘が一年間、しかも外国に行ったまま帰らないというのは不安だったのだろう。
「ご両親のご理解があってのことだと思うので、僕は素晴らしいことだと……」
「えっ、嬉しい。さすが先生、立派よ」
 亮輔の言葉を途中で遮り、七瀬がちらりと母を見る。
「七瀬、そんな……失礼でしょう」
「そんなことはないわ。やっぱり先生は素敵……」
 思わず、亮輔は顔を赤らめる。
「もう……」
 七瀬の母親は、仕方がないという顔を亮輔に見せた。
「アメリカには、奥さんもご一緒に?」
 突然、聞かれて亮輔は驚く。一瞬、誰のことかと思った。
「先生は独身よ」
 七瀬が呆れたような声を出した。
「あら、そうなんですか。落ち着いていらっしゃるから……。済みません」
 亮輔は憮然とするが、言われればそうなのかもしれない。四十が近い年齢なら、そう思われても不思議ではない。
「家族からは、いつもせかされてます。けど、何とはなしに、今になってしまったという感じです」
「先生くらいなお方なら、いくらでもおありでしょうに」
 亮輔は、両親の顔を思い出した。結婚もせずにアメリカに行くというのも、本当は不満だろう。

第351回

 父はそうでもないだろうが、母は安定した家庭を作って欲しいと思っている。
 亮輔は、会社に勤めながら絵を描いてきた。会社か絵のどちらを取るのかと自分に問い掛け、思い切りよく選んだのが今の生活だ。
 千秋とのこともあったが、それも一つの運である。何もしなければ新しい道は開けなかった。悔いてはいない。
「でも、いつかは結婚なさらないといけませんわね」
「お母さん、そんなに何度も言うのは止めてよ。先生に迷惑よ」
 七瀬が、怒ったような顔を見せた。
「家庭を持つことも大事ですから、いつかはそうしようとは思っています。けど、今は絵の世界に賭けてみたいという気持ちが強いのです」
「先生の言われること、よく分かるわ。私も……」
 だからオーストラリアに行ったのだ、と言いたい七瀬の気持ちが、亮輔にはよく分かる。
「絵で生活するというのは、なかなか難しいことだとは分かっています。確かにそうなんですが、もう後には引けないんです。歩き出したんですから」
 亮輔の強い言い方に驚いた顔になった。
「そんなことを思っていた矢先に、アメリカ行きの話がありまして……。こういう機会は滅多にないと思ったんです」
「そうなんですか……」
「カレッジで教えるという仕事なのですが、そうしながらでも、いいものが描けるはずだと思ってます」
 七瀬の母が頷いた。
「……はずではなくて、描かなくては駄目だと」
 不意に七瀬が言った。
「そういう考えに賛成」
 続けてまた言った。
「先生の考えと同じことを私は思ってるんだって分かりました。ね、先生。応援しますからね」
「七瀬、また失礼なことを」
「いいの。私、先生……、先生の生き方が好きだから」
 田圃を隔てた遠くの山を七瀬は、光る目で見詰めている。

第352回

 立夏は既に過ぎている。
 仁多から帰って一週間が経っていた。季節の変わり目は、曖昧である。春だとすれば晩春であり、夏ならば初夏と言わなければならない。
 亮輔は、五月の空を見上げた。太陽は七月のそれと同じくらいの強さで輝いている。庭には、藤の花が咲いていた。夏の気配が濃い。 
 亮輔は、アメリカ行きの準備に追われていた。出雲のアトリエも整理する。千秋に見せるために、原色を使った百号の抽象画を幾つか運び込んでいた。
「原色か……」
 一枚ずつハトロン紙で包みながら、亮輔は呟く。
 七瀬をキャンバスに乗せようという気持ちで描いたものがある。千秋のことを思いながら、色を重ねた作品がある。
 抽象を描き始めた頃のものには、構図や色をもう少しどうにかすればよかったと思えるものが多い。つまりは、どことなく不安定なのである。
 七瀬を思いながら描いている。かと思えば千秋が浮かび上がる。どうやら、その揺れが絵に現れているようだ。
「そうなのだ……」
 亮輔は、その考えに行き着く。
 浅田学園が買ってくれた旅立ち≠ヘ、七瀬をイメージしたものだった。裸の女が膝をつき、太陽に向かって両手を差し伸べている構図だ。七瀬を――描きたかった絵なのである。ブレてはいない。
 亮輔は、(旅立ち)かと呟き、再び絵の整理にかかる。
 カフェ・ロワールに展示していた絵をどうするかは、画商の林に任せることにする。林は、千秋と連絡を取ることになっている。
 陶器を並べている相良美樹は、これから自分の考えで進めていくだろう。
 少しずつ荷物を作り始めていると、行くのだなという思いが強くなってくる。
 三日前、千秋に電話をした。(いよいよなのね。おめでとう……)と言う声が、心なしか弱々しく聞こえた。入院が長くなっているせいなのか。
 千秋には、アメリカへ立つ前、もう一度、連絡するつもりである。

第353回

 夏夫にも、一応のことを言っておかねばならない。
 米子の夏夫の家で、七瀬も一緒だったがアメリカ行きのことは話をしている。だが、九月からという予定が早まったことは知らないのである。
 その時、明子は七瀬に、(一緒に行きなさいよ)と言ったのだ。英語の出来ない亮輔の手伝いをすれば、ちょうどいいのではないかという意味のことも酒の肴になっていた。
 明子に、どうなのだと聞かれた七瀬は、何も言わなかった。
 だが、亮輔は七瀬が(私は……)と口を濁したことは覚えている。何が言いたかったのか、確かめはしなかった。
 その内に、亮輔は帰る予定の時間になってしまい、夏夫や明子との話もそれぎりになっている。
「よお、どうした、教授……」
 北陽放送に電話をすると、ちょうど夏夫はデスクに居たらしく直ぐに出た。そういう言い方はやめろと言うが、夏夫は笑ってはぐらかす。
「向こうの学校の都合で、少し早めに行くことになった」
「ああ、聞いてる」
「誰に?」
「四、五日前だったか、七瀬君が来て……」 仁多に七瀬を訪ねてから、直ぐのことではないか。
「七月には行く予定になったと言っていたから知ってる」
 それならば、わざわざ電話をすることはなかった。
「九月から新学期ということは聞いているが、それにしてもな」
「どうせ行くのだから、同じことさ」
 言いながら、亮輔はニューヨークに思いを馳せる。
 日取りが決まってしまうと、日の経つのが早いように思える。
「お前に言っておかなきゃいかんなあと思っていたが」
「何を?」
「自分も行きたいなと話してたんで、賛成するよと言っておいた」
「……」
 そんなことが、簡単に出来る訳がない。

第354回

 七瀬が行きたいというのは、もちろんアメリカのことである。三月には、オーストラリアから帰ったばかりだ。アメリカ行きに何の目的も持たないで、行くなどというのは無謀だ。
「若いよな。佐木君は」
 亮輔は、自分の年齢から言えば、十四も違う七瀬が眩しいほどに思える。七瀬は、秋が来ると二十四になる。
「お前の年齢から言えばな。だが、若いということは、それだけじゃないはずだ」
「何が言いたい」
「やりたいことを思い通りにするということさ。もっともアメリカ行きは、お前のことがあるからだが……」
「一緒に行って、通訳で助けてやろうという訳か」
 夏夫は、それもあるがなと笑いながら、続けた。
「子どもがそうだろ。何でも好奇心を持つってやつだ」
 好奇心というのは、裏返せば空想や想像力に繋がる。子どもは、時として突拍子もないことを思い付く。
「気持ちの持ち方ということか」
「そうさ。歳を喰ったから老人になったということじゃないと思うがね」
「自分で弁護するんじゃないが、お前がそう言うなら、俺も夢みたいなものはいつも持ってるつもりだがな。出来るか出来ないかは別としてだ」
「何だよ。分かってるじゃないか。お前はえらいよ」
「だから、アメリカに行くんだよ」
 声が思わず大きくなった。
「七瀬君も、そうだと思う。お前のために裸になったり、どっかの自動車会社のポスターモデルをしたのも、若さの裏返しだ」 亮輔は、幾枚かのヌードデッサンを思い出す。 
「……」
「あの娘の、そういう気持ちを分かってやることだな。あいつは、真面目だよ」
「そういう……とは?」
「まあ、ともかく、お前はやりたいことをやればいい。それが出来なくなったら、いさぎよく年寄りになれ。だから、せいぜい、七瀬君に助けてもらうことだ」
 それはお前も同じだと、亮輔は思ったが、夏夫は、用事が出来たのでと言い、電話を切った。
 高校の時から遠慮のない話をする仲だ。時として成る程と思うことを聞かされる。

第355回

 相手の学校がどう考えているかにもよるが、浅田の話では少なくとも二年間は滞在する。ニューヨークのカレッジから来た講師依頼の手紙にもそういう契約が書かれていた。
 アメリカに行けば、亮輔は契約が終わるまでは、家族によほどのことがない限り日本に帰らないつもりである。
 そのことに不満そうな顔を見せたのは母であった。父の方は自由にやれと言っただけである。その後で、いずれはこの家に帰って来て、自分達の面倒を見てくれるだろうからと、付け加えた。
 長期の休みもあるはずだから、帰ることは出来る。だが、旅費を使って往復するよりは、美術館などを訪ねて旅行をしてみたいと思っている。アメリカの画家と新しい出会いもあるかもしれない。積極的にそうしようとも思う。
 場合によっては、もう一度、ヨーロッパに行ってもよい。
 夏夫の言い草ではないが、若い内でないと出来ないし、チャンスでもある。
 六月も十日を過ぎると、気持ちもそうだが何かと忙しくなった。
 七瀬が亮輔の家を訪ねて来たのは、明るい陽の射す朝であった。
「おはようございます」
 まるで北山から舞い降りた風のように、スーツ姿の七瀬が玄関に立っていた。
「突然、お邪魔してすみません」
 悪戯っぽい言い方をして、肩をすくめた。「どうしたのだ」
「アメリカ行きのお祝いに……」
 手にしているのは、酒瓶らしい。
「ともかく、ここでは」
 亮輔は七瀬を客間に通した。
 七瀬が、これを――と風呂敷包みを解く。一升瓶二本の酒だった。
「仁多米で出来てるんです。美味しいですから、お父さんに」
「親父に?」
「出掛けられたら淋しくなるでしょうから、お酒でも飲んでもらって」
 亮輔が、(俺には?)と言いたいのを見透かしたように七瀬が言った。
「先生には、もっといいプレゼントを別に上げますから、もう少し待っててください」
「……」
 母が出て来た。
「あら、いらっしゃい」
「先生には、いつも……」
 七瀬が座布団をずらして挨拶をする。

第356回

 母が、(おや?)という顔をして言った。
「随分とお変わりになって……」
 七瀬が、顔を赧らめて下を向く。
「……」
「以前にお会いしたのは、いつだったですか、あの時より、ずっと落ち着いていらっしゃる感じがして」
「そんなことはありません。仕事もせずに、遊んでますから」
「オーストラリアへ勉強に行っておられたと亮輔から聞いていますけど」
「英語ってことで留学したんですが、未だ何の役にも立っていません」
「でも、これからは大事なことですから。実は、うちの亮輔も今度アメリカに……」
 亮輔は遮った。
「だから佐木君がお祝いだと言って、仁多の酒を」  
 床の間に、七瀬が持って来た酒の箱が置いてある。
「親父にだそうだ」
「主人に?」
「いえ、皆さんでと思って……」
 七瀬が慌てて訂正する。
「それはご丁寧に」
 ちょっと首を傾げた母が、改めて頭を下げた。
「先生には、また別にお祝い、と言うかプレゼントをと思ってますから」
 七瀬が言いながら、ちらりと亮輔を見た。少し硬い表情に見えた。
「そんなことしなくても、これでもう十分だよ」 
「旅立ちですから」
 亮輔が描いた絵に絡めて言っている。母には、その関わりの意味が分からないはずである。
「お茶の用意を……」
 母が席を立った。
「出発は……いつなんですか?」
「三十日の木曜。出雲空港から羽田までのチケットは浅田学園が全て手配をしてくれることになってる。何時のフライトというのは未だ。近い内に連絡があるはずだ」
 七瀬は、携帯の画面にカレンダーを出して確かめている。
「東京に着いたら、一週間ばかりだが、浅田学園で打ち合わせをすることになってて、アメリカは、それからだよ」
「向こうへ直ぐには行かないんですか」
「初めての提携だから、いろいろと準備や打ち合わせをするらしい」
 七瀬が、遠い目をしている。

第357回

 煎茶の道具を持って来た母に、七瀬が言った。
「あ、どうも、おかまなく」
 亮輔は不思議なものを見るように、七瀬に目を遣った。仁多の家での雰囲気と違う。七瀬が亮輔に首をすくめ見せた。
「どうぞ、ごゆっくり……」
 母は七瀬に言い、部屋を出て行った。
「亮輔さんは、恵まれてますね」
(先生)が(亮輔さん)に変わった。自分で言って気が付いたのか、七瀬が口をきつく結び、えくぼを見せた。
「そうかな……」
「だって、パリやアメリカ行きもそうだし、絵が売れるってことも」
 頷きながら、ふっと千秋の顔が浮かぶ。
「偶然さ」
「……じゃないと思うけど。私も思い通りのことがしてみたい」
「七瀬は、そうしてる。仁多のお母さんが、そんな意味のことを言われた」
「そうね……」
 七瀬は目を細め、庭の先に広がる遠い空を見ていた。
「出発の便が決まったら教えてください」「そうする。見送ってくれるか?」
「ええ、出雲空港に行きます」
 言いながら、七瀬は二、三度ウインクをしてみせた。
 帰る――という七瀬をJR松江駅へ、オフロードで送った。十日ばかり後に、手放すことにしている車だ。
 戻って来ると、ちょうど昼だった。父は出掛けている。母と二人の食事になった。「佐木さんって、ほんとにいいお嬢さん」「若いってことだろう?」
「そういう意味でなくて、挨拶なんかもきちんと出来てたわ。若いのにね」
「若いということに、何となく特別の思い込みのようなものがあるからだろ」
 年齢についての先入観が強いからだと言いたいが、今更、議論しても始まらない。「佐木さんのような人が、来てくれれば、お母さんはいいと思うけどね」
 来るというのは、いかにも母らしい古い言い方だ。
「そんなことは、どうでもいい」
「そうかねえ。お父さんも心配してるんだけど」
 それよりも、アメリカ行きのことで、亮輔の頭は占領されている。
「準備があるから……」
 昼食を終え、亮輔はアトリエへ引っ込む。

第358回

 出発の六日前になっていた。
 毎晩のように、夕食時は亮輔のアメリカ行きが話題になる。
「東京で一週間ばかり居て、それからニューヨークなのね」
 このところ、母は同じことを何度も亮輔に尋ねている。
「何度も言ったのに」
 繰り返すようになるのは、歳を取った証拠だ。それはともかく、亮輔は両親に済まないという思いで、時折、気持ちが揺れる。
「東京の宿は?」
 父は、ビールのコップを手にしている。
「学園の宿舎に空いてる部屋があるからって、昨日連絡があったけど」
「ニューヨークは?」
「そこも同じで、職員用のアパート。狭いらしいけど、どうということはないと思うよ。永住するんじゃないから」
「それはそうだ」
「永住なんて……そんな。アメリカに行ったら、年に何度か帰るんでしょうね」
 母は、心配そうな顔をする。
「そんな無駄なことをすることはないと思うよ。一年や二年、亮輔の顔を見なくても。特別のことがあれば別だが」
 亮輔は、インターネットの使い方を父に教えておこうと思う。そうすれば、暮らしが分かるような画像も送ることが出来る。
 インターネット電話を使えば、無料ということもある。物理的な距離は遠いが、時間距離はまるで国内と同じだ。
「お父さんと見送りに行くわね」
「そんな必要はないよ」
「だって……」
「わざわざ空港まで行かなくても。子どもじゃあるまいし」
「そんなものかね」
 母は不満そうだが、父は笑っている。
 出雲空港発は、午後七時前のJAL羽田行である。たかだか一時間ほどのフライトだ。とりあえずは東京までだから、見送りなど大袈裟である。
 何かと気に掛けてくれるのは分かるが、亮輔は、今こそひとりで旅立ちたいと思う。両親を安心させるためには、もっといい仕事をし、絵も描かなくてはいけない。
 日本をモノクロの世界だとすれば、ニューヨークは激しいまでの色彩の中にアートが溢れる街だ。
 その大都市はアートの巨大なエネルギーを持ち、世界中から注目されている。そこで絵を描きたい。

第359回

 七瀬には、既に出発時刻を伝えていた。両親には悪いとは思うものの、七瀬が見送りに来てくれれば亮輔は気持ちよく飛行機に乗ることが出来る。アメリカから何かの用事で帰らない限り、数年の間、会うことはないはずだ。
 七瀬のことを考えていると、その隙間に千秋が入り込んで来る。
 萩に帰って以来、もう長い間、会っていない。それ切りになりそうな気もしないではない。
 病状によって違うだろうが、白血病の治療のためには、どれくらいの入院が必要なのだろう。
 千秋の話では、半年か一年ということだったが、その通りになるとは限らない。もちろん、計算をしたように日数が決まるものでもない。
 萩の病院を訪ねて確かめればいいのだが、千秋はなぜかそれを好まなかった。だから、電話で聞いたことから推測するしかない。 
 出雲での千秋との暮らしは、ついこの間のことだが、随分遠いことのように思える。
 去ってしまった日は、仮に千金を積んだとしても二度と戻らない。記憶はしだいに薄れていく。その中で残るのは、華やかにに彩られた断片だけである。誰もそうだが、自分に都合のわるいことは忘れようとするからなのだろう。
 いつも思うのだが、千秋が現れなかったら何も起こらなかった。
 東洋自動車販売に勤めながら、手すさびのような形で絵を描き、どこかの誰かと家庭を持って平凡な生活をしていただろう。
 だが、思いもかけない出合いから、新しい世界に踏み出した。訪れた機会を捉えていると、更に次のチャンスがやって来た。
 夏夫の言葉ではないが、恵まれ過ぎていたようである。
 七瀬は、自分で積極的にチャンスを作ろうとしている。モデルのアルバイトをして費用を作り、オーストラリアにまで行った。そのことをどうするのか未だ分からないが、何かの形で生かすだろう。
 数年後、日本に帰った時、七瀬は今のままなのだろうか。
「ともかく、早く安心させて欲しいわ」
 母の言葉に、亮輔は揺れる思いから覚め、黙って頷く。

第360回

 亮輔は、乗って来た空港連絡バスから下りた。振り返ると、北山が西日を浴びて光っていた。青色の絵具を塗ったような出雲の空は、あと二時間、午後七時半には日没を迎え、茜色から薄墨色に変わる。
 空港ロビーに入った。デジタル掲示が、羽田行の出発時刻をオレンジ色に輝かせていた。最終便が東京に到着するのは、午後八時前である。
 受付カウンターで、搭乗手続きを済ませた。携帯を取り出して時計を見る。五時半だった。一時間後には飛行機の中だ。亮輔は肩で大きく息をした。ポケットに入れようとした携帯が着信音を立てた。電源を切っておかなくてはと思いながら、二つ折の携帯を開く。ディスプレイにナンバーが出ている。見慣れない数字だった。〇八三八ー二二ー二四……とある。
「伊折――伊折亮輔さんでしょうか」
 遠慮がちな男の声だった。
「はい。そうです。どなた……」
 亮輔の問いに被せるように、男が言った。「サノです。萩の……」
「萩の……サノさん」
 聞こえた言葉を繰り返す。両脇に、すっと汗が流れるのを感じた。紗納千秋の夫なのだろうか。
「ええ、紗納千秋の家の者です」
 どう答えていいのか分からない。気配を察したかのように男が言った。
「突然、済みません。紗納の長男です。ケンジと言います」
 暫く、間合いがあった。
「母が亡くなりましたので、お知らせを……しようと思いまして」
「千秋……いえ、千秋さんが亡くなられた」
 心臓の血が抜け落ちていくような気がした。目の前に白い壁が立ち上がった。
「三日前です。取り込んでいまして……。何かあったら母があなたに知らせて欲しいと言っていましたので」
 千秋が死んだ。私は死なないわよ、と笑っていた、千秋が死んだ。
「母が、いろいろお世話になったそうで、ありがとうございました。僕に出雲と、あなたの話をよくしてくれていました」
 ケンジは、どこまで知っているのだろう。「先ほど葬儀が終わったものですから」
 出雲の会社のことを何か言ったようだが、亮輔には聞こえなかった。(それでは……)と言ってケンジは電話を切った。
 呆然と立ちつくす。どれくらいの時間が経ったのか、不意に背中を叩かれた。

第361回

 思わず背筋が冷たくなった。まさか千秋が来た訳ではないだろう。恐ろしいものでも見るように、時間をかけて振り返ると、七瀬が立っていた。少し大き目の黒いショルダーバッグを掛けている。
 亮輔は、思わず吐息をもらす。
「どうしたの。溜息なんかして」
 唇を尖らせている。
「いや、何でもない」
 さすがに、千秋のことを言う訳にはいかない。
「来ては、いけなかったんですか?」
 不服そうな言い方だが、顔は笑っていた。
「見送りに来てくれたから、驚いただけだ」
「あれ? 空港に行きますって言わなかったっけ」
 選りに選って、とりあえずの東京までとは言え、出発の時に千秋の死を聞かされ、それが終わるのを待っていたかのように、七瀬が現れた。亮輔は目を閉じた。笑っている千秋の顔が浮かんだ。
「大丈夫なんですか?」
 どうということはない、と亮輔は言いながら携帯をポケットに入れた。
「誰も見送りの人は、居ないんですね」
 七瀬が辺りを見回す。平日のせいか、乗客や見送りの姿はまばらである。
「そうだよ。家族とは昨日の夜に簡単な食事会をして、お別れさ」
「そうですか……」
 空調が効いているはずなのに、額が汗ばんだ。
「二階にあるレストランで、冷たいものでも飲もうか」
 いいの、と七瀬が首を振った。
「亮輔さん」
 喉から洩れ出すような、ひび割れた声だった。 
「何?」
「プレゼントを持って来たの……」  
「いいよ。そんな」
「……よくない」
 七瀬の目が、少し潤んでいた。
「これ……」
 バッグから七瀬が、封筒を取りだした。JALのマークが入っている。
「受け取って」
「何? それ……」
 亮輔は封筒を開けた。航空券だった。
「誰の?」
「私の東京行……チケット」
「七瀬――」
 携帯の呼び出し音が鳴った。

第362回

 唖然として、亮輔は七瀬の顔を見詰めた。「東京まで見送りに?」
 七瀬が黙ったまま、ゆっくりと何度も首を横に振る。
 携帯は、執拗に鳴り続けている。
「どういう意味?」
「それよりも、電話に」
 通話キーを押し、七瀬に背中を向けた。
 ディスプレイには、夏夫の電話番号が出ていた。
 夏夫のゆっくりとした声が聞こえた。
「俺だ。七瀬君が居るだろう?」
 まるで、見計らったようである。
「ああ、見送りに来てるが、どうして分かった」
 夏夫は亮輔の問いには答えなかった。
「一緒に行けよ」
「東京まで、わざわざ見送りにか?」
「馬鹿野郎、何を言ってる。ニューヨークだよ」
「アメリカ……」
 亮輔は振り返った。七瀬が睨むような目をしていた。誰から掛かった電話なのか分かったようだ。
「そうだ。お前とアメリカに行きたいんだ」
「……」
「連れて行ってやれ」
「どういうことだ」
「一緒に行くのさ。明子も、それが一番いいと言っている」
「……」
「随分前になるが、どうしてもお前と暮らしたいと言ってきた。それで明子と二人で仁多へ、つまり七瀬君の家に行って、そのことを話したのだ。もちろん、お前のことも、いろいろと」
 知らない間に、予想もしなかったことが進んでいたのだ。
「どうしてもアメリカへと、強引だったらしい。お父さんとお母さんも呆れられていたが」
「……」
「いつか仁多に行ったんだってな。お母さんは、お前のことを気に入られたらしい。あの人なら七瀬をおまかせしてもいいとも言われた」
「……」
「お父さんも賛成されたというか、どうせ言うことを聞かないし、その気持ちが強いなら、止めさせるというのは七瀬のためにならないともな」  
 口をきつく結んだまま、七瀬は亮輔を見ている。

第363回

 出発ロビーの壁面に掛けられた時計が、午後五時四十五分になっていた。
 国内線出発待合室に入って行く乗客の賑やかな声がする。
「お前が七瀬君を好きだということは……分かってる」
「……」
「どうなんだ」
「連れて行く。アメリカへ」
 亮輔は、七瀬の顔を見ながら言った。七瀬の見開かれた目に、小さな雫が光った。
 先生の生き方が好きだから……と言った七瀬の言葉を思い出した。
「……よかった」
 夏夫の小さい呟きが聞こえた。
「もう時間だろう? 一緒に行け」
「……ありがとう」
 聞いていた七瀬の頬に赤味が差した。
「大事にしてやってくれ」
 目の奥が熱くなった。
「もちろんだ」
「お前なら出来る」
「そうする」
「言い忘れていたが、七瀬君のご両親が、近い内にお前の家を訪ねられるそうだ」
「そうか……」
「何もかも、うまく行くよ。じゃあ、元気でな」
 羽田行にご搭乗の――アナウンスがロビーに響く。
 携帯の電源を切り、バッグの中に入れた。「行こうか」
「はい」
 七瀬が亮輔の左腕に右手を絡めた。
 待合室からコンコースに出て、左側の搭乗橋に向かった。
「見送りに、ご両親は?」
「三成の駅までで、空港へは行かないよって。幸せにな……と言いました」
 白い機体が、ちらりと見えた。
 機内は、半分近くが空席だった。最終便は大抵の場合、満席に近いはずだ。エアポケットのような日なのかもしれない。
「私達の席は、離れてますよね」
「それはそうだ。別々に買ったものだから」
 亮輔は乗務員を呼んで、座席を確かめる。運良く、亮輔の隣の席は空いていた。
 窓から見える滑走路が光っている。

第364回/最終回

 エンジン音が高くなり、離陸が近くなった。シートベルト着用のサインが出る。
 機体が動き出した。向きを変えると更に激しい音がする。
 全長二千メートルの滑走路から飛び立った機体は、急角度で日本海の空に向かった。
 夕陽に照らされた穏やかな色彩の出雲平野が、たちまち遠くなる。
 窓側に座った七瀬の頬を両手で挟んで引き寄せ、唇を寄せた。
 七瀬の頬に、泪が一筋流れている。亮輔は、右手の小指で掬い取った。
「さあ、行くぞ」
 亮輔は思わず大きな声を出す。
 通路を挟んだ席に座っていたアメリカ人らしい男がちらりと亮輔を見て、手にした新聞に直ぐ目を落とした。ニューヨークタイムズの標題が見えた。
「でかい声を出して……恥ずかしい」
「いいさ。ニューヨークじゃ、日本語で怒鳴ったって分かりはしない」
「やだ。通じるわよ、十分に」
 七瀬が、声を立てて笑った。子どものように笑った。
 初めて出会った時の七瀬の顔だった。
 日御碕へ一緒に行った時、岩盤の上に腹這いになり、ミニスカートがめくれてピンクのショーツが見えるのもかまわず、断崖を見下ろしていた七瀬を思い出す。(凄い)と言った無邪気な七瀬の姿が浮かぶ。
「若さって、夢を持つことだよな」
 亮輔は自分に言い聞かせる。
 出雲を出てから三十分ばかりで窓の外は暗くなり、羽田まで一時間を切った。
 到着時刻が近くなった。闇の中に点在していた灯りが、少しずつ数を増していく。数知れない原色の絵具を撒き散らしたようでもある。
 一つ一つの輝きが幾何学的に繋がり始め、巨大な光の構図を作り出していく。
 その渦の中に千秋の笑顔が浮かび、直ぐに消えた。(さよなら、亮輔さん)という声が聞こえたような気がした。
 機体が止まった。
 亮輔は七瀬の手を取り、新しい構図を求めて到着ロビーに向かう。
 亮輔の左肩に七瀬が頭を乗せている。
 旅立ちであった。                              ――完――
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 登場人物全てが、私の分身にも思えた1年1か月でした。長い間、ご愛読ありがとうございました。