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連載小説「原色の構図」 島根日日新聞掲載

◇第201回

 明日から九月になるという日の夜だった。日本現代創芸協会の記事が載っている美術雑誌『美苑』を見ていると、電話が鳴った。時計を見ると、午後九時である。
「もしもし……」
 聞き慣れない女の声がした。女の声で電話が掛かるのは、このところ千秋か七瀬だけで、ほかに思い当たらない。亮輔は暫く黙っていた。
「私……相良美樹です」
 ああ、そうだったと亮輔は思い出す。
 去年の夏、松江現代美術館で『二人展』をした。亮輔の水彩画と美樹が焼いた陶器を並べたのだ。
「お久し振りです。失礼ばかりしていて」 たった一年前だが、随分と時が流れたような気がする。思わず亮輔は、深い溜息をついた。
「二人展をしてから、一年になりますね。……あの時はお世話になりました」
 亮輔は空白を埋めるように、ゆっくりと美樹に言った。
「こちらこそご無沙汰をしてしまいました。お元気のようで何よりです。伊折さんは、いろいろご活躍のようで」
 去年の展覧会以来、七瀬と千秋に出会い、まるで暮らしが変わってしまった。
 そのせいばかりではないが、美樹のことを思い出す余裕がなかったと言えば言い訳になる。
「あれから、いろいろありまして」
「お電話したのは、お祝いを言おうと思って、それで」
 お祝い? と亮輔は聞き返す。
「ええ、雑誌を見ていたら、伊折さんの受賞のことが載っていたもので」
 偶然と言えばそうである。入賞作品が載っている『美苑』を見ていたら、電話が掛かってきたのだ。
「ああ、日本現代創芸協会のですね。ありがとうございます。あまり期待はしていなかったのですが……」
「写真が載ってましたから、見たんですが、素晴らしいですね」
「美苑……ですか?」
「ええ、そうです」
 美樹は、高瀬川周辺の古い街がよく描けていると言う。
「街の景色は変わるでしょうが、地方のそういう風景をキャンバスに残しておかれるってことは大事なことだと思います」
 亮輔は、温めている自分の思いを美樹に言われて、思わず頬がゆるむ。

第202回

 地方で描いている者は、やはりその土地に密着した仕事をしなければいけないと思っている。風景などは特にそうである。住んでいる者にしか描けない風景というものがある。
 千秋が出雲の風景を描いて欲しいと言うのは、まさにそのことなのだと改めて思う。「記事にありましたけれども、伊折さんは出雲を中心に描いておられるのですね?」 雑誌の『美苑』には、受賞者の経歴とインタビューが載せられていた。亮輔は、これから出雲の風景を積極的に描いていきたいとインタビュアーに話したのだ。
 美樹にどこまで言っていいのかと迷うが、雑誌の記事のように、いつかは分かることだ。
「ええ、出雲にもアトリエを持ったのです」
 それは凄いことじゃないですかと、美樹の驚いた声が受話器に響く。
「知り合いの人のマンションの部屋を一つ借りてるのです」
「出雲にお住まいなのですか?」
「いえ、松江が主なんですが、時々……」「もしかして、伊折さん、ご結婚?」
「まさか……。一緒になろうという人なんか一人もいませんよ」
「でも、女の人のファンも多いじゃないですか?」
「それならいいのですが」
 美樹の小さく笑う声がした。
「そうそう、大事なことを忘れるところでした。実は……」
 画商の林大輔が、また二人展をしたらどうだろうと電話をしてきたのだと、美樹は言う。
「伊折さんの受賞記念ということで、と言われましたよ」
 アートディレクターの肩書を付けた林の顔が浮かんだ。
「僕は聞いてませんけど」
「ええ、伊折さんには、どうやらスポンサーが付いておられるようで、私の出る幕はないなんて言っておられましたから」
「……」
「多分、思い付きでしょう。私に茶碗を焼いてくれるようにという頼みのついでだったんですから」
「茶碗を?」
「注文があれば、何でも作ります」
 林は焼き物にも目を向けているのかと、亮輔は思った。ともかく、美樹にそのつもりがあるならば、二人の展覧会をしてもいいかもしれない。

第203回

 美樹と二人で開いた展覧会は、絵と焼き物の組み合わせということもあり、思いのほか好評だったのだ。そうであれば、来てくれた人の記憶が薄れないうちに、やっておいた方がいいのだ。
「画商の林さんが、開いたらどうだと言ったんですね?」
「でも、思い付きのような言い方でしたよ」
 林がどうだろうと、案外、的を射た話ではある。受賞記念というのは、いささか大袈裟にも思えなくもないが、受賞作展示ということなら違和感はないだろう。
「せっかくのお話ですから、そんな方向で考えてみましょうか」
「私はいいですよ。一年の間に、かなり作品も出来ましたし」
 千秋に相談してみなければいけないと、亮輔は思った。展覧会をするとなれば、それなりの経費が必要である。
「そうですね。僕の方は、相談しなければいけない人もありますから……」
「もしかして、スポンサーの方?」
 千秋のことである。どこから聞いたのか分からないが、林はさすがに耳か早い。
 美樹にそのことを話していいのかどうかと、束の間、迷う。
「ええ、そうなんです」
 黙っていても、いずれは伝わるだろう。
「紗納千秋という人で、不動産業が主な仕事なんです」
「女の人……」
 驚いたような口調だった。
「さっき言われた知り合いの方のマンションというのは……」
 少しずつだが、白状させられているようでもある。
「ええ……、まあそうです」
 これ以上、話していると何もかも言わされてしまいそうである。
「そうなんですか……」
「……」
「ともかく、近いうちに、どこかでお会いしましょう」
 どうやら美樹が、矛先を変えてくれたようだ。
「相良さんの窯は、やはり以前の通り?」
「羽須美村の……、あ、間違いました。邑南町の羽須美です」
 美樹が笑っている。去年の十月、羽須美、瑞穂、石見が合併して邑南町になった。美樹の窯は、かつての羽須美村上田にある。
 亮輔は、近いうちに予定を立てて連絡をすると言って、電話を切った。

第204回

 相良美樹と二人展をしたのは、去年の夏である。全ては、その時から始まったと言ってもいい。
 松江の世徳大学を出てから、東洋自動車販売に勤めた。そのまま車の営業などをして過ごすのかと思っていたが、千秋と知り合ったことで、何もかもが変わった。
 最大の変化は、絵を描く環境が整ったことである。車の営業をしていた頃は、夜遅くまで顧客の相手をすることもあり、絵に時間を取ることが出来るのは、休日か夜遅くに限られていた。
 千秋の会社の社員ということになり、亮輔は絵を描くことが、仕事になった。恵まれ過ぎていると思う。その代わり、描いた絵は、ある意味で亮輔の自由にならないということもある。いわば千秋という画商の手によって商品になるのだ。
 そのために、ウイークリーマンションに喫茶店を併設して、そこを画廊にし、マンションにはアトリエの場を確保してくれたのである。
 亮輔は趣味で絵を描いているのではないから、売れなくてはいけない。自分で持ち歩いて売るということなど出来はしない。そのために画商という職業が成り立ち、展覧会をしたりするのである。
 描いている絵は、水彩に加えて油彩が多くなった。風景から人物にも広がった。
 人物はヌードである。女の肌は、男と違って柔らかく透き通っている。皮膚が薄いのだろう。その肌の中を赤い血が流れている。あるいは、赤ではなく薄青いのかもしれない。だから、青く透き通るのではないかと思ったりもする。
 その裸体のふくよかさと、吸い付くような肌の感触を描いてみたい。
 フランスの画家であるドミニク・アングルの泉≠初めて見たのは、中学校の美術の教科書だった。壺から、いつまでも絶えることなく流れ落ちる水のように、いつまでも見ていた記憶がある。
 よく見ると、泉≠フ裸婦には筆の跡がないようでもある。大理石で作られた像とも思える。
 亮輔の裸婦の理想は、その絵にあると言ってもいい。ゆったりした曲線に、女の美しさがあるのだ。本当の美しさは、女の裸体にある。
 七瀬に出会い、専属のモデルとして、じっくりと見詰めながら描くようになった。体の関係が出来てからは、キャンバスに浮かぶ肌とフォルムが生き生きとしてきた。

第205回

 美しいものは見飽きることがない。女の肌がそうである。七瀬を描くことで、それは得られると思っている。
 裸婦の次は何なのだろうと亮輔は思う。
 去年の秋だった。七瀬と日御碕に行ったことがある。途中に廃屋があり、二人で入ってみた。その廃屋に七瀬を立たせて描いてみたいと思った。今なら七瀬を裸にするかもしれない。
 その時に、ふっと抽象の方向もあると考えた。
 絵を描く時間や場所は、有り余るほどになった。新しいことを始めてもいい環境を手に入れた。
 ともあれ、美樹が持ち込んできた展覧会の話は、千秋に相談しなければいけない。電話をしてみようと亮輔は思った。 
 時計を見ると、午後十時を過ぎている。他人の家に電話をするような時刻ではないが、千秋はまだ寝てはいないはずだ。
 携帯のアドレス帳から千秋の番号を探し、発信キーを押す。
 千秋は直ぐに出た。
「どうしたの?」
 テレビを見ているのか、微かなざわめきにも似た音がする。
「ちょっと相談したいことがあって」
 いいわ、と答えた途端に電話が静かになった。テレビのスイッチを切ったのだろう。「何?」
「どこです?」
 携帯だと、どこで話しているのか分からない。
「出雲よ。マンションに居るわ」
 出雲のマンションなら、亮輔がいつも使う部屋である。
「相良美樹さんから電話があって……」
 名前を言っても、思い出さなかったようだ。千秋の息づかいが聞こえた。ウイスキーでも飲んでいるのかもしれない。
「相良さん……」
「一年前の展覧会をした時の相手で、焼き物をやってる人」
「ああ……」
 思い出したようである。千秋は相良美樹という名を男と勘違いし、二人で声を上げて笑った。初対面の千秋だったが、その笑いが二人を近づけたとも言える。その時に、美樹は居なかったから記憶に残らなかったのだろう。
「何の用事で?」
 亮輔は、かいつまんで美樹の提案を話す。千秋は黙って聞いていた。

第206回

 時折、グラスとボトルの触れ合うような音がする。
「飲んでる?」
 電話だと、言い方が馴れ馴れしくなる。
「そうよ。今から来なさいよ」
「まさか」
 亮輔は言いながら、行けなくもないと考える。このあたりが独り身の気安さである。出雲まで約一時間だから、十一時には着く。二人で使っている部屋だから、何の気兼ねもない場所だ。
「もう遅いから、今日は行かない」
 笑った顔が見えるようだった。
「そう。来なくてもいいけど、展覧会はいいと思うわ」
「賛成してもらえるなら、相良さんと打ち合わせを……」
「私がプロデュースする」
 即座に言った言葉に、それもそうだと、苦笑する。いわば亮輔という画家のオーナーでもあるからだ。
「去年は松江でやったんだけど」
「そうね。現代美術館で、亮輔さん、あなたに出会った」
「……」
「けど、もしやるんなら、出雲ね」
 松江の方がいいのではないかと、亮輔は言い返す。
「松江もいいけど、そこばかりじゃなくて、出雲でも名前を出した方がいいのよ。小さいけど喫茶店画廊もあることだし」
 少し酔っているのだろう。ジョークめいたことを言う。
「カフェ・ロワールじゃ、狭い」
「分かってるわ。出雲には新しい美術館も出来たことだし、どこか適当な所を当たってみることにするわよ」
 いずれにしても、未だ少し先の話である。おおよその案を千秋が作るだろうから、それから美樹と話し合ってもいい。
「じゃあ、そういうことで」
「ええ、分かったわ。亮輔さん、あなた本当に来ないのね?」
 また蒸し返す。聞きながら、亮輔は千秋の弾力のある体を頭に描いた。
「……行かない」
 含み笑いをして、千秋が電話を切った。
 少し飲んで寝るか、と亮輔は呟き、冷蔵庫からビールを取り出した。グラスに立ち上がる琥珀色の泡を見ていると、七瀬の顔が浮かんだ。このところ、七瀬がアトリエに来る回数が減っている。

第207回

 八月が終わったが、七月の下旬から七瀬は一度も来ていない。大学は九月の半ばまで夏休みだから、モデルのバイトも休みにしたいと言ってきたのだ。
 アルバイトは時間があるときにするものだろうから、夏休みはちょうどいい機会ではないかと亮輔は言ったのだが、七瀬は九月からにして欲しいと、言葉を濁すような返事をした。
 大学は来年の三月で終わりである。最後の年の夏休みくらいは、自由に過ごしたいのだろうと亮輔は諦めた。
 それにしても、何となく七瀬が、避けているように思えなくもない。
 七瀬が来る予定の日には、カレンダーに印が付けてある。
 九月の最初の月曜日だった。いつもなら七瀬が来ている時間である。
 七月の終わりに、大学のグループで北海道に行くと言ったきり、会っていない。せめて、土産くらいは持って来てもいいのではないかと思う。
 日本現代創芸協会の公募展に入賞したことも話したい。
 電話をしてもいいのだが、七瀬に電話をするのは躊躇われる。
 千秋との関わりが深まり、七瀬に対して後ろめたい気持ちがあるからだと気が付いてはいるのだ。
 夏夫に聞けば、七瀬のことが少しは分かるだろうと、亮輔は電話機のボタンを押す。
 北陽放送は、いつものように受付が出た。「報道の本山さんをお願いします」
 暫くお待ちください、と返答がある。
「取材に出掛けているようです」
「社にはいつ頃?」
「特番に入ってまして、よく分かりませんが、スタッフに連絡を取っておきます」
「じゃ、電話をしてもらうように……」
 特番とは、特別に入るスポーツ中継、あるいは、いつもと時間編成が異なる番組である。いわゆる特集番組にでも関わっているのかもしれない。
 それに引き換え、一体自分は何をしているのだと気がとがめなくもない。
 二人の女、七瀬と千秋の間を歩き回っている。七瀬の顔を見ないと、どうしているのだろうかと考える。いっぽう、千秋と一緒に居る時は七瀬を忘れる。
 これではいけない、などと考えていると、電話が鳴った。
「よお、どうした?」
 思いのほか早く、夏夫が掛けてきた。

第208回

 夏夫の声の背後からは、車の騒音に混じって幾人かの男の声がする。
「忙しいところ、済まない」
「お前さんのように優雅じゃないさ。取材中だ」
 千秋と七瀬のことを考えていたのだから、言われてみればそうでもある。
「ちょっと聞きたいことがあって……」
「七瀬君のことか?」
 言い当てられて、亮輔は少し戸惑う。
「まあな」
「北海道から帰ってすぐ、仁多に引っ込んでしまった。夏休みで涼しい田舎がいいとか言ってた」
「そうか。家に帰ってたのか」
「どうした? 知らんのか」
 七瀬と電話で話をする機会が、めっきり減っている。掛けても、出ないことが多いのである。繋がっても、当たり障りのない話ばかりだった。
「北海道に行ったんなら、土産くらい呉れるのかと思ってたけどな」 
 冗談めいた言い方をしたせいか、夏夫が笑った。
「今どきの若い娘が、いくら遠い北海道でも、いちいち土産なんぞ買って帰りゃしないさ。うちにも呉れてないからな」
 そんなもんかね、と亮輔は呟きながら、北海道という言葉に引っ掛かる。
「ほんとに北海道に行ったのかと思ってな」「今どきの若い者は、あちこち行くさ。どこだっていいじゃないか」
 そうはいかないのだ、と言いかけて亮輔は口ごもる。
「……仁多に居るなら、それはそれでいい」
「何が言いたい。まあ、またな……」
 いずれ米子で飲もう、と夏夫が言い、慌ただしげに電話を切った。
 夏夫は、東洋自動車販売の美郷社長と七瀬の関わりは、単なるアルバイトのことだけだと思っている。だが、亮輔は出雲空港で見掛けた二人連れが、どうしても七瀬と美郷に思えてならない。もしそうだとしても、七瀬は自分から言うことはない。
 あれやこれやと考えていると、想像はいくらでも広がる。想像というより、それは妄想に近い。妄想は煩悩を生み、更に増幅して絵空事の世界を作り出す。
 七瀬と美郷を乗せた東京羽田発のJALが、新千歳空港に着いた。一階の到着ロビーを二人は、もつれるようにして歩く。年齢からは親子のように見えるが、漂っているのは濃密な男と女の匂いである。

第209回

 JR新千歳空港駅は地下一階にあり、JALの到着口から直ぐである。
「疲れたか?」
 美郷が七瀬の左の耳に唇を寄せて囁く。「ううん……平気」
 七瀬が腕時計を見た。カルティエのサントスである。東京で美郷が買った。二十万だった。
 その時計が、午後六時を指している。
 JAL1029便が羽田を出たのが午後三時五十五分だった。一時間半のフライトで札幌千歳である。
「さすがに涼しいな」
「東京は暑かったもん」
 空港の温度計は、二十度だった。東京はそれより五度も高かったのだ。
 札幌は、全国の主要都市の中でも特に気温が低い。
「当たり前のことだが、夏は涼しいけれども、冬は寒いよ」
「北欧に近い気候ってことなのね」
「七瀬の行きたいとこは?」
「ヨーロッパで?」
「ああ、北の方では、どこが好き?」
「うーん。ノルウェー、フィンランド辺りかなあ」
「旅費、出してやろうか?」
「ほんと? 寒いのは慣れてるから」
 そうだ、七瀬は仁多だもんな、と美郷が言って笑った。
 JR札幌駅の東改札口から出て、大通り方面の出口へ向かう。
「どこに行こう?」
「そりゃあ、やっぱり時計台」
「それから?」
「テレビ塔と大通公園」
「修学旅行じゃないか」
「私、来年の春は卒業だもん」
 タクシー乗り場は、直ぐだった。
 美郷が先に乗り、七瀬の手を引いて座らせる。運転手が、ちらりとミラーに視線を走らせた。
「時計台から大通り、それから札幌プリンスホテルへ」
 美郷が運転手に早口で言う。
「公園を歩いてみないの?」
「ああ、明日にしよう」
「そう……」
 タクシーは時計台の前に停まった。
「ええっ……。どっかの公園か森の中にあるかと思った」
 七瀬が驚いたような声を上げる。オフィス街だった。

第210回

 誰でも初めて時計台を見ると、落胆する。周りの風景と馴染まないからである。時計台の正面ビルの外側にある階段を上がった二階部分からが、最もいいアングルだ。
 しかし、写真を撮るなら、下から見上げるようにしないと後ろのビルが背景になって面白くない。
「行こうか」
 美郷が七瀬を促す。
 大通公園は、一九〇万近い人口を持つ札幌市の中心にある。大都会の中にある公園とは思えない程の自然に囲まれ、さまざまな形で噴き上げる噴水は、見る者を和ませる。
 勤め帰りだろうか、ベンチに座っている二人連れが見えた。
「あ、ソフトクリーム……食べてる」
 七瀬が子どものように笑った。
 高さが約一五〇メートルもあるテレビ塔を背に、タクシーはホテルに向かって走る。
 美郷が予約していたのは、十四階のツインの部屋だった。
「凄い……いい部屋」
 日没に近い札幌の町は、少しずつ灯りが点き始めていた。 
 七瀬は凄いと言うが、ホテル全体から見れば、いい部屋ではない。
「もっとデラックスな所もあるが、ここは普通の部屋だから」
「でも嬉しい。私、札幌って初めてだもの」
 美郷は、二度目である。
「ね、ねっ、あの山は、なんて名前?」
 聞かれても美郷は答えようがない。
 ガラスに額を付けるようにして見ている七瀬の後ろから、美郷は両手で腰を持ち上げるようにして抱く。
 一瞬、七瀬の体が硬くなった。
「あ……」
 七瀬の体から力が抜け始める。
「あっちへ行こう」
 ベッドが二つ、並んでいる。
 七瀬をベッドに腰掛けさせ、セーターの背中に交差する十文字の紐を解く。
「やだあ……」
「脱がせたいんだ」
「自分でする」
「だったら……。見てるから、俺の前で脱いでくれ」
 七瀬は諦め、美郷の目の前で、少しずつ裸になっていく。黒いブラジャーとショーツが七瀬の体に残った。どちらを先に外すか、迷っている。美郷は七瀬の腰を引き寄せ、ベッドにもつれ込んだ。 

第211回

 亮輔は頭を振って、映像を振り払おうとした。だが、思いとは裏腹に、七瀬と美郷の虚像が果てしなく拡大する。諦めた。
 七瀬を無理矢理、素裸にしてみる。
 札幌の夜の街が映画のスクリーンのように広がる窓ガラスへ後ろ向きのまま、両手を突かせた。
 床まであるガラス窓は、闇を背景にして七瀬と亮輔の絡む体を映している。
 腋下から手を差し入れた。胸の膨らみに指先を食い込ませ、そのまま体を埋め込む。
 途端に七瀬が、(ごめんなさい)と、闇に向かって叫んだ。
 泣くような、呻くような声を聞いて、亮輔は我に返る。
 七瀬は、ごめんなさいと言った。それはどういう意味なのだ。
 気が付くと、通話が終わった後、切断ボタンを押さないまま投げ捨てた電話の子機が、低くく籠もったような音を立てている。まるで、唸りを上げるバイブレーターのように震えていた。
 夏夫と電話をしていたことに、改めて気付く。
 電話を切った後、どれくらい経っていたのだろう。
 亮輔は七瀬と美郷が出雲空港から北海道に行ったと思える映像を追っていたのだ。いかにもリアルだった。
 それがまた、亮輔の想像を膨らませる。堂々巡りである。
 夏夫の話では、確かに北海道に行ったようだ。大学のサークル仲間だと聞いてはいるが、確かめるすべがない。 
 七瀬ばかり責める訳にもいかないことは、亮輔も分かっている。
 千秋と体の関係が出来ていながら、七瀬のことが頭から離れない。
 七瀬という女がありながら、片方で千秋を抱いている。もちろん、全ての男がそうだという訳ではないし、似たようなことをする女もいないことはない。
 それにしても、男というものは、いい加減な動物でもある。だが、いい加減さは、ある意味で単純だということでもある。
 鮭が産卵のために母川を遡上するようなもので、必ず元の鞘に収まるのだ。
 生まれた場所から海へ出た稚魚は、沿岸に沿って北洋へ向かう。四年後、再び母なる川に戻り、一生を終える。
 男は、女より優位に立っているようだが、あながちそうでもないようである。
 亮輔は、ふっと深い溜息をつく。

第212回

 七瀬がアトリエに来たのは、九月も下旬になった月曜日だった。二か月も会っていないことになる。
「長いこと来られなくて……ごめんなさい」
 後ろの襟が立った白いジャケットにジーンズが似合っていた。少し暑いのか、両袖を折り返している。右手首に付けた大型の腕時計が、アトリエに射し込む朝の陽にちらりと光った。時計は、左手だったはずだ。そう思いながら見てはいけないような気がして、目をそらす。
「最後に来たのは、いつだったかな」
 言いながら亮輔は、壁に掛けたカレンダーを眺めた。七瀬が来た日には、印を付けているが、九月のそれには何もない。
「七月の初め……」 
「もう忘れただろう」
「何をですか?」
 言い方が丁寧だった。どうでもいいようなことが、亮輔は気になる。
 黙ったまま、コーヒーメーカーを取り出す。千秋が買ってくれたもので、出雲のマンションにも同じものがある。
「私がします……」
「いいよ。それこそ忘れただろう?」
「……」
 嫌味に聞こえたかもしれない。
 七瀬を描いたデッサンが、画架の前に幾枚か散らかっている。七瀬が、それを見て顔を伏せた。
 裸である。
 両脚を抱えて顎を膝に乗せているもの、うつ伏せになり、体を丸めて腰を高く上げたポーズ、仰向けになって軽く膝を立て、両手は無防備に体の両脇に投げ出されているものがある。改めて見ると、七瀬は新鮮だった。
 コーヒーの香りが立ち上がる。
「お砂糖は?」
 七瀬が、下を向いたまま言いながら、自分のカップに一つ落とした。
「要らない」
 アトリエに来るようになってから、七瀬は(砂糖は?)と聞いたことがない。亮輔の好みを知っていたはずである。七瀬が遠い所から話しかけているように思えた。
 掛け時計のセコンドの音が、耳奥で響いているような気がした。時計を見上げた。クオーツだから、無音のはずである。七瀬が黙ってコーヒーを飲んでいる。
 時計の音は消えていた。
「描こうか……」
 長針が滑るように動き、十時半になった。

第213回

 七瀬が来てから、三十分経っていた。
「始めよう」
 いつもは、直ぐに描き始めるのだが、七瀬に焦らされるような形になっている。
「ええ……」
 コーヒーを飲み干し、亮輔は画架の下に散らかっているデッサンを片付けた。
「どんなふうに?」
 ふり返ると、青いガウンを着た七瀬が立っている。アトリエに続く部屋で着替えたのだ。
「そうだな……マットの上で腹這いに」
 七瀬は黙って亮輔の言うとおりにする。
「両手を前に伸ばして、尻を上に」
 石正美術館で見た絵に、同じようなポーズがあった。だが違う、と亮輔は頭の中で振り払う。
 札幌のホテルだ。七瀬が窓ガラスに両手を当て、腰を突き出した形に似ていなくもない。
 腰を上げるようにした太腿の筋肉が締まり、臀部との境目がぴくりと動いて窪んだ。
「止める」
「えっ?」
 ふり返った七瀬が、体を捩る形になった。体が動いたと同時に、両脚の間から陰に隠れていた部分が、束の間、目に入り直ぐに消えた。想像で作り上げたホテルの七瀬の裸体と重なり、肉の褶曲は、まるで初めて見たもののように卑猥だった。
「止めるって?」
 怪訝な顔で、七瀬が起き上がる。
「ポーズを変える。こっちを向いて立ってくれ」
「描くのを止めるのかと思ったんです」
 両腕を首の後ろで組ませた。
「脚を……少し開いて」
 言った途端に、七瀬の顔に赤味が射す。「それでいい」
 何かを言いたそうな七瀬を無視して、コンテを持つ手を動かした。
 肌理の細かい肌に、膨らんで張り出した胸、少し体を捩った腹部から続く両脚は、以前に比べて円みを帯びている。
 亮輔の視線を避けるように、七瀬が顔をそむけた。
「一度ということにして欲しいんです」
 描き終わると、七瀬が唐突に言った。
「一度?」
「ええ、一週間に一回」
「どうして?」
「卒論とかもあるし……」
 大学生だったと、亮輔は気付く。

第214回

 大学院に行くつもりのない七瀬の卒業は、来年の三月である。
 以前からの計画通り、大学を終えたらオーストラリアに行くのだろう。就職するための準備をする必要はないが、それにしても卒業前は忙しいのかもしれない。
 都合が付かず、週に一度ということになると、七瀬を描く機会は減るということだ。それは仕方がない。
 亮輔は千秋の言葉を思い出す。ヌードを描くならマンションのアトリエで、と言った。つまりは、自分の目の届く範囲でということだ。そのことを知りながら、七瀬を描いている。
 七瀬を描いていることを千秋は感づいている。バレエを観に行った時、一緒に居たのが七瀬であることも知っている。その上、深い関わりがあることも、察しているのではないか。(私とだけよ。約束するわね)と、亮輔の体の上で叫んだのが何よりの証だ。
 アトリエに続く部屋で着替えている七瀬を待ちながら、モデルは私が準備をすると言った千秋の言葉を忘れてはいない。
 出雲のアトリエで描き始めれば、七瀬というモデルはいらないことになる。同時に二人のモデルを松江と出雲の両方でというのも、本当は無理かもしれない。
「今日は、これで帰ります」
 その声に亮輔は、ふり返った。バッグを手にした七瀬が部屋から出て来た。
「帰る?」
「ちょっと予定があって……」
 俯き加減に七瀬が呟く。
「食事でもしようかと思ってたんだが」
 七月の終わりに旅行をしたはずの七瀬に、そのことを聞いてみる機会を作りたかった。しかし、糺してみても、美郷と一緒だったとはまさか言わないだろう。しかし、聞いてみたい気持ちはないでもない。
 亮輔は、帰るという七瀬の言葉でそれを諦めた。とは言いながら、幾分、ほっとした気持ちもある。決定的なことを知りたくないからでもある。亮輔は揺れ動く。
「じゃあ、この次のことは電話で打ち合わせよう」
 七瀬が、カレンダーに、ちらりと目をやった。
「ええ……」
 七瀬の車が、畑の脇に続く道から大通りに出て行くのを亮輔はアトリエの窓から眺めていた。
 赤蜻蛉が一匹、目の前を横切って消えた。

第215回

 カフェ・ロワールに並べた絵の売れ行きは、思いのほか好調だった。大小合わせて、十点ばかりが、いつも壁に掛けてある。倉庫にあるのは、とりあえず三十点だが、二日に一度は半数ずつ取り換える。
 売れるのは、さすがに小さい作品が多く、一号から六号あたりである。出雲市周辺、特に平野を題材にしているものに人気があるようだった。
 コーヒーを飲みながら絵の品定めをし、そのうちに買おうかという話になるらしかった。
「小さい絵が、どちらかと言えば売れるようだわ」
 千秋は不満そうだが、本音はそうでもないように見えた。号数の大きいものは、千秋がホテルやマンション経営者に売っているからである。
「絵葉書を買う訳じゃないから、そう簡単には手が出ないだろう」
 亮輔は千秋に、どんなふうにして売るのかと聞いてみる。
「絵を飾る話から説明するのよ」
「どんなふうに?」
「そうね。良いと思った絵を買い、それを個性や感覚で自由に飾られたらどうですかということから始めるわ」
 絵は死蔵しておくのではなく、壁に飾って鑑賞すべきである。となると、壁面とのバランスが取れていなくてはいけないのだ。部屋の広さに比べて大き過ぎても、また、小さくてもいけない。
 一般的に、部屋の大きさと号数が同じくらいというのが目安ではないだろうか。例えば、八畳の部屋なら八号の絵ということになる。更に、立って見るか座ってなのかでも違うが、これは絵を掛けた高さとも関わっている。普通は、目線より少し高めが、バランスとしては良いということになる。
 千秋は、絵のことをよく知っているあなたには釈迦に説法だが、自分はそういう考え方で売っているのだと言う。
「だから、号数の大きいのはね、ホールなどのある建物を管理している会社とかに勧めるのよ。そうでしょ?」
 不動産の仕事をしている千秋には、そういうルートは多い。いいところに目を付けていると亮輔は感心する。
 千秋のことを辣腕の事業家だと、夏夫が言ったことがある。 
「久し振りに、今夜、飲みましょ」
 熱い酒もいいかもしれないと、亮輔は千秋の誘いに頷く。 

第216回

 夕方から雨になった。
 出掛けようかと言った途端に降り出した秋雨だった。
「ちょっと無理ね」
 千秋が事務所の窓を開けた。
 北山から吹き下ろし、市街地を渡ってくる風も、冷たいような気がする。
「飛天に行こうと思ったんだけど……」
 出雲市駅の近くにある料亭だ。千秋に誘われ、何度か行ったことがあった。タクシーで行くほどの距離ではないが、歩くにはいささか億劫な場所だ。
「うちで飲もうか。亮輔さん」
「うち?」
「そうよ……」
 千秋が、ふっと笑う。マンションで飲もうと言うのだ。亮輔のための部屋ということだったが、いつしか千秋と二人のそれになっている。
 日ごとに、夕暮れが早くなる。
 いずれにしても、出雲で泊まることになる。雨の中、出歩くのも面倒だった。
 千秋が近くの料理屋から、二人分の食事を運ばせた。
 ビールよりも熱い酒が似合う季節になっていた。
「亮輔さん、佐木さんは……どうなの?」
「どうって……」
「モデルを止めるってことよ」
 七瀬を使うなということを千秋に言われていた。分かってはいたが、未だに続けている。
「……」
 黙っていると、描いてるのね、と言いながら、千秋はグラスに酒を注いで一息に飲んだ。
「佐木さんの都合もあるでしょうから、いずれ……近いうちにはね」
 七瀬は週に一度にしてくれと言っている。七瀬をモデルにしてから、既に半年は過ぎた。卒業してしまえば、というより、オーストラリアに行けば、もうモデルにすることはないだろう。
「ええ、まあ……」
 煮え切らない返事になった。
「ね、そのモデルだけど、月に何度か来てもらうつもりなの」
 モデルは私が探す、と千秋が言ったことがある。
「誰を?」
「プロの人……京都から来てもらうわ」
「京都から」
 唖然として、思わず繰り返す。

第217回

 プロのモデルを京都から呼ぶというのは、それなりの費用が掛かる。しかも、亮輔ひとりのためにである。千秋に感謝しなくてはならないが、考えてみれば、これまでにどれだけの経費を使ったことになるのだろうか。空恐ろしい気もする。
「ええ、そうよ。あなたのために」
 千秋はこともなげに言った。
「それにしても……」
「いいの。心配しなくても」
 出雲では、いわゆるプロのモデルというのは居ない。芸術大学などがある町では、それなりに需要があるから、モデルを斡旋する仕組みもある。
 出雲のような地方都市では、画家やサークルの求めに応じて、モデルをする者も居る。だが、幾度かの経験を積んだということはあるにせよ、それを生業にしているモデルは無いかもしれない。
「わざわざ京都から?」
「ええ、そう。プロは佐木さんのようなアルバイトとは違うから、私も安心」
 亮輔は目を伏せ、グラスの酒を見る。
「毎日という訳にはいかないけど、日数としてはどうなの?」
「遠くから呼ぶのだから、月に二度もあれば……」
 費用のことは考えなくてもいいのだと千秋が言いながら、亮輔のグラスに酒を注ぐ。
 月に数度ということになれば、一日にかなりな時間を費やさないと無駄でもある。
「一日に何時間ならいいの?」
 そう言われても見当が付かないが、相手のモデルの都合もあるだろう。
「そう……せいぜい一日に長くて六時間くらいしか出来ないだろうけど」
 何人かで一人のモデルを使う場合とは、また違う。朝の十時から始めて、午後は四時くらいまでが常識的な範囲かもしれないと亮輔は思う。
 旅費や宿泊費用も負担しなければいけない。その上に、拘束する時間に対する費用もある。
「一時間が五千円としても、一日……三万円に」
「また言う。いいのよ。そんなことは亮輔さんが考えることじゃない」
「それにしても、どうしてこんなに」
 以前にも、そう聞いたことがある。
 千秋は黙ったまま、亮輔のグラスに酒を満たし、自分のそれにも注いだ。
「好きだからよ」
 千秋が、ぽつりと言った。

第218回

 千秋は四十の半ばである。(好きだ)という言葉の裏には、それまでの長い年月の重みがあるように思えた。
「こうして飲んでいると、あなたが……欲しくなってしまうの」
 若い女、例えば七瀬であれば、もっと直接的かもしれない。
 小さなキッチンを背に、亮輔は千秋と食卓で飲みながら、1DKの部屋を見回す。
 壁は三面だが、アトリエに出入りするためのドアの右手は、天井までの書棚になっている。
 それに続いて、マホガニーの大きな机がある。デスクトップのパソコンと白い電話機が置かれていた。机の反対側は、ダブルベッドである。
 部屋全体が白で統一され、洒落た雰囲気を出していた。住宅雑誌に載っているような部屋のように思える。
 全て、千秋が準備した。モデルもそうである。
 欲しいと言われて、ちらりと亮輔はベッドに視線を移した。
「モデルはどんな人にするか、いつから来てもらうかということは、私に任せて」
 隣のアトリエにモデルを呼んで描くとなれば、ここに来る回数も増える。
「それはもう……」
 七瀬が週に一度にして欲しいと言ったことと偶然だが、時期が同じになった。そのうち、七瀬も来なくなるだろう。
 千秋には悪いが、暫くそのままにしておこうと亮輔は心を決める。
「かなり飲んだわね。コーヒーは?」
 とりとめのない話をしているうちに、十時になっていた。
 コーヒーを入れたマグカップを手に、窓ガラスを通して外を覗くと、巨大な黒い傘のような夜が広がっていた。
 雨は、小止みになっている。
「バス……使ってくるね」
 千秋の声がした。アトリエに続いてバスルームがある。モデルの着替えの場所にもすることを考えて、バスタブはもちろんだが、脱衣場も少し広めにしてあった。
 何もかも千秋の思い通りだ。そんなことを暫く考えていると、背中に甘い香りがした。千秋は、時々だが湯の中にバラの花を浮かべる。大田市で栽培されているバラで、肉が厚く、油分を含んでいるから普通のバラに比べ香りがかなり強い。
「早く入ってらっしゃい」
 香りが、更にきつくなった。

第219回

 出雲市駅前のデパート四階で開いた相良美樹との合同展は、思いのほか好評だった。
 亮輔が展示した絵は、出雲平野を描いたものが多かった。出雲で展示するなら、やはり馴染みのある風景がよいのである。
 美樹は、去年の展覧会とは違って、コーヒーカップを中心にした日常雑器を出していた。プロデュースすると言った千秋の発案によるものだった。
 出雲で初めての展覧会であったが、来場者が多かったのは、作品を購入するしないにかかわらず、カフェ・ロワールで通用する喫茶券を出したことも影響したのだろうと亮輔は思う。一枚の券でコーヒー一杯が無料になっていた。
 その計画を考えた時、千秋は(その時は無駄なようでも、いつかはそれが数倍になって返ってくる)と言ったのだ。
「いいお店ですね」
 展覧会初日の夕方、カフェ・ロワールで亮輔とビールを飲みながら美樹が言った。
 草色のデニムのパンツに、シャーリングが入った白いブルゾンの袖をまくり上げている美樹は、いかにも新進の陶芸家らしい雰囲気があった。胸元から、黒のキャミソールが見え隠れする。
「紗納さんの思いが入ってる店だから」
 亮輔は言いながら、ちらりと美樹の胸に目を走らせる。シルバーのチェーンに青いガラス玉が光っている。
「そのアクセサリーは、手作り?」
「そうです。ガラス瓶の割れたのを焼いたんですけど」
 焼き物をしている美樹からすれば、簡単なことなのだろう。
「それも一種の作品ですね」
「作品といえばそうですが。でも、伊折さんはいいですよ。自分の絵を並べる場所があって……」
 美樹に言われるまでもなく、望んでもなかなか出来ないことではある。
「相良さんも、展示場を持ってるんじゃないですか?」
「川本とか大田市付近の道の駅に出しているんです。けど、私だけというのじゃないんで……」
 ふっと亮輔は思い付く。
「ここのカフェ・ロワールには、どうでしょうね」
「作品を……ここに?」
 もちろん、千秋に相談しなければいけないが、多分、反対はしないだろうと亮輔は思う。

第220回

 展覧会に出している美樹の作品には、コーヒーカップや皿など、日常的に使うものが多かった。
「落ち着いた感じも出て、ちょうどいいんじゃないかな」
「もし、そうなれば嬉しいわ」
 美樹の胸で、青いガラスが光った。
「紗納さんに相談してみますよ」
「展覧会のことで相談があって、初めてお会いしたんですけど、素敵な方ですね」
「まあね」
 亮輔もそう思ってはいるが、褒めれば千秋との関係を見透かされそうな気がしないでもない。
「そうですよ。手広く事業もなさってるし、それに……」
「それに……って?」
 言おうかどうしようかという顔を美樹がした。
「……伊折さんのスポンサーなんでしょ?」
「というわけでも……」
 今度は亮輔が口ごもる。
「マンションも、その方の持ちものって、確かこの前お聞きしましたよね」
 仕方なく亮輔は頷く。
「その方の……紗納さんのお力で、今度の展覧会も出来たんですから」
「ありがたいと思ってます」
「大事にしてもらってるんですね」
 問い詰めるような言い方だった。
 大事に……か、と頭の中で反芻する。千秋に出会わなかったら、こうして絵を描いていることもないはずだった。
「紗納さんは、まるでウェブスターのあしながおじさん≠カゃないですか」
 孤児院に居たジュディは、あしながおじさんの援助で大学を出る。ジュディはジャービスからプロポーズを受けるが、孤児院出身ということで断った。手紙でそのことをあしながおじさんに知らせたジュディが会ったのは、あしながおじさん、つまり、ジャービスだった。
 千秋があしながおじさんであったとすれば、亮輔は千秋と結ばれることになる。
 そこまで考えて、亮輔は思わず笑った。
「えっ、紗納さんがジャービスみたいって言ったのが、おかしいですか?」
「いや、別に……」
「私だったら、お金のことは、それはそれとしておいて、絶対に好きな人と一緒になりますよ」
 亮輔を見詰める美樹の目は、笑っていなかった。

第221回

 二人展が終わり、一週間が経った土曜日の朝だった。このところ、殆ど毎日のように出雲に来ている。
 アトリエの居心地がよいこともあって、制作が進むのである。
「今日の午後二時だけど、時間……空けておいてね」
 描きかけの絵を見ていると、千秋から電話があった。
「どうして?」
「モデルさんと話を決めたの」
 展覧会が終わったら、出来るだけ早くモデルを探すからと、千秋が言っていたのを思い出した。
「モデルとの話?」
「ええ、そうよ。京都から呼ぶって、この間から話をしてたでしょう」
 七瀬を描いていることを薄々感じていたらしい千秋が、プロのモデルを使うようにと言っていた。
 電話からは、雑踏の匂いが伝わってくるような気がする。
「どこから電話を?」
「今は京都駅よ。岡山から昨日来たの」
 千秋の予定表には、岡山への出張と書かれていた。そこから更に京都に行ったのだろう。そのことは聞いていなかった。多分、思い付きかもしれない。
「京都……駅」
「ええ、そう。カフェ・ロワールに、三人分の席を作っておいてね」
 千秋の言っていることは、半分しか分からない。
「どういうこと?」
 亮輔は少し苛立つ。
「だから、モデルさんと話をしてね。出雲に来てもいいっていう了解をもらったの」
 いずれはそうするということは分かっていたものの、不意に言われると戸惑う。
「……」
「だからね。これから、モデルさんと一緒にJRで帰るのよ」
「これから……」
「あと五分ばかりで電車が出るから……」
 千秋と話していると、時々だが驚かされることがある。思いもよらない話に展開するからである。
 壁に掛けられた時計を見た。九時十五分だった。
 京都を出る新幹線ひかりが、岡山に到着するのは十一時前である。スーパーやくもに乗り換えると、出雲市には午後二時十六分に着く。

第222回

 亮輔は電話を切り、思わず肩で大きく息をした。
 モデルの斡旋をしている京都の画商に、連絡を取っているということは聞いていた。それにしても、素早い千秋のやり方には、驚くほかはない。事業が出来るというのは、そういうことでもあるのだろう。
 それにしても、独りで不動産の事業をしている千秋は、女手一つというわけだから、かなりな精神的な負担もあるはずだ。萩にある会社との掛け持ちで、しかも、出雲では家族と離れての単身の形だ。そういう条件をはね除けるのは、溢れるようなエネルギーである。しかし、強靱に見える活力も、ひとたび小さな隙間が出来ると脆い。
 愚痴をこぼしたことはない千秋だが、そんな気もしないではない。本当はどうなのだろうとも思う。

 カフェ・ロワールで会ったモデルは、亮輔の好みの女性だった。
 背が高い。二十代の後半だろうか、肩までありそうな髪を無造作に頭の後でひとまとめにして結っている。そのせいか細い顔が余計に小さく見える。
 フリルの付いた黒いTシャツに、ピンク系統の斜めストライプが入ったスカートを穿いていた。
「深田由香里です」
 差し出した名刺には、モデルという肩書きと名前だけが書いてある。いかにもモデルと思えるような名前である。本名ではないのだろう。
「伊折亮輔さん……。いいお名前ですね」
 亮輔の名刺を見て、由香里が呟いた。
 千秋が、ちらりと亮輔を睨み、その後を取った。
「深田さんは、京都の昔からある古い家の……いいところのお嬢さんでね、絵がとても好きなんでモデルをやってらっしゃるそうよ」
 牽制されているようにも聞こえる。
「ご自分でも描かれるのですか?」
「いえ、以前は描いてたんですが、家庭の事情があって、止めてるんです」
 家庭の事情?……と口に出しかけた。初対面である。個人的なことを聞くのは憚られた。
「モデルは長いのですか?」
 それくらいは聞いてもいいだろう。
「大学を出てからですから、もう十年を超えるんです」  
 ということは、三十代かと気が付く。

第223回

 由香里が、三十を超えているようには見えない。話し方からも、まるで女子大の学生のようである。
「深田さんはね、もちろんプロなんだけれども、主に大学でモデルをされてるそうよ」 千秋が、コーヒーカップを手にして説明する。
「大学で?」
「ええ、私……、京都の平安芸術大学を主な仕事場にしてるんです」
「ということは、美術教室でのモデルってことですか」
 凄いことを聞いたのよ、と千秋が言う。
「そんなんじゃないですけれども」
「何なんです?」
 聞いてみたい。
「私、モデルを始めてから十年、正確には十二年なんです」
 亮輔は頭の中で計算する。少なくとも三十四になる筈だ。
「さっき言ったように、大学の教室でモデルをするわけですから……」
 平安芸術大学の美術学部では、特に実践と講義の整合性を図っている。だから、学生が実際に描いている場で、教授が講義をするという。
 当然だが、モデルもそれを聴いていることになる。
「同じ大学で、十年以上もモデルをやってると、毎年、同じような時期に似た話を聞くわけです」
 由香里が少し笑った。
「それで……」
 亮輔は促す。かなり興味のある話になりそうだった。
「例えば、学生さんがデッサンしてますよね。その時に先生がいろいろ話すわけですが、私はモデルの立場で聞いてます」
「……」
「そうすると、私がどう描かれているかというのが分かるんです」
「描かれていることが、分かる……」
 どういうことだろうと、亮輔は考える。言ってもいいだろうかという顔をして、由香里が千秋を見た。
「面白そうね」
 千秋も言いながら、続けて、というように由香里を見た。
「学生さんが描いている絵は、私には見えないんです。だけど、手つきというか素振りで、どういう絵をこの学生さんが描いてるのかって、分かるようになったんです」
 亮輔は首をすくめた。 

第224回

 由香里は、十年以上も美術教室に通い、学生達の出来上がった絵を見て、しかも、教授の講義も聴いている。
 何人かのモデルを描いてきた。だが、これまで、絵を見なくても何を描いているのか分かると言ったモデルは居なかった。
 学生が描いた絵、つまりは教材を前にしての批評なり描き方などの話を聴けば、たとえ、絵を描いたことがなくても知識が深まるのは当然である。雑談ではない。大学の、美術を専攻している学生に対する講義なのである。
 モデル台に立ちながら、学生の表情、仕草、筆の動かし方で、どんな絵を描いているのか分かるというのは、描くということ以上の能力ではないか。どう? というような顔をして、千秋が亮輔を見た。
「やぁ、怖い……」
 亮輔は、素直に認める。
「そんなことを話されると、深田さんを描けなくなりそうだ」 
「そんなことはないですよ。私が言ってるのは、未だ若い学生さん達のことですから」
「そうかもしれないですね。伊折さんは、それでもプロですからね」
 千秋が言った途端に、由香里が(えっ?)というような顔をした。それに気が付いた千秋が笑った。
「あら、ごめんなさい。それでも……なんて言っちゃって」
 それでも――と言えるのは、かなり親しいのに違いないと由香里は思ったはずだ。
「私……自分が描かれた絵が、どうなっているのだろうということに、かなり興味があるんです」
 由香里が、少し話題を変えた。
「モデルなら、誰でもそうなんじゃないだろうか」
 言いながら、亮輔はこれまでに描いてきたモデルを思い出す。
「どっちかと言えば、私は、そういうことに興味が強いのかもしれません」
 家庭の事情で、絵を描きたかったが止めたのだと、由香里は言っていた。描く側と描かれる立場を経験すると、そういうこともあるかもしれない。そんなことを思っていると、不意に七瀬の顔が浮かんだ。
「深田さん、今日から四日間の予定で来てもらってるから、明日からのことを打ち合わせましょ」
「はい、そうですね」
 由香里をモデルにして描くのは難しいのではないかと考える。

第225回

 モデルの体が見せる一瞬の動きの中にある美しさを発見し、それをキャンバスに留めるのが、絵を描く者の喜びである。
 動きは無限である。一つとして同じものはない。似たように見えても、微妙に違う。 肌にしても、そうである。昨日見た由香里の肌は、次の日にはデリケートな美しさの違いを見せた。裸婦を描こうとすることは、消えようとする陽炎を追いかけるようなものではないかと思えなくもない。
 由香里をモデルにしていると、(ここを描きなさいよ)と言われているような気がした。
 約束通り三日間、亮輔は由香里をモデルにして描いた。由香里は、やはりプロであった。七瀬もモデルとして慣れてはきていたが、所詮、素人であった。
 由香里を描いた幾枚かのデッサンを見ながら、二人を頭の中で並べると、そんな思いに囚われる。
「滞在費とか交通費を含めて、充分だと思ってもらえるくらいの費用を出しておいたわ。あ、画商さんへの斡旋料もね」
 大阪経由で京都へ、と言う由香里を出雲空港まで送って来た千秋が言った。
「幾ら払ったわけ?」
「いいわよ。亮輔さんが、そんなことを心配しなくっても」
「しかし……」
 丸抱えという言葉がある。芸者を置いている置屋が稼ぎの全額を取る代わりに、食費や衣料費などを全て負担する約束で芸妓を雇うことである。
 言ってみれば、千秋は置屋で、亮輔自身が芸妓である。千秋との関係が、そんなふうに思えて苦笑する。
「一時間が五千円の計算で、一日に八時間モデルをしてもらったってことで」
「八時間? そんなにやってない」
 モデルは、特定のポーズを続ける仕事である。休憩を途中に入れたとしても、長い時間は無理である。モデルによっても違うが、午前と午後で、それぞれ二時間くらいなものである。それでも、三日間というのは、きつい仕事だ。
「それはそうだけど、見てると大変だったからね」
 時々、千秋はアトリエにやって来た。もちろん、描いている場に入り込むのではない。隣の部屋へ、コーヒーや、時として食事などを準備させた。
 由香里を呼んだことで、おそらく千秋は、数十万円という金額を払ったのだろう。 

第226回

 千秋が仮に二十万円をモデルに使ったとしても、絵さえ売れれば、それくらいは直ぐに返ってくる。
 絵の値段は、芸術性という面での善し悪しはもちろんだが、それまでの実績や知名度などの条件によって決まり、売り買いされる。
 画家は自分で絵を売る場合は別だが、一般的には、画商の手に渡し、委託販売か買取りかのいずれかの方法を取る。委託販売というのは画商に絵を預けるやり方である。画商が絵を売ると、手数料として売値の三割から四割を画商、残りが画家の手に入る。
 買い取りでは、想定される売値の三割程度で画商が買い取ってしまう。
 絵を手にした画商の多くは、画商組合などが開く交換会で作品を売買する。交換会で出された値段は、一般的には公開されないのが普通だから、闇の中である。
 交換会が繰り返されると、その度に経費や利益が上乗せされていく。時に、著名な画家の場合などは、とてつもない価格になることがある。
 千秋は不動産業だから、マンションなどを建設すれば、億単位の金を動かすはずである。モデル代などというものは、些細な金額ということになる。
 そんなことを思いながら、亮輔は溜息を吐く。
「ともかく、私は亮輔さんが、いい絵を描いてくれれば嬉しいのよ」
「ああ、ありがとう」
「私、ちょっと山口に帰って来ますからね」 千秋は出雲のウイークリーマンションの仕事が一段落したこともあって、このところ、ひと月のうち、二十日ばかりは萩に帰っていることが多い。
 どうでもいいことなので、千秋の家庭のことを詮索したことはない。幾つくらいかも知らないが、子どもが二人あることも分かっている。家庭があり、萩や山口市での仕事が主になっているから、いつも出雲に居るということは出来ないし、またその必要もないのである。
「どれくらいの予定?」
「うーん、そうね。半月ばかりになるかもしれないわ」
 千秋ばかりではない。亮輔も、松江で過ごすよりも、出雲のマンションで暮らす時間が多くなっている。
 千秋が留守の間、松江で仕事をしようと思った。  

第227回

 松江は水の町である。日本で七番目の大きさだといわれる宍道湖と、市内を縦横に流れる堀川で彩られている。
 松江は、かつて小さな寒村であったが、慶長十六年の築城後、城下町が出来上がった。松江城を中心にした堀川は、戦略上の役割、また、物資輸送、水上交通、生活のための用水として利用されてきた。
 平成九年七月二十日、遊覧船による堀川巡りが始まり、堀川は新しい顔を見せた。
 遊覧船の船着き場では、白鳥や鴨が群れ、動き出した船を追いかける。茂る木々が、城を囲む水路に深い影を落としていた。
 亮輔は県庁の職員駐車場に車を停め、スケッチブックを手にして、県立図書館に行こうとしたが、思い直して松江城に向かう。 松江城を見るのは、久し振りである。亮輔は、城を見上げるとほっとする。ああ、古都だなという感じがする。堀尾吉晴が、広瀬の富田城から松江に来て以来の四百年という歳月の重みなのだろう。出雲へ通うということが始まったということもあるが、半年ばかりの間に、生活は一変した。決まり切ったように会社に出るという暮らしから離れ、毎日のように絵を描いている。取り立てて忙しいということはないが、めまぐるしい程の変わりように、ゆとりを無くしていたような気がする。
 十一月も終わりになると、町中も晩秋の空気が濃くなる。その季節の深まりに誘われたという訳でもない。体の中のどこかに隙間が出来たような気がして、思い付きだったが松江城に来たのだ。千秋は萩に帰っている。出雲に行く必要もなかった。
 二の丸に続く石段を上がりながら、七瀬のことを考える。七瀬とは長い間、会っていない。ことさら避けていたというのではないが、美郷と北海道へ行ったのではないかという疑念がわだかまっている。
 そう思いながら、一方で自分はどうなのだとふり返る。七瀬に好きだと言いながら、片方では千秋と関わっている。しかも、千秋には、絵のことはもとよりだが、生活も面倒をみてもらっているのである。
 七瀬のすることをとやかく言う資格はないはずだ。男というものは、いかにも勝手だと苦笑する。
 百年の時を超え、平成十三年春に復元された南櫓を右手に見て、更に石段を上がると興雲閣の前に出た。
 ズボンのポケットに入れていた携帯が鳴った。ディスプレイに、佐木七瀬という文字が出ている。

第228回

 七瀬のことを考えながら歩いていた。偶然というのか。あまりにも、タイミングがよすぎた。まるで、どこからか見られているようでもある。まさか、そういうことはないだろうがと、亮輔は辺りを見回す。
 秋の風が、城山に生い茂る松の間を吹き抜けているだけである。
「私……佐木です」
 携帯から遠慮がちな七瀬の声がした。
 七瀬とは言わなかったなと思いながら黙っていると、また小さな声がする。
「もしもし……聞こえますか?」
 この前、会ったのはいつのことだろうと、遠くなった記憶をたぐり寄せようとした。「ああ……、分かってる」
 きつい口調になっていたのか、今度は七瀬が何も言わない。
「長いこと会ってないな」
 亮輔は、どうでもいいようなことを口にした。
「すみません。いろいろあって」
 七瀬がアトリエに来たのは、九月の終わりではなかったか。
 少し淫らとも思えるポーズを取らせた。だが、そのうちに嫌になり、描くことを止めたのだ。七瀬のその姿が、美郷と北海道に行ったのではないかという想像に重なったからである。
「いろいろ……か」
 美郷の顔が浮かび、思わず呟く。
「ええ……。大学の方も忙しくなってしまって、なかなか」
 もう暫くすると十二月である。卒業までに四か月もない。
「卒論は、どうなってる?」
「ありがとうございます。何とか少しずつですが……」
 他人行儀というか、距離を置いているような言い方が気になる。
「卒論の題目は、何だったかな?」
 七瀬は心理学専攻である。一度、聞いたような気がするが記憶になかった。
「恥ずかしいような題目で」
「いいから」
「恋愛感情と好意感情の混同に関する研究なんですけど……」
 混同か、と亮輔は呟く。
「えっ?」
 聞こえたらしい。訝しげな声がした。
 七瀬との関わりを材料にしているような気がしないでもない。
「何でもない。それはいいが、モデルは?」 実は、そのことで、と七瀬が口ごもる。

第229回

 これからは週に一度にしてくれと、七瀬が言ったのは九月である。あの時も、卒論のこともあり、少し忙しくなりそうだからというのが理由だった。
 七瀬が言いにくそうにしているのは、恐らくそのことだろう。月に二度か、もしくは、もっと少なめにして欲しいということではないか。  
「前にも言ったんですけど、卒業が近くなって、卒論が間に合いそうにないんです」「それで?」
「あの……」
「モデルが出来ないってことか?」
 言いながら、やはりそうなのだと思う。
「無理なんです」
 亮輔に言われて、安心したような雰囲気が耳に伝わる。。
「……先生さえよければ、卒業まではお休みということで」
 先生さえよければと言われても、都合が付かなければどうしようもない。
「卒業までって……。大学が終われば、その先のこともあるだろうし」
 もともと、亮輔のモデルをするというのは、オーストラリアに行く旅費にするためだったはずである。
 その先……と、七瀬が言った。
「うん。オーストラリアに行くはずだろう。そのためにモデルのアルバイトをするようになった」
「そうです。先生には、いろいろお世話になりました」
「……」 
 亮輔は憮然とする。(なりました……)とはどういうことなのか。まるで、決別宣言ではないか。たまたま、そう言っただけか。それとも意識してか。
「アルバイトといっても、随分とよくしてもらって……」
 アルバイトだけのことを言っているなら、それはそれでいい。
 オーストラリアの航空券は、カンタス航空のエコノミーなどを使えば、片道七万円もあれば充分である。格安券を選べば、更に安くなるはずだ。その程度の費用なら、七瀬のアルバイト代でまかなえる。
「いや、たいしたことはしていないが……」
「ほかにもバイトしましたし、何とか費用は出来ると思ってます」
「行くと決めたわけじゃないだろう?」
「ええ、来年の四月の話ですから、具体的には……」
 でも、行きます、と七瀬が小さく言う。

第230回

 七瀬が少しずつ遠くなっていくようである。それも外国に行くという。
 七瀬に出会ったのは、去年だった。米子の本山夏夫の家で初めて会ってから、もう一年以上になる。
 最初はただのモデルの話であった。それがいつしか男と女になり、七瀬は掴まえていた手から離れようとしている。
「受付のバイトは、まだ続けているのか?」「えっ?」
 七瀬の戸惑った気配が伝わった。 
「東洋自動車の話だよ」
 去年のことだった。それも秋も終わりに近い頃、田和山の燈火≠ニいう店で、社長の美郷と七瀬の三人で食事をしたことがあった。
 七瀬と美郷が接近したのは、その時からである。会社での受付のアルバイトはどうかという話が進んだ。
「続けてます。でも、今は時々なんです」「どうして?」
「大学が忙しいこともあるし、それに……」「それに?」
 七瀬がまた言い淀む。
「いえ、どうということはないんですが、近頃は社長さんの部屋で、いろんなお手伝いもしているんです」
 手伝いとは、どういうことなのか。そんなことまでアルバイトの七瀬にさせることはないはずである。社長室には、専属の秘書が居るはずだ。
「秘書が居るだろうに、何で社長のところに?」
 思わず、声が荒くなった。
「あの……、秘書の方は、結婚するとかで辞められたんです」
「辞めたのか……」
 社長室に行くと、長い髪を薄いブラウンに染めた秘書が、いつもコーヒーを出してくれた。
「ええ……」
「その代わりに、七瀬を?」
「辞められてから、秘書は特に要らないと言われて」
「……」
「時々でいいから、社長室に居てくれればいいってことで、お手伝いを……」
 そういうことか、と亮輔は納得する。
「分かった。ともかく、モデルのアルバイトは出来ないのだな。米子の夏夫君には言ったのか?」
「話しました。すみません。じゃあ……」
 消えるような言い方だった。

第231回

 穏やかだった秋の陽が、不意に強くなったような気がした。額に汗が浮かんだ。
 七瀬はモデルを止めると言った。ということは、アトリエには来ないということである。
 会いたければ、電話で呼び出せばいいようなものだが、七瀬の電話から推し量ると、避けているような感じがする。
 それに……と、亮輔は七瀬の言う東洋自動車でのアルバイトの話が気になる。それまで居た秘書の代わりのような仕事だというが、学生が時たま会社に来て、まともなことが出来るわけはない。
 社長のスケジュールの管理、更に、来客の対応や雑務をするというだけではない。社長が何を考えているのかを的確に掴み、仕事をしやすくして、業務をバックアップしなければいけない。社長の動きを気にかけ、先回りして準備する機転も必要である。マニュアルなどありはしない。その時々で状況を判断して、臨機応変に対応する必要がある。
 七瀬には、出来ない仕事だし、まるで絵空事だ。要するに、美郷は七瀬を側に置いておきたいだけのことではないか。
 東洋自動車販売は、秘書を置くほどの大企業とは言えないし、もともと、そんなものは不必要で、七瀬に仕事をさせるとすれば、せいぜい来客の接待くらいなものだ。
 想像通り、やはり七瀬と美郷は、深い関係にあるのだ。去年の夏、北海道に二人が行ったことは間違いないだろう。もちろん、それだけで終わっているはずはない。
 興雲閣の前に立ちつくしたまま、亮輔は唇を噛む。米子の夏夫に聞いてみようと思い付いた。携帯を取り出し、北陽放送に電話をかける。夏夫は、直ぐに出た。
「久し振りだな。一杯やるか……」
 暫くどうでもいいような話をして、亮輔は切り出した。
「ところで、佐木君は卒業が近くなったな」
「そうだな。かなり前だが、大学が忙しいとか言って、アパートを松江に変わった」
「松江?」
「ああ、確かに米子から通うってのは大変だし、大学に近い方がいいという理由だ。お前、知らんのか?」
 夏の太陽が、照りつけたように思えた。額にまた脂汗が滲む。
「……」
「もう直ぐ卒業だし、好きなようにやらせればいいさ。それじゃ、またな」
 卒論は口実だ。背中にどっと汗が出た。

第232回

 千秋が山口に帰ってから、一週間が過ぎている。亮輔は、憑かれたように絵を描き続けた。何かしていないと落ち着かなかった。はっきりと七瀬が言ったわけではないが、暫く会わないという意味のことが頭から離れない。そのことが、胸にわだかまる泥濘のような思いを絵にぶつけることになった。
 七瀬を描くようになってから、少なくとも三日に一度は会っていた。その度に、いや、殆どといっていいくらい七瀬を抱いた。画家とモデルの関係というよりも、男と女という色合いがしだいに強くなっていった。七瀬はどう思っているか分からなかったが、少なくとも亮輔はそう決めていた。七瀬の口から漏れる呻き、時としてあげる叫びが何よりの証拠であった。
 だが、七瀬がアトリエに来る日は、いつの頃からか三度が二度になり、来ない週もあるようになった。
 七瀬が美郷と北海道に行ったかもしれない、いや、そうではなく確証はないにしても、旅をしたと思える時期辺りからではなかっただろうか。
 七瀬ばかりを責める訳にはいかない。その時期は千秋と深い関わりが出来た頃と重なっているからである。
 節操がないと言えば、そうである。七瀬という女が居ながら、千秋と関わりを持った。千秋の方が積極的だったというのは、言い逃れに過ぎない。
 愛する女が居るにも関わらず、別の女に目を向ける。チャンスがあれば、更に深いものを求めようと考える。松江現代美術館で初めて千秋に出会った時の思いが、まさにそうではないか。
 花が女か男が蝶かというように、女は花に、男は蝶に譬えられる。男は、美しい花と甘い蜜を求め、日がな一日、飛び回る。働き蜂も同じようなものだが、一匹の女王蜂に忠誠を尽くすのだから、少し違う。
 女王蜂の寿命は数年だが、働き蜂は長くても数か月である。蜂ではないが、男は女のために、走り続けるのかもしれない。
 それは、男の業だと亮輔は逃げる。もちろん、どの男もそうだということでもない。
 千秋が山口へ帰った日から、亮輔は絵を描き始めた。裸婦である。
 三日の間、見続けた京都のモデルのデッサンは数十枚に及ぶ。それに千秋を重ねた。
 千秋をモデルにしたことはないが、裸はよく知っている。亮輔は、千秋の体を思い出しながら描いていく。

第233回

 亮輔は、水彩の風景から始めた。もう二十年も前のことである。そうしているうちに、どうしても人物を描かなければいけないと思うようになった。 
 身のまわりには、題材は幾らでもある。風景はもちろんのことだが、動物や静物など、殆ど描き切れないと言ってもよい。
 だが、最も身近にあって、様々な表情を見せるのは人物である。
 そこには、絵を描く原点と基本があり、同時に、何よりも描き手にとって最も難しい題材だと亮輔は考えている。
 亮輔は、裸婦を二枚、十六島の風景を一枚描いた。いずれも六号である。
 十六島湾は、東西の岬に囲まれた入り江である。東の岬は長く、突端は十六島鼻になっていた。その鼻を回ると、断崖になっていて、経島は荒々しい風景を見せている。
 予定通りの二週間ばかりで帰って来た千秋は、裸婦の絵を暫く見詰めていた。
「これ……私?」
「千秋であって、そうでないような」
 亮輔は、よく見ているなと思う。
 京都から来たモデルのデッサンをもとにして描いたものだが、顔はどことなく千秋に似ていなくもない。千秋を思い浮かべながら描いたから、そうなのだろう。
「モデルになったことはないから、私ってことはないけれども、似てる……」
「そうかな?」
 亮輔は、とぼけてみせる。
「でも、もし私だったとしたら、気持ちは出てないわ」
「気持ち?」
「そう……。私が何を考えているかって」
「考えて?」
「モデルになった私が、描いてるあなたを見て考えていること」
「何を」
「愛しいって思ってる……」
 モデルは千秋でないのだから、それはそうだろう。亮輔と千秋は、同時に笑った。
「それよりも、風景の方がいいわよ」
 十六島を描いた絵だ。
「海の色が明るくて、ちょっと緑がかってるでしょう」
「実際とは少し違うけどね。ターコイズブルーという意味で言ったの?」
 千秋が、少し驚いたような顔をした。
「それって、トルコ石……十二月の誕生石なの。私のよ」
 十二月が千秋のそれだということは、知らなかった。

第234回

 既に師走である。
「何日なの?」
「二十三日なのよ。少し早めのクリスマスイブってとこね」
 誕生日が来ると、千秋は何歳になるのだろうか。言われてみて気が付く。千秋の正確な年齢を聞いてはいない。何度か尋ねたことはあるが、その都度はぐらかされてきた。年上だということは分かっている。だが、それでどうということはない。
「何年生まれ?」
 千秋が、両方の眉を上げた。
「えっ、言ってなかったっけ」
「いつか聞いたけど、言わなかった」
「そうだった? 言ったら嫌いになる?」
「まさか。別に聞いて、どうというものでもないし……」
「そうね。隠しても仕方のないことだしね。昭和三十四年よ」
「ということは……」
 計算をする前に、四十六なのと千秋がそれでも小さく呟いた。
 子どもが二人居るということは知っている。四十代の半ばというのは、当然である。その年齢には見えないと、亮輔は思う。
「嫌いになる?」
「十歳違うことになるけれども、まるで関係のないことさ」
「そう……嬉しい」
 首を傾げて言う千秋からは、巨額の費用を動かす経営者の顔は見えてこない。
「瀬戸内のような海の色ね」
 千秋が、また絵の話に戻す。
「島根の海には、こんな色はないのかもしれない」
 言いながら、そうでもないかと亮輔は、数年前に隠岐へ渡った時の海の色を思った。本土から離れれば離れるほど、海の色は青さを増したような気がする。
「色をかなり重ねたのね」
「そう見える?」
「ええ、怖がらずに大胆に……という感じがあるわ」
 絵を描いたことのないはずの千秋だが、絵を見ることに慣れている言い方だった。
「それに、潮の香りを運んで来る風が見える……というような」
「それは、少し言い過ぎだ」
「いいのよ。それで」
 声を合わせてまた笑う。
 長いということもないが、それでも半月振りに千秋に会ったせいもあって、亮輔は何となく満ち足りた思いに包まれる。

第235回

 アトリエに続く部屋のソファに千秋と座り、とりとめのない話をしていると電話が鳴った。
「伊折先生でしょうか?」
 亮輔が出ると、ざわめきを背にした聞き慣れない男の声だった。
「島根日報学芸部の三木ですが……」
 島根日報は松江に本社があり、地方紙としてはかなりな発行部数を持っている。文化欄が充実していることで知られていた。亮輔は、三木という名に記憶がある。去年の夏、日本現代創芸協会の公募展で最優秀賞を取った時に、記事にしてくれた学芸部長である。
「おめでとうございます。実は、さきほど岡山支局から入ったニュースなのですが」
「おめでとう……って?」
「どうも失礼しました。突然で申し訳ありません。実は先生の描かれた日本海≠ニいう百号の絵が、岩谷賞を受賞されたという知らせを支局から受けたものですから」
 岡山県北部に、神里という町がある。鳥取、島根、広島の三県に接し、比婆道後帝釈国定公園にも近い。古くから良質の砂鉄の産地として知られ、たたら製鉄と関わってもいる。
 室町時代から続く神里町の岩谷の家は、中国山脈に連なる数々の山を持ち、日本でも五本の指に入る山林王である。
 現在の当主である岩谷長四郎昌行は二十四代で、岡山県内に多くの会社を所有し、経済人であるばかりでなく、文化人としてもよく知られていた。
 太平洋戦争後、岩谷家は岡山県内に残る貴重な文化財が四散するのを防ぐことに力を注ぎ、有り余る資力で、特に美術品の蒐集に努めたのである。
 昭和三十四年、倉敷市に倉敷中央美術館≠開館し、以後、膨大な美術品を公開している。
 岩谷の名を付けた岩谷美術賞は、岩谷賞と略して呼ばれ、中国地方はもちろんのこと、全国的にも著名な賞である。
 学芸部長の三木が続けた。
「今日は、倉敷中央美術館で岩谷美術賞の審査会がありまして、発表は明日ですが、支局が取材したものですから……」
 日本現代創芸協会の入賞の時もそうだった。公募に出した後は、出来るだけ忘れるようにしている。入賞するかしないかと、指折り数えてその日を待つのは精神衛生上もよくない。岩谷賞に出品したのだが、審査発表の日を覚えていなかった。

第236回

 審査の日取りを気にしないようにしている亮輔の気持ちを三木は知らないだろう。いずれにしても、一足早く情報を入れてくれたということである。
「授賞式は、来年の一月ですから、その時には、もう一度取材をさせてもらいます」
「授賞式は、倉敷の美術館であるはずだったと思います」
 応募要項に、そう書いてあったと亮輔は不確かな記憶を辿る。
「そうなんです。中央画壇からも、画家を呼ぶんだそうです。まあ、かなりな影響力のある人達でしょうが、さすがですね」
「何が?」
「館長の……岩谷昌行っていう人のやることがです」
 美術館の館長という肩書だけではなく、日本の美術界の黒幕だと言われていると、三木は付け加えた。
「パーティもやるそうです。岡山の支局長が、そう言ってました」
「授賞パーティですか……」
「ご夫人同伴ということらしいです。一種の社交会ですね。いずれご案内が届くでしょうが」
 そう言われても、亮輔には同伴する者が誰も居ない。
「夫人同伴なんて……私は独身ですよ」
「分かってます。でも、どなたか女性の方とご一緒の方がいいかもしれません。そうそう、紗納さんなんかどうですか?」
「紗納さん……って言っても」
 どうしたの? という顔で千秋が亮輔を見た。
「知ってますよ」
「……」
「先生の、よきご理解者」 
 三木は、わざとらしく語尾を上げた。どこまで知っているかは分からないが、さすがは新聞社だと亮輔は呆れる。
「いや、特別に何も」
「まあまあ、隠されなくてもいいです。蛇の道は蛇というところですかな。ともかく、我が社では、妙な取り上げ方はしませんから、ご心配なく」
 思い出したように、三木が続けた。
「そうだ。とりあえず、先生の紹介記事を載せましょう。どなたかお知り合いで書いていただける方はありませんか?」
 文化欄にということだろう。何人かの顔が浮かんだ。持ち上げてもらう必要はないが、それこそ妙なことを書かれても困る。本山夏夫がいいかもしれないと思った。

第237回

 島根日報文化欄に、美術ギャラリー≠ニいう囲み記事が週に一度、掲載される。彫刻や絵画などの分野に活躍する人物や展覧会紹介などが載せられていた。
 三木が言うのは、そのことである。書き手も多彩で、必ずしも美術関係者ばかりではなかった。少し前だが、島根日報に連載小説を書いている作家が、県立美術館で開かれた展覧会のことについて書いていた。
 美術評論家を自認する本山夏夫なら、本人も書きたいだろうし、適任だろう。頼めば、いい返事をくれるはずである。
「書いてくれる知り合いが、あることはあるんですが」
「ほう、どなたですか?」
「北陽放送の……」
 三木が、途中で遮った。
「本山先生ですか?」
 先生か、と亮輔は苦笑しながら羨ましいと思う。本業とは別に先生と呼ばれる仕事がある。それだけ認められているということでもある。
「彼なら……」
「もう何年も前になりますか、確か一度だけ書いていただいたことがあります」
 亮輔には記憶がない。
「どういうご関係で?」
 興味がある、というような聞き方だった。
「高校の時の同期でね。もちろん大学は違うんだけれども」
「そうですか……」
 亮輔から頼んで欲しいと、三木が言った。
「いいですよ。それにしても、自分のことを書けというのもおかしいんで、紹介だけしますから、そちらから連絡を取ってください」
「それもそうですね。じゃ、本山先生のご了解が得られれば、お電話下さい」
 三木は、そう言って電話を切った。亮輔は笑って唇を歪める。
「入賞したってことなのね」
 電話でのやり取りを、それとなく千秋は聞いていたらしい。
「岩谷賞なんだ。百号の絵でね」
「百号……大きいのね。よかったわ」
「ありがとう」
 ゆっくりと、噛み締めるように亮輔は言った。千秋が居なかったら、ここまでは出来なかったはずだ。
 恵まれているとしか言いようがない。もしくは、ツキというものか。
「お祝いしましょ」
 亮輔は頷く。

第238回

 松江の城山にある興雲閣の前から夏夫に電話した時だった。久し振りに飲もう、と夏夫が言った。暫く会っていない。近いうちに米子の北陽放送に行こうと思う。
 三木に頼まれた記事の依頼もあるが、このところ連絡の取れない七瀬がどうなっているのか、聞いてみたい。
 そんなことを考えていると、千秋が催促をした。
「どうするの……どっかに行く? それともここで乾杯をする?」
 まだ暮れには遠いと思っていた冬の日は、夜の深まりを待ちかまえているかのように暗くなり始めていた。
 島根日報の三木の話ではないが、千秋との関わりが深まれば深まるほど、周りに知られる。だが、亮輔はそれはどうでもいいことだと思っている。
 どこで何をしようと、自由である。東洋自動車販売に勤めていた頃なら、気になるが、今は誰に何を言われようと気兼ねをすることはない。
 噂をしたければすればいいと開き直る。実質何も困ることはない。話題になるということは、ある意味で知名度が上がったということでもある。
 もちろん千秋の助けがあってのことだが、会社を辞めてひとりで仕事をするようになった、少しずつだが認められてもいるその自信の裏打ちがあるからに違いないと亮輔は思う。
「外に出る」
 我ながら威勢がいい口調だと思って、亮輔はひとり笑う。おや? という顔を千秋がした。
「居酒屋に行こう」
「いいわよ」
 千秋が亮輔の腕にすがった。
 通りに出ると、車のヘッドライトが眩しかった。このところ、部屋に閉じこもっていることが多いせいかもしれない。
 出雲市駅の構内を南から北に抜け、駅前広場に出た。いつもなら、料亭の飛天≠ノ行く。駅から近いと言えばそうだが、たいていはタクシーである。亮輔は少し歩きたかった。
「代官町に行ってみようよ」
 タクシーの列にちらりと目をやった千秋が、思い直したように言った。
 出雲の飲食街を歩くようになってからかなりになるが、未だに代官町の通りがよく分からない。ここがいい、と千秋が絵美≠ニ下手な字で書かれた看板を指差した。

第239回

 絵美……か、と亮輔は呟いた。
「いけない?」
 通りすがりの店である。いいか悪いか分かりはしない。
 どこかで聞いたことのある名前のような気がした。確か、かつての五輪選手でフィギュアスケーターの名前ではなかったか。三十年くらいも前だろう。そうだとすると、千秋と同年代くらいのはずである。四十代の半ばだ。もちろん、その選手がやっている店ではないが、亮輔は千秋がアイスダンスをやっていたということを思い出した。
 中に入ると数人の客が居た。カウンターと四席の小上がりという小さい店である。寿司もあるらしかった。
「……らっしゃい」
 三十代と思える男の店主が言った。
「なんで、ここにって聞いてくれないの?」
 千秋は時々だが話の途中で、(聞きたくないの?)と促すことがある。
「はい。なんでここに?」
 笑いながら、カウンターの反対側にある板敷きに上がった。
 小机が飴色に光っている。かなりな酒を吸い込んだのだろうと思えるそんな色だ。「ビールとお酒、料理は適当にみつくろってね」
 カウンターに居た客が、千秋の声に振り向いた。東南アジア系の三人連れだった。
「絵が美しいって書いてあったからよ」
「なんだ。そんなことか」
「なんだって何よ」
 千秋に腕を抓られた。
 美しい絵という言い方は抽象的である。どう美しいのか分からない。何も言っていないことと同じだ。
「ともかく、おめでとう」
 千秋が、ビールを二人のグラスに注いだ。
「ああ、ありがとう」
 素直な言い方になった。三木の言うパーティもいいが、千秋と二人で飲むのも悪くはない。と言うよりも、安心して飲める。千秋に包み込まれているような気がするからである。
「さっきの北陽放送というのは何なの?」
「島根日報に記事を載せたいんで、書いてくれる人を紹介して欲しいという話」
「あ、いつか聞いた米子の人のことね」
「そう。高校の時からの悪友で、本山夏夫っていう……」
「美術評論を書く人ね」
 新聞に載るのはいいことだわと言いながら、千秋は勢いよくグラスを空けた。 

第240回

 ビールから酒になった。
「季節的に、こういうの――どうですか」
 かなり飲む客だと思ったらしい店主が勧めたのは、白川の酒だった。
 岐阜県の北西部にある白川郷は、庄川上流の山間部にある集落である。
 白川郷の三輪酒造が造っている純米吟醸の濁り酒白川郷≠ヘ、香りと切れが際だっていると、店主が講釈を始めた。頷きながらも取り合わないでいると、それ以上の説明はせず、店主はカウンターの奥に入って行った。
 店主の説明を聞くまでもなく、飲んでみると、ほのかな味わいと甘味が感じられる。
「私は、どちらかと言えば辛い方が好きだわ。亮輔さんもよね」
 千秋はいつもの通り、あまり間を置かずにグラスを空けている。
「あまり飲まない方がいいんじゃないか?」
 いいのよ、と言いながら亮輔のグラスにも酒を満たした。千秋と飲むと、いつも同じようなことを言っている。
「初めて出会った時、モデルになって描かれてみたいと言ったことを覚えている?」
 去年の夏、初めて会った時のことだ。亮輔は、忘れてはいない。
「私を描かないで、若い子にしたわね」
「若い……」
「とぼけちゃ駄目よ。佐木さんとかいう学生……」
 強い酔いの中で、亮輔は七瀬を描いた絵が一枚ずつ頭の中を走り抜けて行く。
「頼まれてモデルに」
「でも、描いたことは事実よ」
 千秋が横座りになり、体を斜交いにして睨んだ。だが、顔は笑っている。
「それはそうだけれども」
「私を描いて……」
 言いながら、千秋がグラスを空けた。
「……」
「嫌なの?」
 違う、と呟きながら亮輔は、カウンター席に居る左端の女の尻と、ずり下がったジーパンからのぞく白い背中を見ていた。
「やっぱり私じゃ駄目ね。京都のモデルさん見て、そう思ったわ」
「そりゃあ……」
「年齢が違うと言いたいんでしょう」
 千秋が声を上げて笑った。
 亮輔は七瀬と千秋を並べて描いたらどうなるだろうと、妙な風景を思い浮かべた。
 七瀬はもちろんだが、千秋の裸もモデル台ではなく、白いシーツの上で知っている。

第241回

 千秋は若い頃に、アイスダンスをしていたと聞いていた。若いと言っても、既に二十年以上も前の話である。
 亮輔は、アイスダンスについて詳しくはないが、氷の上の社交ダンスだということくらいは分かっている。四分ばかりの短い競技時間の中で、男と女が抱き合って踊りながら、その情念を表現する。
 表現のためには、体の線も大事な要素の一つであり、若い頃、千秋も体形には気を付けていたはずだ。だが、もう四十を超えると、絵のモデルも無理だと言う。とはいえ、千秋の裸には、若い時の名残があるように思える。
 腰の辺りに肉が少しばかり付いているが、亮輔に絡み付く体は柔らかである。背中には筋肉が薄く貼り付き、臀部と足首も締まっている。若い女にはない肌のぬめりもある。
 亮輔が言いたかったのは、年齢相応の魅力があるということだった。だから、二人の女、千秋と七瀬を一枚の絵にしてみたらどうだろうと思ったのだ。
 むろん、そんなことが出来るわけもないし、千秋に言えば、何を馬鹿なことを考えているのだと呆れられるに決まっている。
「描いて欲しいなんて言える時期は、もう遠くになっちゃったわ」
「画家が女を描く対象として選ぶ場合、年齢を問題にするんじゃないさ。たとえば、持っている雰囲気、体の内側から外に出ようとする喜びとか悲しみ、愁いというようなものに惹かれてのことなんだ」
「難しいことを言うのね」
「そうかな?」
「その人を見てるうちに、描きたいという気持ちが出てきたってことなの?」
 少し違うのだと思いながら、言葉を探すが見付からない。酒が過ぎたかもしれない。
「洋服を着ていても、ヌードに見えるというような女……かな?」
「なによそれ、変なの」
 カウンターの三人連れは、いつの間にか居なくなっていた。店主は、ぼんやりとした顔でテレビを観ていた。
「そうね。でも、何となく亮輔さんが言いたいことは分かるような気もする」
 机の上には、冷酒の小瓶が二本転がっている。亮輔は、それを頬杖を付いて眺めた。見詰めている二つの瓶が、ゆらゆらと揺れて絡まる。濃い青色の二つの瓶は、千秋と七瀬のように見える。
 酔っている、と亮輔は思った。

第242回

 マンションの入口まで帰って来ると、隣のカフェ・ロワールには数人の客が居た。携帯の時計を見ると、午後八時である。
「今夜は、時間があるわね。亮輔さん」
 千秋の目が濡れたようになっていた。カフェ・ロワールから漏れる灯りのせいで、光って見える。
 アトリエに続く部屋の空調を入れる。勢いよく流れ出た温かい空気が、酒のせいで熱くなっている頬を通り過ぎた。
 亮輔は千秋の頬を両手で挟み、唇を寄せた。待っていたように千秋の舌が、唇を割った。亮輔は押し戻し、また直ぐに引き込んだ。三度、五度と繰り返す。千秋の口から、唾液が滴り落ちた。
「……ん」
 体を引いた千秋が、両手を揃えて唇を覆った。
「嫌……だわ」
 言いながら目は笑っている。
「少し飲む?」
 亮輔は、造り付けのキャビネットからナポレオンのクリスタルデキャンタを取り出し、千秋の目の前で振ってみせた。
 ソファに並んで座り、グラスを軽く合わせると、澄んだ音がした。
「また乾杯ね」
 千秋がグラスを少し持ち上げた。亮輔も同じようにする。
「かなりきつい酒だ」
 ラベルには、四十度とあった。
「暑くない?」
 千秋が、エアコンをちらりと見た。
「そう言えば……温度を落とそうか?」
「脱げばいいわよ」
 立ち上がりながら、黒いセーターを引き上げ、頭を振って脱ぎ捨てた。同じ黒色の背中がオープンになったブラジャーを付けていた。紐は腹の辺りで結ばれている。
「酔った勢いね。どう?」
 ジーパンを脱ぐ。ペアらしく、これも黒のショーツだった。
 亮輔の前で、腰に両手を当てて体を捻る。立ったままの裸に近い体を真正面から見たことはなかった。
 部屋の隅にあるフロアスタンドの淡い照明が、千秋を逆光の中に立たせている。
「悪くないよ」
「そう? でもね、やっぱり」
 クロゼットからガウンを出して羽織った千秋が、亮輔の前に来て横座りになった。
 亮輔はソファに座ったまま、髪に手を入れ、千秋の顔を膝の間に引き寄せた。

第243回

 空調の微かなモーター音で目が覚めた。日中なら気にはならないが、周囲の生活音が無くなると、余計に大きく聞こえる。規則的な音である。断続していれば、さほどのことはないが、同じ音が続くと、亮輔は気になるのである。
 ナイトテーブルに取り付けられたデジタル時計のグリーンの文字が、午前二時を表示している。
 千秋と一緒に眠りに落ち込んだのは、午後十時だった。四時間ばかりが経っていた。
 千秋の体に絡まっている左腕を静かに引き抜いた。寝息が途切れた。
 亮輔はベッドから抜け出した。脱ぎ捨てていたガウンを裸の体に羽織り、空調のスイッチを切ってソファに座った。テーブルには、飲み残しの酒が入ったグラスがある。
 居酒屋絵美で、二人共かなり飲んだ筈だ。部屋に帰ってからもグラスを重ねたから、量は普段よりも過ぎている。千秋と体を重ね、そのまま寝てしまったのだ。その疲れもあるのだが、酒が過ぎると熟睡するのか、数時間で目が開く。
 深い眠りの四時間だから不足ということはならないはずだが、翌日に少し寝足りない気もしないではない。
 二十代では朝まで目が覚めなかったと思い、愕然とした。三十半ばである。もう五年もすれば、四十になる。
 振り返ると薄明かりの中で、布団からはみ出した千秋の白い肩が見えた。赤い噛み痕がある。
 窓のカーテンを細目に開けた。闇の中に建つビルの窓に一つ二つと灯りが点いている。時折、スピードに乗ったヘッドライトが通り過ぎる。
 若さという面から見たときに、華やかな時はまず二十代ではないか。その年代では、いつまでもその時が続くと思っている。と言うよりも、先のことはあまり考えないのである。三十から四十代にかかると、そうばかりも言ってはおられない。
 人は生まれた瞬間から、老いに向かって歩み始めるのだと、何かに書いてあったような気がする。そう思って、また寝ている千秋を振り返った。正確な寝息に合わせて、僅かに肩が動いている。
 千秋の裸の肩が七瀬のそれに重なった。亮輔は頭を振って七瀬を追い払おうとした。だが、七瀬は執拗に目の奥に浮かんでくる。
 このまま千秋と過ごしていくと、どうなるのだろうと、亮輔は少し不安になる。

第244回

 不安だというのは、千秋との関係が疎ましいとか、深まり過ぎるとどうなるかという気持ちからではない。
 かなりな援助をしてもらっていることにこだわるのだ。どう考えても、千秋との関係は、誰にでも手に入るものではない。画家仲間からは、羨ましいくらいだと妬まれるはずである。
 気持ちの詮索はともかく、千秋のためにいい絵を描かなければいけないと思う。それも売れる絵だ。描くということは、もやは趣味でない。ともかく、全ては、千秋と七瀬に出会ったことから始まった。
 年末とは思えないほどの静けさだった。目を上げると、黒い空がどこまでも続いている。外は寒い筈だが、空調を切ったとはいえ部屋の中は温かい。
 明日は、雪になるような気配がする。天候がどうであっても関係はないのだがと思いつつ、亮輔は大きく息を吐く。
「……ん」
 千秋のくぐもった声がした。
「どこ?」
 手を伸ばしてまさぐっているのか、シーツのこすれる音がする。
「どこに居るのお」
 おそらく目を閉じたままで、言っているのだろう。亮輔は思わず笑った。
「ここに来て……」
 十歳も年上なのに、まるで少女のようだと亮輔はまた笑い、千秋の横に入り込む。
 千秋の裸は温かかった。
「何してたの?」
「別に……何も」
「眠いでしょ」
 そんなことはないと、耳に吹き込むように言う。千秋の体が、少し震えた。
「岩谷賞のことだけれども、私も倉敷へ一緒に行きたいな」
 千秋が、亮輔の唇を右から左に指でなぞった。体の芯に何かが走る。
「いいじゃないか」
「でも、亮輔さんの何だろうと、思われるかもしれない」
「そんなことは、たいしたことじゃないさ」
「そうね……」
「ギャラリーのオーナーで、作品を並べる場所を提供してるって」
「私はいいわよ、何と思われようと。亮輔さんが困らなければ」
 一緒に倉敷に行こうと決め、亮輔はまた千秋を抱いた。
 夜明けは、未だ遠い。

第245回

 倉敷の美観地区北側には、鶴形山がある。古代、その山の南の裾は、瀬戸内海の一部だった。倉敷の西を流れる高梁川の源流は、新見市千屋の標高二千メートル近い花見山である。水島灘に注ぐ全長百十一キロの高梁川が運んできた土砂で陸地ができ、中世になると、船が出入りするようになって集落が出来た。江戸時代には、水路や陸路を使った商業地となり、倉屋敷が建ち並んで倉敷という名が付く。
 昔の雰囲気が色濃く残る本町通り沿いにある町家は、瓦葺きで、倉敷格子と窓が特徴的である。なかでも、最も古いのは井上家であり、母屋は約三百年前に建てられ、国の重要文化財指定となっている。
 この家の横にある路地には、かつて米俵を積み出す時、車の轍が付かないようにと石畳を敷いた。
 昭和三十四年に開館した倉敷中央美術館は、駅から歩いて十五分ばかりで、美観地区から外れた西側にある。土蔵風の建物で、白い壁と鈍い色の黒瓦が周りの風景にほどよく溶け込んでいた。
 美術館の前を通る道には、井上家横の路地を模して、石畳が敷かれている。市道だが、美術館の館長でもある岩谷昌行が私財を投じて造ったという。
 岩谷美術賞の授賞式は、美術館に隣接するホテル岩谷が会場だった。
 倉敷地区には約三十の宿泊施設があるが、亮輔と千秋は授賞式に便利だからという理由で、ホテル岩谷に前の日から泊まっていた。
 授賞式は、午前十時からホテルの宴会場で始まった。亮輔は岩谷賞だが、ほかにも優秀賞、奨励賞があって受賞者は十五名である。東京からは日本総合美術院の会長と役員が八名、更に地元の文化人や画商が招待され、百名ばかりの人数になっていた。報道各社も来ており、島根日報の腕章を左腕に巻いた若い女の記者も居た。
 授賞式は岩谷昌行の挨拶で始まり、最初に亮輔の作品について触れた。
――どの時代であっても心というものは、人間の関心の最たるものですが、絵の世界でも、心をどう表現するかは大事なことであります。不安、希望、悲しみや喜びなどを現実のモチーフの姿を借りて表現しなければなりません。伊折亮輔氏の『日本海』という作品には、海の美をまさに出雲の神からの波動を受けて再現したと思えるのです。つまり、作品は、伊折氏の手と魂が生み出した作者の心と言えます。――

第246回

 亮輔は受賞者席に座り、岩谷の挨拶を聞いていた。千秋は、目の前に設えられた受賞関係者の席にいる。
 岩谷は亮輔に目をやりながら、更に挨拶を続けた。
――しかも、作品は、神秘的で光り輝いております。伊折氏は松江の方でありますが、まさに出雲は神の国であり、その神が存在する作品は、我々観る者の心、つまりは魂に語りかけるのであります。画家の自我だけで描いた作品は、そうはいきません。
 伊折氏は、出雲の国から神の手によってこの倉敷に、いや、日本絵画界に届けられた新しい旗手であり、これからの洋画壇を背負って立つ一人であると思います。
 本日より私は、伊折氏の今後のご精進に微力ながら力を注ぎたいと考えます。
 この授賞式にご来賓としてお出掛けいただきました日本総合美術院の先生方を始め、ご参加の皆さんにおかれましても、私の意のあるところをご理解いただき、伊折氏に格別のご支援を頂ければ誠に幸いであります。――
 亮輔は、岩谷の言葉に頬を赤らめた。嬉しさでというより、面映ゆいのである。千秋は岩谷の話を頷きながら聞いていた。
 岩谷の挨拶は、島根日報はもちろんだが、大手各社の紙面に載るはずである。新聞はともかく、受賞者席の反対側にある来賓席に並ぶ日本総合美術院の役員にも伊折亮輔という名を印象付けたことは間違いない。
 賞状と賞金二百万円を手に、亮輔は来賓席に向かって頭を下げた。会長が二度三度と頷くのがちらりと見えた。
 賞金は、今の亮輔にとってみれば千秋という後ろ盾がいることもあってさほどの額ではない。それよりも、岩谷の挨拶は重みがあった。
 倉敷といえば、言ってみれば東京から遠く離れた山陽の小さな市である。日本画壇の重鎮が、招かれて来るというのは地方都市にとって珍しい。いかに岩谷の力が大きいかということを示していた。
 授賞式が終わり、パーティになった。
 グラスを手にした岩谷が亮輔に囁いた。「伊折さん、私が力になりますよ。それにしても、いい後援者、それも美しい方がおありで羨ましい」
 千秋が亮輔の背中で、頭を下げていた。
 亮輔は日本総合美術院の会長や役員に、それぞれ挨拶をした。どの目も好意的であった。
 亮輔の周りに人垣が出来た。

第247回

 用意した五十枚ばかりの名刺が、半分以上無くなったが、短い言葉を交わすだけだから、顔を覚えるという訳にもいかない。見計らっていたのか、人の切れ目を縫うようにして、若い女が声を掛けてきた。
「伊折さん、済みません。島根日報です」
 相良綾子と名刺に刷り込まれている名前を見ながら、記憶の底のどこかにあるような気がした。
「おめでとうございます。部長の三木からもよろしくということでした」
「どうもありがとう。三木さんには、いろいろお世話になってます」
 小柄な体をジーンズで包み、目の縁に沿ったアイラインが、大きな目を更にはっきりと見せている。濃い目に塗られたサーモンピンクの唇が濡れたように光っていた。
「沢山の人が周りにおられるので、待ってたんですけど、なかなかでした」
 言いながら、ちらりと舌先を出した。
「どうも申し訳なかったですね」
「部長が言ってましたけど、米子の本山さんには解説的な文章を頂くことになってますので、私は先生のご感想をひと言だけ伺って記事を書きます」
「本山君ねえ」
「お知り合いだそうで」
 綾子は、短く切った髪を右手で後ろへ梳くようにした。
「古くからの友達でね。相良さんは、松江の方?」
 ああ……というような顔になった。
「相良さんていう名は珍しいし、それに同じ名前の人を知ってるんです」
「それって、私の姉なんです。聞きました。一緒に展覧会をされたこと」
「ということは、相良美樹さんの妹さん」
 見たような顔と苗字だと思ったのは、そういうことだったのかと亮輔は頷いた。
「去年の今頃は、私、未だ学生でした」
 今年の新入社員かと思い、七瀬の顔を思い出した。
「新米です。それはともかく、姉は、よく先生の話をします……」
 美樹は何を話すのだろうと、なぜか気になった。だが、今はそれを聞くような雰囲気ではない。
「先生、ご感想をひと言」
 亮輔は思い付きだったが、抽象画の方向も目指してみたいというような意味のことを言った。
 祝賀パーティは、地元の財界人の万歳で終わった。

第248回

 帰ろうとした亮輔と千秋を岩谷が呼び止めた。
「伊折さん、こういうところで話すのはどうかと思うんですが……」
「何か?」
「実は、伊折さんの入賞作品を私の美術館で買い上げさせてもらいたいのですが、どうですか?」
 亮輔は、横に立っている千秋に目をやった。頷く顔が見えた。
「それは、もうありがたいことですから」「そうですか。明日のところで相談させてくださいますか?」
 世界中で知らぬ者は居ない作品であるモナ・リザをダ・ヴィンチは、晩年まで手元に置いていたと言われている。自分が最も好んだ作品ということもあったのかもしれない。あるいは、天才で悪戯好きでもあったダ・ヴィンチは、作品の多くに秘密のメッセージを描き込んでいたという説もあるから、そのためだったかとも思われる。
 絵に限らないが、誰でも自分の作品には何がしかの愛着がある。かと言って、特に絵は、その全てを手元に置いておく訳にはいかない。亮輔でさえ、既に数百点の絵を描いている。
 岩谷の言う買い上げは、一瞬、亮輔を躊躇させたが、絵は売れなければ意味がない。
 絵は画家という親の子どもである。手元から離れるということは、絵の旅立ちであった。独り立ちした絵が、美術館という場で多くの人々の目に触れる。それもひとつの歓びでもある。
「岩谷さんのところのように著名な美術館に置いていただければ、その上はありませんから」
 岩谷は、満足そうに頷いた。
「担当の者をホテルに行かせます」
 それでは明日、と言いながら岩谷は亮輔に右手を差し出した。亮輔は両手で握り返しながら、頭を下げた。
 ホテル岩谷に向かって歩きながら、空を見上げた。吸い込まれそうな冬空だった。
 山陽とはいえ、十二月の夜は寒い。だが、絡めてきた千秋の手は温かかった。
「記念に外国にでも行って来たらどう?」
 不意に千秋が言った。
「外国?」
「そう。フランスとか……。勉強してくるのよ。旅費は賞金で」
 フランスかと呟きながら、亮輔は遠い外国まで続いているはずの夜空を見た。
 小さな冬の星が光った。

第249回

 倉敷での岩谷賞授賞式があったのは、一月の二十二日、土曜日だった。一週間が経ち、あと三日で月末である。
 千秋は、中旬から山口の萩に帰っている。出雲に戻って来るのは節分が終わってからだと言っていた。
 毎年のことだが、例年にない暖冬だという言葉が新聞に載る。今年もそうだなと、亮輔は松江のアトリエで新聞を見ながら思った。だが、季節は間違いなくやって来るのか、節分には多かれ少なかれ、たいてい雪が降る。だが、積もったとしても、二日もあれば、跡形もなく消えてしまうのである。山間部はともかく、市内で雪がかなり積もっていたのは、昭和四十年代頃までではなかったか。
 亮輔の岩谷賞受賞について、本山夏夫が書いた記事を読みながら、とりとめのないことを考えている。
 島根日報は、作品『日本海』の受賞を記事にし、その後を追うようにして、幾つかの中央紙地方版にも紹介された。
 地元のケーブルテレビ局も、数分の短い時間だったが扱った。
 正月には、年始に訪れた来客の話題になった。父も母も、結婚の話を除けば満足そうだった。久し振りの入賞は、多少の親孝行になったのかと亮輔は思うのだが、家庭を持って欲しいという両親の願いがよく分かるだけに、後ろめたい気もしないではない。千秋や七瀬の顔が、頭の中を通り過ぎてゆく。
――アトリエは、島根半島北山の山麓にある。制作中のキャンバス、美術書や美術雑誌が書棚に並んでいる。
 伊折亮輔氏が絵を描き始めたのは、高校生の時であり、以後、独学で突き進み、本格的に始めたのは二十代になってからである。大学卒業後、会社員として仕事をし、いわゆる二足の草鞋を穿きながら描いてきた。余程の努力と才能がなけねば、両立はしないはずである。――
 島根日報から依頼された本山夏夫の解説文は、こう書き出している。
―― 一年前、伊折氏は絵に専念する決意を固め、十年以上も勤めた職をなげ抛った。いわゆる背水の陣を敷いたのである。――
 何度も読み返した文章のそこまで来ると、大袈裟なと笑ってしまう。いかにも夏夫らしかった。解説は亮輔の絵について触れ、次の一文で終わっている。
人生そのものがアートだと氏は言う。
 亮輔は、携帯電話を手にした。

第250回

 日曜日だから、夏夫は家に居ると思ったが不在だった。電話には明子が出た。
「留守なんですね?」
「今日は、仕事だと言って出掛けたんですよ。日曜だというのに」
 電話の向こうで、明子が笑っている。
「会社に?」
「いえ、鳥取市にお住まいの画家の方を訪ねるんだって言ってましたよ」
 夏夫が美術家の評伝を書いていることは知っている。かれこれ六年くらいも前からの話だった。鳥取と島根両県の画家や彫刻家について書いている。
「ライフワークですからね」
「そんな大層なものじゃないですよ。そうそう、この間、倉敷で岩谷賞の授賞式があったんですよね。おめでとうございました」
「ありがとうございます。新聞にも書いてもらって。いろいろお世話になりました」
「島根日報から頼まれたようで……、どうだったでしょうね」
「随分と褒めてもらって、恐縮……」
 電話をしたのは新聞のこともだったが、七瀬のようすも知りたかったのだ。 
 もう長い間、会っていない。
 秋の日、松江城にある興雲閣から電話で話をしたきりだ。
「自分で言うのもおかしいですが、絵に力が入るようになったのは、佐木君を紹介してもらってからですよ」
 絵の話にかこつけて、七瀬の名前を出してみた。
「そう言えば七瀬ちゃんは……」
 明子が言い淀む。
「どうかしたんですか?」
「どうもしないわ。このところ、あまり顔を見せなくなったから、それで。松江に住んでるってこともあるかもしれないけど」
 夏夫からそのことは聞いていた。
「七瀬ちゃんから聞いてないんですか?」
「ええ、何も……」
「そう? 松江のね、上乃木に女子短大があるでしょう。その近くの、ベルフォーレ≠チていう賃貸マンションですって」
 ベルフォーレというのは、フランス語で美しい森という意味である。開発が進んでいるとはいえ、あの辺りは未だ緑が多い。名前はそれから取ったのだろう。それにしても、マンションかと亮輔は唇を噛む。
「何部屋か、バイト先の会社が借りていて、その内の一つらしいわ」
 バイト先というのは、亮輔が、かつて勤めていた自動車販売会社のことだ。