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連載小説「原色の構図」 島根日日新聞掲載

◇第151回

 三月から四月に変わっただけで、何となく華やいだ気分になる。会社も学校でも同じだが、何もかも新しく見える季節だ。
 国道九号線を照らす春の光も、殊のほか明るく感じられる。
 気のせいか、踏むアクセルも軽い。
 朝のラッシュを過ぎたせいもあって、出雲市には一時間足らずで入った。
 神立橋を渡って直ぐ左に折れる。更に右に行き、狭い道を駅に向かった。
 出雲高校の前を通り過ぎ、駅の西側を迂回して南に出る。
 千秋の事務所は合同庁舎の近くにあり、小さなプレハブ建てだった。ロワール建設事務所と書かれた看板が掛かっていた。
「わざわざ来ていただいて、ごめんなさい」
「いえ、そんなことは」
「一度、現場を見ておいていただこうと思って。それと、一応、社員ということですから、契約の話もあるんです」
 そう言われて亮輔は、東洋自動車販売に入社した時のことを思い出した。背筋が伸びるような緊張感があった。
「ロワール……マンションっていうのですか。フランス語なんですね」
「ロワールマンションじゃないのよ。英語とフランス語の組み合わせはおかしいの」
 言われてみれば、そうである。
「マンションって、名前で入居率が違うのよ。でも、これは仮の名前だから、また考えるわ。入る人にとっては自分の家と同じだから気になるのよね」
「そんなものですか」
 車でも、そうかもしれないと亮輔は思う。性能で買う、形を選ぶ、言い易い名前の車にする、といういろいろなユーザーがいた。「ここは殺風景ですから、どこかで食事をしましょう」
 携帯を取り出して見ると、十一時半になっていた。
「……どこがいいかな?」
 千秋が首を傾げた。微かな香水の匂いがした。亮輔には、何という名前の香水なのか分からなかった。
「大社の方に行ってみます? 好みは何なのかな?」
「別に、どこでも。それに好きの嫌いのってないですから」
「そう、じゃあ、伊折さんの車に乗せてもらって」
「小さい車ですよ」
「いいの」
 千秋が助手席に乗る。

第152回

 出雲大社の手前、浜山の近くに新しい店が出来た。パスタが美味いと千秋は言う。
 言われるままに、車を走らせる。亮輔は、出雲の街、特に農道沿いは全く地理が分からない。同じような道が幾つも交錯しているからだ。
「イタリアを代表する料理っていうと、やっぱりパスタとピッツァよ」
 パスタ・ハマヤマという店は、いつ来ても客が多い。だが、八十席もあり、駐車場も巨大ということもあって、ほかの店のように待つこともない。
 千秋は、よく来るのか、そんなことまで知っていた。 
 千秋は(何でもいいでしょ?)と聞きはしたが、自分でカルボナーラの付いたランチを注文した。
「食べたことあります?」
「いや……」
 カルボナーラは、いわば炭焼き風のスパゲッティである。ベーコン、卵、チーズや黒胡椒で作られた料理だ。
「カルボナーラっていう言葉は、炭焼き風とか炭焼き職人という意味なんだそうよ」
「それで、黒胡椒を炭に喩えたということですか」
「炭坑夫が最初に考えたソースだという説もあるらしいけど、名前付けのエピソードって面白いのね」
 亮輔は、そんな話をする千秋が少しばかり眩しい。
 食べ終わったのを見ていたかのように、ウエイトレスがコーヒーを運んで来た。
「伊折さん。四月になったんで、正式にうちの会社に来てもらうということで」
「ありがとうございます。二日前に送別会がありまして、東洋自動車販売の方は、区切りがつきました」
「そう。それはよかった」
「具体的に、私はどうすればいいんでしょうか」 
「週に一回くらいでいいけど、出雲の事務所に半日ばかり来てくださいますか」
「週に一日だけですか?」
「そうね。水曜がいいかもしれません」
 午前中の勤務で、朝は九時半くらいからでいいと、千秋は言う。
「何をするんですか」
「時々、社員の話を聞いてください。それと、内装の相談にのってくださればいいの」
「内装?」
「マンションのね。美術家だから適任よね」
 千秋はそう言って笑った。 

第153回

 壁や床、天井などの内装は、ひと部屋だけの問題ではなく、住宅全体、更にいろいろな部屋とも関連する。住まい全てが同じイメージになるように、色や素材をコーディネートしなければならない。
「内装っていうのは、装飾内装のことなの。例えば壁にクロスを貼って照明を立体的にするとか」
「それは設計屋さんがする仕事じゃないんですか」
「施行のついでってことじゃ、いいものが出来ないの」
 そう言われてみると、どこかでインテリアコーディネーターの看板を見たような気もする。
「内装の仕上げ材料や建具のこともあるのよ。でも、伊折さんにそんなことを考えてもらうということではないの」
「じゃあ、何を」
「だから、さっき言ったように、特に色彩というか色合いかな、社員のそんなことの相談に乗ってくださればいいの」
 不動産業がそこまでするのかと思ったが、どうやら千秋は多角的な仕事を考えているようだ。
「絵の色と部屋のそれなんかは違うと思うんですが……」
「いいのよ。伊折さんの意見を聞くことが出来れば」
 それくらいならさほどのことはない。それにしても、千秋の会社の顧問になったような気分である。
「長く住むためのマンションじゃないといっても、やはり部屋のイメージというのは大事だし、出雲市内のほかのところと差を付けたいのよね」
 ともかく、ある程度の収入が約束され、絵を描く時間が確保できたということだけでも大いに満足である。東洋自動車販売のことを思えば、社員の話を聞く程度のことなら、何もしないのと同じくらいだ。
「伊折さん……」
 食事があらかた終わったところで、千秋が思い付いたように言う。
「どこかに行ってみません? 気晴らしに」「気晴らし……ですか?」
「別に憂鬱だとか、退屈ってことじゃないんだけれども、たまにはね」
「……」
「近いところで、日御碕はどう?」
「日御碕」
 鸚鵡返しに呟き、亮輔は七瀬と行った時、千秋らしい女性を見たことを思い出した。

第154回

 秋の夕暮れだった。千秋が日御碕と言ったのは、近いからだけのことだろう。七瀬と一緒だったところを見たので、千秋がわざと誘ったとは思えない。
「都合が悪いの?」
 戸惑うような表情を見せた亮輔を見て、千秋が言う。
「いや、予定は何もないんです」
 そう言いながら、七瀬と一緒に行ったところに、千秋とまた……と考えてしまう。
 いつの頃からか、七瀬と千秋をいつも比較するようになった。
 七瀬には若さがある。一方、千秋はといえば七瀬とは二十歳は違うはずだ。それだけに、溢れるような何かが感じられた。
 直接に見たわけではないが、肌から滲むみずみずしさというようなものかもしれないと亮輔は思う。
 若い時に美人だといわれてきた女達も、ある年齢を重ねると、差はなくなり誰も同じようになってしまう。
 だが、何かが違うとすれば、器量の善し悪しを通り越したものがあるということだ。仕事や相手の男から得たもの、更に言えば生き方がそれを見せる。
 千秋には、それがあった。亮輔は、軽い溜息をつきながら、千秋の顔を眺める。
 視線を感じたのか、千秋が目を細めた。
「じゃ、行きましょ」
 千秋が先に立ち、支払いを済ませる。
 春の観光シーズンということもあるのか、日御碕にはかなりな人が来ていた。  駐車場から土産物屋の間の狭い道を通りながら、亮輔は七瀬に見られているような気がする。千秋とどうというわけではないが、後ろめたい気もしないではない。
「アトリエという程ではないけれど、絵を描く場所をマンションの中にも作ります」
 細い坂道を海に向かいながら、千秋が振り返る。
「そこまでしていただかなくても……」
「大作が出来るほどのスペースは取れないかもしれないけれど、ちょっとした絵が描ける程度よ」
 マンションの設計を一部分変更して、事務所と一緒に作るのだと言う。
 灯台の下から松林を左に見て、展望所まで歩いた。七瀬と来た、あの日と同じように、ウミネコが舞っている。
「いつか一緒に、お酒でも飲みましょ」
 経島を見ながら、千秋が不意に言った。 亮輔は、千秋に日御碕に来たことがあるのかどうかを聞きそびれた。

第155回

 七瀬のヌードを描き始めてから四か月が過ぎ、数えられないくらいのデッサンを描き、油絵も何枚か出来た。
 春の季節が過ぎ、五月に入った。
 亮輔は七瀬を描きながら、何かが違ってきたと思うようになった。
 アトリエに入って来て、七瀬は着ているものを勢いよく脱ぐ。セーターの裾に両手を掛け、下から上へ抜き上げる。ピンクのブラジャーが現れる。スカートのホックを外し、ストッキング、そして下着と、亮輔の目を意識しているのかいないのか、恥じらうという様子もなく取り去っていく。
 亮輔が見ていても、後ろを向いたりはしない。いつもの手順だという気配に見える。
 なぜそうなったのか。
 初めてモデルの形をとった時、(じっと見るから恥ずかしい)というようなことを言った。
 モデルでない七瀬の体も知っている。もちろん、そういうことも関わりはあるのだろう。
 それにしても、体が丸みを帯び、皮膚に滑りが出てきたように思える。
 亮輔が描き終わり、七瀬が動くと、アトリエの窓から射し込む陽の中で、肌がきらりと光る時がある。
 なぜデッサンばかりするのか、と七瀬に聞かれたことがあった。
 七瀬がきれいだからと答えたことがある。亮輔が見る七瀬の肌は、そのきれいさとは少しばかり違うようだ。
「きれいになったな」
 亮輔は、キャンバスから目を外した。
「私? そんなことはないわよ」
「何か違うんだなあ」
「いつもと同じよ。きれいになってなんかいないんです。お世辞を言っても駄目ですよ。先生」
「そうじゃないんだが……」
 長い間、同じ裸を見ていると、違いは分かる。なぜそうなのか……亮輔は再び同じ問いを自分に向かって呟く。
「先生、それはどうでもいいことだけれど、紗納さんという方に頼まれている絵は出来たんですか?」
 話をそらそうとするように思えた。
「進んでいるよ」
 千秋に頼まれた絵は、十枚である。千秋と日御碕に行ってから、その内の一枚に灯台を入れることにした。それを言えば、誰かと行ったのと七瀬が聞きそうである。
 亮輔の気持ちが、また揺れた。

第156回

 その日の予定を終えたのは、夕方だった。月曜日ということもあって、七瀬がアトリエに来たのは、午後の二時を過ぎていたからだ。
「先生、お茶にしましょう」
「貰い物のコーヒーがあるから」
 ラフカディオ・ハーンの名前を付けたコーヒーを知り合いから貰った。
「へえー、こんなんがあるんですか」
 七瀬は知らなかったようだ。いつものように七瀬が、コーヒーの準備をする。
「会社の……あれはどうなってる?」
「あれって?」
 東洋自動車販売の受付を七瀬がアルバイトでするようになってから、一か月が過ぎたはずだ。
「バイトの受付さ」
「……ええ」
「あまり面白くない仕事だろ?」
「いえ、そうでもないんです」
「なんで?」
「大学で、そんなアルバイトをしてる人はいないので、友達からは、いいわねって言われるんです」
 最近の学生がどんなアルバイトをしているのか、亮輔は知らない。
「いいわねって、幾ら貰ってる?」
「それは……」
 言いたくないような口振りになった。
「社長さんに、よくしてもらってますから」
「社長に?」
「ええ、いろいろと」
 七瀬は、コーヒーを口に運ぶ。
「……」
「あ、そうだ。私、車を替えるんです」
 思い出したように、七瀬が言った。
 七瀬はダイハツのミラに乗っている。見たところ、乗り替えるほどではない。
「替えるって、まだ使えるだろ?」
「そうなんですけど、社長さんが、軽の中古だけど、新車に近い車があるからって言われたんです。で、お願いしました」
 また社長かと、亮輔は面白くない。七瀬の言う(いろいろ)というのは、そういうことでもあるのか。
「車のことなら、相談する人が居るんじゃないか?」
「え? もしかして先生のことですか」
「何だよ。それ」
 七瀬の顔が歪んだように見えた。
 七瀬は帰るまで、そのことに触れようとはしなかった。
 気まずいと思ったのは、初めてだった。

第157回

 出雲のウイークリーマンション工事は、かなり進んでいた。
「予定通りだわ」
 亮輔は、千秋と建設工事の進み具合を事務所から見ていた。
 気象庁が梅雨入りを発表した六月の初めだった。既に外壁工事は終わり、内装にかかっている。
「そうですね。順調に工事がはかどっているようですから」
「喫茶店もね。いい感じに出来そう」
「私のような者のために、申し訳ないような気もします」
「そんなことはないわ。これは私の仕事なの。あなたのためばかりではないの」
 あなたの? 亮輔は千秋の顔を見た。何気なく言ったのだろうか。確かな記憶ではないものの、(あなた)と千秋が言ったのは初めてではないか。それとも、そういうことを気にするのは考え過ぎだろうか。
「いつかは、と思ってたんだけど、石正美術館に行ってみたいの」
 平成十三年に開館した石正美術館≠ヘ、三隅町に生まれた石本正の作品を中心に展示をしている。
「石正美術館……ですか」
「そう。一度、行ってみようと考えてはいたけれど、なかなかチャンスがなかったわ」
 県内には、幾つかの美術館がある。県立の美術館をはじめ、安来市にある足立美術館、桜江町の今井美術館など、美術館と名の付いているのは十館である。
 夢のような話だが、亮輔は自分の美術館が持てたらいいと思っている。千秋が計画している喫茶店の壁面はささやかで、美術館とは言えないが、それでも絵が並ぶはずである。
「どうして、石正美術館に……」
「裸婦の絵が多くあるらしいのよね。そういうこともあるけれども、建物に興味もあるのよ」
 言われて気が付く。千秋の仕事は、その関係でもある。
「シンボルになってるようだけど、尖塔があったりして、中世のヨーロッパ風なのね。ロマネスク様式って言うのかしら」
 三隅町は約二十年をかけ、中央公園に文化施設を建設した。石正美術館はもちろんだが、陸上競技場などのスポーツ施設、小学校、中学校、医療専門学校などもある。「行ったことがあるの?」
「いえ、行ってみたいのですが」
 千秋の言い方が、何となくくだけている。

◇第158回

 東洋自動車販売に勤めていた時には、余裕などなかった。
「行ってみたいとは思っていたんですが、そういう時間はなかったのです」
 美術館の話をしていると、確かに絵の仕事に関わっているのだなということを実感する。
「じゃ、ちょうどいいわ。一緒にね」
「一緒に?」
「ええ、いつも通る九号線から少し入った所だから、山口とか津和野への行き帰りっていう時でもいいのだし」
「そうですね」
「日取りはまた決めるけれども、あなたの都合の悪い日は?」
 そう聞かれても、特別に何のことがある訳でもない。東洋自動車販売に勤めていたままなら、それこそいつでもいいということにはならなかった。
「おまかせします」
「そう……。だったら泊まる宿も私が決めていいのね?」
「泊まる……のですか?」
 出雲からなら、朝早く出れば日帰りも出来るはずである。
 亮輔の怪訝そうな顔を見た千秋が、こともなげに言った。
「急いで行き帰りすることはないわ」
 それは亮輔にとって願ってもないことだった。これまで、ゆっくりした時間をとったことはない。
 石本正の作品は、画集でしか見たことはないが、解説によると、ひたすら自分で納得する絵を描き続けてきた画家だという。
 大正九年の生まれというから、石本正は八十五歳ということになる。三十五歳という自分の年齢からすれば、まだ五十年はある。
 半世紀か……、と亮輔は指を折る。気の遠くなるような画業である。
 今から五十年あれば、何かが出来るかもしれない。そうであれば、千秋が援助をしてくれるというのは、ある意味でまたとない機会ではある。売れない画家で終わりたくない。描かなければと亮輔は思う。
 それはともかく、千秋は一泊すると言った。まさか一緒にということはないだろう。「どこを宿にするのです?」
「だから、さっき言ったように、私が考えておきます」
 強い口調だった。
 見上げるマンションが雨雲の中で、ふと揺れたような気がした。

第159回

 出雲市から浜田市まで、一時間四十分かかった。普通車ならもう少しスピードを出したかもしれないが、軽のオフロードだから、せいぜい時速六十キロくらいしか出さない。もともとオフロードは市内などを走る車ではないが、悪路になると抜群の性能を発揮する。名前の通りだ。
 浜田漁港を右に見て、九号線を更に西に走った。
 梅雨が上がるのを思わせるような強い陽が、時折、ウインドガラスを通してダッシュボードを光らせた。
 出雲を出たのは、午前十時だった。
「あれから、もう一年が近いわ」
「え?」
「忘れたの? 松江の美術館で出会ったってことよ」
 もうそんなになるのかと亮輔は、ちらりと千秋の横顔を盗み見る。気付いたとみえて、千秋が(ちゃんと真っ直ぐ見なくちゃ駄目)と言いながら、右手で亮輔の腿を軽く叩いた。
 亮輔と二人で車を走らせているという気安さか、千秋の言い方がくだけている。
 千秋と松江現代美術館で初めて会ったのは、去年の夏である。
 モデルになって描いてもらいたいと思った時期があると千秋が言い、亮輔は驚いたことを忘れてはいない。それもヌードだというような意味のことだった。
「描いてもらいたかったと言われましたね。それも……」
「ヌードのってことでしょう。そうだったわ。あの時も言ったけれども、もう駄目ね。肌の艶もないわ」
 ヌードの絵、つまり裸婦の絵といえば、美しい肉体を描いたものだというのが、普通の考え方だ。だが、必ずしもそうとばかりは言えない。
 例えばポール・セザンヌの大水浴図≠ノ描かれた裸婦は、まるで作りかけの木彫人形のようでもある。確かに美しくはない。だが、美しい裸婦と素晴らしい絵は別物である。描かれた裸婦だけを見てはいけないのだ。
 亮輔は、そんな意味のことを言った。
「じゃあ、描いてくれるの?」
 千秋に視線を走らせると、遠い所を見ているような目をしている。
「ヌードですか?」
「馬鹿ね。でも、きれいに描いてもらえればいいかもしれない。嘘よ」
 千秋の裸を見たいと亮輔は思う。

第160回

 浜田市内で軽い昼食を取り、更に二十キロほど走る。折居駅の手前の峠で海が見えた。道の駅のゆうひパーク≠フ前を通り過ぎると、また峠である。
「もう直ぐかな?」
 千秋が地図から顔を上げた。
 行くと決めた後に、おおよその場所を聞くため、千秋は石正美術館へ手紙を出したという。
 美術館のリーフレットと一緒に送られてきたのは、手書きの地図だった。
「この地図、よく分かるように書いてあるわよ。丁寧な学芸員さんね」
 折居駅から始まる地図には、道の駅から五分で右折とある。
「きめの細かさというのは、大事よ」
「そうですね。建築中のマンションもそういう設計の考えなのですね」
 そうよ、というように千秋が二度ばかり顎を引く。
 地図は、問い合わせが多いから作っているのだろうか。美術館に着いたら聞いてみようと、亮輔は思った。
 三保三隅駅に通じる交差点を過ぎ、地図通りに右折した。三隅川に架かる橋から直ぐであった。
 小高い丘の上へ出ると、石正美術館が目の前に現れた。
 パンフレットには、イタリアを旅していた時、ふと立ち寄った小さな教会≠ニいうイメージで建設されたとある。まさに、そんな感じだった。茶色の瓦に白い壁面が、よく調和していた。
 石見の山に取り囲まれ、こぢんまりとした建物で、中庭には野鳥が来るという程、自然に溶け込んでいる。
 受付で、女性の学芸員と話をしている千秋の声が聞こえた。
「資料を送ってくださって、ありがとうございました。直ぐに分かったわ」
「詳しい地図を書けばよかったんですけど」「いえ、そんなことはないわ。でも、場所の問い合わせがあると、地図を皆さんに送るのですか?」
「いえ、そちらに、お届けするために書いたんです。下手ですみません」
「そう……私だけだったんですか。どうもすみませんでした」
 ほどよい照明の展示室壁面に、かなりな裸婦画があった。ほとんどの裸婦が長い髪を持っている。亮輔は女の髪から沸き立つ匂いを感じた。白い肌と黒い髪には、そそるような色香がある。

第161回

 亮輔は千秋と、一つひとつ見て回った。
 上半身裸のうつ伏せになった女を描いた一九九五年の素描≠ヘ、二〇〇四年の流れよ我が涙≠ノ結実していると思うが、黒ずんだ背景に浮かび上がる赤と白の布が印象的だ。浄心≠ヘ、黄色味を帯びた褐色の背景に胸から上を見せる着物の女である。着物は地味だが、全体からは落ち着きと華麗さがうかがえた。
「いいわね」
 殆どの絵の前で、千秋は呟く。亮輔も横に居て頷く。
 千秋と二人で、絵を見るなどということはまるで想像もしていなかった。
 去年の夏のことから考えると不思議なくらいである。
「私も描いてもらおうかな……」
 掛けられている絵の顔に、亮輔は千秋のそれを重ねてみた。
「この絵のモデルは、幾つくらいの人でしょうね。私と同じかな?」
「さあ、どうでしょう」
「こんなに綺麗な人と比べてはいけないのよね……」
 そんなことはない、と亮輔は思う。
「描きましょうか?」
「裸?」
 まさか、と亮輔は小さく呟いた。千秋はそれに答えない。
「ここにある絵は、どっちかというと衣服をつけたものが多いのかしら」
「そうでもないでしょう」
 言いながら、亮輔は千秋を椅子に座らせたポーズを思い浮かべてみる。
 黒く長い髪が、胸から上の裸の肩に流れている。その髪を両手を後に回して跳ね上げる。胸が上に引っ張られ、形よく膨らむ。その千秋をコンピュータグラフィックのように、ぐるりと回す。
 思わず亮輔は、目を閉じた。
「主人が私の絵を見たら、どう言うんだろうな」
 ぞんざいな言い方だった。亮輔は目を開ける。そうだ、千秋は結婚しているのだと、当たり前のことに今更ながら気付く。 
「……」
「男の人って、妻の裸を描かれるというのは、どんな感じなんかな?」
 聞かれても、亮輔は答えられない。
「描かれた顔を見ると、誰か分かるものかしらね」
「おそらく……」
 描き方にもよるだろうと、亮輔は思う。

第162回

 体に何かの特徴があり、それを精密に描けばモデルが誰かは分かるだろう。リアルに描くという、似顔絵がそうである。
 モナ・リザは、イタリアの美術家レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた油絵である。モデルが誰であったのかは、いろいろ研究されてはいるものの、いまだに分かっていない。
 モナ・リザでさえそうだから、顔が似ていなければ、よほどのことがない限り人物を特定することは出来ないはずだ。
「描いてもらおうかな? あなたどう思うの?」
 亮輔は、(あなた)にまた拘る。ごく普通に使う言葉だが、特別なものに聞こえてしまうのだ。首を二度、三度回し、その思いを振り払う。
「私は別にかまいませんが……」
「そうね、考えておくわ」
 去年の夏、展覧会に来てくれた時の千秋を思い出す。
 白いシャツ、デニムのジーンズが長い足に食い込み、腰から下は布を跳ね返すような膨らみがあった。
 ひと通り見終わると、既に、午後三時を過ぎていた。
「行きましょうか」
 千秋の声に促されて外に出た。陽の光に誘われるように歩いた。美術館の隣にある中学校は時計台が中央にあり、まるで中世の建物のように見える。ヨーロッパの世界に紛れ込んだように思えた。 
 遊園地では、小学生らしい子どもが数人、遊んでいた。
 小さな土盛りの上から少し下に向けて張り渡された太いロープにぶら下がり、ターザンごっこをしている子ども達もいた。
「やってみようかな?」
 千秋が悪戯っぽい目をして、亮輔を見た。「さあ? 止めておいた方がいいんじゃないですか……」
「何でなの?」
 思わず次の言葉を口に出しかけ、慌ててわざとらしい背伸びをして紛らす。
 亮輔は千秋と並んで草の上に座り、子ども達が遊んでいるのを眺めていた。
「これから、どこへ?」
 亮輔は、今夜の宿を聞いていなかった。
「金城町にかぐらの里≠チていう宿があるの。今夜はそこで泊まるつもりよ」
 三隅から弥栄を通って金城へ行く道もあるが、一時間はかかるのではないかと千秋は言う。

第163回

 国道九号線に出て、もと来た道を浜田に戻り、そこから金城まで行けば三十分ばかりだ。
 車がオフロードだからという理由で、亮輔は山道を選んだ。ほとんど車も人も通らない道に、車のエンジン音だけが響く。
 予定を三十分ばかり過ぎて、かぐらの里≠ノ着いたのは午後五時だった。
 駐車場を境にして、神楽の衣装を作る工房が目に付いた。
「行ってみない?」
 千秋が指さす。
 金城は石見神楽の町である。町にとって神楽は、欠かすことが出来ないものである。
 秋の季節はもちろんだが、結婚式などの祝いの場でも神楽を舞う。舞いの背景にある大小の太鼓、手拍子や笛の囃子が、更に勇壮さを高める。
 明かりが付けられた工房は、仕事が終わるところだった。ちょっとだけと断って、中に入る。
 衣装を間近で見るのは初めてだった。
 虎などを布やスポンジで浮き彫りの形にした肉持が、色鮮やかな糸で縫い上げられる。渦や波の模様も金銀の糸で刺繍されていた。
 仕事場に吊り下げられている衣装は、溜息が出るほど見事なものだった。手に持つと、二十キロはありそうだ。値段は数十万円もするという。
 県内でも神楽はあちこちにある。しかし、石見神楽は、八調子と呼ばれるリズムの軽快さと、衣装の豪華さで、その独特さを誇っている。
 隣接する工房では、面が作られていた。真っ白い面が、色とりどりのそれに変わる。制作工程を見ていて飽きなかった。
「私の町にも神楽があるのよ。秋に奉納されるわ」
 千秋の家は萩市である。秋になると、山田神楽保存会が、天満宮で神楽舞をするという。
「でも、とても、この衣装なんかには及ばないわね」
 神話に代表されるように、島根の神楽は神代から続いている。まさに悠久の歴史を歩んできた。
 おおまかにいうと、神楽は宮廷の御神楽、民間で演じる里神楽がある。里神楽は、更に出雲流、伊勢流、獅子神楽、巫女神楽などに分けられている。
「そろそろ行く?」
 千秋が促した。

第164回

 フロントの前には、巨大な木の根が衝立のように飾られていた。いかにも山峡の宿のように思えた。ビジネス系のホテルを利用することの多かった亮輔には、和風の雰囲気が何とも言えない。
 千秋は、フロントでチェックインをしていた。宿は自分が段取りをするということだったから、千秋の会社に勤める形の社員とはいえ、口出しはしないでもいいと亮輔は思う。
 建物は、中庭を取り囲むように建っている平屋である。小さな池や築山もあり、箱庭を思わせるような造りである。
 和風の照明も、あちこちに幾つか取り付けられていて、夜になれば別の雰囲気になりそうだった。
「ご案内します。お荷物を……」
 背中で声がした。
 振り返ると、千秋が女の従業員と並んで立っている。
「自分で持ちますから、いいんです」
 一晩のことだから、何も荷物があるわけでもない。アタッシュケース一個だ。
「いえ、お持ちします」
 ことさら断る理由もなかった。荷物を手にした従業員の後から、中庭を左手に見て廊下を歩く。微かに琴の音がする。
 壁面には、宿泊したのだろうか、芸能人、作家などの色紙が幾つか掛けられていた。
「こちらです。どうぞ」
 従業員が手にしたキーで、ドアを開け、千秋が先に部屋へ入る。
「僕の……」
 従業員は、亮輔に(どうぞ……)と言いながらアタッシュケースを手渡した。
 亮輔は、自分の部屋はどこかと聞いたつもりだった。
「何かありましたら、フロントまでお電話ください。ごゆっくり」
 目の前で、ドアが閉じられた。
 廊下のスピーカーから聞こえていた小さな琴の音が消えた。
「いい景色だわ」
 千秋が、縁側の窓のカーテンを勢いよく両手で左右に開けて振り向いた。
「……」
 入口に続いて六畳の部屋があり、その奥に十畳ほどの和室が続いていた。
「どうしたの?」
 千秋の背に、薄暗くなった中国山地の山々が広がっている。 
「一緒に……ですか?」
 そうよ、と千秋が当然のように言った。

第165回

 一緒に、というのは、同じ部屋で千秋と夜を過ごすことでもある。旅館のひと部屋で男と女が一緒に居れば、余程のことがない限り、体の関わりに向かって走り出す。 そうよ、とこともなげに言う千秋は、もちろん承知の上だろう。
 そう考えながら、ふっと七瀬のことを思い出す。千秋に誘われたのだ、自分がそうしたのではないのだと、七瀬に言い訳をしてみる。
「そんなところに、突っ立ってないで、こっちに来てごらんなさい。いい景色だわ」
 言われて我に返った。
 部屋に足を踏み入れてから何秒も過ぎてはいないのに、十分も黙って立っていたように思える。
「いいんですか?」
「何を言ってるの。私は、最初から、そのつもりだったわよ」
 千秋が、体を回した。薄暗くなった外の風景に紛れ、千秋の表情が定かではない。
 覚悟を決めるというほどのことではないが、千秋がそう言うのなら、成り行きにまかせようと亮輔は思う。
「いいものを持って来たわ」
 窓際から離れた千秋が、紙袋に入った小さな包みを取り出した。
「グラスを二つね」
 言いながら、紙包みを剥ぐ。小振りの酒瓶だった。
 アタッシュケースを床の間に置き、亮輔は座卓の上にある丸い茶器入れからコップを二つ出す。
「酒を持って来られたんですか」
「いつか、あなたが言ってたでしょう、横田という所のお酒がいいって」
 そうだったかな、と亮輔は考える。記憶がない。横田の酒といえば、夏夫の家に行く時、JR松江駅で買った。そのことを千秋に言ったことがあったのだろう。 
「七冠馬ですか」
「そうよ。何がいいか分からなかったので、ふっと、思い出した名前のお酒を買ってきたのよ」
 千秋の気持ちの中に、自分が居たということかと亮輔は不思議な気がする。
「今から飲むんですか?」
「いいでしょう? もう今日の仕事は終わりだわ」
「仕事……」
「そう。石正美術館を見ることはね」
 たとえ小さい喫茶店の壁面であっても、少しでも洒落た感じにしたいと言う。

第166回

 自分のために力を入れている千秋のことを思うと、亮輔は絵が、そういうところで売れるのかと不安にもなる。
「じゃあ、乾杯ね」
 何に? と言いかけた亮輔は黙った。亮輔の絵の話なのか、それとも今夜のことか。
 千秋が注いだのは、白い濁り酒である。原酒に近いような気もする。
 仁多郡横田は、中国山地の奥深い位置にある。酒造りは十一月から三月にかけての冬だから、季節的にもよいのだろう。水はおそらく斐伊川源流に近い伏流水のはずだ。美味いはずである。
 八岐大蛇の神話が残る、たたらの里である。名前を聞いただけでも、酒の味が極上のように思える。
「おいしいわ」
 千秋が一気に飲み干した。いくら小さいグラスとはいえ、大丈夫だろうか。
 亮輔の思いを見越したかのように、千秋が笑った。
「飲めるのよ。私」
「強いんですね」
 女とはいえ、事業家である。いろいろな付き合いもあるだろう。飲めない方がおかしい。亮輔もつられて、二杯のグラスを空にした。
「どうして僕と……」
「気になるの?」
 千秋とそうなる前に、確かめておきたい。不安定なままでは、先に進めない。
「去年の夏、あなたを初めて見た時、体が固くなったわ」
 それは、どういうことかと思いながら、亮輔は千秋の顔を見詰めた。。
「体中の血が、あなたの方に流れて行くような気がしたの」
 千秋が(こんなふうに描いてもらいたい)と言い、顔を赤らめたことを思い出した。
「だから、あなたの前なら裸になってもいいと思った」
「モデルとして?」
 違うというように、千秋が軽く顔を三度ばかり振った。
「そればかりじゃなかったわ。そうね、女として……と言えばいいのか」
 床の間の天井に付けられた照明だけの部屋は、暗くなり始めていた。
「少し注いでくれる?」
 亮輔は黙って、空になっている千秋のグラスに酒を入れる。
「だから、ここへ来たの」
 床脇に置かれた電話が鳴った。

第167回

 千秋が体を回し、受話器を取る。
「はい、夕食の時間?……」
 フロントからの電話らしかった。
「そうね。今からお風呂に入るから、一時間後にしてもらえます?」
 そう言われれば、風呂がまだであった。 ありがとう、と言いながら千秋が電話を切った。
「夕食の時間を聞いてきたわ」
「食堂……なんですか?」
「いいえ、別の部屋に用意するって。あなた、先にお風呂に入ったらどう?」
 部屋には風呂が付いている。
「社長の後で……」
 二人で宿に泊まる。男が女を社長と呼ぶ。いかにも不似合いだった。
「社長……ね。千秋と呼んで」
 名前を呼び捨てにしたことは、これまでに一度もない。
「しかし……」
「いいわよ。でも、会社では駄目。その時は社長でいいけど、今夜は千秋」
「……」
 そう言われたからといって、すぐさま名前を呼ぶわけにはいかない。
「さあ、早く入ってらっしゃい」
 立ち上がった亮輔の前に、千秋が来て背広の襟に両手を掛けた。
「そんな……ことまで」
 思わず亮輔は、千秋の手を掴んだ。引かれた形になった千秋が、亮輔の胸に倒れ込む。微かに酒の匂いがした。
「社長……」
「駄目。千秋って言って」
 顔を上げた千秋の唇が、ひどく赤い色に見えた。深い紅色にどうにもならない欲望を覚えた亮輔は、一気に抱きしめる。
 千秋は目を閉じていた。
「千秋……」
 微かに頷き、顔を右に傾けたのを確かめると、唇を塞いだ。
「く……」
 何かを言いかけたのか、呻くような声を千秋が出し、体を捻った。かまわず亮輔は進む。二度、三度と柔らかな胸が押し付けられて動いた。ふっくらとし、重みがあるように思えた。
 走り出したい欲望が湧き上がった。
「後で……」
 気配を感じたのか、千秋が唇を離し、両手を亮輔の胸に当てて少し押しやる。
「二人で来てよかった」
 千秋が呟いた。

第168回

 既に日は暮れ、中年の女性従業員に案内されて、食事の場所まで歩く廊下には淡い灯りが点いていた。何人かの泊まりではないような客とも擦れ違った。亮輔と千秋は浴衣の上に、半纏を羽織っている。
「泊まる人ばかりじゃないようだわね」
 少し年上に見えるはずの千秋と並んで歩きながら、どんな関係に見えるのだろうかと思った。
「知った人に会ったら、どうします?」
 亮輔は、千秋の顔を覗き込み、前を歩く従業員に聞こえないように言った。
「さあ、どうしよう」
 千秋の顔は笑っている。
「町中のホテルなら分からないけど、こういう山の中に知った人はいないわよ」
「……」
「だから、この宿を選んだの」
 食事が用意されている部屋は、八畳ばかりの小宴会場のようだった。二人には、いささか広すぎる。
 ごゆっくりどうぞ、という言葉を残し、和服の従業員は襖を閉めた。
「飲みましょうか」
「まだ飲むんですか?」
「そうよ。いつか言ったでしょ?」
 確かに、千秋はそう言った。
「日御碕に行った時のことですか」
 あの時の言葉が、こういう形になるとは想像もしていなかった。
「随分前のような気がするわ」
「そうですね」
 さすがに山の中の宿である。山菜料理が並んでいた。ビール一本と、銚子が二本あった。伏せられたコップと盃の二つずつが、何となく艶めかしく見えた。
「やっと落ち着いたわ」
 言いながら千秋がグラスを手にし、亮輔はビールを満たす。すかさず千秋が亮輔にも注ぐ。
「乾杯……ね」
「さっきもしました」
「いいじゃない。素敵な夜と伊折画伯のためによ。あ、それに二人のためにも」
 二人のためか、と亮輔は反すうしてみる。
「画伯じゃないですよ」
「でも、絵を描く人だから画伯よ」
 グラスをかかげ、亮輔は笑った。
「あなたには、いい絵を描いてもらいたいわ。そのためには、私に出来ることは何でもするから」 
 千秋は、かなりの酒を飲んだ。つられて亮輔も盃を空にする。

第169回

 たちまち、二時間が経った。
「よく食べて、よく飲んだわ」
 それが合図だったかのように、食事が終わった。
 部屋に帰ると、二つの蒲団が並べて敷かれていた。
「酔っちゃった」
 千秋が半纏を脱ぎ捨てる。
 蒲団の上に横座りになって、後ろに両手をついた。
 浴衣の裾が割れた。
 亮輔は、どうしようかと迷う。このまま先に進むべきか、それとも暫く時間をおいた方がいいのか。
 男が女に向かう時には、たいていの場合、どうしてもためらう。
 なぜなら、女が素直に受け入れてくれればそれでいいが、もしも逆らうような気配があれば、男の方はやり場のない気持ちの始末に困るのである。
 無理矢理に突き進んでもいいが、それでは後が気まずい。それぎりということにもなりかねない。
 しかし、ここでは千秋に誘われ、宿に来たのだ。
 そのことに亮輔は気が付き、何を考えているのだと苦笑する。
「どうしたのお? こっちに来てよ」
 千秋の声は、気怠い感じだった。
「窓のカーテンを見ます」
「ちゃんとしてあるわよ」
「それでも……」
 障子を開けると、当然だがカーテンは閉められていた。亮輔は少しばかり開けて、外を眺める。
 夜空の中に、中国山地の山々が黒い稜線を見せていた。庭にある背の低い照明灯が、ぼんやりと闇の中に浮かんでいる。
 山も庭も灯りも、全てが夜のしじまの中にあった。
 明日から、千秋とどう向き合っていくことになるだろう。七瀬は、どうするのか。絵のことも何もかも、千秋に頼り切っていいのだろうか。それで間違いはないのか。
 亮輔は、そう思いながら闇を暫く見詰めていた。 
 背中で千秋の細帯を解く音がした。
 振り向くと、千秋は蒲団の中である。障子を後ろ手に閉めた。
 千秋が、右手で蒲団を少し持ち上げていた。亮輔は、その中に滑り込む。
「灯りを暗くして……ね」
 床の間に置かれた二つの面が見ている。

第170回

 宿に入る前に見た工房にも、幾つかのそれがあった。神楽に使う面なのだろう。
 眼窩の奥に人の目と顔があるのではないかと、亮輔はふと思う。男と女が、鬼と天狗の顔に見据えられている。
「明るい……」
 千秋がまた呟く。
「いいじゃない。暗くては見えない」
 亮輔は強気である。両手で千秋を引き寄せた。千秋の体が硬くなっている。
 こうなると男が優位だった。それが言葉にも表れる。それに比べて千秋の声は、弱々しい。夕暮れが来て、いつとはなしに昼と夜が入れ替わるように、男と女も立場を替える。
「でも……」
 仕方なしに亮輔は、灯りを一つ落とした。安心したのか、千秋が体を預けてきた。気のせいか柔らかくなったようだ。
「若くはないのよ。それでもいいの?」
 浴衣の帯は、既に取り去られている。亮輔は黙ったまま、浴衣を開いた。
 仄かな灯りの中に浮かんだ乳房は、ぷっくりと盛り上がり、その二つは程よい均衡を保っていた。乳嘴は二人の子どもを生んだというようには見えず、若い女のように薄茶色をしていた。
 亮輔はそれに唇を寄せて歯を当てた。途端に千秋が、驚いたように体を引く。そうはさせまいと亮輔は千秋の体に両手を回し、更に抱き寄せた。背中には、ほどよい締まりがあった。
「体が硬いでしょう」
「そんなことはない」
「遠慮して言わなくても……。アイスダンスをしてたせいよ」
 若い時にはアイスダンスをしていたのだと言ったことを思い出した。
「だから、張りがあるんだ」
 背中から右腕を抜き、左の耳に指を触れる。千秋が首をすくめるようにした。手を首から肩に這わせる。胸から腹へ、少しずつ下げていく。手が動くたびに、千秋の体がぴくっと動いた。闇の中で、千秋の細い顔が浮かんでいる。亮輔の好きな大きな目は閉じられていた。形のいい鼻に軽く唇を付ける。手は更に腹部の下にいく。下着はなかった。
「早く……」
 千秋が呻くように口を開いた。
 顔を上げると、赤い鼻の天狗の面が睨んでいるように見えた。亮輔は面から目をそらし、千秋の体に覆い被さった。

第171回

 千秋の横で、亮輔はふっと目を開けた。うつ伏せになったまま、暫く眠っていたらしい。枕元の腕時計をたぐり寄せて見ると、午後十一時を少し過ぎていた。
 部屋に帰って来たのは確か九時で、直ぐに千秋を抱いた。その後、一時間ばかり寝込んでいたことになる。
「何時……なの?」 
 千秋のくぐもった声がした。目は閉じられたままである。裸の肩が見えた。亮輔は掛け蒲団を少し持ち上げて肩を隠す。
「起こしたかな? 十一時だ」
「そうなの」
 言葉がぞんざいになっていることに、また気が付いた。あのことを境にして、立場が逆になったようである。だが、そうはいっても、千秋はいわば上司である。男と女、社長と社員、その辺りの色分けは、なかなか難しい。
 千秋が手を伸ばしてきた。亮輔は軽く手を絡めた。
 指の間に、少しばかりの汗が滲んでいる。
 亮輔は千秋に寄り添いながら、七瀬が言ったことを思い出す。好きな人、居ないんですか≠ニ、七瀬が聞いたのだ。
 日御碕へ二人で行った時だった。誰も居ないと亮輔は答えたのだが、隣で横になっている千秋のことはどうなのだと思う。
 こうなったのは、千秋を誘ったからではない。逆なのだ。
 千秋はスポンサーであり、パトロンでもある。だから、千秋の言うことには逆らえないのだと、亮輔は、そう自分に言い聞かせる。
 そんなことを考えながら千秋の横顔を見ていると、もう随分前から一緒に過ごしているような錯覚にとらわれる。
 七瀬との関係が始まったのは、千秋よりも前だった。だが、こうして一つの蒲団に横たわっていると、七瀬が遠い所にいるように思える。
 千秋との交わりを亮輔は思い返す。七瀬とはまるで違っていた。積極的だった。それはそうだろう。七瀬とは二十も年が違う。それなりの経験を積んできたはずだ。それに比べれば、七瀬はいわば人形のようだと思う。
 千秋はまだ目を閉じている。唇が半開きになっている。その顔を見ているうちに、また欲望を覚えた。
 千秋の裸の胸に手を伸ばし、張りのある乳房を掴んだ。
 あっ、と千秋が声を上げた。夜はまだ深い。

第172回

 遠くで、小鳥の声がした。細く目を開けると、障子に白い薄明かりが射している。
 一瞬、どこに居るのだろうと亮輔は思った。頭を上げて見廻す。淡い灯りの中で、千秋と一緒にかぐらの里≠ノ来ていたのだと気付く。
 隣に寝ているはずの千秋の姿はなかった。微かな水音がして、直ぐにやんだ。
 蒲団から体を起こすと、襖が開いて千秋が入ってきた。濃い茶色のラメ入りメッシュセーターを着ている。背中が大きく開き、紐が斜めに走っている。白いワークパンツが、よく似合っていた。セクシーだった。
「おはよう。もう起きてたんだ」
 眩しいものでも見るように、亮輔は目を細めた。
「おはよう」
 千秋が軽く頭を下げる。
「何時になった?」
「八時よ。朝ご飯、九時にしてもらったわ」
「そうかあ……」
「さっき外に出たけど、やっぱり山の中ね。空気が切れるって感じ」
 かなり早くから起きていたのだ。寝顔を見られたということである。思わず、顎に手をやる。亮輔は鬚が濃い方だ。半日で伸びる。ざらりとした感触があった。
 起きがけに、千秋をもう一度抱きたかったが、思惑は外れた。
「早く起きて、仕度……」
「うん」
 言いながら、千秋が蒲団の中に入って来てくれないかと思うが、駄目のようである。千秋が縁側のカーテンを勢いよく左右に開いて窓を開けた。千秋の言ったように、六月にしては冷たい空気が部屋に流れ込む。
「今日は、江津の今井美術館へ行こうかと思ってるわ」
「今井美術館?」
 昨夜の思いとは裏腹に、千秋に今日も先手を取られそうである。
「ええ、ここから一時間もかからずに行ける桜江町ってとこ。さっきフロントで聞いて来たの。建物が洒落てるそうよ」
 美術品よりも、そっちの方に興味があるらしい。不動産を扱っているせいもあるだろう。
「桜江町……。川戸の近くかな?」
「都会と違うから、直ぐに分かるわ」
「そこからは?」
「江川沿いに九号線に出て出雲へ」
 今日は出雲へ帰るのだと、改めて気が付く。亮輔は、勢いを付けて起きあがった。

第173回

 夏夫が亮輔の家に来たのは、あと一日で月が変わるという六月最後の水曜だった。
 本山さんが来られたわという母の言葉で、玄関へ出てみると夏夫が立っていた。
「やあ、久し振り。まあ、上がって」
 突然に来て済まなかったと夏夫が言いながら、一升瓶を出した。
「土産か?」
「そう……李白」
 李白は松江の酒である。中国唐代の詩人で酒仙とも呼ばれる李白の名から付けられた名だ。松江から出た明治政界の巨人、若槻禮次郎が命名したという。
「ちょうどよかった。今日は出雲の事務所に行ってたが、さっき帰ったところで」
 携帯の時計を見ると、午後四時だった。
「その話も聞きたいし、ともかく一杯飲もうと思ってな」
「わざわざ?」
「いや、松江の支社で会議があって、もう終わったからどうということはない」
 亮輔は母を呼び、客間で庭を眺めながら三人で暫く話をした。いつものことで、亮輔達が高校生だった頃の思い出話である。
 高校の頃、夏夫は亮輔の家に下宿の形で来ていたが、両親の目を盗み、二人で酒を飲んだこともある。
「ところで、七瀬君の絵を描いてるって話だったが、見せてくれるか?」
 夏夫は座敷よりも、亮輔のアトリエに行きたいという素振りを見せた。
 亮輔もその方が好都合だった。母屋から離れた場所で飲めば、気兼ねがいらない。
 アトリエは乱雑だった。というよりも、仕事場はそういうものだと亮輔は思っている。俗に、足の踏み場もないと言うが、絵具や描きかけの素描が散らばっていた。
「ふーん。なかなかいいじゃないか……」
 七瀬のヌードを描いた絵が、イーゼルに架かっている。亮輔が酒の燗をする間、夏夫は暫く食い入るように見ていた。
「とりあえず……」
 亮輔は言いながら、冷蔵庫からビールを取り出す。夏の声を聞くと、最初は冷たいものの方がいい。
 二杯ばかりで、コップ酒に替わる。
「ところで、七瀬君は綺麗になったなあ」
「あの絵か?」
 亮輔は、七瀬の裸婦画に目を向けた。
「違う。絵じゃなくて本人がな」
「何で?」
「何でって……聞きたいのはこっちだ」
 亮輔は言われて、ぎくりとする。

第174回

 七瀬とのことを知っているのではないだろうが、(こっちが聞きたい)と言われれば見透かされているような気になる。ましてや、この間から千秋ともそうなったのだ。
 夏夫の顔を見ていると、いずれにしても後ろめたい気持ちになる。
「絵のモデルをすると、美人になるかもしれないな」
 絵のモデルになって綺麗になるなら、簡単な話だ。
「それはないだろう」
 言いながら亮輔は思い出す。
 雪の日だった。七瀬を描いた時、首を傾げて話した顔を見て、彫りが深くなったような気がしたのだ。以後、何度も描いているが、いつもそう思う。誰でも好きな女に暫く振りに会えば、新鮮な感じを持つとは思うのだが、それにしても夏夫も七瀬の変化に気付いているなら間違いないだろう。「お前、七瀬君が好きなんじゃないのか?」 またもや亮輔は、図星を指されたような気になる。
「そりゃあ、絵のモデルとしてはな」
「そういう意味じゃない。女としてということだ」 
 米子の夏夫の家で、明子もそんなことを言ったはずだ。
 七瀬を好きになった。描いているうちに気持ちが高まった。着衣の時もだが、裸を見ていると思いは更につのる。そのうち、七瀬の変わってきたことに気付いた。だが、それが何であるのか、分からない。
 東洋自動車販売の社長の美郷と七瀬の三人で飲んだことがある。あの頃から少しずつ七瀬の素振りが変化したような気もしないではない。
「七瀬君、車を替えたよな。元社員のお前の斡旋か?」
 夏夫は自分でコップに酒を注いでいる。
「いや、違う……」
「ということは、あの会社の受付をやってるって聞いてるから、その関係か」
 違うのだ、と言いかけて、社長の美郷が七瀬の前に現れてから変わったのだと亮輔は気付く。
 違うのだと言ったが、夏夫の言葉通りである。 
 不意に酒が、体の中を回り始めた。
 七瀬が車を買い替えると言った時、社長ではなくて、自分に相談してほしかったと亮輔は言い、七瀬は困惑の表情を見せた。
 それ以後、車の話はしなかったが、初めて七瀬との間に気まずさを感じた。

第175回

 それにしても、と夏夫は言った。
「車を買い替える費用がよくあったな」
 亮輔もそう思う。オーストラリアに留学するために裸のモデルをして費用を捻出しようというのに、まだ乗れるはずの車を替えるのは行き過ぎではないか。
 夏夫と話していると、しだいに思いが別の方向に行きそうである。
「中古だから、何とかなったんだろう」
「そうかもしれないが、監督っていうか、親代わりなんで、気になるんだ」
「まあ、たかだか車の話だからな」
 亮輔は七瀬を弁護しようとする。
「そう言えばそうだ」
 この頃の若い者は分からないね、という話になって一段落した。
「ところで、紗納さんの会社のことはどうなのだ?」
 夏夫は、やはり七瀬や千秋のことが聞きたくて来たのだ。
「自動車関係の営業をやっていたことから考えると天国だな」
「天国?」
 千秋と知り合い、三隅町から金城町までたった二日だが旅をした。思ってもみなかったことだった。それも言えない。
「そりゃ少し大袈裟だが、絵を自由に描かせてもらえるし、生活の保障もあるわけで、これ以上のことはない」
「生活の保障……、まあ、そうだな」
 夏夫が繰り返しながら、亮輔を見た。
「ああ、いつか言ったように、前と同じくらいは貰ってるから」
「パトロンってわけだ」
 金城の宿に泊まった時、経費を負担してもらっているから、千秋の言うことには逆らえないのだと思った。
「まあな……」
「なる程。ただ、問題は、お前の絵が本当に売れるようになるかどうかだ」
 夏夫に言われるまでもなく、大事なことはそのことなのである。展覧会をすれば、多少は売れる。とはいうが、展覧会は、年に何度も出来るものではない。
「だから、ギャラリーのようなものを作るっていう話になっている」
「それは、いつだったか電話で聞いた。喫茶店の壁面がどうとかという話」
「そうなんだ」
「ギャラリーとまではいかないが、でもなあ、お前にしては出世って訳だ」
 勤めながら、描く時間を生み出すために足掻いていた時期を思い出す。

第176回

 あの頃からすれば格段の自由がある。恵まれていると言えばそうだった。夏夫は出世だと言うが、絵が認められたわけではない。千秋がそうしているだけだ。
「ところで、お前、紗納さんとはどうなのだ。まさかな……」
「まさかとは、何だ」
 酒が進み、お互いにからむようなやりとりになり始めた。
 昔からである。高校からの付き合いだから、言いたい放題だった。二人ともそれを承知の上である。
「去年の夏、松江現代美術館で、お前の展覧会の時、紗納さんに初めて会ったろう」
「それがどうした」
「あの夜、松江の伊勢宮でお前と飲んだ」
 そうなのだ。あの時から全てが始まったのだ。亮輔は思い出す。
「……」
「俺は覚えているが、紗納さんに気があるんじゃないのかと聞いたはずだ」 
「それで?」
「お前の話を聞いてると、七瀬君のことにしても、その紗納さんもそうだが、お前にかなり関わってる。違うか?」
「……」
「七瀬君はモデル、紗納さんは、お前の生活を左右するほどにだ」
 夏夫に言われるまでもなかった。間違いはない。かなりどころではない。千秋の援助を頼りに自動車販売の会社を辞めた。男の一生にとって、相当な大事件のはずであった。
 七瀬も同じだ。絵に専念するために、裸のモデルになってくれた。
 七瀬の場合は、留学の資金が欲しいということだが、それを超え、亮輔は七瀬と男と女の関係になった。
 男と女が出会い、お互いに好ましいと思った。それが何かの拍子に深まるのは当然のことである。夏夫は何も言わないが、二人の女との間に何かあるのではないかと思っているらしい。しかし、夏夫ははっきりと掴んではいないはずである。千秋のことはともかく、七瀬が自分で言わない限り、夏夫の耳に入ることはない。
「大袈裟なことを言うなよ。お前の悪い癖だぜ」 
 亮輔のその言葉に、夏夫は笑った。
「まあな、誰も大人だからな」
 酒を追加するよと亮輔は言い、話に区切りを付けた。後は世間話になり、夏夫が帰ったのは、午後の十時だった。

第177回

 風呂に入っていると、アルコールが抜けていくようだった。
 かなり飲んだ。夏夫と一緒に飲む時は、どうしても過ごしてしまう。何を言っても遠慮のない仲だからだ。
 少し酔った頭の中で、千秋と七瀬の顔が交錯する。
 顔ばかりではない。それぞれに過ごした夜が浮かぶ。
 七瀬との最初は、夏の夜、松江のロイヤルホテルだった。
 千秋と一緒に、金城町の旅館に泊まった。
 その後も、七瀬と続いている。
 一体、どちらが好きなのかだろうかと考え出すと分からなくなる。ある時は七瀬であり、ふとその翌日に千秋と他愛のない話をしたりして楽しんでいる。
 七瀬とは画家とモデルの関係から始まった。長い間、描いていると、モデルとしての七瀬は亮輔の好みを巧みに見抜くようになった。ポーズにしても、こうしてくれと言う前に、七瀬は自分から亮輔の思い通りの体の動きを見せる。
 描くということから言えば、七瀬はいろいろな意味で自由にできる大事なモデルである。
 一年前に比べると、七瀬は女として成長したように思える。
 並んで外を歩いていると、時として同年代の男が擦れ違いざま、気のせいかもしれないが、物欲しげな目付きで振り返る。
 それはともかく、七瀬との最初の約束、つまりモデル代がオーストラリアへの留学費用の少しでも足しになればということだったから、何とか少しでも助けてやれればと思っている。
 自動車販売の仕事に携わっていた時には、かなり無理をして七瀬に渡したモデル代だった。
 このところ、それが楽になった。千秋の会社から仕事の量には似合わないほどの経費を貰うからだ。
 七瀬のことに比べると、千秋の方は全く逆で、社員ということだから、生活の面倒をみてもらっていることになる。その点からも、千秋を大事にしたいと思っていることは間違いない。絵を描くことにしても何でもだが、可能な限り千秋を悦ばせたい。
 ところが、七瀬と話や食事をし、また、絵を描いている時に、七瀬がぼんやりしていたりすると、どうしたのだろうかと気になる。困った顔をしていると、(大丈夫なのか?)と問い掛けたくもなる。

第178回

 亮輔の思いは、いつも二人の女の間を行き来している。こんなことは、これまでになかった。
 妙な言い方だが、男としては恵まれているということかと不遜な考えが浮かび、慌てて打ち消す。
 振り払おうとしても、酒のせいか、また考えは二人のことに戻る。
 それにしても、どちらも大事だというのは、いかにも自己中心的であり、我が儘でもある。
 同時に、二人の女と付き合っているのは、あまりに欲が深い。
 いや、待てと、もう一人の自分が問い掛ける。わざとではないだろう? いつの間にか、そうなったのだと、別の亮輔が自己弁護し始める。
 ともあれ、いずれかが駄目になっても、差し支えのないように、二股を掛けていると言っても間違いはないだろう。もちろん、自分でそう意識している訳でもないが、両天秤にかけているということになるのか。
 だから、七瀬か千秋か、そのどちらかにしなければいけないと思いながら、亮輔には、それが出来ない。
 なぜなら、七瀬も千秋も、いずれも自分にとって、それぞれに違う必要なものを持っているからだ。
 飲んでいる時に、(七瀬君も、紗納さんも、お前にかなり関わってる。七瀬君はモデル、紗納さんは、お前の生活を左右するほどにだ……。違うか?)と、夏夫が亮輔の顔を覗き込みながら言った。
 亮輔は、それを思い出す。
 どちらかが別れようと言い出せばだが、七瀬に別れようとは言えないように、千秋にも、そんなことは話せない。
 もし、別れようと言われたら、怒り狂うのではないか。
 困ったものだと、亮輔は思案する。
 七瀬と千秋の立場になったとしたら、どうだろう。考えるまでもなく、修羅場である。怒り狂うという前に、まず呆れられてしまうだろう。
 ともあれ、七瀬と千秋は、お互いの存在を深くは知らないはずである。亮輔が言わない限り分からない。
 敢えて知らせることはないし、例えば夏夫にも言うべきことではない。
 これもまた身勝手な考え方だと、亮輔は情け無くなる。
 いつまで経っても、上がることのない双六のようなものだと呟き、風呂を出た。

第179回

 七瀬が定期的に亮輔のアトリエに来るのは、月曜と金曜である。午前十時頃に来て、午後三時まで居る。昼食をはさんで七瀬を描く。
 月が変わり七月になった。亮輔は、朝から落ち着かない。三日前に、金城から千秋と帰ったばかりだからだ。七瀬が来る日である。
 テレビの天気予報は、雨の天気図を出していた。梅雨も後半に入っているとはいうが、朝から雨が降っている。そのせいもあるのか、気持ちがすっきりしない。
 窓の下で車のエンジン音がし、直ぐに止まった。
 階段を上がる微かな足音がした。
「おはようございます」
 声と一緒にドアが開く。
「コーヒー飲むか?」
 いつも絵を描く前には、コーヒーを飲みながら少しばかり雑談をする。
「いえ、いいです」
 ソファに座ってぼんやりと外を眺めている。車から降りた時に傘を差さなかったのか、髪が僅かに濡れている。
「頭……拭いたら?」
 亮輔はタオルを七瀬に渡した。
「さっき、よく降ってたわ。気が滅入りそうだなあ」
 雨の日は光が弱い。七瀬ではないが、こういう日は、あまり描く気がしないのだ。
「この間の火曜と水曜、留守だったの?」 亮輔は、火曜日と聞いて胸の奥で小さな波が立ったような気がした。
「火曜と水曜……か?」
「私、用事があって、近くまで来たんです。寄ってみようと思って……。でも車がなかったから」
 その日は、千秋と石正美術館に行ったのである。
「携帯に電話したんだけど、亮輔さん、出なかった」
 思わず唾を飲み込んだ。携帯は、あの二日間、電源を切っていたのだ。そうすることで、気がとがめることから少しは逃げられると思ったからだ。
「電池切れだったかも」
 下手な嘘だと思った。
「今まで電話に出なかったことって、なかったような気がする……」
「そうだったかな?」
「忙しかったのね」
 七瀬が表情のない顔で言う。亮輔は、背中を向けてキャンバスを出した。

第180回

 携帯に出なかったのは、たいしたことではないのだと、言いたかったが、そうは口に出せない。
「私……。今日は帰ります」
 不意に七瀬の声がした。亮輔は一瞬、動きを止める。
「どうして?」
 一度来て帰ると言ったのは、初めてである。もちろん、体調のよくない日は七瀬から連絡がきて中止したことは幾度かあった。それにしても、来て直ぐに帰るというのは、いかにも唐突である。
「どうしてって、なんか乗り気じゃないの」
 亮輔は七瀬の方に向き直った。虚ろな感じの目をしていた。
 モデルとしての気が乗らないと、七瀬が言うのも分かる。
 描き手の言うがままに、ただポーズをとっていればいいというものではない。ましてや、亮輔は七瀬ひとりをモデルとして描いている。その期間もかなり長くなった。
 当然のことだが、七瀬との間に、キャンバスを通した暗黙の気持ちの繋がりがあるのだ。
「何かあったのか?」
「ううん、別になんも」
 立て掛けたキャンバスを亮輔は睨んだ。
 帰ると聞いてしまったら、描く気が失せた。いまさら引き留めても、気分よく描けはしない。
「じゃあ、今日は止めよう」
 亮輔は七瀬の隣に座った。
左手で七瀬の肩を抱き、顔を引き寄せた。目を閉じた七瀬が亮輔の肩に顔を乗せる。
 唇に軽く触れ、ブラウスのボタンを上から一つずつ外していく。ピンクのブラジャーが現れた。
 亮輔はそれを下から持ち上げ、乳房を剥き出しにした。
 ふっと、僅かな香りがした。いつもの七瀬のそれではないような気がした。
「あっ……」
 七瀬が驚いたような声を出した。
「今日は……駄目」
 亮輔の胸を両手で押し戻しながら、はだけられたブラウスを両手で包むようにした。また匂いが立ち上がった。煙草の匂いだった。
「七瀬……」
 七瀬が顔をそむけた。
「煙草……吸ったのか?」
 暫く忘れていたが、その香りは美郷が吸っている煙草の匂いのように思えた。

第181回

 東洋自動車販売に勤めていた頃、煙草を吸わない亮輔にとって、ヘビースモーカーという評判のある美郷社長が手にする煙草を見るのは苦手だった。 
 煙草の匂いというのは、吸っている本人には分からないのだろうが、嫌いな者にとって、かなり強いものである。衣類に染み込むかと思うほどだ。
 体の調子が悪い時などは、吐き気がするくらいである。だから、その分、煙草の匂いには敏感ということになる。
「煙草を吸うようになったのか?」
 亮輔はまた聞く。
「いいえ。吸ってない」
 七瀬は顔をそむけたままである。
 両手で七瀬の顔を掴み、唇を押し付けた。「いや……」
 嫌だと繰り返す七瀬の声は、口の中に消えた。
 ソファの上に押し倒し、着ているものを剥ぎ取るように取り去っていく。
 脱がされまいと七瀬は抵抗した。いつもの七瀬とは違っていた。
「今日は駄目だって」
 亮輔は、黙って七瀬を眺めた。
「どうしたのだ」
 殆ど裸に近くなった七瀬は、諦めたのか亮輔の前に体を曝している。
「どうってことないの」
 投げやりのような言い方だった。
「いいわよ。来ても……」
 七瀬が亮輔の方に向き直った。
「でも、ここでは嫌よ」
 立ち上がると、落ちているブラウスや上着をかき集めた。そのまま胸に抱えて、七瀬はアトリエに続く寝室のドアを開いた。
 カーテンを引いたままの部屋は、雨のせいもあって薄暗い。七瀬の背中が、よけいに白く見える。
 亮輔は七瀬を抱いたまま、少しずつ部屋の奥に押し込む。
 ベッドの所まで来て、掛け布団をめくり、思わず七瀬を突き倒した。今日は駄目と、七瀬が言ったことへの仕返しのつもりになっていた。
「どうして? そんな……」
 七瀬が恨むような目をして呟いた。
 途端に亮輔は悔やむ。だが、その思いとは裏腹に、亮輔は突き進んでいた。そうしなければいけないような気がした。
 やめて、やめてよ、と何度も言う七瀬の声を遠くに聞きながら、亮輔は抗う体を抱きしめ往き果てる。

第182回

 どれくらい眠ったのだろうか。亮輔が目を開けると、隣りで七瀬が軽い寝息を立てている。亮輔が体を少し動かしたのにも気が付いていない。まだ眠りの中にいるようだった。
 亮輔は、七瀬が来た時からのことをなぞってみる。
 いつもとは違っていた。元気がないように見えたし、ふさぎ込んでいるとも思えた。
 携帯に電話を掛けたのに、出てくれなかったと詰り、今日はこのまま帰ると言い出した。
 携帯のことはともかく、帰ると言ったのは、なぜだろう。まさか千秋と旅行したことを知っているわけではないだろうが、携帯の電源が切られていたことを不審に思ってのことかもしれない。いや、そんなことはよくあることで、ことさらとがめ立てすることでもないだろう。
 亮輔は千秋とのことは棚に上げ、七瀬は何を考え何をしているのだと、責めたい気持ちになる。
 そんな気持ちが、七瀬を苛めるような形になった。
 とつおいつしていると、七瀬が軽く呻いて目を明けた。
「眠ってた?」
 掛け布団を顎まで引き上げながら、七瀬が呟く。
「ああ……」
「どれくらい?」
 亮輔は枕元の時計を見た。ちょうど昼になっていた。
「十二時。昼を食べに行くか?」
「そうね」
 そのまま暫く七瀬は黙っている。
「でも、悪いけど、やっぱり今日は帰らせてもらいます」
 七瀬は起き上がると、散らかった衣類を拾い集め、手早く身に着けた。
「帰るのか……」
「ごめんなさい」
「……」
 七瀬を抱いたことが、理由を聞く気持ちを失わせていた。男というものは単純である。それだけのことで安心してしまう。 
 ベッドの端に腰掛けた七瀬が、口紅をスティックで付けている。唇の端を少し横に広げるようにして、口の端から中の方に向かって滑らせる。付け終わり、上と下の唇を合わせて口紅を馴染ませた。
「じゃあ……」
 掌を亮輔に向け、胸の前で振った。

第183回

 七瀬が帰ってしまうと、午後のアトリエは雨のせいもあって陰鬱だった。午前中に飲み損ねたコーヒーをいれる。
 もの書きの書斎もそうだろうが、アトリエもいろいろな道具が散乱している。七瀬を描き始めてから半年が過ぎていた。デッサンはもちろんだが、幾つかの作品も出来ている。
 亮輔は部屋を少し片付けようと思った。整理をすれば、多少は気が紛れるかもしれない。もちろん、こんな日は、それも七瀬というモデルが帰ってしまったのでは描く気が失せる。
 七瀬の裸の絵が何枚かある。並べて見ているうちに、ポーズをとっている七瀬が頭に浮かぶ。更に、ベッドで体をさらけ出しているのを思い出す。
 帰ります、と言った七瀬の言葉を呟いてみる。あれからどこに行ったのだろう。夕方からは、たいてい東洋自動車販売でアルバイトの受付をしているはずだが、それまでの時間をどうしたのだろう。いちいち七瀬が何をしているのかを想像してみても始まらないが、それにしても、七瀬の胸から立ち上った煙草らしい匂いは何なのか。
 七瀬の行動が気になる。こんな時には、千秋のことを忘れている。
 電話の着信音がした。
「私……紗納です」
 亮輔の気持ちを読んだような電話だった。七瀬のことを考えていた亮輔は、千秋との時間に思いを引き戻された。
「七月になったけれど、そろそろ絵を選ばなくてはいけませんから」
 千秋との約束は、とりあえず十枚ばかりの絵を描くことであった。宍道湖を中心にした出雲の風景画である。それだけは千秋からの注文で、後は自由に描いていいのだと言われていた。
「そうですね。喫茶店もあらかた出来たことですし」
 仕事の話になると、亮輔も丁寧な言い方になる。
「そうなの。どの絵をどの辺りに掛けるとか……」
「それじゃ、来週のところで」
 定期的には水曜に行くことになっている。だが、早い方がいいかもしれないと亮輔は考える。
「そうね。そうしてください」
 千秋の話では、七月の中旬には工事業者から引き渡すということだった。いよいよオープンかと亮輔は心が躍る。

第184回

 画廊とは言えないかもしれないが、それでも自分の絵を並べる場所が確保できるのである。
 喫茶店の壁面ではあるが、やりようによっては、ちょっとしたギャラリーになるはずである。
 もともと喫茶店が主ではないと、いつか千秋も言っていたことがある。
「何枚か絵を持って来てくださる?」
「十五枚ばかりでも」
「風景ですよね」
 言われて亮輔は、あっと思う。確かに十枚程は風景画である。ほかの数枚は七瀬が風景の中に居る。
 宍道湖や出雲平野の中に七瀬を点景にしてちらりとあしらいたいと思い、そんな絵も描いていた。
 ただし、それは千秋と金城の宿で夜を過ごす前までの話である。 
 千秋は依頼主であり、経営者でもあった。だが、今はその上に男と女という立場が加わった。
 いくら何でも、千秋の経営するマンションに七瀬を入れた絵を掛ける訳にはいかない。黙って掛けたとしても、千秋には自分の気持ちは分かりはしないだろう。しかし、それでは気持ちが納まらない。
「じゃ、来週になったら出雲に来る日を連絡してください」
 電話は切れた。
 亮輔は七瀬を描いた絵を並べた。
 最初の頃と最近のものでは、七瀬の雰囲気が違う。今年の初めに描いたものは、七瀬がいかにも子どもらしく見える。数日前に描き上げたものは、着衣のデッサンにしても油彩もそうだが、体の線が丸みを帯びたオンナという感じだ。
 自分の描いたものを良い方に評価しているような気になり、誰も居ないアトリエなのに面映ゆい。
 それにしても、いつから七瀬の絵が変化したのだろうか。描き手の問題もあるだろうが、そればかりではないはずだ。
 正確にモデルを写し取ろうとすれば、大袈裟な言い方かもしれないが、変貌をとらえることは可能ではないか。
 ともかく、七瀬を描いたものは千秋のところに持って行くことは出来ない。
 三枚ばかりの風景を追加しなければいけないと亮輔は思い、キャンバスを取りだした。描きかけのものもある。
 来週の水曜までに、仕上げることは出来るはずだ。

第185回

 夏の宍道湖は、白く小さな波頭を光らせていた。平日のせいなのか、湖で遊ぶ若者の姿はなかった。週末になれば、ウインドサーフィンが鮮やかな原色を湖面に見せるはずである。
 朝の九号線は、松江市街を抜けても混んでいた。特に玉湯町の交差点までがひどいのだが、毎週のように通うと、気のせいか距離を短いと感じる。特に、千秋と会う日は、余計にそうであった。
 千秋が経営する不動産業の本社は萩市にあり、津和野には支社がある。出雲にはウイークリーマンションと一緒に事務所を開設した。社長の千秋は少なくともこの三つの場所で仕事をすることになる。
 亮輔が、出雲に着いたのは午前十時前だった。事務所では千秋が書類を見ていた。
「あら、おはよ。早かったのね」
 社員が誰も居ない時間帯だった。千秋の言い方も少しくだけている。
「今日はずっと出雲なんですね?」
「ええ、明日の朝は津和野に行くわ」
 萩の本社、津和野の支社と出雲に、それぞれ十日ばかりを割り振っていた。
「マンションで使う絵を持って来たんだけれども、どうします?」
「そうね。見せて……」
 亮輔は、十五枚の絵を一枚ずつ千秋に見せた。松江に住んでいるせいか、気に入っているのは宍道湖を描いた幾枚かである。「やっぱり出雲っていうと宍道湖なんでしょうね」
「そうでもないんじゃないかな。松江の人は何かと言えば宍道湖だけれども、出雲平野という言葉からの連想は築地松かな」
 三月二十二日、平田市と大社、佐田、多伎、湖陵の町、二市四町が新設合併して新しい出雲市が生まれた。人口は、十四万九千である。同じように合併した松江に続いて県内では二番目の人口規模になった。
 地形的に松江市は、宍道湖を抱えたようになってしまった。出雲市は、平田の辺りが湖に接しているだけだ。
「そうかもしれないわ。でも、あなたには、これからいろいろ描いてもらうから……」
 ほかに持って来たのは、出雲平野に築地松、十六島と日御碕などだった。
 頼まれたのは、湖の風景である。
「どれも好きだわ。宍道湖の夕陽が特に」
 千秋が指差した絵は、亮輔も気に入っていた。 
「マンションに行ってみましょう」
 千秋に促されて事務所を出た。

第186回

 事務所の裏がマンションになっている。小さなホテルのような雰囲気に仕上がっていた。
 何人かの清掃会社の社員が、ガラスやドアを磨いていた。
「完成ですね」
 亮輔はマンションがそうだという意味で言ったのだが、むしろ新しい自分の仕事の場が出来たというつもりでもあった。
「ええ……。あちこちで、こういうものを建ててきたけれども、ここは特別のように思えるわ」
「どうして?」
「絵を並べるとか、喫茶店を付けるなんてことは、これまでしたことがないからよ」
 計画では、マンションの中に喫茶店をというように考えていた。だが、セキュリティーの問題があって、結局は隣り合わせにということになったのだ。
 喫茶店の名前はカフェ・ロワール≠ナある。マンションもそうだが、店の名前も千秋と一緒に考えて決めたのだ。
 フランス文学に興味があるという千秋のちょっとした思い付きだった。亮輔の方はフランスでの絵の展覧会に出したことがあるので、ロワールという言葉に親しみを持った。それだけのことだが、何度か店の名前を口に出して言ってみると、語呂もいい。
 カフェ・ロワールもこぢんまりとした良い感じの店に仕上がっていた。
「この店の壁をメインにして、亮輔さんの絵を飾ろうと思うけど……」
「メイン?」 
「ええ、マンションのロビーには、号の少し大きい宍道湖の絵を掛けておきたいの」
「いいじゃないかな……」
 小さいマンションにしては、ロビーが広いぶん、壁面は大きく見える。そこに六号くらいの絵では似合わない。亮輔はそう思った。百号とまではいかないにしても、それなりの大きさが必要だろう。
 喫茶店の壁面には、六号から八号くらいの絵を掛け、価格を表示しておく。もちろん、外商もして絵を売ることを進めていくと千秋は言うのである。 
「アトリエ……見る?」
 おおよその配置決めをした後で、千秋がそう言った。施行の途中で何度か見たのだが、完成してからは初めてである。
「ええ、ぜひ」
 松江の家と出雲に、二つのアトリエを持つことが出来る。夢ではないかと、千秋に知られないよう頬をつねってみる。

第187回

 敷地を広く取っていないマンションは、鉛筆のように細長く、空に突き出たように見えた。
 アトリエは、最上階の六階にある。南には中国山脈の一部が眺められ、眺望はよかったが、千秋が言ったように、アトリエは確かに狭い。松江のそれに比べれば三分の二くらいではないかと、亮輔は目で測ってみた。
 だが、それにしても贅沢といえばそうであった。いくら狭くても二箇所に持っている者は多くないはずである。
「どう?」
 聞かれても、とっさに言うことはない。
「いつか言ったことがあるんだけど、大きい作品を作るっていうのは無理だわね」
「それはいいんだけれども。でも、よく出来ている」
「そう言ってくれれば嬉しい」
 サブのアトリエである。もともとマンションだから、大型の作品の搬入や持ち出しは無理ということは承知の上だった。
 画材や作品の保管スペースのために、壁面の一部に可動式の棚が作られていた。床や壁も汚れやすいことに配慮した材料が使われていた。よく見ると、木片を圧縮した特殊な材料のようである。
 設計の時に亮輔は多少の希望を千秋に言ったのだが、まかせてくれということだったので、詳しいことは聞いていなかった。
 驚かせるつもりだったかもしれない。
「部屋も作ったわ」
「誰の?」
「あなたのよ」
 聞いていなかった。
「だって、出雲で泊まる時に、いちいちホテルを取るというのも無駄よ」
 それはそうだが、いつもという訳でもないはずだ。月に二回や三回ならば、最近は四千円くらいで宿泊できるビジネスホテルが幾つもある。 
 それにしても、千秋が言うように、そういう部屋を持てば便利だった。
「そこまで考えて?」
「もちろん、そうだわ」
 アトリエ入口横の白い壁に同色の引き戸があり、開けると十畳の1DKだった。
「ベッドはダブルにしておいたのよ」
「どうして」
 亮輔は半ば呆れ、後ろに立っている千秋をふり返った。
「時々、私も使うから……ね」
 深い溜息を亮輔はつく。

第188回

 私も使うとは、どういうことなのか。千秋は、萩市や津和野から出雲へと何度も往復しているから、ホテル代わりということにすれば気楽だろう。
「それにしても、この部屋はまるで……」
「分かったの?」
「……」
「私達の部屋にするのよ」
 千秋はベッドの端に腰掛け、首を少し傾げて言った。
「二人の?」
「気になるなら、私の部屋っていうことにしておいていいの」
 見回すと、必要な調度品が揃っていた。大型の液晶テレビが置かれ、食卓には淡いブルーのクロス、ベッドには真新しいカバーが掛けられている。
 亮輔は、また大きな溜息をつく。
「だから、この部屋は独立したような形にしたのよ。そのためにね、廊下に繋がってる出入口もあるから」
「アトリエからの出入りは……」
「だから、絵を描いてて、疲れたら休むっていうことも出来るでしょう」
「……」
「不満なの?」
「まさか、そんなこと」 
 去年の夏、初めて千秋に出会った。それから一年にも満たない。
 自動車販売の会社に勤めていたことが、全て遠い日であったような気がする。
 亮輔は、あまりの変わりように我ながら驚く。窓から見える夏の街並が、暑い陽射しを浴びて眩しい。
「本当に僕が使っていいのかな。この部屋もアトリエも」
「遠慮しないで。その代わり、仕事をしてもらいますからね」
 千秋が悪戯っぽい目をして笑った。
「使えるのはいつから?」
「今日から。まだ手入れをしないといけないところがあるらしいけど、それは部屋の中には関係ないことだから」
 入居申し込みも既に数件入っていると千秋は言う。出雲市で発行されているフリーペーパーに広告を出したら、直ぐに問い合わせがあり、出足は好調ということらしい。
「今夜は、あなたとお祝いに飲みたいんだけど、特別の予定はないんでしょう?」
 言われるまでもなく、何もない。何かあったとしても、千秋の言うことなら逆らえないのではないか。
 不意に千秋を描いてみたいと思った。

第189回

 二人でゆっくり飲むのは、金城町の宿以来である。
 千秋が誘ったのは、出雲市駅前から少し東寄りにある飛天≠ニいう料亭だった。
 住宅街の中にあるその店は、明治末期に建てられた民家を利用したもので、古い佇まいをみせていた。門を覆うように枝振りのよい松が植えられている。松は待つに通じるとはよく言われることで、和歌や物語などでも大切な人を待つときの掛け詞として使われてきた。門松もそうだが、玄関の松には、お待ちする、歓迎するという意味も込められている。
 重量感のある桧の格子戸を開けて入ると、通りの喧噪は消えていた。
 案内された部屋は、趣のある灯籠が配置された庭に面している。よくあるように隣の部屋とは壁ひとつというのではなく、入り組んだ間取りの建物らしく、独立した部屋のようだった。
「静かな部屋だわね」
 障子を開け、夕暮れの中に浮き上がる松を見ながら、千秋が溜息をつく。
「よく来るんですか?」
「いえ、初めてよ」
 部屋に置かれたパンフレットには、もともとあった民家に加えて、出雲平野の大地主の母屋を移築したと書かれている。料理店で食事というよりも、どこかの屋敷に招待されているという雰囲気だった。
 運ばれてきた料理は、懐石風のそれであった。
「お酒……おいしいわ」
 千秋は、小振りのグラスを手にして冷やで飲んでいる。
 亮輔は千秋が酔ったところを見たことがない。歓迎会と称して、二度ばかりほかの社員と一緒に飲んだことはあるが、その時も千秋はどちらかといえば飲まないようにしていた。
 千秋が酔い、そして乱れる姿を見たい気がする。
「どう? 出雲で仕事を始めて……」
 暫く黙って飲んでいた千秋が、不意に聞いてきた。
「どうって?」
「前の会社と違って、ちゃんとした仕事がないから気になるかなと思って」
 そのことは、いつも気になっている。好きなように絵を描いている。会社での仕事といっても、数人の社員の相談に乗るくらいだからだ。それだけに、絵を描くことには専念出来ている。

第190回

 いい絵を描きたいという気持ちが常にあり、亮輔は自分でも気に入った作品が出来るようになったと思っているのだ。
「心配とか、気懸かりなんてのは別に……」「そう? だったらいいわ」
 千秋はボトルごと持ってこさせた焼酎を湯で割って飲んでいる。
「社長は……明日、津和野?」
「社長ってのはやめて」
 そう言われても、千秋と名前を呼び捨てにするというのは難しい。事務所ではともかく、こういう場所ではと思うが、使い分けるというのも出来にくい。
 亮輔は言われて苦笑いをする。
「まあ、出来るだけということで」
「朝、早く出雲を出るわ。社長はね」
 千秋も笑い、また二人の酒がすすむ。
「ともかく、私は素敵な絵を描いて欲しいといつも思うの」
「どうして?」
「何も無い所に建物を造るのと同じだから」
「……」
「絵も同じでしょ? 描いた絵が売れるという生活のためってこともあるんだろうけれども、自分のために描いてるっていう雰囲気が亮輔さんにはあるのよね」
「絵のほかに何もすることがないから」
「それもあるだろうけど、一生懸命にやろうとしてることが伝わるの。亮輔さんの人生そのものってことが」
 人生か、と亮輔は呟いてみる。
「お金になるというのは、なかなか難しいと思う。でも、それがまず必要だから、私、あなたに……と思ってる」
 一生涯の間に、こういう機会はそうはないはずだ。千秋には悪いが、これは運というものなのだろう。
「頑張って描こうと思ってる」
「駄目よ。思ってるだけじゃ」
「それはそうだ」
 また二人で笑う。
「いつだったか、市民会館でバレエを観てたでしょう」
「ああ……」
「あの時に隣に居た人、若い女」
 七瀬のことを千秋は言っている。
「付き合ってるの?」
 どう答えたらいいのかと、亮輔は迷った。
「黙ってるってことは、そうなのね?」
 アトリエに来て、モデルの仕事をせずに帰ってしまった七瀬を思い出す。
「いや、別に……」
 そう? と呟いて千秋はグラスを干す。

第191回

 千秋から来た今年の年賀状に、キュートなお連れは?≠ニ書かれていた。千秋が言うのは、市民会館で一緒にバレエを観た七瀬のことである。
 正月に骨折治療で病院へ行った後、千秋に出会い、それから喫茶店でコーヒーを飲んだ。その時、亮輔は千秋と一緒に居た男は誰かと尋ねたが、知り合いの人≠セと、はぐらかされた。
 追及というほどでもないだろうが、どうやら今度は逆で、自分が問いただされているようだ。
 付き合ってるの? そうなのね? と千秋は言う。
「モデルをやってる佐木七瀬」
 黙っている訳にはいかない。
「モデル……なの。そう」
 亮輔には千秋が言った最後のそう≠ェ、きつく聞こえた。モデルなどと言わなければよかったかと、少し悔やむ。
「大学生なんだけれども」
「学生さん……なの」
「……」
「じゃあ、若いんだ。それで、モデルということは、ヌードのってこともあるの?」
 また答えに窮する。普通のモデルなら、すんなりと言えるのだが、七瀬はそうではないのだ。
「ええ、まあ……」
「当然だわね」
 グラスを手にした千秋は、遠くを見るような目をしている。
 着衣であれヌードであっても、画家は絵の素材として見ている。だが、もう一つの面を亮輔は七瀬に重ねる。
 千秋は七瀬との関係を知らない。だが、千秋は目の中に何かを思い描いているようである。
「アルバイトってことなの?」
 亮輔は、グラスに多めの焼酎を注いで飲んだ。
 当然のことだが、七瀬に払うアルバイト代は、千秋のところから出た金ということになる。
 そこまで考えるのは、思い過ごしというものだと亮輔は自分の頭の中を整理する。
 それにしても、七瀬はいつだったか、私以外の女の裸を見るのは嫌よ、と言ったことがある。立場を変えれば千秋も、同じことを言いそうである。
「バイトというか、まあ、そういうことだし、どうしてもモデルは必要なんで……」
 千秋が少し酔った目で睨む。

第192回

 既に五本の徳利が並んでいる。焼酎のボトルは半分ばかり減っていた。
「佐木さんとかいうモデルね。断っちゃいなさい」
 宣言するような言い方だった。
「なぜ?」
 言いながら、亮輔は七瀬が居なくなったら困ると思う。モデルとしてもだが、絵を描いた後で過ごす時間のこともある。
 まるで身勝手だと、我ながら呆れる。千秋とこうして飲んでいる。その上に、七瀬も失いたくないと考える。
 男というものは、女よりも独占欲が強いようだ。七瀬が女としての成熟をみせてくると、更に愛おしさが増す。
 であれば余計に失いたくない。というよりも、若い七瀬の気が変わるのではないかと心配である。
 七瀬を抱こうとした時に、今日は嫌だと言った言葉が頭から離れない。別な男に気持ちが向いているのかもしれない。
 逃げようとする素振りがあれば、理由はともかく追いかけて自分のものにしておきたいと思うのは本能である。
「モデルが要るなら、私が探すわ」
 暗に七瀬との関わりを止めるようにと言っている。
「しかし……」
「いいの。裸婦の絵は、マンションのアトリエで描いて。私の言う通りにするの」
「……」
「モデルは誰でもいいのよ。それに、いろいろな人を描いた方がいいわ」
 亮輔は、つまらぬことを言わなければよかったと下唇を強く噛む。
 千秋の言い分に反対しても、聞いてはくれないだろう。言い争いはしたくない。今更、千秋から離れることは出来ないのだ。それに千秋は少し酔っている。時間が経てば考えも変わるだろうと、亮輔は気を取り直す。
「さあ、もう少し」
 千秋が焼酎の湯割りを作ってくれた。ひと口飲んだ。焼酎の割合が多かったのか、頭が揺れたように思えた。
 千秋の頬が化粧を通して、赤らんでいる。
「飲み過ぎじゃないかなあ」
「誰が? 私? いいのよ。だってお祝いだから」
「しかし、かなり飲んだから」
「じゃあ、帰りましょうよ」
「どこに?」
 馬鹿ね、と千秋が言いながら立ち上がる。

第193回

 マンションの最上階は低いとはいえ、眺めはよかった。昼に見た街とは、まるで違う姿を見せていた。
 大都会で見るような輝く光の海というのではない。夏の海辺に打ち寄せる波が、夜光虫のせいでぼんやりと青白く光るような出雲の夜の街である。
「先に、シャワーしてくるね」
 窓ガラスに額を押し付けるようにして見ていると、背中で千秋の声がした。ふり返ると、千秋は既に浴室に消えていた。直ぐに激しいシャワーの音がした。
 亮輔は窓から離れてソファに座り、目を閉じた。夜光虫が、頭の中で揺れ動く。
 一瞬、亮輔は千秋のことを忘れ、七瀬はどうしているのだろうと考える。
 シャワーの音がしだいに小さくなった。いや、そうではなく、眠くなったからだと亮輔は気が付き、目を開けようとするが瞼は重い。
「寝ちゃ駄目よ」
 どれくらいの時間が経っていたのか、不意に千秋の声がした。何という名前か分からないが、微かに香水の匂いがする。何と言えばいいのだろうか。海の匂いか、あるいは森の中で感じる空気の動きのような気がしたのだった。
「お湯を溜めといたから、早く行ってらっしゃいよ。ブルーのがあるから」
 千秋は、ピンクのバスローブを羽織っていた。ストライプの編地に幾つかのバラがプリントされている。袖口やポケットにもレースがあしらわれていた。
「ああ……」
 酔いのせいで気怠い感じがしないでもないが、汗の出たままで千秋を抱く気にはならない。
「ゆっくりでいいからね」
 熱い湯の中で体を伸ばすと、アルコールが抜けていくようだった。
 亮輔は浴室を見回す。シャンプーからボディソープまで、何もかも千秋が用意をしてくれていた。
 部屋の調度はもちろんだが、亮輔の着るものから、更には千秋自身のものも、まるで誂えたようにである。
 夢を見ているとは、こういうことなのかと亮輔は苦笑する。ここまでされると、千秋の言うことには逆らえない。
 なるようにしかならないと、亮輔は覚悟を決める。風呂から出ると、千秋はベッドの中だった。淡い照明が膨らんだカバーに影を作っている。

第194回

 亮輔は青いパスローブの紐を結び直し、軽く掛け布団を持ち上げて千秋の横に滑り込んだ。
 亮輔は口紅が拭き取られた千秋の唇に、右手の人さし指を乗せて横になぞる。柔らかい感触が指に残った。
 千秋が指を吸い込み、軽く噛んだ。
「痛い……」
 亮輔は指を引き戻し、唇を寄せる。触れ合った唇の間から舌を入れた。千秋が舌を絡める。お互いの密着した唇と舌が、一つになり、どちらのものか分からないようになる。亮輔は千秋の歯茎を右から左に、ゆっくりと舌で絡め取るように動かす。
 千秋が微かに喘ぎ、亮輔の体を両手で押し戻した。
「そんなに上手にしないで」
 亮輔は千秋の右耳に唇を寄せ、耳朶を軽く噛んだ後で囁く。
「ご主人とは、いつも?」
 いつか聞こうと思っていたことだった。
「あの人は、仕事だけよ。もうずっと何もないわ」
「ずっと?」
「そう。仕事というか、焼き物さえ触っていれば、いいって人なの」
 夏夫に聞いた話では、萩焼の焼き物師で、真彩窯という窯元ということだった。
「仕事だと言えば、どっちもじゃないか?」
 ふっと軽く千秋が笑った。
「私は、ひと月のうちほとんど家に居ないと言ってもいいから、お互いに忘れてしまうのよね」
「ご主人は、幾つ?」
「五十九……」 
「しかし、それにしても……」
「いいの。つまらないことを考えないで」
 亮輔は、千秋の腰の辺りで結ばれた紐を手探りで解く。千秋が腰を少し浮かして助ける。亮輔は、胸に当てた掌を下へずらしていった。
 金城の宿でもそうだったが、千秋は何も付けていなかった。全身が熱かった。
「仰向けに寝てて」
 千秋は起きあがると、二つのバスローブを剥ぎ取り、亮輔の上になった。
 右手で探るようにして亮輔を取り込む。
 千秋と亮輔は、草原を走る二頭の悍馬であった。たてがみが乱れ、汗が飛び散った。
「私と……だけよ。約束するわね」
 千秋が叫ぶように言いながら、亮輔の上に崩れ落ちた。千秋の重みを感じながら、七瀬も同じことを言ったと思った。

第194回

 亮輔は青いパスローブの紐を結び直し、軽く掛け布団を持ち上げて千秋の横に滑り込んだ。
 亮輔は口紅が拭き取られた千秋の唇に、右手の人さし指を乗せて横になぞる。柔らかい感触が指に残った。
 千秋が指を吸い込み、軽く噛んだ。
「痛い……」
 亮輔は指を引き戻し、唇を寄せる。触れ合った唇の間から舌を入れた。千秋が舌を絡める。お互いの密着した唇と舌が、一つになり、どちらのものか分からないようになる。亮輔は千秋の歯茎を右から左に、ゆっくりと舌で絡め取るように動かす。
 千秋が微かに喘ぎ、亮輔の体を両手で押し戻した。
「そんなに上手にしないで」
 亮輔は千秋の右耳に唇を寄せ、耳朶を軽く噛んだ後で囁く。
「ご主人とは、いつも?」
 いつか聞こうと思っていたことだった。
「あの人は、仕事だけよ。もうずっと何もないわ」
「ずっと?」
「そう。仕事というか、焼き物さえ触っていれば、いいって人なの」
 夏夫に聞いた話では、萩焼の焼き物師で、真彩窯という窯元ということだった。
「仕事だと言えば、どっちもじゃないか?」
 ふっと軽く千秋が笑った。
「私は、ひと月のうちほとんど家に居ないと言ってもいいから、お互いに忘れてしまうのよね」
「ご主人は、幾つ?」
「五十九……」 
「しかし、それにしても……」
「いいの。つまらないことを考えないで」
 亮輔は、千秋の腰の辺りで結ばれた紐を手探りで解く。千秋が腰を少し浮かして助ける。亮輔は、胸に当てた掌を下へずらしていった。
 金城の宿でもそうだったが、千秋は何も付けていなかった。全身が熱かった。
「仰向けに寝てて」
 千秋は起きあがると、二つのバスローブを剥ぎ取り、亮輔の上になった。
 右手で探るようにして亮輔を取り込む。
 千秋と亮輔は、草原を走る二頭の悍馬であった。たてがみが乱れ、汗が飛び散った。
「私と……だけよ。約束するわね」
 千秋が叫ぶように言いながら、亮輔の上に崩れ落ちた。千秋の重みを感じながら、七瀬も同じことを言ったと思った。

第195回

 七月も下旬になり、学校が夏休みになると気のせいか暑さが更に増すように思えた。アトリエの窓を開けると、北山から吹いてくる風が部屋の中にこもりがちな熱気を追い払う。
 七瀬がアトリエに来るのは、週に二回である。だが、続けて二度ばかり、都合がつかないという連絡があって、一週間の間、顔を見ていない。
 亮輔のモデルになってから、二度も来なかったというのは初めてだった。
 そんなことを考えながら、目を射るような北山の緑を見ていると電話が鳴った。
「もし、もし……」
 遠慮がちな七瀬の声が聞こえた。暑さと、顔を暫く見ていないという多少の苛立ちがあって黙っていた。
「私……七瀬です」
「ああ、分かってる」
 今度は、七瀬の沈黙が続く。
「あの……。今週も行けないんですけど。ごめんなさい」
「なんで?」
 勢い荒い言葉になった。
「ちょっと、大学のサークルで旅行をすることになって」
 夏休みに入っている。若い学生達のことだから夏休みになれば、そういうこともあるのだろう。 
「どこへ?」
「北海道……」
 夏といえば北の方か、ありきたりな話だと、亮輔はつまらないことを考えて、また腹を立てる。
「いつ?」
 今週ずっとなんです、と七瀬の消えるような声だった。月曜と金曜も来ないということである。七瀬を描いているのは、何かの展覧会に出すためというのではない。人物画の勉強というつもりである。だから、七瀬が来なくても、特に何の問題もない。しかし、二週続けてというのは困る。
「この前も行くことができなかったんで、悪いんですけど……」
「仕方がないだろ」
「ごめんなさい。断り切れなくて」
「ということは、八月にならないと駄目だということか?」
 三度ばかり(ごめんなさい)を繰り返して七瀬は電話を切った。
 何となく、モデルになることを避けようとしているように思える。ちっ、と舌を鳴らして亮輔は郵便を取りに行く。

第196回

 市街地から離れていることもあって、郵便は昼前に配達される。時には、午後になることがあった。
 郵便受けを開けると、大型の封筒が入っていた。差出人は、東京の日本現代創芸協会となっている。
 日本現代創芸協会は、年に二回の公募展を開いている。東京の日本情報企画という会社が後押しをして、財団法人として平成元年に設立した協会である。歴史は浅いが、彫刻や絵画、写真なども含めた新人の発掘と育成に定評があった。
 五月の初め、その公募展に応募した。その結果の知らせに違いなかった。
 協会には会員と非会員の区別があるが、亮輔はまだ会員にはなっていない。二回の優秀賞を取ると、自動的に会員になる。
 封を切ると、展覧会のポスターと白い封筒が出てきた。
 初めて応募したのだから、結果を期待はしていない。何度かの応募と落選を繰り返した後で、入賞するというのが通例だと聞いていたからだ。初めての応募だから、賞に入ることはないと思った。
 亮輔は、おそらくその通知が入っていると思われる封筒はそのままにして、畳まれていたポスターを開いた。銀座の東京近代美術館で、十月に展覧会が開かれるという。行ってみてもいいな、と亮輔は思った。
 千秋の顔と、石正美術館の風景が浮かんだ。一緒にどうかと誘えば、東京に行くと言うかもしれない。そう思って、封筒を開いた。
「まさか……」
 出てきたのは、入賞通知だった。しかも、最優秀賞と書かれている。
 当然のことだが、最優秀賞は一点で、ほかにも会長賞、協会賞などもあるが、その中でも最高のそれである。
 この賞を獲得すれば、国内では一流として認められることでもあった。
 描いたのは、街の風景である。四月の出雲、それも高瀬川を中心にして、古い街並の油彩だった。自分でもかなり気に入っていて、入賞しなくても手放さずに残しておきたいくらいの出来映えだったのだ。
 勤めていた自動車会社から転職して、千秋の会社で仕事をするという新しい展開の思いを託して描いた絵だからだ。
 非会員が、しかも初出品で賞に入ることは珍しいはずだった。ただ、会員になるためには、もう一度、優秀賞以上の賞を取る必要がある。

第197回

 最高の優秀賞だから、次の作品の評定にはそのことが加味される。会員資格には、既に手が届いたと考えてもいいのだ。
 千秋に知らせなければいけない。亮輔は携帯のキーを押した。千秋は直ぐに出た。
「そりゃ、凄いじゃないの」
 弾んだ千秋の声だった。 
「それにしても、出品したことは聞いてなかったわね」
「どうせ駄目だろうと思ってたから」
「それはそうだったかもしれないけど、でも、いいのよ。賞に入ったってことで許してあげる」
 電話の向こうで、千秋の笑っている顔が見えるようだった。 
「何の絵なの?」
「高瀬川の辺りを描いたんだが」
「何号?」
「長い方が九十センチだから、三十号」
「そうね。そのくらいがちょうどいいと思う。あんまり大きいと市場性がないものね」 千秋の言うように三十号だと、構図にも工夫が必要になるし、大き過ぎると飾る場所や保管のことも考えねばならなくなる。そんなこともあって、絵は三十号を超えると、大きさとの関係で、号数の割りには値段が上がらないのだ。つまり安くなるということである。
 どうやら千秋は、絵の内容よりも売るということに思いが向いている。
「ともかく、入賞のお祝いをしなきゃいけないわね。いろんな人を呼んで……」
「そんな大袈裟なことじゃない」
 とは言うものの、とりあえずは社内での祝宴ということになるのだろう。
「今週の水曜に、出雲の社に来るわね」
「もちろん……」
 千秋は、これから出掛けるからと言って電話を切った。
 七瀬が、今週は来ないと言って電話をした後の入賞通知だった。
 描いた絵は風景だが、七瀬をモデルにして人物を描いたことも役だっている。
 千秋の言葉ではないが、亮輔は七瀬を許してもいいという気になる。
 それにしても、気分がいい。風景を描くための下見を兼ねて、宍道湖の周囲を車で走ってみようと思った。
 湖北線を西に向かう。宍道湖の南岸を走る九号線よりも、車も少なく走りいい。
 気に入った場所で、何枚か写真を撮った。
 出雲空港に着いた。三階で蕎麦でも食べようかと、駐車場に乗り入れる。

第198回

 午後四時を少し過ぎていた。
 三階へ上がるエスカレーターに足を掛けた。ゆっくりと動くエスカレーターの微かな振動に体をまかせながら、亮輔は二階を見下ろした。二階には、出発ロビーに続いて国内線の出発待合室がある。
 待合室に入ろうとする男と女の二人連れが見え、直ぐに消えた。
「七瀬……」
 後姿しか見えなかったが、亮輔にはそれが七瀬のように見えた。ラメ入りの茶色がかった黒いメッシュのセーターで、背中が大きく開き、紐が十文字に絡んでいる。白いワークパンツが、背を高く見せていた。
 セーターは見たことはなかったが、白いパンツはアトリエで脱いだことがあるから印象に残っている。もちろん、同じようなパンツはどこにでもあるし、誰でも穿いている。しかし、目に入ったのは一瞬だったが、確かに七瀬だと思えた。
 男は誰か分からなかったが、薄いグレーのスーツで年配らしかった。二人とも、小型のバッグを手にしていた。
「東京行き……」
 亮輔は呟き、七瀬が北海道へサークルの旅行で行くのだと言ったのを思い浮かべた。それも朝のことだ。二人連れだから、サークルの旅行ではないはずだ。
 エスカレーターを止めるわけにはいかなかった。普通の階段なら、確かめるために駈け降りていたかもしれない。
 亮輔は七瀬の最近の言動を考える。二週間もアトリエに来ない。しかも、抱こうとした時、不意に嫌がった。明らかに避けているように思えなくもない。間違いなく、何かあると亮輔は思った。
 待合室に入った女が七瀬だという決め手はないのだが、体の隅々まで知っていることから言えば、見誤ることはないはずだ。
 亮輔は反対側のエスカレーターで二階に降りた。もちろん、既に待合室に入っているから見るわけにはいかない。
 再び三階に上がる。
 何をやっているのだ、と亮輔は自分で自分に呆れる。
 東京行きJASは、四時三十五分の出発である。携帯の時計を出して見た。四時二十七分になっている。
 食堂の神名火≠ヘ、東京行きの乗客が利用した後なのか、閑散としていた。
 窓際に席を取り、ガラスに額を付け、滑走路に駐機している飛行機の乗客を覗こうとするが見える訳がない。

第199回

 亮輔は、つまらないことをしている自分にまた呆れる。七瀬のために、右往左往している。七瀬がどこに行こうと関係はないと思えばそれまでだが、そうはいかない。 男と二人というのが気になる。家族かもしれない。いや、そんな雰囲気ではなかった。人目を避けているようにも見えた。考え過ぎではないかと思う。サークルのメンバーかもしれないのではないか。
 東京行きの飛行機は滑走路を走り抜け、東の空に舞い上がって行った。幾らあがいても、手が届かないような気がした。
 実は、あの男……と、もう一人の亮輔が囁く。まさか、そんなはずはないだろうと亮輔は頭を振る。
 運ばれて来た蕎麦は、既に冷たくなっていた。
 携帯を取り出し、東洋自動車販売に電話をした。七瀬が居る訳はない。アルバイトは、もう少し遅い時間からだ。
 電話に出た女性社員に、社長は? と聞く。どちら様ですかと確かめられて、亮輔は、ロワール建設事務所の名前を使った。「申し訳ございません。社長は、今日から東京へ出張で出掛けております」
「東京へ……」
「ええ、夕方の飛行機です」
 夕方の……と、亮輔は思わず大きな声になった。
「はい。出雲空港からの予定なので、今頃はもう……」
 亮輔は、途中で遮った。
「いつ帰られますか?」
「東京から札幌へ行く予定になっていますから、三日後ということなんですが、何かご伝言でも?」
 いや、結構ですと亮輔は答え、肩で大きな息をした。
 女は七瀬ではなく、一緒に居た男も美郷ではないかもしれないのだ。世の中には、似た人間は幾らでも居る。偶然、そんな感じの二人を見掛けただけなのだ。
 いや、偶然じゃないのだ。あの男は社長の美郷で、女は七瀬なんだよと、また別の亮輔が嘲るような口調で言う。
 ポケットに入れていた携帯を取り出し、アドレス帳から七瀬の番号を探した。
「電源が入っていないか、電波の届かない所に……」
 最後まで聞かずに、亮輔は切断のキーを押した。飛行機の中は、携帯が使えないのだ。間違いない。あの二人は、確かに七瀬と美郷なのだと亮輔は思い始める。

第200回

箸を付けなかった蕎麦を残して、亮輔は食堂を出た。 
 間違いなくそうだとは言えないものの、七瀬は美郷と東京へ行ったのかもしれないと、暗澹たる気持ちになる。もし、そうであったとすれば、三日の間、美郷は七瀬を自由に出来るのだ。
 冷房が効いているはずなのに、体が熱くなり汗が顔から流れ落ちる。シャツに黒ずんだ染みが出来た。
 擦れ違った若い女が、汚いものでも見るように、顔をそむけた。
 それにしても七瀬は美郷と、いつからそうなったのだろうと亮輔は考える。会社で、アルバイトの受付をするようになってからかもしれない。毎日ではないにしても、美郷の目に触れる所に七瀬は居るのだ。二人で一緒に食事をしたと、いつか聞いたことがある。しかも、アルバイトのことでは、七瀬に特別と言ってもいいほどの好条件を美郷は出している。美郷にそれなりの気持ちがあるのだから、関わりが深まるのは時間の問題だったかもしれない。
 夏夫に七瀬の様子を電話で聞いてみようと思った。午後五時前である。まだ会社に居るはずだ。
「忙しかったか?」
 暫く待たされ、夏夫が出た。
「ちょうど会議が終わって帰ろうと思ってたとこだ。何だ? 突然に」
「特別のことじゃないが、佐木君は、最近どうしているかと思って」
「どうして? お前の所にいつも来てるんじゃないのか?」
「モデルのことか……何か知らんが、忙しいみたいで、来てないんだ」
 ふーん、と夏夫が呟き、沈黙が続く。
「そう言えば、アパートに電話しても居ないことが多いな。明子も気にはしてるみたいだが」
「奥さん、何か言ってたか?」
「お前が紹介した夕方からのバイトのせいじゃないかって言ってたけどな」
「そうか」
「それに、今日から北海道に行くって聞いてたようだ。大学も休みだしな。最近の学生は優雅なもんだ」
 やはり、と亮輔は思った。
「そうかもな。ま、また会おう」
 亮輔は、もう夏夫と話す気持ちをなくしていた。
 駐車場まで歩く間に、何度か眩暈がした。暑さのせいだけでもないようだった。