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連載小説「原色の構図」 島根日日新聞掲載

◇第101回

 さすがに夜の遅い電車は、乗客が少ない。数人の客が居た。
 吹き過ぎていく雪のために、窓の外はまるで見えなかった。無理に見ていると、目が疲れた。亮輔は目を閉じた。
 時折、遠くで駅の名をアナウンスする声が聞こえた。七瀬も松江から米子まで、夜遅い電車ではこうして帰ったのだろうかと思っているうちに、松江に着いた
 駅からタクシーに乗れば、十二時までには家に帰ることが出来る。
 亮輔は電車から出て、肩を震わせた。襟首に寒さが入り込んできた。
 いつものようにコートは着ていない。飲む時には、鞄などは持たないことにしている。何かあると、忘れないように気を遣わねばならないからだ。
 背広の襟を立て、両手をズボンのポケットに入れた。
 松江駅の到着ホームは、二階である。タクシーがあるのだろうかと思いながら、亮輔は他の乗客が走るのにつられて階段を駆け降りた。
 改札口が目の前だった。そうではなかった。階段を二つ残して滑り落ち、改札を下から見上げる格好になったのだ。
 驚いた駅員が、見下ろしている。
 濡れた階段で靴が滑ったのだ。両手がポケットに入っていたのも、バランスを立て直すことが出来ない原因だった。
 したたかに右の横腹を階段の角で打ったらしい。
「大丈夫ですか?」
 駅員が手を伸ばしてきた。
「いやいや、何ということはないです」
 起き上がろうとした。
 横腹に激痛が走った。
年の暮れ、しかも正月を前にして打ち身かと舌打ちをし、亮輔は(くそっ)と口に出した。駅員が笑ったように見えた。それも気に障ったが、伸ばされた手を取って立ち上がった。二、三度、腰を振ってみた。少し痛いが、どうということはないようだ。
 酔っている時には、意外に怪我をしないものだと思った。
「気を付けて下さい」
 駅員の声を背中に聞いて、駅の北口に出る。ドアを開けて待っているタクシーに、体を丸めて乗り込んだ。
 松江の町も雪だった。横なぐりに降る雪は、風のせいで積もることはない。落ちてはまた舞い上がる。この雪も、怪我と一緒でさほどのことはないだろうと思った。

第102回

 目覚まし時計が鳴った。何時にセットしたのか記憶がない。枕元で鳴る時計を止めようと手を伸ばした。体を捻った途端に、錐で刺すような痛みを右の脇腹に感じた。
 そうだ、松江駅の階段で打った場所だと気がついた。起きようとして体を持ち上げた。思わず(うっ)という声が出た。左手を突き、ゆっくりと上体を起こす。ベッドから下りた。背筋を伸ばしてみるが、痛みは少し遠ざかっている。
 目覚ましは、午前七時を指していた。着替えた。動いていると、あまり痛みはない。 外は雪だった。音のしないそれだった。積もるかもしれないと思った。
 会社に着くと、年末の忙しさのせいか、空気が張りつめたような感じがした。
 会議は午前十時からだった。二階の会議室に行こうとして階段に足を掛けた。忘れかけていた痛みが脇腹を襲った。手を当ててみるが、腫れているわけでもない。たいしたことではないと思いながら、脇腹を押さえて階段を上がり、会議室に入った。
「よお、どうした? 胃でも痛いのか?」
 社員の誰かの声が背中でした。振り向こうにも、体を曲げようとすると痛みがあって出来ない。
「いや、そういうわけじゃないが……」
 まさか、階段から落ちたとは言えない。しかも酒が入ってのことである。
「ちょっと、机の角で打ったもんで」
「飲み過ぎて、ひっくり返ったと違うか?」 確かにそうだったが、笑ってごまかす。
 椅子に座って体を伸ばしていると、何ともない。立ったり座ったりして、体が動く時に痛みがある。
 会議は一時間で終わった。年末、年始の予定についての調整が主な議題だった。
 カレンダーと手帳を車に積み、顧客回りをし、十数軒ばかり歩くと夕方だった。
 家に帰って、父とどうでもいいような話をしながら酒を飲んだ。少し飲めば血液の循環がよくなるから、痛みはやわらぐだろうと思った。
 酒は嫌いではない。前の晩に飲んだから、最初は少しひかえようと考えていたが、結局、かなり飲んでしまった。年末だから、まあいいだろうと理屈もつけた。
 ゆっくり寝れば、明日の朝は打ち身の痛みは消えているだろうと思いながら、また飲む。
 夜も雪だった。切れ目なく舞い落ちる雪を窓から見ていると、息苦しくなる。痛みのせいばかりではないように思えた。

第103回

 担当している客の所、全てを回り終えたのは三十日の昼だった。
 脇腹の痛みは、少しもよくならなかった。かといって、激しくなるというものでもない。ただ、体の向きで、というか何かの拍子で痛むことがあるだけだった。それさえ我慢すれば、特別にどうということはない。 だが、時々であっても痛いというのは、気になる。
 亮輔は、行きつけの外科医院で診てもらうことにした。経営しているのは周藤といい、幼稚園の時からの友人で、小、中、高校、それも大学まで同じ学校で、同期である。周藤は医学部に進んで医者になり、幾つかの公立病院に勤務した後、開業した。それ以来、病気の種類を問わず行くのだ。
 電話をすると、医院の電話は留守電になっていた。三十日から一月四日までは休みだというアナウンスが流れた。
 二十九日、つまり昨日ならよかったのだと、亮輔は唇を曲げながら留守電を聞いた。
 他の医院でも、公立病院の救急外来でもいいのだが、大袈裟過ぎる。いつも苦しいというわけではないからだ。どこに行っても、湿布程度の治療しかないだろう。
 亮輔は、置き薬の箱から湿布を取り出して貼った。染みるような冷たさが、痛みを取り除くようでもある。それにしても、一時しのぎのような気がする。
 体の調子が悪いと、何となく気が滅入る。なぜ痛みが引かないのだろうと考え出すと、しだいに不安になってくる。
 亮輔の家は北山の麓である。市内の中心部に比べると、かなり雪が多い。暖冬という声もあったが、やはり冬という季節は間違いなく雪を持って来た。
 北山から吹き下ろす風に乗って、粉雪が窓ガラスに貼り付いている。
 三成に帰った七瀬はどうしているのだろうと思いながら、ガラスの向こうの暗闇を覗いてみる。
 雪の降るのを見ながら、亮輔は『忍ぶ川』という小説を思い出した。三浦哲郎という作家の作品で、志乃をつれて、深川へいった、という書き出しで始まる。私≠ニいう一人称で登場する大学生が薄倖の女に思いを寄せ、結婚するという純愛を描いた小説で、不朽の名作といわれている。
 志乃と私≠ヘ、家族に祝福されて一緒になる。結婚の日のことが、東北の風習を背景にして描かれているのである。映画にもなり、その情景が話題になった。
 亮輔は七瀬と志乃を重ねてみる。

第104回

 亮輔は、自分の年齢のことを考えてみる。三十の半ばになっている。できれば早く結婚して、両親を安心させてやりたいのだ。
 二十代の半ばの頃、そんなことは思いもしなかった。具体的に将来に結び付くなどということは考えず、ただ一緒に居て楽しい時間が過ごせればいいと思っていた。結婚は、もっと先の世界の話であった。
 今まで付き合った女は、何かというと結婚を匂わせた。亮輔が夏夫と違って独身のままなのは、そういう雰囲気を感じるといつも逃げ腰になったからだ。それなりの関係になると、女は必ず将来のことを一般的な話にして、それとなく言い出すのだった。
 好きならば結婚するということが前提にあるという考え方は、ある意味で正しいのかもしれない。だが、そうであるとすれば、恋愛と結婚は同一次元、もしくはイコールで結ばれるものだということになる。
 結婚というのは、相手と長い人生を共有することである。であるならば、好きだとか愛していると相手に言うことは、その一生を共に過ごすという宣言でもあるということになりそうだ。
 お互いに好ましいと思うならば、その時間を大事にすることでいいのではないかと、三十歳になった頃には考えていた。
 会社の女性社員や付き合っている女に、そんなふうな話をすると、(何よ、それ……)と、殆どがそういう顔を見せた。男の身勝手だとも言う。
 要するに男と女では、結婚とか愛などに対する視点が全く違うのだ。
 大学を出て数年経ち、絵を描くことが面白くなり、認められ始めた頃には特にそう思っていた。ともかく、何よりも絵の方が大事だったのだ。
 だが、このところ父や母の顔を見ていると、それでいいのだろうかと思い始めるようになった。忍ぶ川≠ニいう小説を思い出したのも、そういうことかもしれない。
 いずれにしても、それこそ身勝手である。
 大晦日の昼までかかって年賀状をプリンターで打ち出した。三百枚を超えるそれだが、手書きではないにしろ疲れる。
 夕方近くになって、県の東京事務所に勤めている七歳下の妹が帰って来た。来年の春には、同じ事務所の職員と結婚することになっている。
 夕食は、いつもの年越し蕎麦だった。
 除夜の鐘が鳴っても、雪は降りやまなかった。明日は白い朝だろうと、亮輔は思いながら眠りについた。

第105回

 元日というのは、大晦日から僅かな時しか経っていないが何か違う。
 人間に命を与えてくれた年神を迎える行事をするのが、元日である。門松を飾り、鏡餅を備え、おせち料理とお屠蘇で祝う。神が来るというのに、大晦日に寝ていては失礼だというわけで、かつては一晩中起きていた。だから、翌日の元日は、寝正月である。
 こうして日本人はけじめを付けてきた。古くからのしきたりは大事なことだと亮輔は思っている。
 そんな理屈を盾に取ったのではないが、誰もが揃ったのは、午前十時過ぎだった。
「今年は、何とかしなさいよ」
 おめでとうと言った後で、妹の真沙子が言った。
「何とかとは、どういう意味だ」
 言っていることが分かるから、亮輔は少し気色ばってみる。
「分かってるくせに。だって、四捨五入すると……でしょうが」
「だから何が」
 屠蘇のせいか、少し真沙子の顔が赤らんでいる。
「もうっ」
 他愛のない兄妹の話を母親が笑って聞いている。
「いいわよ、気にしてるんだから、黙っていればいいの」
 母が取りなすように言うのを聞いて、そうなのだと亮輔は思う。気にしているのは、言われなくても分かっていることだ。
 このところ、結婚は必要ではない、単身の方が気楽などという考え方が、女性の経済的向上や自立を背景にして広がっている。結婚をしたいとは思うけれども、収入のこと、子育てが辛い、仕事を止めたくないなどという気持ちから、ずるずると独り暮らしが続く。それはともかく、根底にあるのは、家族制度の崩壊だと亮輔は思っている。
 適当に妹との話を切り上げ、亮輔は玄関に出た。年賀状の来る時刻だっ。
 郵便受けには、ゴムバンドでくくられた年賀状が入っていた。五百枚くらいはあるだろう。
 居間に帰り、仕分けを始めた。父親の方は、さすがに定年で退職すると数が減る。殆どが亮輔宛のものだった。
 幾枚かめくっていると、紗納千秋という文字が目に入った。ごく普通の酉の干支が描かれた葉書だった。

第106回

 添え書きがあった。 
 ――昨年は、展覧会でお会いできて嬉しゅうございました。いろいろ考えましたが、一度お目にかかり、お話ができればと思っております。ところで、出雲のバレエ公演にお出掛けだったようですが、お隣にお座りだったキュートなお連れは?――
 亮輔は千秋にも年賀状を出した。もちろん、展覧会に来てもらったうちの幾人かの中である。だから、いわば儀礼的なそれでもあった。
 千秋から年賀状が来るとは思ってもいなかった。しかも、それにはキュートなお連れは?≠ニある。むろん、七瀬のことである。お隣にお座りだった……≠ニもある。ずっと見られていたのだ。
 亮輔が気付いたのは、あの二人が立ち上がって出て行く時だけだった。千秋は、それ以前から七瀬と一緒に居ることを知っていたということか。
 それにしても、と亮輔は思う。たかだか展覧会に来てくれた人が、年賀状までくれるのだろうか。絵を買ってもらったわけでもない。以前からの知り合いでもない。ただ、モデルになって描いてもらいたかったという、思いを聞かされた。誰にでも言うことではないのではないかとは思うが。
 亮輔は、パソコンで作ったらしい千秋の年賀状を暫く見詰めていた。
「どうしたの?」
 妹の真沙子が、手にしていた新聞から目を上げて亮輔を見た。
「あ、何でもない。どこの人か記憶にないものだから」
 適当にごまかしたつもりだったが、真沙子の目は(うそ)と言っていた。
「有名な人になると、いろんなとこから年賀状が来るんだ」
 真沙子が、覗き込んだ。
「へえー、珍しい名前よね」
 亮輔は言われてまた、紗納千秋≠ニ書かれた文字を目でなぞる。千秋の文面には、一度会いたいと書かれている。話が聞きたいとは、どういうことなのだろうと亮輔は思いを巡らす。
 年賀状をめくっていくと、画商の林のそれがあった。
――絵を描いて欲しいという依頼がありました。いずれ近いうちにお伺いさせていただきます。――
 左側に小さく書いてある。
 誰が画商の林に頼んだのか、それにしても、そういつもある話ではない。

第107回

 描いて欲しいと言われるのは、嬉しいことである。もちろん、気に入らない仕事はしなければいいのだが、林にはそうは言えない。仕事を選択できるほど、亮輔は自分で認められているとは思ってもいないからである。
 それにしても、ともかく、絵が売れればとりあえずは満足しなければいけない。
 絵を描くことだけで生活できれば、それ以上のことはない。そうなりたいと前々から考えてはいるものの、退職して絵に専念しようとする決断が出来ない。
「見せて……」
 真沙子が手を伸ばしてきた。(ちょっと待て)と言いながら体を捻った途端に、痛みが脇腹を走った。思わず(うっ)と声が出た。
「どうしたの?」
 真沙子が怪訝そうな顔をした。
「いや、何でもない」
 亮輔は右手で押さえてみる。
「階段で転んだそうよ」
 母親の淳子が、心配そうな顔で言う。
「階段? どこの?」
「駅の……。米子の夏夫さんの所で飲んで帰るとき。二十五日だったかね」
「ふーん。飲み過ぎた罰よ」
 真沙子が笑った。
「笑ってる場合じゃない。笑い声が響くんだよ」
 それは重症だと真沙子が言い、また大きな声で笑った。
「でも、それってやっぱり病院に行った方がいいよ。ほら、友達の周藤さんち」
「休みなんだ。四日まで」
「バカね。やせ我慢しないで騒ぐものよ。骨折でもしてたらどうするの」
「大丈夫さ。そのうちに……と思ってる」
「何言ってんの。精神だけで治るなんていうものではないわよ」
「だから、病院に行くさ」
「そうなの? まあ、今まで我慢してたんだから、五日に行けばいいんじゃないの。それにしても、よくそんなんで……」
「お前とは、できが違うんだ」
「お母さん、あんなこと言ってるよ。誰が親だと思ってんでしょうね」
 母は(そりゃ、そうね)と呟きながら、元日の分厚い新聞を見ていた。
「まあ、あまり無理しないことだ」
 黙って聞いていた父の真司が、ぽつりと言った。
 いかにも寂しそうだった。

第108回

 五日の朝、亮輔は真沙子の運転する車で周藤外科医院に行った。三日、四日と過ぎても痛みは取れなかった。車の乗り降りの時には、腰を捻るせいか、よけいに苦しい。
 松江の南郊、佐草町にある八重垣神社は、八雲立つ出雲八重垣妻ごみに八重垣つくるその八重垣を≠ニいう歌でよく知られている。素盞嗚命と稲田姫が祀られ、出雲大社より古い縁結びの神社である。
 周藤は、その近くに外科医院を開業していた。
 正月が終わり、医院が始まるのを待っていた患者で、かなり混雑していた。待合室を見渡すと、殆どが高齢者だった。
「よお、どうした?」
 診察室に入ると、黒革の椅子に座っていた周藤が振り返った。
「ちょっとな。脇腹が痛いんで。ともかく今年もよろしく」
「お互いに、また一つ年を重ねたというわけだ。それはそれとして、何だ?」
「階段で……それも駅の。足を滑らせて脇腹を打ったんだが、なかなか治らない」
 周藤が、痛むところを指で押さえた。やはり痛い。
「骨が折れとるかもしれないな。レントゲンを撮ってみるか」
「折れてる?」
「どうせ飲み過ぎて、酔っ払ってたんじゃないか? 痛みが引かないというのは、骨がどうかなってるということだ」
 出来上がったレントゲン写真を周藤が見せてくれた。確かに折れていた。
 肋骨は左右に十二対あり、最も下にある第十二肋骨は胸骨には繋がっていないので、浮動肋骨と言われている。だから、折れやすいのである。
 周藤は、そう説明した。
「十二番目の骨が折れてるが、ずれていないから、たいしたことはない」
「どうということはないと言っても、痛いからな」
「ほっとけば治る」
 複雑骨折ならばだが、この程度ならという意味のことを言った。
「神経の根もとに当たると肋間神経痛になになるが、これくらいの骨折は、よくあることさ」
「よくある? それにしても、何もしないというのはないだろう。どうすればいい?」
 古くから居る看護婦が、気を利かせてバストバンドを持ってきた。腹巻きのような、いわばサポーターである。

第108回

 五日の朝、亮輔は真沙子の運転する車で周藤外科医院に行った。三日、四日と過ぎても痛みは取れなかった。車の乗り降りの時には、腰を捻るせいか、よけいに苦しい。
 松江の南郊、佐草町にある八重垣神社は、八雲立つ出雲八重垣妻ごみに八重垣つくるその八重垣を≠ニいう歌でよく知られている。素盞嗚命と稲田姫が祀られ、出雲大社より古い縁結びの神社である。
 周藤は、その近くに外科医院を開業していた。
 正月が終わり、医院が始まるのを待っていた患者で、かなり混雑していた。待合室を見渡すと、殆どが高齢者だった。
「よお、どうした?」
 診察室に入ると、黒革の椅子に座っていた周藤が振り返った。
「ちょっとな。脇腹が痛いんで。ともかく今年もよろしく」
「お互いに、また一つ年を重ねたというわけだ。それはそれとして、何だ?」
「階段で……それも駅の。足を滑らせて脇腹を打ったんだが、なかなか治らない」
 周藤が、痛むところを指で押さえた。やはり痛い。
「骨が折れとるかもしれないな。レントゲンを撮ってみるか」
「折れてる?」
「どうせ飲み過ぎて、酔っ払ってたんじゃないか? 痛みが引かないというのは、骨がどうかなってるということだ」
 出来上がったレントゲン写真を周藤が見せてくれた。確かに折れていた。
 肋骨は左右に十二対あり、最も下にある第十二肋骨は胸骨には繋がっていないので、浮動肋骨と言われている。だから、折れやすいのである。
 周藤は、そう説明した。
「十二番目の骨が折れてるが、ずれていないから、たいしたことはない」
「どうということはないと言っても、痛いからな」
「ほっとけば治る」
 複雑骨折ならばだが、この程度ならという意味のことを言った。
「神経の根もとに当たると肋間神経痛になになるが、これくらいの骨折は、よくあることさ」
「よくある? それにしても、何もしないというのはないだろう。どうすればいい?」
 古くから居る看護婦が、気を利かせてバストバンドを持ってきた。腹巻きのような、いわばサポーターである。

第109回

 マジックファスナーで留めるようになっている。きっちり締め付けると、途端に痛みがやわらいだ。
「どうだ?」
「いやあ、これはいい。痛みがなくなった。名医だな」
「それはそうだ」
 周藤は、大きな声で笑った。
 周藤が全知全能の神のように思えた。年末から年始にかけて、それほど脇腹が痛かったのだ。朝、寝床から起きあがる時が辛かった。ゆっくりと体を起こして立ち上がるのが、やっとだった。
「暇になったら、飲もう」
 カルテにペンを走らせながら、周藤が言った。
「ああ、まあ、そのうちに」
「お大事に」
 看護婦が、そう言いながら次の患者を呼んでいた。
 待合室の患者は、更に増えていた。
「どうだったの?」
 年寄りに座っていた席を譲ったのか、壁に寄りかかって雑誌を見ていた真沙子が、顔を上げた。
「肋骨が一本折れてたが、どうってことはないらしい」
「やっぱり、骨折だったんだ」
「だから、なかなか痛みがなくならないわけだよな」
「それで、どんな治療だったの?」
「バンドを巻いただけだ」
「そうなんだ。どれくらい治るのにかかるのかなあ」
「ひと月くらいだろう。完全に骨が繋がるのは、もう少しかも」
「でも、たいしたことなくてよかったじゃない」
「まあな」
「こういう時に、心配してくれる人が居るといいのにね」
 またいらぬことを言う、と亮輔は唇をゆがめた。
「分かってる……」
 外に出ると駐車場に入りきれなかったのか、一台のレンタカーが亮輔達の車の前を塞いでいた。マツダの白いデミオだった。亮輔は、わ<iンバーの車の窓をノックした。運転席に座っていた女が、ドアを開けて降りて来た。
「お邪魔してて、どうもすみません」
「紗納さん……」
 驚いたことに、女は紗納千秋だった。

第110回

 ベージュ色をしたウールのセーターに、濃い茶色のラム革ジャケットが似合う。
「お久し振りですね。いつぞやは、展覧会に来ていただきありがとうございました」
 本当は、久しぶりというわけではない。出雲の市民会館で千秋を見掛けたのは、年末の二十三日である。
 それにしても、まさか会うとは思ってもみなかった。しかも、病院の前である。
「いえ、お礼状まで頂いたりして、すみませんでした」
 いつであったか、千秋のことを電話で夏夫と話した後、葉書は出しておいた。
「伊折さん、どうしてここに?」
 真沙子が、亮輔の背中を指で押した。
「紗納さん。妹の真沙子です……」
 真沙子が挨拶をし、骨折したのだと話す。
「えっー、そうなんですか」
「たいした怪我ではないのですが、妹のやつが、いつも大袈裟に言うもんですから、困ってしまうのです」
「優しい妹さんじゃないですか」
「いえ、うるさいくらいです」
 千秋は、展覧会に並べていた絵の感想を二つ三つ言った。
 真沙子は少し離れて、亮輔と千秋の話を聞いている。
「紗納さんは……、何でこの病院に?」
「あ、実は、初詣に来たんですが、携帯に電話が掛かったものですから、ちょっと止めさせていただいて……」
「初詣って、八重垣神社ですか?」
 千秋が住んでいるはずの津和野から、なぜ遠い松江まで来たのだろうと亮輔は妙な気がした。
「そうなんです。ここから一キロばかり南の神社……」
「紗納さんは、津和野にお住まいだと思いますが、太皷谷稲成がありますでしょう」
「もちろん、太皷谷にも行きます。でも、八重垣神社は津和野の神社と、いろいろな縁があるんですよ」
 どういうことなのか分からないが、それにしても、わざわざなのだろうか。
「出雲でマンションを建てることにしているのです。その打ち合わせがありまして、ついでに松江まで。それに……」
「それにって?」
「伊折さんに会えるかな、とか思って」
 千秋は意味ありげな微笑みを見せた。
「そんな……」
 亮輔は、心臓を千秋の手で掴まれたような気がした。本気で言っているのだろうか。

第111回

 本当に会えるかもしれないと考えて、松江に来たのだろうか。
 まさかとは思うが、嘘であっても、そう言ってもらえれば嬉しい。
「僕もお会いできればと思っていたんです」
 千秋の顔に七瀬のそれが重なった。
「私も……」
「元日にいただいた年賀状に書いてありましたが、お話があるとか……」
「そうですね。でも、立ち話ではいけませんから、どこか……この近くにお茶でも飲みに行きません?」
 千秋がそう言った時、真沙子が亮輔の背中に声を掛けた。
「それがいいわ。私、用事もあるんで帰りますから、紗納さんに乗せてもらえば……」「あら、ご一緒でもいいわよ」
「ええ、でも……」
 真沙子は、(ごゆっくり)と言い、車のエンジンを掛けた。
 偶然と言えばそうであった。骨折をしていなければ、千秋に会うことはなかっただろうと亮輔は思った。
 千秋が車を止めた喫茶店青い森≠ヘ、田和山町の大型書店に近い場所にあった。駐車場も広く、その名のとおり静かで洒落た感じである。
「松江に来ると、よくここでコーヒーを飲んで休憩するんです」
 千秋が店のドアに手を掛け、亮輔にそう言った。
 何人かの客がコーヒーを飲みながら、本を読んでいる。近くの書店の包み紙が置いてあるから、買ってきた本なのだろう。
 窓際の場所が空いていた。
「私、キリマンジャロ」
 注文を聞きに来た若い女の店員に、千秋が声を掛けた。
「じゃ、僕もそれで」
 同じものという言い方も主体性がない。
「酸味が強いし、ほどよい苦味もあって、私、好きなんです」
 千秋はコーヒーに詳しいらしく、萩市にある長屋門≠ニいう喫茶店の話をした。
客の注文に応じて焙煎し、萩焼のカップで出してくれるという。
「萩に来られれば、ご案内しますよ」
 今のところ萩まで行く用事など何もないが、そんな機会があるのだろうか。
「あら、こんなつまらない話ばかりじゃいけませんよね。お願いしたいことがあるんです」
 千秋が、持っていたカップを下ろす。

第112回

 左手の薬指にはめられたプラチナの指輪が光った。
「さっきお話をしましたけれども、出雲にマンションを建築中なんです」
「出雲の……。どこにですか?」
「出雲市駅の南口です。ウイークリーマンションですけれどね」
「駅の南……」
「ええ、あの辺りは以前と違って、開発が進んでますし、駅に近いということもあって、立地条件はいいんです」
 ウイークリーマンションは、新しい形の賃貸住宅とでもいえるものだ。長期間の出張や二年ばかりの単身赴任には、普通の住宅を借りるより便利である。家具付きが殆どだから、無駄な費用を使わないですむ。
「ロビーに絵を掛けたいのです。それをお願いしようと思って」
「マンションの?」
「ロビーというか、入口の所に喫茶店を作って、絵を並べようと思ってます。豪華な応接間って感じにするとマンションに入ってる人も利用しますし」
「ありがたいお話ですが、どうして私に?」
 亮輔の展覧会で見た紅葉の鰐淵寺と若い女の水彩が気に入ったのだと、千秋は言う。「あの時のパンフレットに、アートディラーっていうんですか、林さんの広告が載せてありましたでしょう。それを思い出して、林さんを通じてお願いしたらと」
「あ、それで……」
「それでって?」
 画商の林から来た年賀状に、絵の依頼があると書かれていたのは、千秋のことだったのだと納得がいった。
「いえ、林さんの年賀状に書いてあったんです。紗納さんのことだったんですね」
 千秋が悪戯っぽい顔をして笑った。
「いけませんでした?」
「いえ、そんなことはないです。描かせていただきます。それにしても紗納さんからだったとは……」
 夏の展覧会がなかったら、千秋と出会うことはなかっただろう。ましてや、絵の注文もこなかったはずだ。展覧会を開くようにと言った林に、感謝しなければならない。
「大きさは、いつかの展覧会にあったくらいでいいんです。それを何点か」
「一枚……じゃない?」
 口の中が乾き、言葉がうまく出ない。
「そうなんですよ。難しいでしょうか」
 同じ注文主から一度に何枚もということは、これまでになかった。

第113回

 勤めを辞めて絵に専念しようかと、ふっと思った。だが、たまたま千秋がそう言っただけで、絵がいつも売れるわけはないと、また思い返す。
「ロビーを絵の展示室のようにしたらどうだろうかな、なんて考えてるんです」
 そのために、何枚かの絵が欲しいということなのかと亮輔は思い当たる。
「ですから、とりあえず十枚くらいを描いていただけるといいんですけど」
「十枚ですか」
 思ってもみなかった仕事である。
「その後は、展示替えも必要ですし、少しずつ描いていただくということで」
「本当に私の絵でいいんですか」
「あら、そんなに遠慮なさることはないわ。立派な絵描きさんでしょ」
 そうなんだ、絵が売れるんだ、と亮輔は何やら自信めいたものがわき上がるのを感じた。
 社長の美郷が買ってくれた絵の値段は、一号が五千円の計算だった。千秋もそれくらいは出してくれるだろう。となると、十号なら五万円になる。それが十枚なら五十万かと亮輔は算盤をはじく。
 千秋に幾らで買ってくれるのかと聞きたいが、口に出せない。
 自分の絵は、これくらいの値を付けているのでということを言うのは当たり前の話である。絵を描き、それを売るということをしているのだから、いわゆる商談をしてもいいのである。
 芸術家だから、金額のことを軽々しく口にしてはいけないのだという妙な自負めいたものにとらわれている。
「どういう絵を描けばいいのでしょうか」 代金のこともだが、何を描くかということを聞いておかねばならない。
「好きなものを描いていただいていいんですけれども、できたら風景、それも出雲の風物がいいわ。例えば築地松とか大社などの古い街並みなどよね」
 マンションは夏に完成するから、それまでにと千秋は言った。
 半年以上ある。だが、会社での仕事をしながらということになると、その期間でも少しきついかもしれない。
 人物画ならばヌードを連想し、画面にいる自分を想像するのだ、という意味のことを千秋が呟いたのを思い出した。
 だが、モデルが誰か分からないにしても、まさかオーナーのヌードなど掛けるわけにはいかないだろう。

第114回

 亮輔の思いを見透かしたように、千秋が言った。
「展覧会の時に、モデルになって描かれてみたいって言いましたよね」
「そうでした」
「私は駄目ですけれども、田園風景にどなたかをモデルにした絵でもいいと思うんです。でも、素人の私が描く人にこんなことを言っちゃいけませんね」
 亮輔はまた七瀬のことを考える。年末に会ってから、連絡もしていない。当てにはしていなかったが、年賀状も来なかった。
「そうだわ。モデルのような綺麗な人といつか一緒でしたね」
「年賀状に書かれていたことですか?」
「そう。どなたなの?」
 千秋の目が笑っている。
「ちょっとした知り合いで、大学生なんです。ある人に頼まれた絵のモデルをしてもらったのですが」
「あら、そうなの。羨ましいわ。若いっていいことだなあ。伊折さんの……恋人?」
 どうなの? という顔になった。
「いえ、別に。世徳大学というところの学生ですから」
 恋人と言われて、確かにそうだと答えたいが、ためらわれる。
「あら、ということは、伊折さんと同じ大学じゃないですか」
 展覧会のパンフレットに経歴を書いておいた。千秋はそれを覚えていたのだろうか。「私、伊折さんのやってらっしゃることに凄く興味があるんです」
「何にです?」
「つまりね、車を売る仕事をしながら絵を描いてるってこと。大変だと思うんです」
「そうですねえ。どっちつかず、というような気もしないではないんです」
「そうですね。失礼な言い方かもしれないけれども、中途半端になったら、せっかくの才能も、絵の世界も伸びないのではないかという気がするんです」
「才能というほどのものはないと思いますが、絵で暮らしが出来ればと思ってます」
「これからも続けるつもりなんですか? お勤めを」
「絵だけでは、食べていけませんから」
 そんなことはないでしょう、と言いながら千秋はコーヒーカップを見詰めている。
「絵をお願いしたわけですけれども、材料などのお金が要ると思うんですが、とりあえず幾らか出しておきましょうか」 
 亮輔は予想もしなかった言葉を聞いた。

第115回

 材料費というよりも前金の意味だろう。どちらであろうと、願ってもない話だった。
「ありがとうございます。そうしていただければ、私は何も言うことはありません」
 亮輔は机に手をついて頭を下げた。
「取引だから当然と思ってます」
「それでは喜んで。でも凄い仕事をしておられるんですね」
「私、不動産を扱ってるんですけど、最初からこうじゃなかったの」
「ご主人は?」
「萩焼を作ってます。どっちかというと趣味に近いかもしれませんね」
「不動産を扱われて長いんですか?」
 千秋はそうでもないと言う。
 山口の徳山学院大学を出て、保険会社に勤めた。結婚して勤めを辞めたが、二年ほどの専業主婦をしてみて考えた。やはり働きたい。家事だけで過ぎていくのは、耐えられなかった。考えた末に、市内の専門学校に通い、宅地建物取引主任者資格を取ったのだ、と千秋は説明した。
「女の人が独立して仕事をする業種の中では、保険とか不動産業が意外と多いのよね」
「それで、今の仕事をされてるわけですか」
「大学の時に友達に引っ越しが大好きな人が居て、一緒にいろんな部屋などを見たのね。それで、面白いなと思ってたわけ」
「女性起業家ってことで成功者ですね」
「よくそう言われるけど、成功ってことは自分の心を豊かにすることと同じなの。別の言い方をすると、死ぬ時に、いい人生だったなと、そう思える生き方をすることだと考えてるのよ」
 亮輔は、本当にやりたいことをやっているのだろうかと、自分を振り返ってみる。
「でも、仕事ばかりしてるわけじゃないの。スポーツジムに行ったり、ダンスとかキャンピングをしたり。演劇なんかもよく観るの。この間のバレエなんかもそう」
「ご主人とご一緒だったんですね」
「違うわ。建設会社の社長さん。出雲の人だけど」
「……」
「ちょっと時間に余裕があったから、誘われて観ただけです」
 すぐに席を立たれましたね、と聞きたかったが亮輔は黙った。
 千秋が腕時計を見た。
「近いうちに、またお会いしましょう。絵のこともありますし」
 松江駅まで送ってもらった亮輔は、千秋の車が西に遠ざかるのを暫く眺めていた。

第116回

 亮輔は千秋と話したことを考えてみた。新しい出雲のマンションに掛ける絵のことである。ただ掛けるのではなく、喫茶店の中にとはいえ、いわばギャラリーのような形にしたいと千秋は言う。
 願ってもない話である。いわば自分だけの常設展示場ということになる。それにしてもと思う。絵の描き手をどうして自分のような者に決めたのか。
 松江現代美術館で開いた亮輔の展覧会の絵に惹かれたからだというのが理由だったと聞いた。
 それにしても……と、また考える。絵だけのことなのか、それともほかに何かあるのだろうか。
 亮輔は、去年の夏からのことを思い返した。展覧会で千秋に出会った。もし、あの時に会場に居なかったとしたら、会うことはなかっただろう。一日中、会場に居たわけではないからだ。
 夏夫から七瀬のアルバイトのことを頼まれた。そして、それ以上の関わりを持つようになった。
 世の中に沢山の人間がいるが、知り合うまでは、どこの誰とも分からない。だが、人はどこかで見知らぬ人と繋がっている。物が作られ、消費する人、たとえば自分という者に至るまでの間に幾人の人間が関わっているのか。最近の言葉でいえば、ネットワークということになるかもしれない。その繋がりの糸は蜘蛛のそれのように、暮らしの中で張り巡らされている。そしてそれは意外な展開を見せてくれる。夏夫から紹介された七瀬とのこともそうである。展覧会からの千秋との関わりも同じだった。
 そんなことを考えていた亮輔は、画商の林を思い出した。林から来た年賀状には、依頼主がいるということだけだった。
 亮輔は、林に千秋と会ったことを言っておこうと思い、携帯に電話をした。
 新年の挨拶をし、亮輔は千秋に直接聞いたことを話す。
「そうでしたか、それはちょうどよかったですよ。お電話をしなければと思っていたところでした。実はね……」
 千秋から林に打診があった。継続して絵を描いてもらいたいと思うが、それだけの意味があるのかということを千秋が聞いたという。もちろん、絵の価値でもあり、亮輔の画家としての値打ちのことである。
「そう聞かれたので、私は太鼓判を押しましたよ」
 去年の夏から、運が向いてきたのか。

第117回

 肩書をアートディーラーと名刺に麗々しく書いている林は五十代半ばだから、それなりの経験を積んでいる。どこをどう押せば、どういう結果になるのか知っているはずだ。亮輔の絵がどれほどのものか、あるいは将来性についての見通しもあるだろうから、あながちお世辞ばかりということでもないかもしれない。
「それにしても伊折さん、スポンサーのような人が付くということは、いいことじゃないですかね」
「ありがたいことですけれども……しかし」
「しかしも何も、いいじゃないですか。心配することなんか何もありゃあしません」
「どうして私のような者に……」
 千秋が計画している出雲市駅南口のウイークリーマンションと喫茶店のことも、林は聞いているような口ぶりだった。
 電話の向こうで、林が低く笑ったように思えた。
「どうしてって……、絵もですが、伊折さんという人に興味があるってことじゃないですかねえ。私はそんなふうに感じたんですが」
「会われたのですか?」
 林の口ぶりから、亮輔は会ったのだろうと思って聞いてみた。
 そうだと林は言い、いろいろ計画も聞きましたが、なかなか積極的な方ですね、と付け加えた。
「伊折さん、折角の機会ですから、この際、もっと売り込んだらどうですか」
「売り込む……ですか?」
「そうです。伊折さんには失礼ですが、絵を描いて、自分で満足していても仕方がないでしょう」
「それはそうです。売れなければ駄目です」 売れるという言葉を林は引き取り、絵自体もそうだが、名前もねと言った。
「せっかくパトロンというような感じの紗納さんが現れたことですしね」
「助けてもらうということですか」
「ですから、伊折さんも絵に自信を持ってですね、あの人に経済的に援助してもらってということですけれども。私が思うには」
 パトロンか、と亮輔は頭の中でその言葉を反すうしてみる。
「それで、紗納さんは伊折さんの絵をどれだけ欲しいと言われました?」
「とりあえず十点。描いて欲しいということでした」
 そこまでは千秋から聞いていなかったようで、林は(ほう……)と呟いた。

第118回

 画家は画商に頼まれた絵を描いて、代金、つまり画料を貰う。自分で売り歩く画家もいるかもしれないが、それは少数だろう。知人などに渡す場合は別だが、絵を描きながら、美術商の真似事などが出来るはずはない。だから、画家は画商からの注文を待つだけだ。当然だが、依頼がなけねば収入には至らない。
「紗納さんと伊折さんの間に、今回は入らないことにしましょう」 
 画商を介しないで、直接の取引にしたらどうだと林は言う。
 画商の中には、かなりあくどい商売をする者がある。新人の画家に将来有望だと吹き込み、相当なマージンを取る、個展を開かせ、絵の売り上げからのキックバックを持ちかけるなどの方法で稼ぐのである。
 亮輔は、林はそういう類の画商ではないと思っている。
「しかし、紗納さんは、林さんを通じて頼まれた形になるわけですが」
「それはそうです。ですが、私の長年の勘から言えば、今回の話は伊折さんにとって、ある意味で新しい道が開けるチャンスかもしれないと思うからです」
「……」
「ダテに、この世界で仕事をしているわけではありませんから」
「私の絵が売れるようになればいいんですが、なかなか……」
 亮輔は幾つかの、日本だけではなく外国の展覧会に入選したこともある。だが、それは亮輔だけではない。幾万といる日本の画家の多くは、それなりの展覧会での入選経歴を持っている。もちろん、賞にも有名なものから、小さな会派のそれもある。
 日展の会員というような肩書でもあればだが、亮輔にとっては夢のまた夢の話で、まるで手の届かない世界だ。
 とりあえず、絵を描く材料が買えて、生活が出来るだけの収入が欲しい。
 千秋の話は、それを実現してくれそうでもある。
「ですから、紗納さんとの関わりで売れるようになれば、言うことはないじゃないでしょうか」
「そうですね。そうなりたいです」
「欲しいという人が沢山になれば、その時には私も応援させてもらいますよ」
 ちらりと画商の本音がのぞく。
 いつのことになるのか分からないが、亮輔はそんな日が来て欲しいと思う。そのためには、まず描かなくてはいけない。

第119回

 例年になく雪の多い日が続いていた。北山の麓は市内に比べると、距離的にはさほどではないのだが、よほど寒いのだろう。市内で五センチの積雪ということだったが、亮輔の家の周りは倍くらいの雪がある。
 七瀬を初めてヌードのモデルとして描く土曜日だった。
 天気が好ければよいのだがと、いつになく朝早く起きて見上げた北山の空は、いつまで経っても暗いままだった。
 納屋の二階をアトリエにしたのだから、もともと壁や天井などがしっかりとしたものではない。機密性がないのである。二台あるガスストーブを全開にした。二時間ばかりすると、それでも北側の透明なガラス窓の内側からは水滴が滴り落ち、曇ガラスのようになっていた。
 七瀬が来たのは、十時前だった。七瀬に会うのは、久し振りである。出雲でバレエを見てからもう二週間も経っていた。
 千秋に会った夜、七瀬に電話をして以来だった。
「亮輔さん。骨折はその後どうなの?」 軽く首を傾げて言う七瀬を見ると、顔の陰影が深くなったように思える。
 少し綺麗になったなと亮輔は思った。好きな女に久し振りに会えば、新鮮に見えるのかもしれない。
「ああ、まだサポーターはしてるけど、随分良くなった」
「そういうのって、日にち薬よね」
 日にち薬というのは、ある意味で精神的な言葉である。どんな苦しみがあっても、時間が経てばやがて忘れてしまうのだ。それにしても、七瀬は古くさい言葉を使う。
「そりゃあ、そうだ。別に薬を付けるわけではないし、いわば自然治癒だな」
「でも、そんなことで済んだんだから、よかったね。妙な折れ方をしてたら、今頃は絵なんか描いてられないよ」
 確かにそうだった。亮輔は、このところ憑いている気がしないでもない。山があれば谷があることは分かっている。いつまでも悪いことが続くわけではない。いくら深い谷でも上に向いた道がある。
「ガスストーブって、エアコンより温かいね。でも、恥ずかしい……」
「なんで?」
「だって……」
「七瀬を知らないわけじゃないし」
「そりゃあ、そうだけど。でも、そんな目で見ないでね」
 言われなくても分かっている。

第120回

 七瀬の胸はどちらかというと大きい方なのだ。黒のワンピースが体に貼り付いたようになっているせいか、乳房がさらに飛び出すように見える。
 肌は白い。しかも体のバランスからいえば、手と足が長いからモデルとしてはいい方だと亮輔は思っている。
 亮輔は七瀬の衣服の上から、肌やフォルム、乳房、そこから下に流れる腹部の形、ウエストのくびれ、背中に回って臀部の二つの丸み、足首などをなぞる。
 七瀬はさすがに自分で絵を描いているから亮輔の絵描きとしての視線が分かるのだろう。(やだ)と呟いた。
「やだ……って、何で」
 亮輔は、また同じことを聞く。
「だって、じっと見るんでしょう」
 思わず亮輔は笑った。
「じっと……か。当たり前だよ。しっかり見なきゃ描けない」
「そうだけど」
「見るったって、初めてというわけじゃないだろ」
「それはそうだけれども、亮輔さんは裸じゃなくて、私だけがそうだから」
「だから恥ずかしいというわけか」
「そうでもないって言うと嘘になるかもしれないけれども、こういうモデルは初めてだから……」
「この間の電話で、いいって言ったから」
 亮輔は七瀬に確かめたのだ。
「ええ、もちろん。私、亮輔さんの、いえ先生のモデルだから」
 七瀬は、先生と亮輔を言う。その言葉で距離を作るという意味かとも考える。
「嫌なら、やめてもいいんだ……」
「します。これってお仕事だから」
 七瀬は黙って服を脱いでいく。 
 アトリエには、幾つかの絵が乱雑に置かれている。積み重ねたものもあれば、壁に立てかけたものもある。百号から小さいものは葉書ほどの大きさのものまであるが、考えてみれば、どれだけあるのか数えたこともない。そんな必要もない。
 床や机の上、棚にも画材が散らばっている。疲れた時、横になるのに便利だから、大きめのソファも置いている。
 亮輔は七瀬を描くために、白い厚手のマットレスを買ってきた。
 背景になる衝立のようなものが欲しいが、そこまで余裕もない。白いカーテンのようなものをいつか準備しようと亮輔は思った。

第121回

 七瀬が自分で用意してきた青いガウンの襟を両手でかき合わせながら、どうすればいいかと目で聞いている。
 七瀬の裸体は既に見ているのだが、亮輔にはまるで新しいそれのように思えた。
 亮輔は、ロイヤルホテルで七瀬と過ごした夜を思い出した。浴室から出て来た七瀬の体を包んでいたバスタオルが、外れて落ちた。その時に、ウィリアム・エッティの『水浴するミュージドーラ』の絵に似ていると思ったのだ。
「どんなポーズ?」
 ガウンをマットの上に落とし、裸になった七瀬が聞いた。
「腹這い……だな。膝は曲げたままで両手を前に出して」
「こう?」
 言われたとおりに、七瀬がマットの上に腹這いになる。 
「そうだね」
「時間はどうなんですか?」
 少し描いたら休憩を入れる。無理な姿勢であれば長い時間は持たない。七瀬に要求した姿勢ならば、やりにくいことはないはずである。
「最初だから、十分を一回にしようか」 はい、と言いながら七瀬は両手を伸ばす。「十分やって、十分の休憩をしよう。それを三回か四回ってことで……」
「分かりました」
 亮輔はB3の紙を画板に広げた。鉛筆はどれにしようかと迷った。安くあげるために、いつもは三菱のユニを使っているが、七瀬を見ながらドイツのステッドラーの3Bを手にした。確か、一本が二百円ちかくしたはずだ。
 松江現代美術館の売店で買った。美術館のロゴが木部に刻印してあるものだ。
 亮輔は、これまでに幾度か裸婦のデッサンをしたことはあるが、いつもグループだった。モデルの経費は描き手の人数が多ければ、それだけ一人当たりの負担が少なくなるからだ。
 モデルと一対一は初めてである。思わず鉛筆に力が入った。
 亮輔は、二度ばかり肩を上げ下げする。 呼吸をする七瀬の体が微かに動く。下を向いた左の乳房が小さく揺れる。
「ごめん……」
 気付いたのか、七瀬が呟く。
 体の奥で、ある種の衝動を感じた。
「いや、いいよ。無理しなくていい」
 言いながら、その思いを払い除ける。

第122回

 亮輔は、楽しんで描かなければいけないと思っている。更に、何を表現したいのか、心の中にあるものをどのように表現するかが大事だ。亮輔は、七瀬の気配を描きたいと思う。
 高校生の頃だった。絵を描き始めた時、その時の美術教師は技術という言葉をよく使った。
 七瀬を見て鉛筆を動かしながら、それを思い出した。
 技術が先ではない。自分が何を描きたいかというものがあって初めて技術が必要になる。技術ばかりが先に歩くと、巧い絵になるかもしれないが、いわば型にはまった、判で押したようなそれになりがちだ。
 ガスストーブのせいなのか、額に汗が出たのを亮輔は感じた。壁に掛けた時計を見ると既に十分が過ぎている。
「休憩しようか?」
 亮輔は鉛筆を置いた。
「疲れた……」
 七瀬が言いながら、ゆっくりと体を起こし、ガウンを手にする。
「無理だったかな?」
「違う。いえ、違います。モデルは大学でやったことはあるけれど、裸じゃなかったから。でも今は、なんか緊張したんです」
 七瀬の話し方が、時々変わる。媚びのある言い方をしてみたり、距離を置いたりするのだ。モデルと描き手という意識が出てくるのだろう。
「無理な姿勢だと、どうしても負担がかかるしね。途中でポーズが出来なくなっても困るだろうし」
「そうですね。私、楽をしたいから、あれは出来ない、これは駄目っては言わないつもりです」
「……」
「お金を貰うしねっ」
 七瀬が立ち上がり、ガウンに手を通しながら笑った。
 インスタントコーヒーを入れた七瀬が、ソファに座った。裾が割れて、ちらりと太股が見えた。モデルから女に戻っている。
「それはそうだけど」
「ポーズの研究を時間がある時にします。亮輔さんのために。いえ、先生のため」
「ああ、ありがとう」
「はい、これ」
 亮輔は、七瀬が差し出したカップを両手で包んだ。温かかった。ゆっくりとした時を感じた。一人で描いている時には感じたことのない空気だった。

第123回

 屋根から雪がずり落ちる音がした。ずるずると落ちるのではない。大きな雪の塊が落ち、地面に重い音をたてるのである。 
「モデルになるというのは、どんな感じ?」
 亮輔は、コーヒーの湯気を見ていた。
「うーん、そうですね。描く側でなくて逆の立場ですから。何と言ったらいいのか」
 裸のモデルは、初めてだと言う。
「恥ずかしいと言ったのは、裸になるということもだけれども……」
「けれども?」
「先生と……泊まったでしょう。その私の体がどんなふうな絵になるのかと思ったからなんです」
 もちろん、時間は経っているが、そういう関わり方をした体は、男の前に立つと内側から滲み出る何かがある。匂いのない香りでもある。
 その体が何枚かの絵になり、破り捨てられない限り残っていく。
 描かれた絵は常に同じではない。真正面から、後から、あるいは見上げるように描かれた絵は形だけでなく、そこに何かの雰囲気を醸し出す。
 七瀬が言うのは、そのことだろう。
 潤った肌、輝き、艶やかさが、その男の前に立つと更に色づく。それが恥ずかしいと言う気持ちになったのだ。体の深まりを持ち続ければ、絵も変わっていくのだろうかと、七瀬と話しながら亮輔は考える。
「聞いて……いいですか?」
「何?」
「鉛筆をカッターナイフで削るんですね」
「そうだよ。どうして?」
「私……、鉛筆削りでやるんです。どうしてナイフで?」
 鉛筆はカッターナイフで削った方がいい。鉛筆削り器では、芯の出ている部分が短くなる。そういう鉛筆で描くと、ぼやけた感じになってしまう。それに、少し描いたところで直ぐに芯が丸くなるから、また削らなくてはいけない。それよりも、鉛筆の角度が調整できないから、微妙な濃淡や線を表現することが難しい。自分の手で削れば、それはない。
「へえー、そうなんですか。初めて知っちゃった」
 七瀬とコーヒーを飲みながら話をして、また描く。亮輔は、いいデッサンが出来そうだと思った。二回の休憩をした後、七瀬がマットの上に体を横たえ、亮輔は鉛筆を握った。
 電話が鳴った。

第124回

 アトリエ専用の電話機だ。
 鉛筆を動かす手が止まった。電話機を眺めた。留守番電話にしておくべきだったと思った。携帯電話は、電源を切っておいた。
 七瀬が(出たら)という顔をする。亮輔は頭を小さく振り、無視するという目で七瀬を見た。暫く鳴っていた呼び出し音が止まった。
 しかし、間を置かず、また鳴り出した。
 亮輔は、ディスプレーを見た。会社の番号が並んでいた。土曜日だが、休暇を取ると会社には言ってある。休みを承知で掛けてくるのは、よほど急ぎの用事なのだろう。
 同僚には、用事があっても連絡は後にしてくれと言ってあった。
 受話器を取った。
「伊折君か? 申し訳ないが、これからすぐに会社に出てもらえないか……」
 販売部長からだった。
 土曜日だからなのか、急に客が多くなった。社に居る社員では手が足りない。休暇ということは分かっているが、どうしても出て来てほしいというのである。
 各メーカーが新車を投入したこともあり、初売り以後、客足が例年になく伸びていた。連休うちの土曜日だから、そのせいもあるだろう。
「しかし……私は休暇を」
「それは分かっている。頼むよ。君も承知しているように稼ぎ時なんだ」
「ほかに誰か居ませんか?」
「居ないから、君に掛けてるんだ」
 苛立った声になっていた。気の短い部長である。性が合う方ではない。
 販売部だけで宴会をした時だった。かなり酔った部長が、絡んできたことがある。
「優雅なものだな。絵を描いて暮らすというのは……。絵じゃなくて、車を売ってほしいんだがね。我が社としては」
「勤務時間に描いてるわけじゃないです」「そういう問題ではないんだよ。君」
 まあ、まあ、と間に入った副部長が、話をそらせ、その場はそれで済んだ。
 社長に頼まれて描いた絵のことを言っているのだろうと、その時、亮輔は思った。
 絵を描くために、休みを取ってもいいのだと、社長の美郷が言ったことがある。それが、社内で噂になったと聞いていた。もちろん、頼まれた絵を描くために休暇を取りはしなかった。
 社長に頼まれたからとはいえ、確かに、それは会社の仕事ではない。亮輔と美郷の個人的な話なのだ。

第125回

 いくらデッサンだといっても、せっかく描き始めた七瀬の絵を中断したくない。
 七瀬を描くために、構想を練ってきた。ここでやめると、思い描いてきたシュミレーションの意味が半減する。
 会社には、今から出るとは言ったものの、何ともやり切れない。
「会社から?」
 気配を感じたのか、七瀬がガウンを羽織って立ち上がる。
「会社が忙しいんで、出ろって」
「今日は会社は休みの日じゃなかったんですか?」
「当たり前だよ。土曜日でもやってるんだ」「ということは、休暇を取っていたんですかあ。そうなんだ」
 亮輔は鉛筆を放り投げた。
「悪いな。せっかく来てくれてるのに」
「いえ、私はいいんです。でも、先生……」
「何?」
「こんなんで描けるんですか?」
 七瀬が、睨むようなきつい目をした。
「……」
「先生は、何のために描いてるんですか。趣味ですか」
 七瀬に言われるまでもなく、自分でも分かっている。
 仕事の合間に描くということは、いわば片手間でしかない。
 いつかの販売部長の嫌味ではないが、絵に専念すれば仕事の手を抜くことになる。絵が趣味ならば、それでもいいだろうが、亮輔はそうは思っていない。
「先生、本当に絵を描くんですか?」
(本当に、絵を描くのか……)と、七瀬が言った言葉を繰り返した。胸の奥が冷たくなるような気がした。
 絵を描く気があるのかと、七瀬は言っているのだ。
「いい絵を描いてほしいから……」
「もちろん、そうだ」
「だから、私は先生のために裸になってるんです」
「……」
「米子の夏夫おじさんからの話で、こうなったんです。バイトってことでした。私はそうなんですが、でも、先生は違うでしょう。思い通りの絵が描きたいからです。そうじゃないですか?」
「……」
「ちゃんと描いてください。でなきゃ、私は亮輔さんを、先生を嫌いになります」
 七瀬の目が潤んでいた。

第126回

 七瀬のヌードをアトリエで描いた日から数えて、五日目になっていた。
 アトリエに続く寝室で亮輔は目を覚ました。枕元の目覚まし時計を探る。透かすようにして見ると、午前五時だった。
 雪の朝は、静まりかえった独特の気配があるものだ。降る雪が、全ての音を吸い込んでしまうからかもしれない。
 昨夜遅く、千秋から電話があった。依頼した絵のことで話がしたいから、会社まで訪ねて行くという。
 わざわざ訪ねて来てもらうのは気の毒だと言ったのだが、千秋は聞かなかった。
 亮輔が会社に着いたのは、いつもより三十分ばかり遅い九時だった。
 雪のために、小さな渋滞があちこちで起こっていたせいだ。
 キャメルのカシミアコートを着た千秋が、ショールームで車を見ていた。
「紗納さん……早いですね」
 亮輔が声をかけ、千秋が振り向いた。
「お久しぶり」
 フォックス襟が暖かそうだった。締めたベルトが千秋の腰を細く見せている。
「折れた骨、大丈夫ですか?」
 正月明け、周藤外科医院で会って以来だった。妹の真沙子と一緒に骨折の治療に行った時だ。
「ええ、何とか」
「そう……。お若いから、すぐに治りますよね」
 亮輔は千秋が何歳なのか知らない。だが、年上であることは間違いはない。
 受付の女性社員にコーヒーを頼んだ。
 千秋は車のことで来た客ではない。いわば亮輔の私用の相手である。だが、であっても、ショールームに客が来ることが大事だと亮輔は思っている。買う買わないというのは、別問題である。
「かなり良くなったんです。サポーターをしてますが、そろそろ無くてもいいかなという感じなんで」
「でも、たいしたことなくて良かったわ」
 言われて亮輔は、顔が少し赤らむ。
 また雪が降り出した。雪が降ると途端に事故が多くなり、工場への入庫が多くなる。
「お客さんが多いんですね。伊折さんも忙しいでしょう?」
 亮輔は、七瀬を描いている時に掛かってきた電話を思い出した。
「絵の方は、会社のお仕事とうまく噛み合います?」
 言われるまでもない。

第127回

 絵を描くことに専念したいと、以前から思っている。だが、当然のように、それで生活が成り立つかという不安がいつも湧き上がるのである。
 仕事と噛み合っているかと、千秋は言う。両立しているかということだが、問われて、そうだとはっきり答えられない。
「やはり仕事をしていると描けないです。趣味ならば、それでいいのですが」
「そうでしょうね。でも、よくやってらっしゃる」
「……」
「ここの仕事が好きで、自動車販売会社に入ったんですか?」
「恥ずかしいのですが、ともかくどこかに就職できればいいと思ってました」
「どこでもいい……。本当は誰でもそうなんでしょう」
 大学を終えて就職をする時に、自分の人生などという大袈裟なことまで考えてはいなかった。
 本来ならば、誰でも仕事を通じて生き方を充実させたいという思いがあるはずである。そこから仕事を選ぶ。
 亮輔は車の販売というビジネスを選んだのだが、いろいろな意味で客のために働き、周囲から評価され、自分のやる気と充実感を手にすることになると思ってはいる。
 亮輔は、本当はそう考えているのだが、まだ迷いがあると言った。
「私のやってる不動産というか、マンション経営なども、お客、つまり入居している人から喜ばれるから仕事を続けられるんですね」
「自分を軸にしてみるか、他人を軸に考えるかということでしょうか」
「そうね。確かに経済的な基盤を持たないと、いくら理想ばかり言っても駄目なんでしょう。伊折さん、そう思いませんか?」
 亮輔は、受付カウンターに向かい、指を二本立てた。コーヒーを追加という意味だ。そういう約束になっている。
「あら、いいのよ」
 気付いた千秋が言う。
「仕事が中心でもいいんでしょうが。それで人生が幸せなら」
「伊折さんは絵じゃないの? 死ぬまでを経済的な意味での仕事にコントロールされるんじゃなくて、逆ではないかと思うの」
「分かりますが、それが絵を描くことでということにはならないんです」
「人生を仕事に合わせるんでなくて……」 千秋が、運ばれてきたカップを手にした。

第128回

 雪がやみ、淡い陽が射してきた。ショールームの客足が途絶えた。
「何か?」
 千秋が来たのは、依頼した絵のことのはずだから、その話なのだろう。
「実はね。お正月明けに、田和山の喫茶店でお話をしたこと……」
 亮輔は何だったのかと考える。
「頼まれた絵は、まだ描いてないんです。構想は少しずつまとめてはいますが」
「いいんです。急ぎませんから」
「……」
「絵だけでは食べていけないって、おっしゃった。で、私はそんなことはないでしょうと」
 そうだったと思い出す。
「あれからいろいろ考えたんです。私はそうは言ったけれども、どうしても伊折さんに、きちんとした仕事、もちろん絵のことですが、それをしてほしいと思うのです」
「絵を描いてほしいと言われました。ありがたいと思っています。でも、どうして私なんですか?」
 千秋は暫く黙っていた。
「懸命に絵を描こうとされてる伊折さんは、素敵だと思います。そういう男の人って、……好きなんです」
 好きだ、という言葉は小さい声だった。
 聞こえるはずはないのだが、亮輔は、思わず受付を見た。女の社員は、髪に手を当て俯いたまま書類を眺めている。
「……」
「もちろん、取引ということもありますし、それはそれなりのことをしなくてはいけません。お願いした絵がいいものでなくてはいけませんし」
「それはもう、しっかり描きます」
「プレッシャーってことじゃないんですよ」 千秋が微笑んだ。つられて亮輔も笑い、あの時のやりとりを思い出す。
「材料なども要るので、幾らかをまず差し上げておこうと言いました」
 確かにそうだった。予想もしなかった言葉だったのだ。忘れていたわけではない。催促するのは失礼だと思っていた。
「少し持って来たんです」
 千秋は、黒いハンドバッグを引き寄せた。ソフトキャビアのシャネルだった。
「ここに五十万あります。とりあえずということで」
 二十五万ずつだろうか、二つの束になっている。それを千秋は押しやった。
 五十万……、亮輔は思わず呟く。

第129回

 千秋と以前に話をした時、一号を五千円の計算にすると十号なら五万円ということを考えた。絵は十枚と聞いているから、それだけで五十万円になる。その代金のことだろうか。だが、千秋は(とりあえず)と言った。どういう意味だろう。十枚分か、それとも材料などの経費ということなのか。いずれにしても、目の前にある五十万円は、ひと月分の給料よりも多い。
「これは?」
「ええ、さっきも言ったように、とりあえず差し上げておこうと思って」
「とりあえず……ですか」
「そうです。絵を描かれるのに、いろいろ費用が必要でしょうし、それに……」
 千秋が少し口ごもる。
「それに、何度も言うようですが、伊折さんに、いい絵を描いてほしいんです。そのためには、絵に打ち込むってことが大事になりますよね」
 亮輔は千秋が何を言いたいのだろうかと思う。
「描くことに明け暮れするというのは、無理なんです」
「それはそうでしょう。こうしてお仕事をしておられるんですから」
「食べていかなきゃならないんで」
 亮輔は、食べるなどという俗っぽい言葉を言った自分に笑った。
「伊折さん……」
 千秋の目は笑っていなかった。
「え?」
「失礼なことを言うようですが、伊折さん、私の会社の社員になりません?」
「社員に……ですか?」
 千秋はいったい何を言っているのだろうと、亮輔は思った。勘違いしていないか。千秋の会社は、不動産を扱っている。確かに営業、あるいはセールスという点から言えば車の販売と共通することはあるだろう。当然、転職は自由である。期間が決められていない契約ならば、いつでも仕事を辞めることは出来る。
 だが、自分の会社に来ないかというのは、それまでの実績、もしくは実務の経験が役に立つからである。かといって、亮輔の関わる顧客が、千秋の会社の営業にすぐに結び付くとも思えない。
「伊折さん、夏目漱石ですけど」
 亮輔は、驚いて千秋の顔を見た。
「漱石は東京大学の先生から、朝日新聞に入ったんですよね」
 どこかで聞いた、と思った。

第130回

 転職の話をしているかと思えば、突然に明治の文豪が出てくる。
「明治の終わり頃かしらね。朝日新聞社が漱石を招いたんでしょう?」
「そう言われれば、聞いたことがあります。それが私と?」
「そうなの。関係があるのよ。いえ、冗談です。ともかく、漱石は転職して朝日に入り、小説を書くんですね。『虞美人草』だったかしら……」
 朝日新聞社は、漱石を招聘して入社させた。漱石は、その時点から朝日新聞に連載小説を書き、本格的に職業作家となるのである。つまり、朝日新聞は、漱石の新聞小説を独占したことになる。
「それで?」
「ええ、伊折さんに小説を書いてもらうために、私の会社に来てほしいなんて言いません」
 それはそうだろうと亮輔は思う。
「伊折さんは、絵の漱石よ」
 千秋は、歌うような調子でそう言った。「紗納さんの会社で絵を描くんですか?」「ええ、まあそういうことなるかもしれないけれども、仕事もしてほしいわ」
「不動産関係のですね」
「もっとも、それは名目よ」
「そんな……」 
「形だけって言っても、伊折さんのこれまでの経験とかスキルは大事だから、それは何かの形で活用させてもらいます」
「たとえば、どういうことですか?」
「そうね。社員の相談にのってもらうとか新入社員の教育など」
「教えるなんて、とても」
「だから、会社での時間に絵を描いてください」
 東洋自動車販売からの給料と同額を出す。もちろん、社員として扱うが、殆どの時間は絵を描くことに費やしていいと千秋は言う。
 亮輔は、受付に目をやった。あまりの驚きで、ぼやけて見える。冬の陽が窓ガラスを通して白く光っていた。
 棚からぼた餅などという古くさい言い方があるが、まさにそうだった。
「しかし、紗納さんの会社で絵を売るということではないでしょう? 私の絵なんかが、そうそう売れるということもないでしょうし」
「いえ、あるかもしれません」
 千秋の考えていることが、何となく見えてくるような気もする。

第131回

 出雲のウイークリーマンションに喫茶店を作り、絵を並べ、いわば共有の応接間という感じにしたいと千秋は言っていた。店の造作によっては、ちょっとしたギャラリーにもなるかもしれないと亮輔は思う。頼まれた絵は、そこに飾るものだ。
 主として亮輔の絵を並べれば、それは専用の画廊とでも言える。
 願ってもない話であった。更に、その絵を描くために、自分の会社へ社員として入れる。そして、多少は会社の仕事をするにしても、絵に専念してくれればよいと千秋は言う。
 絵を飾るだけのために、そこまでする必要があるのか。売れる絵ならば、それはいいのだろう。だが、入賞歴があるにしても、自分の絵が商売になるほど売れるとは、とても思えない。
 千秋は亮輔の絵が売れるという目算があるのかもしれない。というよりも、何かの方法で売ることを考えているのではないか。(いえ、あるかもしれません)と千秋が言ったことは、そういうことかと思う。
「展覧会は何度かしましたし、ちょっとした賞も貰ったことがあります。それにしても、そんなことで絵が売れるとは……」
「ベストセラーの本ってありますね。内容がいいから売れるということもあるんでしょうが、ひとつは戦略ね」
「戦略?」
「そう……。メディアとのタイアップというのが、最大の武器になるんじゃないかな」
 音楽CDや本にしても、その作品が売れるか売れないかを考えるのではなく、売るのである。
 千秋は更に続けた。
「ベストセラーは、本を読まない人によって作られるって、何かの雑誌で読んだことがあるの」
「……」
「それはね。本なんか読まないと言う人が、不意に買って読もうというのは、売れているから、面白いって聞いたからですって」
「そういうこともあるかもしれませんね」
「だから、そんな仕掛けをするわけ。私は、それこそ面白いと思ったの」
 仕掛けというのは、そういうことかと亮輔は思うのだが、内容が伴わなければ一過性で終わってしまう。
「伊折さんの絵で、そんなことは考えてないんです。いい絵でなくちゃね」
 ともかく描いた絵を、それも常設で見てもらえる場が出来そうである。

第132回

 描けるかどうか、いい絵が出来るかどうか分からないのだが、亮輔は千秋にかけてみようという気になる。
 少なくとも安定していると思える仕事から離れるというのは、いわば冒険でもあるかもしれない。失敗に終わるかもしれない。
 だが、一生に一度くらいはそういう経験もよいのではないか。
「どうなんでしょう、私の会社に来てもらいたいという話は」
 一瞬、無音の世界に入ったような気がした。客の出入りする足音も、電話の呼び出し音も聞こえない。思わず目を閉じる。
 思い切って飛び降りてもいいとは思うが、今ここで是か非かの返答は出来ない。
 七瀬や両親、妹の顔が浮かぶ。どう言うだろうか。
 だが、仕事をしないということではない。千秋の会社に転職するのだ。絵を描くということにこだわるから躊躇するのだろうが、よりよい条件を求めて……と考えればどうだろう。
 転々と職を変えるということではないし、流行のフリーターでもない。トラバーユである。 
「いいお話かと思いますが、暫く考えてみます」
「それはそうですね」
 寄らば大樹の陰という昔からの言葉もあるが、東洋自動車販売という会社は大企業とまでは言えない。社長の美郷には悪いが、それほどの会社でもない。
 七瀬の顔が浮かんだ。(こんなんで描けるんですか)と言った。(何のために描いてるんですか。趣味ですか)と追い討ちをかけた。
 潤んだ目で、(ちゃんと描いてください。でなきゃ、私は嫌いになります)とも叫ぶように言ったのだ。
 七瀬なら、(いいじゃない。出来るわよ)と賛成してくれそうである。
 米子の夏夫に相談してみようかと、亮輔は思う。
「年度変わりってこともあるんでしょうが、私の方はいつでもいいんです。ずっと考えていたことですし、それなりの立場というかポストも用意しますから」
 受付の社員が、(工場にお客さんが、お待ちです)と背中から囁いた。それを見て、千秋は(じゃ、いずれ……)と席を立った。
 亮輔は、五十万円を背広の内ポケットにねじ込んだ。
 周りの空気が動いたような気がした。 

第133回

 五十万円、と亮輔は呟いてみる。
 これまでに幾つか描いた絵が代金に換わったことはある。
 だが、今度のそれは少し違う。まだ絵を描いてもいないし、千秋に売ったわけでもない。ウイークリーマンションが出来るのは夏の話である。だから、絵を並べるという喫茶店はもちろんのことである。
 工場に車を持ち込んだ亮輔の客が帰った。亮輔は携帯を取り出し、 夏夫の勤める北陽放送の番号を押す。
「よお、どうしてる? 絵の方は順調か?」
「それが……思わぬことになった」
 夏夫の息を呑む気配がした。
「ご両親に何か?」
 亮輔は、ふっと高校の頃を思い出した。かつて亮輔の家で下宿をしていた夏夫の面倒を父も母もよく見ていたからだ。
「違う。まだそんな歳じゃない」
 夏夫は(そうだな)と言って笑った。
「実は、紗納さんから会社を替われと言われた」
 千秋から依頼された絵のことも、夏夫には話をしていない。
「それはどういうことだ?」
 出雲に千秋の会社がマンションを建て、喫茶店を作って小さな画廊のようにしたいという計画があることを話した。
「それで、そこにお前の絵を置くというわけか。そりゃあ、いい話だ」
「そういうことになる」
「それで、会社を替わるというのは?」
「紗納さんの会社に来てくれと……」
「紗納千秋さんの? それはまたどういう話なんだよ」
 驚いた表情が見えるようだった。確かに出し抜けであることには違いない。
「つまりだな……」
 亮輔は、もう一度、千秋に頼まれた絵の話から、貰った五十万円のことも含め、洗いざらい言う。
「ふーん。なるほど。それで相談というわけか?」
「まあ、そういうことだが……」
「相談というが、もう決めてるだろう?」
「まあ……」
「ならば、それでゴーさ。俺はいいと思う。収入が無くなりはしないという安全弁もあるし、それに、車を売るというのが、男一生の仕事ってわけじゃない」
「絵を描きたいからな」
「ある意味で羨ましいな。そういう話は」
 亮輔は決断する。

第134回

 亮輔は(安全弁)と、夏夫の言葉を頭の中で繰り返してみる。拡大解釈をすれば、それは千秋に一切を頼るということにもなるかもしれないのだ。いわば、千秋の言いなりになるということでもある。
 亮輔は、ふと得体の知れない何かを感じた。それが何なのか分からない。亮輔は、頭を二度、三度と横に振る。
「そうだな。スポンサーということになるだろうな」
 背広の内ポケットにある五十万円を片手で押さえる。分厚い札束の感触があった。
「なるほど、それにしても、今どき珍しい人が居るものだ。勤めをしてはいるが、実際は会社の仕事をせずに絵を描いているというわけか」
「不思議な展開になった」
 亮輔は、去年の夏から秋、そして一月と、これまでにない早さで時間が進んでいるように思う。
「そう言えばそうだが。もっとも、失業するわけじゃないし、つまりは転職っていうことだ」
「会社を替わる……。そうだな」
 亮輔はもう一度自分に言い聞かせるように言ってみる。
「去年の夏、伊勢宮でお前は、勤めていて絵が描けるかと言った……」
「ああ、あの時、そう話した」
「それが半年ばかりで実現するなんてのは、思ってもみなかった。実際は紗納さんの会社の社員ってことになるけれども」
 考えていた方向とは少し違うが、絵で生活をするということだと亮輔は思う。
「絵を専門にということだから、スポンサーとしての紗納さんには、お前のことについて何か思うことがあるのだろう」
「いずれにしても、経営というか、俗に言えば商売ということか……」
 夏夫はそうだ、というように頷く。
「一生の間に、一度くらいはそういうことがあってもいいだろう。期待してるからな」
 亮輔は夏夫と話をして、肩の荷がおりたような気がする。
 その夜、亮輔は両親に話をした。
 県の海洋研究センターに勤めている父は今年の三月に退職だが、退職金を当てにして船を買い、仕事の延長にもなっている趣味で海洋生態系の研究をしている。
 そのこともあってか、若い時には思い通りのことをやればいいと言ってくれた。母も頷いていた。
 その夜も雪だった。

第135回

 七瀬がアトリエに来た二月終わりの日曜日は、雪が降っていた。
「寒かったあ」
 両手に息を吹きかけながら、部屋に入って来た。アトリエには、いつものようにガスストーブを二台置いている。少し汗ばむくらいの温度になっているはずだ。
「先生、やっぱりこの辺りは雪が多いんですよね。山がすぐのせいかなあ」
「北山があるからな。風が雪を一緒に持って来るっていう感じだから……」
 七瀬は、亮輔が座っているソファの後ろで脱いでいく。
 振り返ると、背中を向けていた。
「恥ずかしいか?」
「いえ、そんなことないです。もう、そんなことないです。でも見ないで」
 モデルになるというのは、仕事だと思えば恥ずかしくはないはずである。
「衝立か何かを用意しようとは思ってるんだが」
「うーん、あった方がいいかなあ。私はどっちでもいいけれども」
「いらないか……」
「でも、私以外の人を描くんだったら、それでも見えない所で脱ぎたいと思うでしょう。だから、カーテンとか衝立なんかがあった方がいいかもしれないですよ」
「七瀬以外? そんなモデルはいないよ」
「そうかなあ。でも、亮輔さん、違った、先生、私だけ描いてね。ほかの人の裸を見るのやだ」
 そうかもしれないと亮輔は思う。
「勉強のために描くんでしょ? だから」
 二時間ほどのデッサンを終わりにした後、亮輔はコーヒーを飲みながら、千秋からの話を言わなければいけないと思った。
「佐木君……」
「七瀬って、言って」
 モデルの時間は終わったのだ、と亮輔は苦笑する。呼び方を変えて、というのはいかにも七瀬らしい。亮輔もその方が気楽だ。
「七瀬。実は……」
「何? もったいぶってる」
 去年の暮れだった。出雲市民会館で七瀬とロシア国立ノボシビルスク・バレエ団の白鳥の湖≠見た時、亮輔は千秋が来ていることに気が付いた。七瀬は、亮輔が戸惑ったような顔を見せたことを不審に思ったらしかったが、それが誰であったのか言ってはいない。
「別にそんなんじゃない」
 どう切り出そうかと亮輔は思案する。

第136回

 東洋自動車販売は、年度終わりで辞めることにしている。
 社長の美郷にも話をした。最初は慰留されたが、絵に専念したいと、かなり強硬な姿勢だったせいか、しぶしぶながら賛成してくれたのだ。ただ、千秋の会社のことは黙っていた。どうやって生活をするのかと美郷は聞いたが、(何とか頑張って……)としか言わなかった。
 一度、決めてしまうと心残りはなかった。これまで、会社、というよりも仕事と絵の兼ね合いにこだわっていたことが嘘のようだ。いわば憑きが落ちたような気持ちだった。しかし、千秋の話からすると名目上ではあるが、不動産会社の社員だから、勤めと絵の両立ということにはなる。
 七瀬にいきさつを話すとなれば、千秋のことから説明しなければならない。
 長い話になりそうである。
「実は……。会社を辞めることにした」
「えっ、そんなあ」
 亮輔は七瀬の驚く顔がおかしいと思う。絵に打ち込めと七瀬は言ったのである。
「だって、七瀬は賛成だったはずだ」
 それはそうだけれども、と言いながら七瀬は口を尖らせた。
「相談してくれなかったじゃない」
 言われてみれば、そうである。会社で落ち度でもあれば別だが、何も問題はないのに退職すれば、誰でも不審がる。
「今の会社は辞めるんだが、別の所に就職、というか転職する」
「会社を替わる? 話が違うんじゃない。で、どこの会社に。何の会社? そこで何するの?」
 七瀬は引きつるような声を出して、咳き込む。
「そんなに一度に聞いても答えられないじゃないか」
「はい……」
 替わることになる紗納千秋の会社は、防長住建≠ニいう名称で、本社を山口市においている。その会社で絵を扱うようなことを考えていて、出雲でそれをするのだと、かいつまんで七瀬に話す。
「山口の会社の社員になるわけ?」
 七瀬は呆れたような顔をした。
「そうじゃない。出雲のマンションを拠点にしてやるっていうことだから……」
「紗納千秋って、どんな人なの? きれいな人?」
「さあ、どうだろう。ごく普通の……」
 五十万円のことは黙っている。

第137回

 きれいな人かと七瀬に聞かれ、亮輔は鼻筋が通り、白く凛とした千秋の顔を思い浮かべた。
 初めて千秋に展覧会の会場で出会った時、それに惹かれた。裸婦のモデルになってみたかったという言葉も、それを増幅させたのだ。
 七瀬とそれなりの関わりになってはいるのだが、更に千秋のことも頭から離れない。 通りすがりの人であったはずの千秋が、去年の夏からしだいに繋がりが深くなっていく。
 年の初めに偶然の出会いがあり、ついには千秋の経営する会社の社員になることになった。しかも、絵を描きたいという思いを経済的に裏付けることもしてよいと千秋は言う。
「普通のって……。そんな人がどうして、会社に雇ってくれるって言うの?」
「それが……どうなんだ」
「どうなんだって。不景気な時に、しかも、畑違いな自動車会社の人を雇うなんて」
「だから、不動産の仕事に絵の関係もくわえたいという、つまり、新しい事業を起こしたいんじゃないかと思うんだ」
「でも……。なんか変」
「どうして」
「絵を事業の一つにするってことでしょう。ギャラリーなんかやってる人ということなら分かるけど、なんてったって素人……失礼だけど、そう思うから」
「紗納さんは違うと思う。陶芸の方にも関心があるみたいだし、多角的にやりたいということだろう」
「亮輔さんの絵が売れるという目当てがあるんだろうか。あ、ごめんなさい。変なこと言っちゃった」
「紗納さんは、自信があるんだろう。多分」
「肩を持つのね」
「そりゃあ、そうだ」
「なにそれ。なんかあるんでしょ」
 七瀬が苛立ったような言い方をした。
「何言ってる。何もあるわけないだろ」「そうかなあ」
「味方になるという話だったから、そういう感じになるさ」
 亮輔は言いながら、千秋と七瀬を比較していることに気付く。
 年齢からいっても当然そうなのだが、七瀬は千秋と並べてみると、いかにも幼い。そのことから言えば、スポンサーという立場に立つ千秋は、頼りがいがあるように思えた。

第138回

 五十万円を既に貰ったと告げれば、七瀬の言う(なんかあるんでしょう)という気持ちが更に増幅する。
「味方ねえ」
 七瀬はなぜかしつこいし、言葉の歯切れが悪い。
「ともかく、東洋自動車販売を辞めるんで、七瀬も協力してくれよな」
「なんか、あんまり賛成したくなくなっちゃったような」
「でも、もう決めたんだ」
「うん」
 七瀬にモデル代を払わなければと、亮輔は思った。去年の暮れ、松江ロイヤルホテルで泊まった時、七瀬は要らないと呟いた。
 七瀬のいろいろな言葉を亮輔は思い出してみる。初めて裸になった時には、(お金を貰うしね)と言った。そして、(先生のために裸になる)のだとも。
 今も、七瀬は自分だけを描いてほしいと言ったばかりだが、しかし、モデルのことについて夏夫と話をしたこともあり、何もしないという訳にはいかない。
 その時の雰囲気で変わる七瀬の気持ちも分からないではないが、やはり区切りはつけておきたい。経費をかけるということは、自分のためにも枷を作ることになるから、その方がよいと亮輔は考える。
「少しばかり出しておこうか」
 アトリエに置いているロッカーからアタッシュケースを取り出した。
「何を?」
「モデル代」
「えっ……、いいんです。それは」
 真顔になった七瀬が言葉を改める。
「そういう訳にはいかない。本山君との約束もあるし」
「ああ、おじさんとこで……」
「約束しただろう。だから」
 亮輔は千秋に貰っていた札束から、五万円を抜いた。
「モデル代は要らないって、私、言ったことがあるんですけど」
「じゃあ、お礼という名目で、七瀬に上げるというのはどうだろうか」
 言いながら亮輔は、千秋がくれた時と全く同じだなと、七瀬と並んでソファに座り苦笑する。
「モデル代でなくて、お礼だったら……」
 ありがとう、と言いながら七瀬はバッグにしまう。
「七瀬……」
 亮輔は、七瀬の肩を右手で引き寄せた。

第139回

 お礼であれ、モデル代であったとしても、渡したものは金である。
 そのすぐ後で、七瀬を引き寄せるのはどうかと、一瞬思案する。その代償だと、七瀬は思うかもしれない。
「……いや」
 七瀬が体をよじるようにして、ソファからずり下がる。亮輔は逃がすまいと、更に力を込めた。
 七瀬が本当に嫌がっているのか、ちょっとした悪戯のつもりなのか分からない。だが、走り始めたらもう立ち止まることは出来ない。
 前ボタンを留めていなかった七瀬のデニムのジャケットがソファの端でめくれ、シャツが露わになった。亮輔はシャツの裾から右手を入れて胸を探る。
 七瀬の体が床まで落ちた。亮輔は七瀬の体に被さる。
 ソファの前には、二畳ばかりのシャギーラグを敷いていた。黒い毛足の中に、七瀬の体が埋まる。
「駄目……」
「どうして?」
 七瀬は、また体を捻ろうとする。シャツの下には、何も付けてはいなかった。
 肌が汗ばんでいた。
「暑いのか?」
「ううん、そうじゃなくて、ブラ付けると跡が付くでしょう。だから何も無しで来たの。でも、なんでか、急に汗が出たから」
 照れくさそうに七瀬が笑った。
「いいんだ。汗の出た肌ってのは、好きなんだ」
「そう? 気持ち悪くない?」
「そんなことはない。汗をかいた肌はきれいなんだよ」
「ふーん。なら、いいけど」
 七瀬のベルトに手を掛けた。
「ここじゃ駄目よ」
 アトリエの隣は、亮輔の寝室である。
 絵を描き始める前に、七瀬の着替えをそこでさせてもいいかとは思っていた。
 だが、ベッドが置かれている部屋というのは、モデルの着替えにはそぐわない。
「明るすぎるわ。暗くして……」
 部屋に入った七瀬が呟く。
 亮輔は冬用の厚手のカーテンを引き、壁にあるブラケットの小さな灯りを点ける。
 二つの影が浮かび上がる。
「寒くないか?」
 大丈夫と言いながら、七瀬が脱ぎ始める。亮輔はそれを眺めていた。

第140回

 カーテンから洩れる少しばかりの光と、ウォールライトの灯りを背にした七瀬の体を亮輔はきれいだと思った。
 エアコンが効いてきたが、薄暗い部屋はストーブで暑いくらいだったアトリエとは違って少しばかり肌寒い。
 小寒い空気の中で、七瀬の乳首がしだいに色が濃くなる。モデルとして見ている七瀬の体とは違う。亮輔はそう思った。七瀬の肌は光っているように見える。
 モデルとして描いている女をこれまでセクシャルな雰囲気の中で、目の前に置いたことはない。
 夏の暑さの中で流れ落ちるのも汗だが、肌からは絶えず滲み出ているそれもある。汗とはいえない滑りが、七瀬の肌を潤しているのだろう。
 何人かの裸婦を描きながら、裸を見てきたのだが、女の肌はいかにも微妙だといつも思う。
「こっちへおいでよ」
 亮輔は掛け布団をめくり、七瀬を誘う。「なんとなく恥ずかしいわ」
「それはないだろう」
 描く亮輔と描かれる七瀬の間には、ある種の距離がある。しかし、今は、スケッチブックやキャンバスの前で裸になり、腹這いになってさらけ出していた体を別の視線で眺められていると思うからだろう。
「でも……」
「さっきまで、裸だったじゃないか」
「……」
 女が口走る恥ずかしいという言葉は、自分の体のことか、それともメンタルなものだけか。
 いずれであろうと、薄い皮膚のような微かな羞恥は、女を美しくする。
 男がそれを剥ぎ取ろうとする。女は拒む。
 男と女のせめぎ合いの中で、更に深い別の美しさが現れるのではないかと、男は想像するのである。
 手を強く掴み、引き寄せた。七瀬が倒れ込み、両腕の中に、七瀬の柔らかな感触が広がる。亮輔は暫くそれを楽しむ。
「ねえ、ここに誰も来ない?」
 どういう意味だろうと亮輔は思った。
「ああ、誰も来ない」
「本当に?」
 亮輔は答えない。
「私だけに……。ほかの人とこんなことしちゃ駄目よ」
 言った瞬間、七瀬の体が熱くなった。
 亮輔は掛け布団をはねのけた。 

第141回

 三月の中旬近くになっていた。
 日曜日の早朝である。
 亮輔は、二階にあるアトリエ北側のカーテンを押し広げた。一枚ガラスの窓から、山麓が迫る。
 周辺の家は殆ど北側に窓はなく、壁になっている。北山から吹き下ろす風を避けるためである。
 亮輔はアトリエを納屋の二階に作った時、北側にわざと大きなガラスをはめて窓にした。
 北からの明かりは、射し込む光が一日中一定である。そのために、安定した色味が得られるのだ。光の反射で色の判断に迷うことはない。
 昨日までは何となく春らしい気配があったのだが、今朝早くに雪が降った。かなりな水分を含んだ雪が、北山の木々を灰色に染めている。
 九州の辺りは、早くも桜が開花し始めたとテレビのニュースが伝えていた。
 見下ろす田圃には、午前六時というせいもあるのか、人の姿は見えない。
 名残の雪が春の歩みを拒み、二つの季節がせめぎ合っていた。
 一月から二月にかけて、七瀬は幾度かアトリエに通って来た。
 数多くのデッサンや幾枚かの作品が出来た。お礼だという理屈でアルバイト代を払っている。経費を天秤に掛けるということばかりでもないが、七瀬が来る時間を無駄にはしたくなかったからだ。
 どちらかといえばデッサンが多くなったのは、それが絵の基本だと考えているからである。ピカソやダリのデッサンを見て、ハイレベルだと思った。だから、七瀬というモデルに出会うまでは、石膏のデッサンを数多く描いたのだ。正確な形、光、空間、質感、量感などが、絵を描くうえでの基本であり、上達には効果のある方法だと思っているからだ。もちろん、ただ描くだけではない。モチーフを客観的、あるいは主観的という多様な視点で見る訓練にもなる。ヌードのデッサンは、風景や静物のそれとはまた違う。
 亮輔はこれまで風景を主な素材にしてきた。樹木や建築物は、見る角度によって見え方が変わる。だからデッサンは、形をどう捉えるかという時に役立つ。他人の描いたものを見る場合にも、構図やバランスがどうかという点に目が行く。
 七瀬のヌードを描くようになってから、特にそう思うのである。

第142回

 数日前だったが、アトリエで七瀬と話したことがある。
「先生、どうして私のデッサンばかり描くんですか?」
 七瀬が聞いた。
「そりゃあ、七瀬がきれいだから」
「真面目に言って、先生」
 亮輔は七瀬と笑った。
「そうだなあ。風景でも同じことなんだけれども、特に裸は光と影がはっきり出るから勉強になる」
「そうなんだ。あ、ごめんなさい、そうなんですね」
 言い直した七瀬が、それに気が付いてまた笑う。
「言い方を変えなくてもいいよ」
「でも……」
「ともかく、骨格とか筋肉の形なんかも分かるし」
 そうか、という顔をして七瀬が頷く。亮輔はそういう七瀬を見て、可愛いと思う。
「美大なんかでは、解剖学を教えているところもあるんだ」
「えっ、解剖……ですか」
 彫刻を専門にする者にとっては、解剖学は、避けて通れない科目である。だが、最近では、そういう方法でデッサンの力を付けることよりも、個性的な見方も大事ではないかとも言われている。デッサン力が大切だとしても、そのことが、感性や閃き、更にはそれを基盤にした表現を妨げるのではないかという考えもある。正確に描こうとするために、見た感覚が萎縮してしまうのではないかという意味である。
「そうなんだあ」
 大きく目を開いた七瀬が、亮輔をまじまじと見ている。
「例えば、建物なんかの風景を描く場合には、少しくらいは実際のものと違っていても気にはならないだろ」
「……」
「でも、人間の体のデッサンは、対象との狂いがあるとね、すぐに分かるわけだよ」
「だから、裸婦モデルをデッサンするっていうのは、描く力を付けるために大事だということですか」
「そう、デッサン力がある人は、何を描いてもしっかりとしたものが出来るんだ」
「応用がきくということですね」
 デッサンは、物の形と光を描く訓練であり、下絵とは違う。だが、デッサンの訓練をしなくても描ける。個性的で、巧みな絵を作り出す描き手が多いのも事実である。

第143回

 亮輔は、そんなことを七瀬に話した。
 ソファの向かい側にいた七瀬が、コーヒーカップを手にしたまま、亮輔の横に来て座った。
 インスタントだが、それでも香りがアトリエを流れる。
「学校の美術室なんかに、石膏像がありますけど。だからよくあれを描くんですね」
「白くて光沢が無い彫刻……というか、あれは彫刻像のレプリカ」
「白は、光を一番よく反射しますね」
 ソファに並んで座り、コーヒーを飲みながら七瀬と話をしていると、一緒に暮らしているような錯覚に陥る。
「七瀬は、面取り像ってのを知ってる?」「ええ、どう言ったらいいのか……角張った面だけで作った石膏像」
「あれなんかを見ると、光の関係がよく分かるな」
 光に対して垂直な面というのは、最もよく光線が当たる。つまり、それが一番明るいということになり、形の陰影、ニュアンスがよく分かる。
「ハイライトってこと」
「はい、はい」
 つまらない洒落だと亮輔が言い、また二人で声を合わせて笑った。
 亮輔は、そんな時間が楽しかった。
「先生、ともかく……、正確に描く?」
「人が対象なら、なおさらだよ」 
 風景よりも余計に正確なデッサンが求められる。正確さとは写し取る写真と同じように、デッサンをするということではない。人体が持つ量感、生きているという生命感、存在感が表現されていなければならない。
「先生。そうなると、さっき下絵の話があったんですけど、デッサンはやっぱりそんなんじゃなくて、終わりがないってことになりますね」
 七瀬はいいことを言う、と亮輔は思った。
「だから七瀬のヌードを描くんだ」
「そうですね。先生は勉強するって言ったんだから」
「七瀬の裸を見ていると、日によって、時間によって違うってことがよく分かる」
「そんな……」
「午前中とか午後でも違うし、夜の明かりだとまた……」
「やだあ。夜の明かりだなんて」
 そういう話を時折するせいでもないだろうが、絵を描く仕事が終わると、七瀬は必ず亮輔と一緒になりたがった。
 そんな繰り返しの中で、三月が終わる。

第144回

 三月いっぱいで東洋自動車販売を辞めた亮輔の送別会は、四月二日の土曜日だった。
 会社は、四月になると、社員の厚生事業の名目で、それぞれの部ごとに花見の会をする。花見といっても、実際に桜を見る訳ではない。宴会をするだけである。販売部の送別会は、その花見を兼ねていた。
 四月ということもあり、新入社員の歓迎も併せた宿泊付き歓送迎会になっている。
 受け取っていた案内状には、会場が玉造温泉の旅館白泉荘≠セと書かれていた。
 午後五時半に、旅館の送迎用小型バスが会社へ来る予定になっている。
 亮輔が、東津田町にある会社に着いたのは、五時ちょうどだった。
 まだ少し時間があるのか、玄関前には社員の姿は見えなかった。(早すぎたかな?)と思いながら、亮輔は、ショールームに入った。
「いらっしゃいませ」
 受付に座っていた女が、立ち上がった。胸には、M――美郷社長の頭文字をデザインしたロゴマークが付いた名札を付けている。その下に、佐木七瀬と書かれていた。「七瀬……」
 受付カウンターの後に、会社の制服を着た七瀬の困ったような顔があった。
「なんで? ここに」
 去年、確か秋も終わりの頃だった。
 田和山の燈火≠ニいう店で、社長の美郷と七瀬を交えて三人で食事をした。その時に、美郷が七瀬に会社でアルバイトをしないかと言ったことを亮輔は思い出した。
「ごめんなさい。ここでバイトをするってこと、亮輔さんに言おうと思いながら、なかなかチャンスがなくて」
 そういえば、このところ二週間近く七瀬に会っていないと思った。
 それにしても、と亮輔は思う。たださえ忙しい自動車販売会社の月末だったが、退職するために、顧客や関係会社への挨拶回り、社内での事務引き継ぎなどで、七瀬に会う時間もなく、絵も描いていなかった。
「いつから、ここに居るんだ?」
「昨日から……ちょうど月初めで」
「いつ、誰に頼んだ?」
「……」
「バイトかもしれないが、大学はどうなるんだ。朝から一日、ここに居たのか……」
「そんな……一度に言わないで」
 七瀬が泣くような目をした。
 何かの言い訳を探しているような顔に見えた。

第145回

 それが、更に亮輔の腹立ちを誘った。
「相談くらいしてくれてもいいだろう。こんなとこで不意に会えば誰だって」
 我ながらきつい言い方だと、亮輔は少し口ごもる。
「分かってたけど……」
 何となく口が重い七瀬の言い方だった。
「それにしても、どうして」
「ごめんなさい」
 潤んだ目で、すがるように見詰められると、亮輔はそれ以上、強い聞き方は出来なかった。
「誰に頼んだんだ?」
 田和山での関わりから七瀬が頼んだのだろうとは思いながら、また同じことを聞く。「私が頼んだんじゃなくて、社長さんから電話があって……」
「社長からか」
「ええ……」
 また七瀬が言い淀む。
「それで」
「一週間前だったか、社長さんとお食事したんです。その時に……」
「食事……か」
「いつか行ったお店で」
 田和山の店のことだ。ということは、食事だけではないだろう。酒を飲んだに違いない。男と女が食事をするといえば、それはたいていアルコール付きだ。もちろん、七瀬が誰と食事をしようが、一緒に酒を飲もうが、それをとやかく言うことはない。だが、美郷と二人でというのが、やはり気になる。
 絵を描いているせいでもないが、亮輔は自分でも想像力がある方だと思っている。時に、それが妙な方向に向かう。いわば嫉妬である。
 嫉妬は女だけのものではない。独占欲や所有欲の強い男も同じである。いや、実はそうではなく、人間は誰でも、そういう感情を持っている。嫉妬に駆られて苦しむのは、まさに人間であるという証しだ。
 亮輔は、そのことが自分でよく分かっている。
「アルバイトをしないかと?」
「ええ、そう。オーストラリアに行くための費用に、少しでも役に立つならば、と社長さんが」
「……」
「私も、その方がいいかな、と思ったの」
「七瀬には、モデルのお礼も渡しているんだが」
 言いながら、亮輔はふっと気付く。

第146回

 お礼だと七瀬には言ったが、亮輔はモデル代だと思っている。専門のモデルでもない素人に、亮輔としてはかなりな額を出しているつもりだ。
 考えてみれば、それはモデルを、いや、七瀬を独占したいという気持ちの裏返しではないか。
「お礼を貰っています。だから、私はそれで十分かな、とは思ってるんだけど、でも、社長さんが、どうしてもと」
「どうしても……」
 受付は、七瀬でなくてはならないという理由はないはずだ。美郷の考えは、不可解である。
「毎日のバイトって訳じゃないんです。でも、今日は、会社の歓送迎会があるから、来てくれって言われて、それで」
 社員が出払うのに、車のことを、それも昨日が最初だということらしいが、何も知らない七瀬が受付をしていても意味がないのではないかと、亮輔は思う。
 二階の事務室から、数人の営業担当が下りて来た。新入社員なのか、知らない顔が多い。たった二日前のことだが、亮輔は、会社を辞めてから何年も経っているような気がした。
「よう、ちょうどいい時間だ」
 販売部長だった。
「あ、どうも、お呼びいただいて……」
 気に入らない部長だが、これからは、いつかのように嫌味を言われることはない。
「いや、いや。大変、お世話になったが、伊折君も大躍進だね」
 いかにも、当てこすりのように聞こえる。
 絵に専念したいので、とだけ言ってある。千秋の会社に属することは黙っていた。余分なことを言う必要はない。
 それにしても、大躍進とは、どういう意味か。
「ともかく、行こう」
 部長が促すが、七瀬との話は中途半端なままだ。
「あ、そうだ。このお嬢さんは、社長室にある絵のモデルさんだよね。伊折君」
「ええ、ちょっとしたご縁があって描かせてもらったんです」
「あれは、なかなかいいよ」
 絵なのかモデルかと亮輔は考える。
「モデルがいいねえ。もちろん、絵もだが」 後は付け足しに聞こえた。
「佐木君、じゃあ、また、いずれ」
 七瀬が営業用のお辞儀をした。
 旅館のバスが、玄関に来ていた。

第147回

 玉造温泉は、今から千三百年も前、奈良時代の初めに開かれた日本でも最も古い方に属する温泉である。
 鳥取県の皆生温泉は、明治三十三年、海岸の浅瀬に湧き出す熱湯を偶然、地元の漁師が見付けたのが始まりである。現在のような温泉地となるのは、発見から更に二十年後のことだった。
 出雲風土記に神の湯として登場する玉造温泉は、気の遠くなるような歴史がある。だが、皆生温泉は新しいとはいえ、東西一キロ、南北に四百メートルの範囲に四十軒の宿があり、その点では山陰一の温泉地とも言える。いずれにしても、この二つは温泉地として山陰の双璧である。
 玉造温泉へは、松江市の中心地から車で十五分もあれば行くことが出来る。
 東洋自動車販売の会社を出たバスは、ちょうど六時、白泉荘≠ノ着いた。
 ひと風呂浴びた亮輔は、あてがわれた控室でテレビを見ていた。一人だった。
 控室は、社長と退職する亮輔、二人の新入社員のために用意されている。
 民放テレビの番組が、夕方のニュースに切り替わった。
「あ、社長」
 旅館の従業員だろうか、ここが控室ですからどうぞ、という声と一緒に社長の美郷が入って来た。
「伊折君。今日はようこそ」
 美郷は部屋に入ると、両膝をついて挨拶をした。亮輔はそういう礼儀正しさがある美郷を好ましいと思う。
 上司、目上だという立場で、こういう場合に立ったまま挨拶する者が多い中で、美郷はその辺りのことをわきまえている。
「お招きいただいて」
「それは当然でしょう。しかし、残念ですね。退社というのは」
「勝手なことを言いました」
「いや、そういう生き方が出来るというのは、羨ましいですよ」
「我が儘ということは分かってますが」
 美郷は、少し考える顔を見せた。
 座卓を間にして、亮輔は美郷に用意されていた茶道具から煎茶を入れた。
「いや、そうではなくて、信念というか、やりたいことが、なかなか出来ないのが、つまり踏み切れないのが普通だから……」
 亮輔は受付にいた七瀬の顔を不意に思い出した。 
「さっき、佐木君に会いました」
 美郷は、俯き加減に煙草を取り出す。

第148回

 煙草を吸わない亮輔は分からないが、多分ライターは、ジッポーだろうと思う。
 美郷は、音を立てて鑢石を回した。ライターオイル独特の匂いと一緒に、宍道湖の西空にかかる夕焼けのように、輝く赤い炎が燃え上がる。
 美郷は咥えた煙草に炎を近づけた。細い煙草の端に赤い明かりが点いた。
 青い煙が立ち上がるまでが、気分を変える折り返し点なのだ。煙草の味というものもあるのだろうが、要は、吸うということは、メンタルなものだろうと亮輔は考える。
 ある時間がそこで途切れ、瞬く炎が別の空間を作り出す。煙草は、その僅かな間合いを区切る小道具なのだ。
「……佐木さんね。うん、アルバイトがしたいって電話をくれてね」
 話が違うと言おうとし、亮輔は黙った。「今日みたいな時に、君も知ってるように、ああいう人が居てくれると助かるんだ」
「車のことが分かってないとは思うのですが、役に立つんですかね」
「さあ、どうだろう……。まあ、いいじゃないかね。我が社としては、佐木さんのような若い人が居てくれれば、イメージアップにもなるかと思ってね」
「イメージ……」
「そう……。君の描いてくれた絵だがね。すこぶる評判がいいんだ」
 亮輔は、販売部長が言ったことを思い出した。
「社内ですか?」
「それもだが、お客さんからね、いつも聞かれるんだよ。このモデルは誰なんですかって」
 販売部長も同じようなことを言った。たいていがそういうのは、興味本位でしかないのだ。
「有名なモデルならですけども」
「そういう無名だとかどうとかは問題でなくて、ともかく、そういうこともあってね、佐木さんに受付に居てもらうと、話題に事欠かないわけだ」
「描いた私としても、ありがたいです」
「佐木さんには、バイトでなくて常勤でやってほしいくらいだね」
 美郷は七瀬にかなり興味を持ったようである。
 そう思いながら、亮輔は七瀬が言ったことと、美郷の話の微妙な違いにこだわる。
「失礼します。始まるそうですが……」
 新入社員の一人が入って来た。(行きますか)と言い、美郷が立ち上がった。

第149回

 明治三十九年に創業してから百年になるという白泉荘は、江戸時代から続く旅館が幾つかある中で、そう古いという程ではない。だが、創業以来、年を追うごとに増改築を繰り返してきた宿は、千坪近い和風庭園を囲むように、五階建てになった三つの棟が並び、豪華な造りになっていた。和室が七十、洋室が五つ、ほかに和洋室と特別室が、それぞれ一つずつある。
 指定されている宴会場は、一階の奥であった。回廊式の廊下を社長と並んで歩いた。
「伊折君。前にも聞いたんだが、収入は大丈夫かね? いささか踏みこんだ言い方で失礼なんだが」
「ええ、当てがないこともないので……」
 美郷が怪訝な顔をした。
「当て?」
 会社を辞めると決めてから、千秋の配慮がかなり重いものだということを感じる。
 営業であくせくしていたこれまでの社員の立場からすれば、破格の扱いである。そうは思いながらも、どこまで続くかという多少の不安もないではない。
 そんなこともあって、誰かに言ってしまいたい誘惑に駆られる。酒が入ると、口に出しそうである。
「ええ、画商も付いていることですし」
「画商というのは、単に絵を並べて売るというだけじゃないでしょう」
 確かにそうである。画家に幾ばくかの経費を出して絵を描かせ、それを売りさばくという者もいる。
 亮輔はそういう意味のことを言った。
「伊折君には……そんな人が付いているということですか」
「ええ、まあ」
 それが千秋なのだが……と言いかけて黙った。
「なるほどね」
 美郷は納得したようである。
「佐木君のことですが、毎日、来ることになっていますか?」
 夕方、七瀬に聞いてみようと思っていたのだが、そのままになってしまっていた。「決めてないけれども、佐木君のいいようにしてもらおうと思っているんですよ」 「それは……」
 やはり美郷は、七瀬に肩入れをしているに違いないと亮輔は思う。アルバイトで雇うという範囲を超えている。好きなように勤務していいというのも、七瀬はいいだろうが、亮輔は気に入らない。
 送別会の酒は、いつまでも苦かった。 

第150回

 アトリエに続く寝室の電話が何度か鳴っているのに気が付いていた。
 朝の十時を五分ばかり過ぎている。送別会が終わって、二日後だった。
 七瀬の裸婦画に手を入れている亮輔には、煩わしかった。中断すると、絵に対する思いが途切れるからだ。
 目に見えるものをなぞっているだけでは、いい絵にならない。モデルの背に隠されているものをキャンバスに乗せる。七瀬の裸体を頭の中で噛みくだき、それを描く。そうすることで、誰にも理解される絵が生まれるはずだと亮輔は考えている。
 美郷の話を聞いてから、時折だが七瀬の像が乱れる。筆を持つことに集中していると、それはない。だが、電話が鳴ったり来客があったりすると、思いが違う方向へ走るのである。
 執拗に鳴り続ける呼び出し音にたまりかねて、亮輔は受話器を取った。
「どうしたんですか? 私……紗納です」
 応答した声が、苛立っていたのに気が付いたのか、あるいは、なかなか電話に出なかったためだろうか。不審そうな千秋の声だった。
「紗納さん」
 心臓の音が聞こえるかと思う程、動悸が速くなった。早く出ればよかったと思った。
「忙しかったのですか?」
「そうではないんですが、少し離れた場所に居たものですから」
 うるさかったとは言えない。
「あら、ごめんなさい。特別の用事があるんじゃないけれども、どうしておられるかなと思ったんで」
 東洋自動車販売へ千秋が訪ねて来て以来、一度も会っていない。
 なぜか会いたいと思った。
「用事がないと言いましたけれども、実はちょっとお会いしたいのですが、ご都合はどうでしょうか」
 見透かされたようだった。
「あ、もちろん、いいです」
 暫く千秋は黙っていた。
「じゃあ、出雲なんですが、来ていただけますか?」
「出雲……ですか」
 言ってから気が付く。四月からは、千秋の会社の社員なのだ。
「出雲市駅の南口に、仮の事務所を作っています。そこへ……」
 建設中のウイークリーマンションの近くだと千秋は言う。