連載小説「原色の構図」 島根日日新聞掲載
◇第51回
その笑顔がそれでいいじゃないの≠ニ言っているようだった。見ているうちに、夏夫の家で初めて出会った時の七瀬の癖を思い出した。 オーストラリアに留学するという話の中で、七瀬はくすっと小さく笑い、出来たえくぼに白く長い左手の指先で、そこを撫でた。何度かモデルとして亮輔のアトリエに来るたびに、その笑顔を見せたのだ。 アトリエに七瀬がモデルとして来たのは、描き上がるまでに五回だった。絵を描くために呼んだのだから、最初の時のように食事に出るということなどはしなかった。ひたすら七瀬を見詰め、そして描いた。 油彩の描き方は、絵描きの数だけあると思うが、亮輔は自分なりのそれでやっている。だが、いつもそうだという訳ではない。 背景は決まっていたし、何枚かのスケッチを描いていた。モデルをそこへどのように配置するかということを七瀬のいろいろなポーズから考えた。七瀬の装いと背景の色彩との組み合わせもある。亮輔のいつもの手順としては、まず人物を完成させてから背景になる風景を描く。その方が遠近感を捉え易いからである。 木炭で七瀬を描いた。そして、木炭を落としながら、イエローオーカーと黒でモノクロの明暗を付け、色を置いていった。 殆ど一気に描いた。手を加えることは背景を除いてしなかった。七瀬を描いたその絵が気に入っていた。それに、出来上がったと思った時が、最も優れていると思うからである。七瀬に気持ちを注ぎ込んだ時点で筆を置いたということだ。 もちろん、表情には後で一筆も入れなかった。背景や服装と違い、七瀬の表情が生きていると思ったからである。 これまでに人物を何枚か描いてきたが、後で考えてみると、この夏の女≠ルど、完成したと思ったことはない。 どの絵もそうだが、知らず知らずのうちに、よりいいものをという思いが強くなってきたからだったと振り返る。 というよりも、モデルとしての七瀬でなく、どうやらひとりの女として意識しているのだと亮輔は思うようになっていた。 「伊折君、どうしたんですか?」 暫く黙ったままだったようだ。 「あ、どうも失礼しました。少し寝不足かもしれません」 「この絵を描くために、随分と時間が掛かったってことですかね」 「いや、そういう訳ではないのですが」 |
◇第52回
言われてみれば、もちろんかなりな時間は費やしたが、そればかりではない。どのように七瀬の表情を描き出すかということをいつも考えていたのだ。 「営業があって、そのほかの時間で描くわけだから、二足の草鞋というと叱られるかもしれないが、ま、大変でしたな」 「……」 「額縁は私の方で用意したので」 濃い茶色の額縁が付けられている。 「ではそういうことで十五万を給料日に口座に振り込んでおくということで」 「ありがとうございます」 七瀬に五万ばかり使っている。 アトリエに七瀬が来たのは五回である。その都度、費やした時間は同じではないが、一回当たりおおむね三時間から四時間だった。休憩を入れてのそれだから、一回が一万円ということにした。 十五万貰えば、亮輔の手元に残るのは十万である。かかった期間などから言えば、どうかと思う臨時収入だ。普通なら請け負うことをためらったかもしれないが、終わってみて、そうしなくてよかったと思っている。 「ところで、完成祝いというほどでもないが、いつか、都合のつく時に、一緒に食事でもしませんか。私が設定するから」 「そんなことは……」 「慰労をしたいということもあるし、そのモデルになった人に会ってみたいしね」 「……」 「何という方だったかね。モデルさん」 「佐木――」 「ああ、そうだった七瀬さん……でしたね」 美郷は、メモを手にしていた。 「佐木さんは、食事はどうでしょうね」 「喜ぶと……思います」 亮輔は、そうは言ったものの気乗りがしない。 「そう。それならいいですが。ゆっくり夕食ということでどうですかね」 「私はいいですが……。彼女は学生ですし、都合が付くかどうか」 美郷は、どうしても七瀬に会いたいらしい。絵のモデルに会ってみたいというのは当然だから、仕方のないことかと亮輔は思うし、社長という立場からもそう言われれば受けざるを得ない。 「都合を聞いてもらえませんか。私の方で予定を合わせますから」 壁に掛けられたスケジュール管理表を見ると、どの日も予定で埋まっている。 |
◇第53回
社長の美郷は、秘書が付いているくらいだから多忙なのだ。年に何回かの社内慰労会で飲む機会はあるが、食事に誘われたのは初めてである。 絵を依頼したから、ある意味で当然と言えばそうかもしれない。専務や常務などとの会食はあるだろうが、ただの社員と特別な場を設けるというのは、聞いたことがないような気がする。 「分かりました。一応、聞いてみます」 「そうしてくれますか」 不意に亮輔は、思い付いた。 「あ、確か、佐木さんは忙しくて十日ばかり大学に出ないと言ってましたが」 亮輔は七瀬からそういうことを聞いてはいないが、夕食という社長の誘いを少し延ばしたいと思った。 「そうですか。最近の学生さんは熱心ですかね。忙しいんですな」 「どうもそうみたいです」 連絡が付いたら予定を聞いてみるということにして、亮輔は社長室を出た。 社屋の外に出ると秋の陽が、夏とは違う鋭さで目を射る。 その眩しさの中で、亮輔は七瀬と、どこかに行ってみようと思った。 半日もあればいい。七瀬の住む米子の方でもいいが、様子がよく分からない。どこに行きたいという目的があるわけではないから、行き先も思い付かないが、日御碕の辺りはどうだろうかと思う。 携帯電話のアドレスを呼び出し、発信ボタンを押す。 「はい。佐木です。先生、どうしたんですか?」 四度ばかり発信音が続き、七瀬の甲高い声がした。 亮輔のナンバーは七瀬の携帯に登録してあるはずだから、亮輔からの電話ということはすぐに分かる。話をしていいかと亮輔が問うと、いいですよと、語尾を上げた言い方をした。 「今度の日曜の午後、時間あるかな?」 「えっと……。日曜ですか? ちょっと待って下さい」 手帳を繰る音がした。 「あ、別に予定はないです」 「スケッチを一緒にしてみたいんだが、どうです?」 「いいですけど、下手だから……」 「そんなことはないよ」 落ち合う場所と時刻を決めて、電話を切った。 |
第54回
亮輔のAZオフロードは、大社の町を通り抜けて稲佐浜海岸に出た。断崖を削って造られた狭い道路を縫うように走る。ハンドルの切れが、かなりよい。しかも、タイヤが十六インチもあり、梯子状のフレームにボディが乗っている。ごく普通のモノコックではない。 軽自動車とはいえ、マニュアルの四駆だから悪路を走ることを想定し、頑丈にしてあるということだ。 だが、ホイールベースが短いために、乗り心地は少しばかり劣る。運転席と助手席のシートも、やや小ぶりだ。 その代わり、小回りが利くから狭い道などでは重宝する。座席は四人乗りだが、殆ど一人しか乗らないから、後部は倒してフラットにしたままだった。後部座席は、乗るということを想定していないように思えるほど、簡単な構造になっている。座席がある、という程度のものだ。いわば二人乗りと言ってもいい。 AZオフロードは、スズキからOEM供給されたフロントミッドシップである。エンジンが車体の真ん中近くにあって後輪を駆動するから、操縦性はかなりなものだ。走りを重点においているから、ほかのことはあまり考えられていないのである。 そのオフロードの助手席に七瀬を乗せるのは、二回目だった。打ち合わせということで食事をし、その後、宍道湖を一周したのが最初だ。 「この車、やっぱり普通車みたいですよね」 車高が高いせいか、あるいは自分の軽自動車のことを思ったのか、七瀬は乗る時に呟いた。ミニスカートだから、余計にそう思えたのかもしれない。 日御碕は、島根半島の段丘が日本海に突き出た所にあり、国立公園である。 出雲大社から日御碕までの道は、日御碕街道とも呼ばれるが、狭いうえに屈曲を繰り返す。 海岸は変化に富み、神話に登場する小島や岩が点在して、日本海だけが持つ特有の青い色の中に溶け込んでいる。 日御碕神社、経島、灯台があり、断崖や岩礁の荒々しい海岸と静かな磯浜、長い間、潮風に耐えてきた松林などの明るい風景が広がる。 亮輔が七瀬を日御碕へ誘ったのは、社長の美郷と話をしてから三日後だった。 「日御碕によく来られるんですか?」 七瀬の長い髪が、ウインドを全開にした窓から入り込む海風に揺れる。 |
第55回
山陰という文字のイメージがそうさせるのか、日本海は荒海という印象がある。だが、晴れた日の秋の海はそうではない。太平洋の海とは違い、深みのある青色で、海面は無限の彼方まで続くかと思えるほど穏やかである。 「出雲に用事があった時に、時折、足を延ばすことがあるんです」 「絵を描きに?」 くだけた言い方になったような感じが、亮輔にはした。 「大社で蕎麦を食べたりね」 七瀬が意外な顔をした。 「蕎麦?」 「ええ、出雲大社の近くにある明治屋という店によく行くんです」 出雲の蕎麦は、よく知られている。出雲大社の周辺には、かなりな数の蕎麦屋が軒を連ね、観光客が誘い込まれていく。 「どっちかというと麺類が好みだから。それに、この辺りに来て蕎麦を食べなきゃ意味がないじゃない」 「意味……ですか?」 意味ねえ、と繰り返して七瀬は笑った。 「理屈で食べるんじゃないだろうけど」 亮輔の言ったことがおかしかったのか、七瀬は白い歯を見せて、また笑った。 幾つかのカーブを過ぎると、左手に廃屋が見えた。 「先生、あれ……何なんでしょう」 「ああ、以前は海浜荘というホテルだったんだけど、いつの間にか廃業して、そのままになってるんだ」 潮風のせいで窓枠は錆び付き、建物全体が何となく不気味な色をしている。 遠くから見ても、窓ガラスは全くなく、まさに廃墟である。 「誰も居ないんでしょう?」 「いろいろ噂があってね。夜になると、人を呼ぶ女の声がしたりして、ちょっとした心霊スポットになってるらしいよ」 「やだあ。怖いですね」 「行ってみようか?」 「でも……」 誰でも、心の中には好奇心と不安が同居している。いわゆる怖い物見たさである。 「昼のひなか、何も出やしない」 道路脇に数台の車が止まるほどのスペースがある。 亮輔は車を乗り入れた。廃屋までは、約五十メートルばかりありそうだ。かつては道があったのだろうが、草に覆われ、太いチェーンがそれを遮っている。 |
第56回
両側から被さる枝や蔦を払い除けながら進むと、玄関と思える辺りに出た。駐車スペースもあったのだろうが、草が生い茂り、まるで山の中のようである。 中は、崩れ落ちた壁、散乱するガラスの破片、ねじ曲がった窓枠、千切れたドア、腐り始めた畳などで歩くことも出来ない。 「七瀬君、大丈夫か? 怪我しないように」 フロントもあったはずだが、それがどこなのか見当も付かない。 入口の正面には階段がある。取りあえず左側の広間と思える方に向かった。七瀬が亮輔の後から、恐る恐る付いて来る。 「凄いですね」 二階の方でガタガタという音がした。七瀬が足を止めた。誰も居ないということは分かっているはずなのに、亮輔はひやりとした。風が何かを動かしたのだろう。 建物の西側は海である。だが、背丈程の草が伸び、景色を塞いでいる。二階へ上がってみた。そこも同じような状態だった。和室と洋室の区別もつかない。 ガラスの破片と襖の木枠が、射し込む光の中で奇妙な幾何学模様を作っている。 亮輔は、この荒れ果てた風景の中で七瀬を描いてみたら面白いのではないかと思った。廃屋には裸婦が似合うかもしれないのである。日本海に落ちようとする太陽を背にして、煌めくガラスの破片の上に七瀬が立っている。周囲には崩落寸前の汚れた壁面があり、ガラス戸のない窓からは夕陽に輝く海が見える。 「何を考えてるんですか?」 七瀬の声に、廃墟の中に居ることに気が付く。 「ここで描いてみたらどうかなと思ってね」 「この部屋を……ですか?」 「違う。君を……」 七瀬は、(えっ?)と小さく呟いて亮輔を見た。 「私がここに立って……。面白いかもしれませんね」 確か、中世オランダのボスという画家の絵に廃墟を背景にしたものがあったような気がする。 「幻想的な宗教画を見たことがあってね」 「抽象……」 「アブストラクトというわけじゃないけれども。似ているかも」 「……」 「シュールというのか、何となく不思議な」 「へえー。そうなんだ」 七瀬は体の向きを変え、海を見ていた。 |
第57回
亮輔は、このところ七瀬が話す時の言い方に微妙な変化があるのに気付いている。丁寧な言葉で言ったかと思うと、不意にくだけた感じになる。 「この部屋だけど、壊れたガラスとか、襖、壁、投げ捨てられたレコード盤などをじっと見てると、万華鏡を覗いているように思えるんだ」 「万華鏡ですか……。そんなに綺麗だとは思えないんですけど」 「僕の頭の中では、そんなふうに見えるんだよな」 「たとえば、黒い墨でも、豊かな色があるということと同じですか?」 「うーん。まあ、そういうことかな」 七瀬は困ったような顔をした。 「光と影の使い方とか……」 そう言いながら、七瀬は長い髪に手をやり、顔を隠すようにした。返事が出来ない照れのようでもあった。 屋上に出てみようと、七瀬を促した。 二階も三階も同じような荒れ方だった。トイレのドアが風に揺れている。ガタリと音がしたのは、ドアだったのだと亮輔は思った。大袈裟かもしれないが、荒涼とした風景と言ってもおかしくはない。 窓という窓は全てガラス戸はなく、風が吹き通しになっている。冬になったら更に荒れ果てるのではないか。それにしても、管理者は誰なのか。手を入れれば入れるほど、費用が掛かるから投げ捨てておくのが安上がりということか。 屋上はもともと何もない所だから、荒んでいるようには見えない。手すりがないから、風が吹く中で身を乗り出すと危ないような気がする。 日本海はどこまでも遠かった。水平線に小さく船が見える。殆ど動いていないように思えるが、実際はかなりな速度で航行しているのだろう。 振り返ると、走って来た断崖沿いの道路がよく見える。 「私達って何に見えるんでしょうね」 「何に……って?」 七瀬がえくぼに左手の人さし指を当てて笑った。 「だって、人が寄りつかないような建物の上に男と女がいるから、変に思うんじゃないかなあ」 「心中するとかってことか?」 「まさかあ」 七瀬がまた笑った。亮輔はその笑顔を可愛いと思った。 |
第58回
北の方角に、白く小さい灯台が見える。「灯台の方に行ってみようか」 先を歩く七瀬の背中に言った。 亮輔は階段を下りながら、もう一度ここへ来ることがあるのだろうかと思った。 廃屋を背にして歩き出すと、入れ違いのように中年の男が狭い道を入って来た。 「何する人でしょうね」 確か手にビニール袋と小さな鈎の手のようになった道具を持っていた。岩場の貝でも採るのだろうか。 駐車した所に戻ってみると、黒いワゴンが止まっていた。多分、あの男のだろう。何の用事があるのか分からないが、こういう所でも人が出入りするのだ。 日御碕神社を下に見て、町営の国民宿舎だった眺瀾荘前に出た。 「先生、ここも使われてないですよ」 七瀬が眺瀾荘を指さす。 宮造りを真似た形になっている。元の国民宿舎である。 「これも無人だね。一月の末で営業をやめたそうだ」 「へぇー、そうなんですか。でも、いつ頃出来たものなんでしょう」 「開業したのは、三十六年前の昭和四十三年だけどね。くにびき国体の時には昭和天皇の休憩所にもなったんだ」 「くにびき国体……って?」 「そうか。知らないんだな。昭和五十七年に島根県であった国体さ」 「昭和五十七年。やだあ、私まだ生まれてないですよ」 「いつ生まれたの?」 「昭和五十八年の十月十八日……」 七瀬は大学の三年生である。ということは二十一歳だから、国体の年には生まれていないことになる。 「もっ……。先生、うまく聞き出しましたね。私の誕生日」 七瀬は、そう言いながら、亮輔の脇腹を突いた。 「そういうわけじゃなかったんだが」 大社町では、日御碕の周辺をマリンリゾートの拠点にしようとしている。眺瀾荘をそのまま活用するのか、解体するのか決まっていないようだが、いずれにしても日本海が目の前にある眺めのいい場所である。灯台やウミネコを見に来る観光客がどれくらいあるのか分からないにしても、このままにしておくのはもったいない。 「下から見ると大きいですね」 七瀬が灯台の真下から見上げている。 |
第59回
冬が近いとはいえ晩秋の空は澄み、時折、薄く白い雲が流れて行く。 灯台の付け根に寄り添うようにして見上げると先端は見えず、まるでギリシャの神殿にある巨大な柱のようでもある。 「白い巨塔だわ」 七瀬は灯台を見上げていた。 「七瀬君は、古いものを知ってるんだ」 「小説は読んでないんです。レンタル屋さんで借りて見たんです」 それにしても、灯台を白い巨塔という七瀬の言い方は面白い。 山崎豊子の大学附属病院を舞台にした『白い巨塔』は、昭和三十八年からサンデー毎日に連載された。医学界の内幕を赤裸々に描いた内容で大きな話題になった小説だった。単行本としても刊行され、ベストセラーだった。田宮二郎の主演で、映画にもなった。確か去年だったか、フジテレビ系で、テレビドラマとしても放映されたはずだ。最近では、DVDになって売り出されているから、それを見たのだろう。それにしても七瀬が、白い巨塔などという古い小説を知っているとは思わなかった。 灯台は明治三十六年の点灯というから、既に百年を超える。基礎からの高さが約四十四メートル、海面からだと約六十三メートルである。照明が届くのは、三十九キロに及ぶというから、東洋一の名に恥じない。 断崖の上に立つ灯台は、いかにも美しい。 灯台付近には松林が続き、それに連なる断崖と鋭角的な岩礁が、白い波のしぶきをあげている。 「先生、凄っい」 七瀬が岩盤の上に腹這いになり、断崖を見下ろしている。亮輔は立ったまま、下を見ようとしたが諦めて少し後へ下がった。 「危ないじゃないか」 「平気よ。そんなことより、吸い込まれそうで面白い」 無邪気さか、若さというものだろうかと、亮輔は自分の年齢を振り返る。三十代半ばだから、年齢が高いというわけでもない。だが、七瀬の年齢から言えば、かなりな年配ということになるだろう。 亮輔は、(やめろ)と言いながら、七瀬の手を握って引っぱる。足を立てようとして膝を折った七瀬のミニスカートがめくれた。ショーツがちらりと見える。ピンクのレースだった。 「大丈夫だってば」 七瀬は、亮輔に引き起こされながら口を尖らせた。 |
第60回
立ち上がった七瀬が引かれて、亮輔の胸にすがる。長い髪が亮輔の手を掃く。七瀬が人魚のように見える。亮輔は着ている茶のジャケットを脱ぎ、七瀬の腰を包むようにした。下着を覗かれたことには気付いていないようだ。 「こんなことしてると、さっき言ったように、争っているように見えるじゃないか」 「私が誘って心中?」 「それにしても、こんな人が沢山居るところで、心中なんかしないだろうよ」 隣に居た若い二人連れが、亮輔達を驚いたような顔で見た。 亮輔は、七瀬の耳に口を寄せて囁いた。七瀬の肩が小さく震えた。 「それよりか、私、蓑虫になったような気がします」 蓑虫か、と亮輔は妙なところで感心した。七瀬は時々、驚くようなことを言う。 「こんな人が沢山居るところで、心中と言ったり、蓑虫と言ったり、七瀬君はなかなか面白い……」 七瀬は亮輔のジャケットを腰から外して素早く着込んだ。人魚に見えた七瀬は、自分で蓑虫だと言う。そう言われればそんな気もしないでもない。 亮輔は(心中か……)と呟いてみる。 「先生。心中って言いませんでした?」 七瀬に聞こえたらしい。 「じゃあ、先生。あの松林のとこ。もっと先に行ってみません?」 「じゃあ、ってどういうこと?」 「先生と心中する時のための下見」 亮輔の手を握ったまま、七瀬が(ねっ)というような顔をした。まさか心中などするわけもないし、そういう理由もない。 「ほら、あっち」 七瀬が指さした先に展望台がある。 七瀬が亮輔の腕にすがってきた。 亮輔は、何となく七瀬に引きずられているような気がする。 紺色のスカートに、白く小さい染みが一つ付いている。 少しばかり前、頭の上を飛んだ二羽の鴎が落としたものかもしれない。 「七瀬君。ジーンズに鳥の……」 亮輔は、鳥のそれを指先で取ろうとしたが、逆にこすりつけるようなことになった。 「あ、ほんと。やだあ、こんなの」 「そういうのが付くと、なんかいいことがあるって言うじゃない」 「えっ、聞いたことないけど、本当?」 真面目な顔になった。 |
第61回
くるくると変わる七瀬の表情や思いが、亮輔には珍しいもののように思えた。 若い女の子というのは、そんなものなのだろうか。言い古されたたとえだが、秋の空模様のように、女心も移ろいやすいというのがある。 亮輔は何かの本で読んだことがある。 女心と秋の空とか、男心と秋の空などと言うが、歴史的には男心の方が先らしい。 室町時代の狂言『墨塗』には、男心と秋の空は一夜にして七度変わるとあり、明治の文人尾崎紅葉の『三人妻』でも、男心と秋の空と書かれている。 女心が出てくるのは、女性が社会進出を始めた大正以降で、定着したのは昭和になってからだ。 亮輔はそれを見た時、心が移るのは主導権を握った方の問題だと言っていると思ったのだ。いずれにしても、男と女の関係はどちらでも同じことだ。 「いいことがありそうだと思った方が気が楽だよ。物は考えようだ」 「そうですね。じゃ、今日はなんかいいことあるかなあ」 だから、こうやって二人で日御碕に来ているじゃないかと、亮輔は言いかけてやめた。七瀬が(ね、ね)と腕を引っ張ったからだ。 「どうした?」 「私がモデルになった先生の絵。会社の社長室に掛けてあるって言われましたよね」 七瀬をモデルにする時、誰に頼まれたかということを話し、出来上がった絵は美郷の部屋にあると言ってある。 「私、見たいんです」 「だって、描いてる途中でも見てたし、出来上がった時も……」 「それはそうなんですが、どういう場所に、どんなふうにしてあるか知りたいんです」 自分がモデルになった絵が、どこにあり、誰が見るのかということは、言われてみれば知りたくなるのかもしれない。 描き手としては、極端に言えば意図がどうであるかは、最終的に重要なことではないのではないかと亮輔は思う。つまり、作品はひとたび描き手から離れてしまう、もしくは発表してしまうと、描き手のものではなくなるのだ。 それは小説も同じで、見た側がどう評価するかによるからだ。そういう意味から言えば、描いた絵がどこにあるかは問題ではないことになる。ただ、モデルになった七瀬には、そうは思えないだろう。 |
第62回
七瀬の言うことも分かる。 「私の絵をどんな人が、いつも見ているんだろうって……」 「どうして、そんなふうに思う?」 亮輔は、わざと聞いてみる。 「だってそうじゃないですか。描かれた自分ということですけど、知らない人が私を見てるっていうのは、なんか変な気分」 「なるほどね」 自分の心の奥に、美郷に会わせたくない気持ちがあるのを知っている。そういうことを言えば、七瀬は呆れるに違いない。特別の関係になっているわけではないけれども、自分だけのものにしておきたいのだ。もちろん、そんなことは無理だと分かっている。 七瀬の暮らしの全てを知っているわけでもないし、どこで何をしようと、それは七瀬の自由だ。七瀬に言わせれば、男の勝手な、それもつまらない独占欲だとでも言うだろう。 仕方がないと、亮輔は腹を決める。 「実は社長から……美郷芳輝というんだが、食事に誘われているんだ」 「何でですか?」 「絵を描いてもらったというお礼らしい」 「そうなんですか」 「僕は思うんだが、その時に七瀬君も一緒にどうかとね」 美郷が言ったのは、三人ということだったが、亮輔はそれを曖昧にした。 「先生がそう言ってくださるんですか?」 我ながらずるい言い方だとは思いながら、七瀬のわがままに応えるためだと自分に言い聞かせる。 「一緒に食事をする前に、社長室に行って絵を見たらちょうどいいじゃないかと、今考えたんだ」 絵を見たいということと食事を同じ日にすれば、七瀬が美郷に会うのを一度ですませられる。 いい齢をして、まるで子供の考えだと思ったりもする。 「嬉しい」 そう言われると、後ろめたい気がするが、仕方がない。 「まあ、近いうちに社長に話しとくから」 「どんなとこに、どんな感じで絵が掛けてあるかなあ。早くみたいな」 「そのうちにね」 「早くしてくださいね」 絡めた七瀬の腕に力が入ったように思えた。やはり何となく気がとがめる。 |
第63回
早くその機会をと言われると、余計に延ばしたくなる。だから、そのうちに、と言ったのだが、七瀬の耳には入っていないようだった。 遊歩道を行くと、黒い大きな島が見える。「あ、あの島が経島ですよね」 「ウミネコの島だよ」 日御碕の最西端ということになる。島の岩は柱状節理だが、それが経本を幾つも積み重ねたように見えることから、経島と呼ばれている。西日本では、ウミネコの最大級のコロニーである。 「居ないじゃないですか」 七瀬が不思議そうな顔をした。 「そりゃあ、そうだろう。十二月頃から七月くらいまでだから。それにしても、もうすぐやって来るね」 「そうなんですか。知らなかった。私って駄目。こんなことも知らないんだから」 「そんなことはない。誰だって、何でも知ってるとは限らないし」 知らないことを素直に認める七瀬を亮輔は可愛いと思った。 「繁殖地だから天然記念物に指定されているんだ」 「ウミネコが来るのはここだけでしょうか。ほかにも?」 「東北にも同じような所があるって聞いてる。青森と山形だったかな?」 「詳しいですね。見直しちゃった」 七瀬は、ちらりと舌を出して笑った。 「別に詳しいという程でもないさ。それにしても、鴎の種類なのに、ウミネコっていう名前は面白いね。鳴き声が猫に似てるからだというけど」 「猫という鴎って、なんか漫画的だなあ。先生、そう思いませんか」 秋の陽が落ちるのは思いのほか早い。 日御碕に着いたのは、午後三時前だった。もう夕暮れが近くなる。その海に細く長い航跡を描きながら、大型の漁船が北に向かっている。 日暮れ近くなると、風は冷たい。それが日没の迫ってくるのを感じさせた。 風が動き、海草の匂いがした。 亮輔には、隣に立っている七瀬のそれのような気がした。七瀬が海から上がったばかりの人魚のようにも思えた。 背中を見せて立ち去る観光客も、気のせいか急いでいるように見える。 「大社の町へ戻って蕎麦を食べよう」 頷いた七瀬の小さな唇が、夕陽を浴びて光った。 |
第64回
駐車場へ戻るために、緩やかな坂道をあがった。両側に建ち並ぶ店から、呼び声がかかる。道が狭いこともあって、両方から一度に呼ばれると戸惑う。 店の軒先には、イカの干物やどこにでもありそうな土産物まがいの物が並んでいる。特産物ならともかく、と亮輔は思った。 「先生、何かお土産は?」 「まさか。観光に来たんじゃないから、そんなもん要らない」 「観光ねえ。あ、そうだ。先生、私を誘った時、スケッチするからって言いませんでした?」 七瀬に言われて、そうだったと亮輔は思った。全く頭になかった。スケッチブックなど持って来てはいない。もともと七瀬を誘うための口実だったのだ。 「そう思っていたんだが、ここまで来てスケッチでもないと思ってね。でも、そうだったね」 亮輔は苦笑する。 「先生。スケッチなんかする気はなかったんじゃないですか」 言いながら七瀬が、亮輔の肩を叩く仕草をした。 「どうして」 「だって、車の中に道具は入れて来てないでしょ?」 「ごめん」 さりげなくというのか、嫌味を感じさせないように七瀬をどう誘うのかと考えた。写真家がカメラを持つように、絵描きならスケッチと言えば当たり障りがないと思ったのだ。 「いいの。私を連れ出す理由がないから、そう言ったんでしょ。そういう先生って好き。私……」 好き、と頭の中に文字を書いた。七瀬に好きと言われたのは初めてである。好きだ、と繰り返しながら、亮輔は安堵する。 もし、七瀬を誘って嫌だと言われていたとすれば、どうしただろうと亮輔は考える。 七瀬の断り方にもよるが、七瀬が拒否したとすれば、プライドと言うと大袈裟過ぎるものの、何となく自負心のようなものを傷つけられるような気がする。だから、多分、それで諦めるに違いない。 七瀬は二十一歳、亮輔は三十の半ばである。年齢に差があるから、余計にそうだ。とは思いながら、そこまで深刻に考える必要もないのではないかと思ったりもする。 好き、と七瀬は言った。亮輔はまた考える。どういう意味だろう。 |
第65回
閉館した眺瀾荘の前にある駐車場に戻った。来た時には、かなりあった車も、数台しか残っていないが、それでも一台、二台と駐車場に入って来る車もある。 ところどころに立っている照明灯には薄く灯りがついている。暗いというわけではない。センサーかタイマーで自動的に点灯するのだろう。 「みんな帰っちゃったんですね」 それぞれの店が、前に出していた椅子や縁台のようなものを片付け始めた。西の海の果てはオレンジに染まり、白い灯台もぼんやりしたグレーに見える。 「行こうか」 亮輔は、AZオフロードのエンジンを掛けた。 「蕎麦を食べに行きますか?」 「軽い夕食というわけだ」 「大社で? それとも出雲?」 「さっき言ったように、せっかく大社を通るんだから、明治屋にしよう」 七瀬が頷く。亮輔はそれを見てアクセルを踏んだ。 夕暮れになってもまだ日御碕に向かう車がある。陽が完全に落ちるのを見に行くのだろうか。 幾つかの小さなカーブを曲がった。 広い直線の道になった。 黒い車体のタクシーが来て、海側に止まったのが見えた。後部座席に女がひとり乗っている。夕陽を見るためだろうなと、亮輔は思った。微かに残る落日の光芒が、車内の女の顔を照らしている。 通り過ぎようとした亮輔は、ブレーキペダルを強く踏んだ。ショックと一緒にスピードが落ちた。 「どうしたんですか?」 少し前のめりになりながら、七瀬が不思議そうな顔をした。 左の路肩に車を寄せて止まった。 「いや、ちょっと」 振り返ると、黒いタクシーが動きだし、カーブを曲がってすぐに消えた。 タクシーに乗っていた女の顔は、紗納千秋に似ていた。ピンク色のスーツに長い髪が重なっていた。似ている人間はいくらでもいる。夕暮れが近い時刻に、車内に座る女の顔である。定かではなかった。ただ、当たる夕陽で、通り過ぎる一瞬明るかった。 それにしても千秋だとすると、何でこの時刻に、日御碕に来たのだろう。不動産を扱うといっても、まさか廃屋や眺瀾荘が目当てではないだろうと思う。 |
第66回
紗納千秋に会ったのは夏だった。松江現代美術館で、陶芸の相良美樹と二人展をした時だ。あれから三か月近くになる。だが、亮輔は、今でも千秋の顔をはっきりと覚えている。タクシーに乗っていた女は、確かに千秋だった。間違ってはいないはずだが、それにしても夕暮れに、どうして日御碕まで来たのだろう。 そう考えると、ますます千秋だったという確信が深まる。 大きな赤い風船にも似た落日が、萎むように沈んだ。同時に、闇が水平線から昇ってくる。 止めた車のハンドルに両手を掛けて、亮輔は暫くぼんやりしていた。 「何でブレーキを踏んだんです?」 言い方に小さい笑いがあった。 亮輔は、七瀬がタクシーの女を見たのではないかという気がする。 「あ、いや、別に……」 「へえー、そうかなあ」 ハンドルを握っている亮輔の左手の甲を七瀬が抓った。 「タクシーの女の人、見てたんでしょう」 「……」 七瀬は首を左に曲げ、暗闇を見ていた。亮輔は手を伸ばし、バックミラーの上にあるルームライトをつけた。助手席のウインドガラスに、七瀬の顔が映っていた。 「七瀬」 呼び捨てにしたのは初めてだった。 七瀬が振り向いた。 亮輔は左腕で七瀬の肩を抱き、引き寄せた。顔を下げようとする七瀬の顎を右手で持ち上げ、唇を重ねた。避けるように顔を動かす七瀬を更に引き寄せた。 長い時間のように思えた。 「先生……」 ゆるめた腕の中で、七瀬が呟いた。 「好きなひと……居ないんですか?」 淡いライトの中で、七瀬の唇が濡れて光っていた。 「ああ、誰も」 「ほんと?」 「なんでそんなこと」 「いえ、だったらいいんです」 突き出すように向けた七瀬の唇を亮輔はまた吸った。 「行こうか」 ルームライトを消し、ヘッドライトをつけた。闇の中に青い光が広がった。 闇を切り裂こうとするように、亮輔はアクセルを踏んだ。 |
第67回
出雲大社の駐車場から、明治屋まではすぐである。 七瀬は亮輔の左腕に右手を絡めた。 「人が見てるから……」 亮輔は少し身を引くようにした。 「いいじゃないですか。先生」 七瀬は言いながら、更に強く腕を巻き付かせる。 「その先生っていうのは、やめないか」 「なんで?」 「先生と大学の学生が、こんなことしてるってのは、おかしいよ」 「そうかなあ。じゃあ、どう言えばいいんです?」 亮輔は、名前を言って欲しいのだ。 「亮輔さん? じゃあ、私も七瀬君じゃなくて、七瀬って呼んでくれますか」 「さっき、そう言ったよ」 「あ、そうだった。でも、お互いに名前だけ言うのは二人だけの時にしましょ」 また七瀬が腕を強く絡める。 明治屋は狭い路地の奥にあった。明治の終わりに創業し、その年号が屋号だ。店は、かなり年配と思われる夫婦がやっている。 亮輔が明治屋によく来るようになったのは、味がよいということもあるが、店主の蕎麦に対する思い入れに感心したからだ。 「どうして、この店によく来るんですか?」 運ばれて来た釜揚げを見ながら、七瀬が聞いた。 「その日に使った蕎麦が余ったとしたら、どうする?」 「大事に取っておいて、翌日に使うかも」「この店はね。残った蕎麦は半日も経つと処分するんだ」 「もったいないじゃないですか」 「ご主人は、それよりも味を大事にするって言ってたからさ。それでよく来る」 手打ちの有名な店や繁盛している店になると、冬場でも半日、夏場なら数時間も経った蕎麦は使わない。 「三たて……というの知ってる?」 七瀬は、知らないという顔をした。 「挽きたて、打ちたて、茹でたてのことなんだ」 挽きたてというのは、蕎麦を挽いたすぐのことである。打ちたても茹でたても同じだ。粉になった蕎麦が空気に触れると、もともとの香りがしだいに無くなっていくのである。蕎麦の香りというのは、まさに命なのだ。 「ふーん。よく知ってますね」 七瀬が箸を置き、亮輔を見た。 |
第68回
蕎麦のことをよく知っていると七瀬は驚いているらしいが、実は書店で立ち読みした情報誌に書いてあったことの受け売りに過ぎない。 「いや、それほどでも……」 亮輔は口ごもる。 七瀬の箸を動かす手が時々止まり、亮輔の顔を見ている。 「何か付いてる?」 「ううん。違うの。えっとね、誰かに似ているなと思って」 「世の中に似てる人は、幾らもいるさ」 「誰だっけ……」 「どうでもいいじゃないか」 「そうだ。サッカーの中田に似てる」 似てる人間か、と亮輔は日御碕からの帰りに見たタクシーの女を思い出した。 「何の雑誌だったか忘れたけど、中田の上半身裸の写真があって、いいなあと」 「モデルにして描きたいとか?」 「そういうことじゃなくて、筋肉のバランスが素敵だなって」 「あの選手って有名だけど、ほんとに凄い選手なんだろうか」 「うーん。そうですね。このところ、出番も少ないし、ミスが多いようだし。でも、本当の魅力ってのは、何をしでかすか分からないところにあると、私は思うんです」 「だから、最近はそれが無いってことか」 「でも、先生、あ、違った、亮輔さんのように、中田選手は不意に何かするかも」 亮輔は、(ばか)と言いいながら七瀬の額をつついた。七瀬は車の中でのことを言っている。 「いいこと思い付いた。さっきの罰として、明日、会ってください」 「罰? 明日?」 「罰は冗談だけど、場所は松江の北公園。時間は午前六時」 若さとは、こういうことなのか。突拍子もないことを考え、自分で決めてしまう。 亮輔は、どちらかと言えば、夜よりも朝方に絵の仕事をすることが多い。朝の五時過ぎには目が覚める。だから、七瀬の言う六時というのは、亮輔にとって早くはない。 だが、七瀬の若さなら、早起きは苦手ではないか。 「朝、私と二人で、サッカーをしましょう。ボール持って行きます」 「会社があるし、大学にも行かなきゃ」 「迷惑ですか? それとも、私と一緒だと嫌なんですか?」 上目遣いに亮輔を見る顔が笑っている。 |
第69回
七瀬に試されているような気がした。 「迷惑ってことはない」 「だったら、そうしましょう。一時間ばかりでいいの。それから会社と大学に行けば」 七瀬は、もう決めたのよという顔をした。 仕方なしに亮輔は頷く。 「もう少し灯台のとこに居て、私、漁火が見たかったなあ」 夕陽の落ちた海には、沖で漁をする船の灯りが並ぶ。時によると水平線が一直線の青白い光の帯になることもある。 「人工衛星から夜の地球を見ると、都市並みの明るさだと聞いたことがあるんだ」 「一つひとつは小さい灯りだけど、集まるとそんなに明るくなるんですね」 「昔の漁火は赤くて儚い色だったらしいけど」 「悲しげな灯りってことになるのかな」 亮輔は、七瀬のそういう言い方を面白いと思った。 「そんな絵を描いてみたらどう?」 「難しいかも」 「そうかな? でも、見たものを単に描いただけではいけないと思う」 「どういうことです?」 「写真と同じだと思う。もっと言えばコピーかな?」 「でも、写真のように描かれる絵もあるんですよ」 「確かにそうだね。超写実主義の絵でスーパーリアリズムと言うけれども、写真を使って人物とか風景なんかを精密に描くということだよね」 「亮輔さんが言いたいのは、対象の裏に隠されているものを画面に描くということなんでしょ」 左手を頬に当て、七瀬は(ねっ)というように首をかしげた。 「たとえば、風景があったとして、それをそのまま描くんでなくて、心の中で練り直してキャンバスに乗せる」 「心象風景というような……」 「もともと、美しさというのは、そうじゃないかと思うんだ」 「ということになると、主観的な絵とよく言うんだけど、それは直感的に描きたいものをとらえてデフォルメするってことにつながりますね」 「そうだね。もちろん、デッサンは大事で、それがあっての上のことだと思うんだが」 亮輔は自分でそう言いながら、忙しさを理由にして、このところデッサンをしっかりしていないなと思う。 |
第70回
片手間でなく本当に絵を描こうとするなら、それは仕事とは両立しないはずだ。時間が欲しい。自由に使える時間が少ないことに、いつか我慢が出来なくなるかもしれない。 仕事を辞めようかと、以前にも考えたことが頭に浮かぶ。だが、それは、あまりに冒険的過ぎるのではないか。 辞めた途端に収入は無くなる。生活はどうするのだ。描いた絵が売れるのか。父親や母親は何と言うだろう。 夏夫と伊勢宮の愛川≠ナ飲みながら話したことがある。勤めていて絵が描けるのかと夏夫が言った。ちょうど展覧会をしている時だったが、仮にそこで売れたとしても思うほどのものではない。 だが、このままでいいとは考えていない。 その思いを振り払うように、亮輔は両手で七瀬の左の手を握る。 「七瀬は主観的って言葉を使ったけれども、それに対するのは客観だよね。美しさってものは、そういうものを超えて、ずっと続くものじゃないかな」 「簡単に主観的なんて言ってしまうんですけど、難しい……」 七瀬が困ったような顔で、頬を赤くした。握っている手のせいかもしれない。 「それはともかく、人物画の時は、好きな人、大事な人のことを思いながら描くということを言った人があるんだ」 亮輔は言いながら、七瀬を描いた絵を思い出す。 「そうなんだ……」 七瀬は黙ったまま、眩しいものを見るよに目を細めた。 確かに、七瀬を描く時、そういう気持ちが自分の中にあったことは間違いない。 七瀬の絵が出来上がる頃には、好きだという思いが心の中で膨らんでいたのだ。それは、水平線から寄せて来る微かで小さな波がしだいに目の前で大きくなって迫る風景と似ていたように思えた。 「七瀬」 亮輔は呼んでみた。 「何?」 「いや、何でもない」 変な亮輔さん、と七瀬が言いながら睨むような目をした。 「社長さんとの食事の話、決めてください」 「そうだったな」 「来週の半ばなら、都合が付きます」 亮輔は、やはり気乗りがしない。 明治屋を出たのは、午後七時だった。 |
第71回
日御碕に行った翌日、七瀬との約束通り、また会った。 早朝の公園は、夜が明けたばかりだった。トレーニングシャツを着た男が、遠くでジョギングをしていた。サッカーゴールは、使わないのか倒されている。 先に着いていた亮輔は、七瀬が駈け寄って来るのを見ていた。七瀬は亮輔の胸に飛び込んで来ると、吐く白い息を亮輔の口の中に押し込むようにして唇を寄せて来た。「ほら、持って来たよ」 冗談だと思っていたが、七瀬はサッカーボールを手にしていた。白い網に入ったボールが揺れている。 一時間ばかり、二人で公園の中を走り回った後、熱い缶コーヒーを飲んだ。そして七瀬は、まるで鳥が飛び立つように(じゃあね)と言いながら、来た時と同じように走って行ったのだ。 亮輔が、社長の美郷と食事をする日取りの打ち合わせをしたのは、七瀬と会った五日後だった。 美郷の在社を内線電話で秘書に確かめてから、二階に上がった。社長室は、会議室の隣にある。ドアの横に付けられたインターフォンのボタンを押した。小さなカメラが付いている。警備会社との契約でそうなっている。秘書の(どうぞ)という声がして、鍵のはずれる金属音が聞こえた。そこまでしなくてもと思うが、どうやら美郷の趣味でもあるらしい。 美郷はマホガニーのデスクに書類を広げていた。磨き上げられた茶色のそれが、朝の光を受けて光っている。 「来週の半ば頃なら、佐木君は都合がいいそうです」 手帳を取り出す美郷を見ながら、都合が悪いと言ってくれればいいのだがと、亮輔は思った。 「そうですね。水曜というのはどうでしょうか。伊折君は?」 「私は……どうということはありません」 美郷との三人だが、七瀬と一緒なら予定を合わせる。 「その日は、何もないので……」 「じゃあ、水曜ということで。時間は午後六時がいいかな」 「場所は?」 そうだね、と言いながら美郷は窓の外を見ていた。 「田和山の燈火≠ニいう店では?」 「佐木君や私は、どこでも……」 東洋自動車販売のユーザの店だ。 |
第72回
国道九号線の松江バイパスを松江市内から西へ向かうと、西インターから大東町へ行く道の手前に松江市立病院があり、その西側は田和山遺跡である。 病院を建てるために田和山古墳群の調査として始まった発掘で、弥生時代の遺跡、それも二千年前の古戦場ということが分かった。四十六メートルの小高い丘を取り囲むように三重の環壕があり、その辺りから数え切れない程、当時の武器が発見されたのである。 その古墳群は全国的にも珍しい貴重な遺跡であることが分かり、国の史跡に指定された。 九号線バイパスの北側の田畑を造成し、遺跡の名を取って田和山町と名付けられた。大型の書店やホームセンター、喫茶店、レストランなどが並ぶ。 美郷が指定した料亭燈火≠ヘ、その大型書店の北側に新しく出来た店である。 店のオーナーは、半年前に東洋自動車販売から新車を買っていた。ロータリーエンジンを積んだマツダの赤いRXー8である。美郷が自分も同じ車をレジャー用に使っているからと、オーナーに勧めたのだ。そのこともあって、美郷は会食の場所をそこに決めたらしい。 約束の時刻は、午後六時だった。十五分前に亮輔は店に着いた。従業員に聞くと、既に美郷と七瀬は来ていると言う。 案内された部屋の襖越しに美郷と七瀬の笑い声が聞こえた。襖を開けると、驚いたような二人の顔があった。 「あ、先生……」 六畳ほどの部屋だった。入り口に居た七瀬が立ち上がった。隣に座っていた美郷は(やあ、やあ)と言いながら腰を浮かした。 「佐木さんと、話が弾んでねえ。まあ、どうぞ、入って……」 「先生、ごめんなさい。一緒にと思ってたんですけど、ちょっと早く松江に着きすぎちゃって、一人で……」 何となくばつの悪そうな七瀬の言い方だった。 「えっと、どう座るかな……。佐木さんはここへ」 美郷が七瀬を手招きした。 「えっ、私、そんな上座はいけません」 美郷が手で示したのは、床の間を背にした場所だった。 「いいじゃないですか。お客さんだから」 亮輔は、部屋に入ってから、何も言っていないことに気が付いた。 |
第73回
口を開く機会がなかった。というより、襖越しに聞こえた美郷と七瀬の笑い声に、口を封じられたような気分だった。 「どうも遅くなりました」 亮輔は、今更と思いながら、そう言った。 「いや、いや、まあ佐木さん、座って」 何度か押し問答のようなやり取りがあって、結局、床柱の前に美郷が座り、その左右に亮輔と七瀬という形になった。 「実はね、あんまり佐木さんの話が面白いものだから、大笑いをしてたんだ」 「私も話をしながら、その時のことを思い出して笑っちゃったんです」 亮輔は、面白くも何ともない。 「先生、聞いてくれます?」 どうでもいいとは言えなかった。 「大学のゼミの後でコンパがあったんです。教授も一緒だったんですけど、何が食べたいって聞かれて……」 美郷が続けた。 「佐木さんがね。タコスがいいって言ったんだそうだ。そうしたらね……」 七瀬が、その後を取った。 「ほかの人も、それそれって賛成して、連れて行かれたのが和風の、よくある感じの居酒屋だったんです」 そこからが面白いんだなと、美郷が言いながら煙草に火をつけた。 亮輔はひと言も口を挟めない。 「ね、先生。どうなったと思います?」 「そりゃ、分からんさ」 間が抜けた返事だと亮輔は思った。七瀬がまた笑った。 「教授が注文したんです。何だと思います?」 亮輔は(分かるはずがないだろう)と言いかけたが黙った。 「タコ酢! ほら、ぶつ切りにしたタコに三杯酢や味ぽんとかをかけて、キュウリとかワカメを入れたもの……」 「それと間違えたって話ならよくある」 七瀬が不満そうな顔をした。 「うーん、まあそうですね。でも、面白いでしょ。誰もその時、大笑いしたんです。つまり、教授の何がおかしいんだっていう、不思議そうな顔が……」 「教授は、メキシコ料理のタコスを知らなかったんだな。それがまた何とも面白い。そうだよなあ、伊折君」 美郷がそう言い、七瀬と調子を合わせるように声を上げて笑った。 亮輔は無理に笑おうとしたが、出来なかった。顔が引きつるような気がした。 |
第74回
確かに笑える話だろうが、そんな気分にはなれなかった。部屋の中から聞こえた笑い声が、特別なもののように思えたからだ。 七瀬と美郷は初対面だから、考え過ぎだということは自分でも分かっている。それでも、割り切れない。 「まあ、とにかく飲もうじゃないか。佐木さんは、飲めるんでしょう?」 「ええ、まあ少しなら」 美郷が座卓の上にある呼び鈴を押した。 運ばれて来たのは、アマサギともろげ海老の空揚げだった。秋から早春にかけての味覚だ。続いて、スズキの奉書焼きが出た。 晩秋から初冬にかけて、宍道湖の水温が冷たくなる頃、スズキに脂がのって旬を迎える。かつて、スズキは漁師の食べ物だったらしいが、それを松平不昧公に献上する時、失礼にならないようにと、一匹を丸ごと奉書紙に包んで蒸し焼きにしたという。 「えーっ、凄い。これって宍道湖七珍のうちの一つですよね」 少しばかり飲んだ酒のせいで、亮輔も口が軽くなり始めていた。 「そうなんだ。七瀬君は、宍道湖七珍の覚え方って知ってる?」 亮輔は美郷の手前もあって、七瀬と呼び捨てには出来ない。七瀬も先生と言っているからである。 「知りませんけど」 「つまりは語呂合わせなんだけれども、七珍の頭の一文字を取って組み合わせると、スモウアシコシになるんだ」 「相撲足腰……。先生って何でも知ってるんですね」 美郷が(先生ねえ)と呟いて七瀬を見た。「そりゃ、先生です。絵の大先生」 七瀬にそう言われると、亮輔は面映ゆいような気になる。 スはスズキで……と、亮輔は七瀬に説明をした。美郷は黙って盃を空けている。 鯉の糸造りが来た。細かく切った鯉を塩茹でした腹子と呼ばれる卵巣と和え、煎り酒というタレで食べる。松江の代表的な郷土料理である。鎌倉から明治にかけて、天皇や将軍の御前科理には、鯉が付きものだったという。 鰻は、身が締まって歯ごたえがあるから、蒲焼きに最適だ。身を素焼きにし、照りが付くまでタレをつけ、団扇で風を送りながら炭火で焼くのが本格派である。 料理人が鰻で一人前になるには、裂き三年、タレ八年、焼き一生だ、などと言われている。 |
第75回
鰻といえば、松江で有名なものは鰻のたたきである。 松江大橋北詰め、京店の十字路にある川京≠ニいう店のオリジナル料理だ。この料理が食べたいがために、遠くから来る客も多いという。 ある著名な作家が川京≠舞台にして小説を書き、テレビドラマになったこともある。それだけ有名だった。知る人ぞ知るという言葉は、こういう店のためにあるかもしれない。 亮輔は一度、その店に七瀬と行きたいと思った。 宍道湖七珍が揃うのは冬である。次から次へと並べられる料理は、多分、値段はそう安くはないはずだ。 「こんな料理、食べたことないんです」 七瀬が三郷に酒を注いだ。徳利は、ごく普通のものから、竹の枝を輪切りにし、枝が注ぎ口になっているものに変わっていた。酒が染み込み、飴色になっている。おそらく店のオーナーが、古いものをどこからか探してきたのだろう。 「佐木さんにそう言ってもらえれば、招待した甲斐があるということになりますね」「まあ、佐木君は学生ですから、家からの仕送りだけじゃ、こういう店に来られないと思います」 亮輔は、言いながら七瀬に徳利を向けた。(はい)と小さな声で言い、右手にした盃を差し出した。白く細い指に持たれた盃に、半分ほどの酒があった。 「よければ、いつでもご馳走しますよ」 美郷が七瀬に目を向けた。 「空けたら……」 亮輔は促す。七瀬の盃には、酒が入ったままになっている。 両頬を少し赤く染め始めた七瀬は、口を付けないままの盃を亮輔の前に出す。 「佐木君、大丈夫ですか……」 美郷が、無理しなくてもというのか、飲ませたいのか分からない言い方をした。 「いえ、飲めるんです」 七瀬が言いながら、一気に飲み干した。その盃に亮輔は半分だけ注いだ。七瀬の手が少し揺れ、酒のしずくが盃の外に落ちた。「ほら、ほら、やっぱり」 美郷が茶化すように、僅かに笑った。 亮輔は、夏夫の家で七瀬と一緒に飲んだことを思い出した。確か、酒は嫌いではないし、飲むのは焼酎のお湯割りだと七瀬は言っていた。弱くはないだろうが、この場ではあまり飲ませたくないと思う。 |
第76回
見ていると、七瀬は次から次と出る料理を殆ど食べている。腹に入れば、酔わないだろうと、亮輔はまた気になる。 「佐木さんは、大学で何を専攻しているのです?」 美郷に聞かれて、七瀬は白魚の酢味噌に伸ばしていた箸を止めた。 「心理学なんです。あまり役に立たないような……」 「へぇー、そうですか。人が何を考えているか分かるってわけですか」 亮輔は何をつまらないことを言っているのだと思った。 「そんなんじゃないです。科目としては、発達心理、臨床心理とか精神生理学なんてのがありますけど」 「難しいことをやっておられるんですね。卒業したらどうするんですか?」 七瀬が小さく首をかしげた。 「佐木君は、留学して英語を勉強したいんだそうです」 亮輔に言われた七瀬は、(語学という程のものではないんですけど……)と呟いた。美郷が驚いたような顔をした。 「心理学と語学、つまり英語ですか。どう結びつくのだろう」 「何も関係はないんです。私、心理学では卒業してから、いい仕事があるだろうかなんて思うものですから、英語を生かして就職したいんです。そのためにまず留学して……」 「就職は、どういうところになるだろう」 亮輔も少し口を出す。 「企業でのカウンセリングとか。私の先輩なんか、そういうところに行ってますけど」 七瀬が心理学を生かす就職に関心がないことは、亮輔も分かっている。 「心理学というのは、たいていの職業に関係しているけど、就職先となれば限定されるかもしれないかな。だから佐木君は……」 美郷の前だから、亮輔は七瀬を苗字で呼んでいる。七瀬と呼び捨てにしたら、美郷は妙に思うだろう。だが、本当は(七瀬)と言いたい。 「だから……」 美郷が先を促した。 「だからあ。私、ネイティブの英語が勉強したいんですよ。留学とかして」 甘えたような言い方になった。アルコールのせいだろうと亮輔は七瀬の顔を見る。 「アメリカに行くんですか?」 言いながら、美郷が何本目かの煙草に火をつけた。匂いが部屋にこもる。 |
第77回
亮輔は立ち上がると換気扇のスイッチを押した。わざと二度ばかり、大きな音をさせて動かしたり止めたりしてみる。 「ううん。アメリカじゃなくて、オーストラリアがいいんです」 「普通は英語圏と言えば、アメリカとかイギリスだから、そっちの方がいいのでは?」 七瀬は暫く黙っていた。 「大学一年の時に、オーストラリアに行ったことがあって、気に入ったんです。だから……」 「なるほどねえ」 美郷が、そんなものかなという顔をして七瀬を見た。 亮輔は、夏夫の家で同じことを言った七瀬をまた思い出した。気に入ったというのは何だろうと考える。誰と何をしに行ったのか、七瀬は言わなかった。だが、何かの思いがオーストラリアにあるのだろうということは想像できる。 美郷の空いた盃に、亮輔は徳利を差し出した。 「伊折君、ま、どうぞ」 美郷が自分の盃を亮輔に渡す。七瀬が気を利かしたて酒を注いだ。 一瞬、亮輔は七瀬と二人で飲んでいるような錯覚を覚える。 「しかし、留学をするとなると、かなりな費用ではないですか?」 七瀬が亮輔の盃に酒を満たしたのを見て、美郷が言った。 オーストラリアに限って言えば、語学学校では、いわゆる学費としてアメリカドルで、一年に九千から一万三千ドルが普通である。アパートに一人で住めば、週に四百ドル程度が出ていく。 費用はそれだけでは済まない。オーストラリアでは留学生のためのOSHCという健康保険制度があり、学生ビザの有効期間の間、加入が義務付けられているのだ。その費用が、最低三か月分からで、保険料は七十八ドルになる。足になる車も要る。勉強するための本代、インターネットや電話の経費もかかる。 往復で一度か二度のことだが、飛行機代も必要だ。片道で日本円なら五万はみておかなければならないだろう。 留学などと七瀬は簡単に言うが、それなりの費用がかかることは間違いない。だからこそ、ヌードのモデルをして渡航費用を捻出しようとする七瀬の気持ちも分からないではないし、亮輔はそれに協力しようとしているのだ。 |
第78回
「何年、オーストラリアに居るかによっても費用は違うだろう」 美郷が、煙草の煙を天井に向けながら言った。 「私、まだ計算なんかしてないですけれども、飛行機代は別として、東京で暮らすのと、そう違いはないと思うんです」 亮輔は、オーストラリアに行って欲しくないと思う。 「それにしても、経費が掛かることは間違いないと思うけどね」 そう言いながら、自分は何が言いたいのだろうと思い始める。 モデルになってもらうことによって、亮輔は報酬を払う。それを渡航費用にするというのは、夏夫の家で聞いたことだった。 モデルをし続けることは、七瀬がいつか亮輔の前から姿を消すことでもある。 もともと人物、それもヌードを描いてみたいと思い、夏夫に七瀬を紹介してもらったのだが、それはモデルとしてであって、それ以上のものではなかった。 七瀬には悪いが、単なる物体であった。だから、特別な感情を持つ、もしくは女として見るということはなかった。 モデルとは、描き手によって写し取られる線を持つ形であり、絵の具を選ばせる色でもあると考えていたからだ。 七瀬をモデルに、美郷に頼まれた絵を描いているうちに、亮輔の意識の底で、深い地球の中でマグマが外に向かって出ようとするかのように、何かが動いたのだ。 社長室にある絵は、誰にも言っていないし、言うべきことでもないのだが、これまでの人物画では最高の出来映えのように思える。人物画はもちろん初めてではない。だが、どちらかといえば、風景が主体だったから余計にそう思える。 七瀬を自分だけが見ている女として描くことで、表情や体の動きがはっきりと浮かび上がってきたとも言える。 ひと筆ごとに、それは確かなものになったのだ。 亮輔ばかりではない。おそらく七瀬もそうではないか。 毎週のようにアトリエに通い、亮輔の言うとおりに体を動かす。鋭い目で見詰められ、その視線が細い錐のようになって体を貫き続ける。裸になったわけではないが、一日、一日と纏っているものがはぎ取られていったのである。 絵が完成した時に、お互いのそれが昇華したのだ。 |
第79回
出来れば、七瀬がオーストラリアに行けるように資金的にも応援してやりたいが、それは、七瀬が去るということである。 「伊折君、どうしたんですか?」 美郷に言われて気が付く。いつもと違って寡黙になっている。酒が入っているから、普段なら、もっと饒舌なはずだ。 「考えごとをしていたものですから」 「あら、先生らしくない。何を考えてらっしゃるんです?」 「佐木君の留学のことをちよっと……」 「大丈夫ですよ、先生。少しずつ貯金してますから」 「貯金するのもねえ。学生の、しかもアルバイトでというのも……なかなか」 美郷が七瀬に酒を注いだ。 「佐木さん、どうだろうね。少しでも足しになるなら、うちの会社でアルバイトということもありますけれどもね」 「社長さんのところでですかあ。何をするんです?」 亮輔は、七瀬が出来るようなことがあるのだろうかと思う。 「午後五時で終わるという普通の会社じゃないんです。お客さんが勤め帰りに来るということもあるんで、まあ、そういう時の簡単な接待とか」 「でも、社員の方もおられるでしょう?」 「いろいろありましてね。交代制などもやってるのですが、なかなか……」 「……」 接待というか、来客の応対のことを美郷は言っている。たいてい若い女子社員を充てていることもあるが、夜の九時、十時まで残業はさせていないのだ。もちろん、そう遅くまで客があるということはないのだが、それでも八時くらいまでは灯りをつけている。 仕事から帰った時、七瀬が会社に居るならば、それは悪くない。だが、何となく気にはなる。 「幾らの時給ということは思い付いたばかりだから考えてはいないのですが、スーパーのレジのアルバイトより余計に出せるかもしれません。まあ、もしよければということで」 美郷の思い付きである。会社でそのような話も出たことはないし、そういう必要はないような気もする。もっとも、経営者と亮輔のような社員では考えが違うからどうとも言えない。。 「商談会の時などということですか?」 七瀬が、多少乗り気な言い方をした。 |
第80回
美郷は七瀬に、それなりの時給を出すと言うが、特別なのではないか。もちろん、美郷は社長という立場だから、いわば思うようになる。亮輔は社員という立場から、時給のことについて何も言えないが、ひとりの男としては釈然としないのである。 「特別の場合ということもあるけれども、夜間勤務の社員の代わりに、佐木さんの都合がよい日にでもやってもらえればということなんですよ」 「私、いろんなことやってみたいんです。自動車会社の仕事なんて、かっこいいみたいだし……」 亮輔は七瀬の言うことを聞きながら、そうだろうかと思う。アルバイトであれ、何であれ、見た目がいいから、その仕事をしたいというのは軽薄である。 「それに、佐木さんの留学にちょっとでも助けになればという気持ちなんですよ」 「うわぁ、嬉しい」 七瀬はそう言うが、いずれにしても、自動車販売会社でのアルバイトはさほど報酬がよいというわけでもないだろう。 もっとも、七瀬が会社でアルバイトをすれば、会う機会は増える。それはそれとしても、やはり七瀬の考えについていけないような気もする。 「佐木さんの都合もあるでしょうから、考えておいてください。適当な時に、伊折君を通じて予定など、連絡をしてくださればいいですから」 「はい。ありがとうございます」 最終的にどうするかということは決まらなかったが、後で七瀬と話し合えばいいことだと亮輔は思う。 「あ、そうだ。社長さんに、お願いがあるんですけど」 「アルバイトのことですか?」 「違うんです……」 七瀬が言い淀み、亮輔の顔を見た。多分、社長室の絵を見たいということだろう。 「あれかな?」 亮輔は言いながら七瀬の顔を見る。七瀬の口が(そう)と言っている。 「社長、実は、佐木君は絵が見たいんだそうです」 「社長室に掛けてある……」 「ええ、そうなんです」 「佐木さんをモデルにして描いたんだから、その時に見ているでしょう?」 「そうなんですが、実際にどんな感じで飾られてるかなと思って」 亮輔は(あっ)と思った。 |
第81回
社長室に掛けてある、と言われて気が付いた。美郷が部屋にいる限り、毎日のように七瀬を見ているということになる。 絵を描いてくれと頼まれた時には、そこまで考えなかった。というよりも、七瀬のことを単にモデルとして考えていたからだ。描かれた絵は当然だが、買い手のものになり、眺める対象になる。風景であれ、人物画であっても、それを見ながら持ち主が何を考えようと自由である。 美郷は、目の前にある七瀬の絵を見て、何を思うのだろう。 亮輔はアトリエに、ただのコピーだが、ウィリアム・エッティの『水浴するミュージドーラ』の絵を掛けている。形のいい乳房が肉感的なボリュームをもって迫ってくる。眺めていると、いつまでも飽きない。 いつだったか、思いが紗納千秋につながったことがある。 それと同じで、七瀬を描いた絵を美郷が眺め、本人に会ってみたいと思うのは当然で、それが食事会になったのかもしれないのだ。 「いいですよ。いつでもどうぞ」 「でも、社長さんが不在の時は駄目ですよねえ」 「私が居なくても、秘書にそう言っておくから大丈夫です」 「はい。嬉しいことが、今日は幾つもあって、特別な日なんだなあって思ってしまいます」 七瀬の顔が、更に赤みを帯びた。酒のせいばかりではないのかもしれない。 七瀬の特別な日か、と亮輔は思った。 「伊折君は描き手だから、よく分かっていると思うんですが、職業としてのモデルというのはどうなんです。難しいでしょう」 何が言いたいのだろうと思いながら、亮輔は美郷に酒を注いだ。 かなり時間が経ち、さすがに飲むペースが落ちてくる。 「描き手から言えば、モデルは重要です。けれども、私だけかもしれませんが、描きやすい人とそうでない人があるように思うのです」 「じゃあ、佐木さんはどうだったんです?」 それは……と、口を開きかけたが言い直した。 「どうって言われても……。ともかく、描きやすいというのは、両方の波長が合うということかと思います」 「波長ねえ」 美郷が煙草に手を伸ばした。 |
第82回
相性が合わないという言葉がある。何がどうというわけではないが、馴染めない人というのは誰にでもあるはずだと、同僚の社員の何人かの顔を思い浮かべる。 「ほら、よくあるじゃないですか。相性診断なんてのが」 亮輔の気持ちを見透かしたような七瀬の言い方だった。 「たとえばさあ……」 七瀬は自分でも気が付いたのか、短く舌を出して言い直す。 「ごめんなさい、変な言い方で。えっと、たとえばです。話もよく合うし、一緒にいて楽しいって人がありますよね。けど、あの人とは話がどうも噛み合わないという人が、よくあるじゃないですかあ」 少しずつでも盃を重ねれば、かなりな量が入る。同じ言葉を繰り返すようになるのは、酔ってくるからだ。 美郷は、そういう七瀬を黙って見ている。 「誰にも素質ってものがあるけれども、ほかの人とそれがどう響き合うというか、いい関係になるかということかな」 言いながら、亮輔はこれくらいで話を終わった方がいいのではないかと思った。 「先生。先生はどうなんですか。モデルを選ぶポイントってあるんですか」 「僕のモデル選びというのは、もちろん、顔やスタイルを見るということもあるけれども、それと同じくらいに性格のよさも大事にしているつもりだけどね」 「じゃあ、私は合格ってことですか?」 「だから描いたんだろ」 話が、ずれ始める。 亮輔は美郷に(そろそろ、どうでしょうか)という顔を見せた。 タイミングよく、寿司が来た。 「酒の押さえが来たよ」 美郷が七瀬の方に寿司を押しやった。 「押さえ……、何ですかあ」 「よく言うじゃない。これを食べて酒は終わりにすると、体にいいってことなんです」 「へえー、そうなんですか。要するに、これ以上、酔わないようにということなんですかあ。私、酔ってなあい」 「そういうのを酔ってるって言うんだ」 きつい言い方を亮輔はした。 中とろ、鮪、南蛮海老やイクラなどを七瀬は選んで食べている。 七瀬はいい気分なのだろうと亮輔は、幾分羨ましくもある。 「先生のいじわる」 美郷が支払いをするのか、席を立った。 |
第83回
亮輔は七瀬の耳に、(二人でもう一軒、どこかに行ってみよう)と囁いた。 「うん、いいよ。亮輔さんの好きなとこでいい」 好きなところ、と言った七瀬の顔を思わず見詰めた。取りようによっては微妙な言葉だが、七瀬の顔には、ことさら何も特別なものは見えなかった。 用事があるという美郷は、タクシーを呼んで一足先に出た。 田和山町は、いわば新興商業地だが、旧市街地とは違って、飲食店や書店、ホームセンターも大型である。しかも、遅くまで営業している。そこだけ見れば、繁華街であった。だが、周囲は田圃が多く、ある意味で孤立したような感じがしないでもない。燈火≠出て、山陰高速道に沿った狭い道を東に向かって歩いた。 薄明かりの街灯の下を抜けると、上乃木だった。ぎらつくような灯りをつけたゲームセンターや携帯電話の店が並んでいる。 「どうだった。今日の会は」 「よかった。ご馳走だったし、やっぱり、来てよかった」 「社長の奢りだから……」 「お金持ちなんだ」 それは社員が働いているからだ、と言いたかったがやめた。美郷の話は、あまりしたくない。 亮輔は立ち止まった。 「どうしたの?」 「どうしようか。JRの駅まで行こうか?」 七瀬が亮輔の左腕に抱きつくようにすがった。 「そうね。どうせ帰りは電車だし……」 空車が来た。屋根の上に灯りがついていた。客が乗っていると、タクシー業界では行灯と呼ばれる表示灯が消えることになっている。時折、広告代わりという意味で、消さないタクシーがあるものの、空車かどうかを判断するのに便利だ。乃木タクシー≠ニ表示された車に乗った。 松江駅の南口には、幾つかのホテルがある。亮輔が、時折だが接待に利用する松江ロイヤルホテル≠ヘ、その最上階にバーがあった。貴賓室≠ニいう名のとおり、豪華な造りだ。カウンターは白い大理石で造られ、その向こうは、一面のガラス窓で、宍道湖と市内の夜景が目の下になる。街のざわめきは、まるで聞こえない。 「きれい……」 カウンターに腰を下ろした七瀬が、微かにため息をもらす。 |
第84回
松江の街は、静かで穏やかである。夜の大都会の華やかさはないが、その分だけ灯りが闇に映える。 「歩いていると分からないけれども、こうして上から見ると綺麗だよな」 「そうね。ぎらぎらした輝きではなくって、暗闇の中から小さな灯りが浮かび上がるって感じね」 運ばれてきたブランデーグラスは、大きめのチューリップ形だった。 「ストレートなのね?」 七瀬が、グラスを手のひらで包むように持って回した。 「ストレートで飲むなら、やっぱりコニャックっていうじゃないか」 「ふーん、そうなんだ。綺麗な色をしているなあ」 軽く揺すっている七瀬の手の間から、ブランデー特有の香りがした。 「ブランデーの出てくる映画とかって、よくあるよね。亮輔さん」 そうだったと亮輔は思った。 三年くらい前、アメリ≠ニいうフランス映画が封切りされた。アメリという空想癖を持つウエートレスのラブストーリーだった。七瀬が映画の話を始めた。亮輔はストーリーの記憶をなぞる。 アメリは住んでいるアパートで、写真やビー玉などが入った箱を見付け、それを持ち主に届ける。その男が感激してブランデーを飲みながら言うのである。 人生って不思議だな。昔は時間が永遠にあったのに、気が付けば五十歳――確か、そんな台詞だった。 亮輔は七瀬の染まった頬を見ながら、三十の半ばを越えようとしている自分の年齢を考える。 「美味しい……」 七瀬はグラスを空け、二杯目を手にしている。 「ナポレオンだからさ」 「古いってことですよね」 「原酒をどれだけの年数で仕込んだかで、ランクが決まるっていうね」 「このブランデーは?」 「十五年かな? 短くても七年、長ければ三十年だからね」 「三十年なら、私の生まれる前からだわ」 七瀬ばかりではない。亮輔も、上等のナポレオンは自分の年数に近いのだと、憮然としてグラスを見る。 「酔っちゃった……」 七瀬が、頭を亮輔の左肩に乗せた。 |
第85回
髪の匂いがした。 携帯を取り出した。 画面のデジタル数字が十時五十五分になっている。 「七瀬。電車が出るよ」 「何時なの?」 亮輔は、もう一度、携帯を見る。 「米子行き最終は、十時五十九分なの」 「あと四分で出る。間に合わない」 「いいの」 「いいのって、タクシーで帰るかい?」 「無駄よ。私、今日は帰らない」 七瀬は亮輔の肩から頭をはずした。 「ね、いいでしょ」 鋭い刃物のような視線が、亮輔の顔に絡み付く。 七瀬が(お願い)と言いながら、右手の人さし指を立ててバーテンに見せた。 いいでしょ、というのは、もう一杯という意味なのか、帰らないということなのか。既に燈火≠ナかなり飲んで来た。やめさせた方がいいのかもしれないと思う。 このバーに来てから何杯になるのだろうと数えようとするが、自分が飲んだ数と混同して、分からない。 「どうする? 七瀬」 「……」 「もう飲むの……やめたら」 そう言いはするが、七瀬ばかりではない。自分もかなり飲んでいると亮輔は思う。 「か・え・ら・な・い」 七瀬が、歌うように言った。 「寂しいの」 寂しい? と亮輔は繰り返した。 「うん。何ていうのかな、私、守られてるっていう気がしないの」 「どういう意味だ」 「誰かにしっかり、掴まえられてるという感じかなあ。そういうのがないの」 独り暮らしをしているせいかと、亮輔は思ってみる。 人は誰でも、自分以外の者からの優しい関わりが欲しいといつも考えている。自分という人間を認め、褒めてくれる者が欲しいのである。七瀬の言っていることは、そういうことなのだろう。 「変な意味じゃなくて、時々でいいから、ちゃんと抱きしめてくれる人が居るといいなあって思ってしまうの」 「七瀬……」 「はい」 行こうか、と亮輔は言い、七瀬の腰にゆっくりと腕を回した。 |
第86回
松江ロイヤルホテルの一階には、洒落た感じのブティックやコーヒー店、和洋菓子店などが入っている。駅に隣接していることもあって、一日中、人の出入りが多い。 だが、さすがに午後十一時を過ぎると発着列車の本数が減ることもあってか、夜の店に立ち寄る客も少なくなる。 「私、一階で待ってる。フロントで見られるの嫌だから」 ホテルのフロントは二階だった。市内のホテルのフロントは、たいていエントランスホールにある。だが、ロイヤルホテルは、そうではない。 降りて行くエレベーターの中で、亮輔の腕にすがりながら七瀬が言った。 「どうして? いいじゃないか。誰に遠慮することもない……」 「だって恥ずかしいもん」 「七瀬がねえ」 「ばか……」 「チェックインしたら、携帯に電話する」 「はい」 シースルーのエレベーターに赤いネオンの光が射し込み、七瀬の顔が光った。亮輔は七瀬を引き寄せ、右手で顎を持ち上げながら唇を塞いだ。ブランデーの匂いがした。 ダブルの部屋は、七階の東端にあった。 伊勢宮の輝きの向こうには、暗い大橋川が流れている。それは中海に続いているはずだが、川は途中で闇の中に消えていた。 幻のような深い暗がりを見ながら亮輔は、夏夫や明子が今夜のことを知ったらどう言うだろうと思った。 黒い川は、米子の夏夫の家に繋がっているような気がした。 部屋に入ると、七瀬は亮輔の首に両腕を回し、胸に顔を埋めた。 「シャツに付いたかなあ」 「え?」 ファンデーションと呟き、七瀬が顔を上げる。 「明日の朝、落としてあげる」 「いいさ。それより……」 その先を遮るように、七瀬が言う。 「酔った七瀬って嫌いでしょ?」 「そんなことはない。酔ってた方がいい」 「どうして?」 「恥ずかしがらないからさ」 睨むような目をする七瀬を亮輔は抱き、唇を絡め、スーツのボタンに手を掛ける。「やだ……」 シャワーしてくる、と言いながら七瀬は亮輔の胸を両手で押して離れる。 |
第87回
灯りを消しといてねと、七瀬の声がシャワーの音に混じって聞こえた。 亮輔は自分と十五ばかりしか違わないのだが、七瀬の若さや不意の思い付き、変わり身の早さに驚く。 日御碕に行った翌日だった。 午前六時に会って欲しいと七瀬が言い、松江の北公園でサッカーの真似事をしたことがある。サッカーといっても、ただのボール蹴りだった。七瀬は米子に住んでいるのだが、わざわざ、しかも早朝に松江まで来るというのも唐突である。それはそれで面白いのだが、どう対応していいのか戸惑うこともある。 社長の思い付きのアルバイトの話にしても、興味本位のような気もする。 七瀬の考えていることや行動を不思議に思うことがあるが、それは普通のことなのだろうか。 七瀬がそうだという訳ではないが、女の子達による反社会的な行動の低年齢化も、亮輔にとってはまるで違う世界の話である。例えば、中学生や高校生の援助交際、自傷行為、摂食障害などがそうだ。 六月であったか、長崎の佐世保で起きた小学校六年生の女の子が起こした殺害事件は衝撃的だった。小学生が、それもいわば聖域とでもいうべき学校で起きたというのは、亮輔でなくても普通では考えられないことの一つである。 七瀬が高校生の頃は、どうだったのだろう。静かな山村の高校で過ごした三年間の七瀬はどんなことを考え、何をしていたのだろう。 そんなことを考え、冷蔵庫から取りだしたワインをソファで飲んでいると、浴室のスイッチを押す音がした。 振り返ると、体にバスタオルを巻き付けただけの七瀬が立っていた。 「亮輔さん、どうしたの?」 「どうしたって、何が」 「もう飲むのやめたらあ。もう随分入ってるでしょ」 「七瀬こそ、かなり飲んでる」 「いいの、私にもちょっと」 言いながら七瀬が亮輔の横に座った。グラスを手にして眺めている。 化粧を落とした七瀬の顔には、若さという艶があった。 「ねえ、好きなひと……いるの?」 飲まずにグラスを置いた七瀬が、亮輔を見て呟いた。日御碕からの帰り、確か七瀬は同じことを言った。 |
第88回
なぜかそのことに七瀬は拘っている。言われて亮輔は、千秋のことを思い出した。あの日、擦れ違ったタクシーの中に居た女は、やはり千秋だったように思う。暫く忘れていたが、七瀬の言葉で、その確信は深まる。 「居るわけないだろう」 「分かんないよ」 「どうして、そんなこと言う?」 「……」 亮輔の方に向き直った七瀬が、両手で背広を肩から後ろへ落とす。シャツのボタンを一つずつはずしていく。 「いいよ。自分でやる」 亮輔は立ち上がりながら、七瀬の両手を押さえた。七瀬の体を覆っていたバスタオルが落ちた。 「わ、やだあ」 はち切れるような二つの乳房が、均整のとれた美しさを見せてこぼれ出た。それは、白い乳鉢をシンメトリーに伏せたように並んでいた。 腰までずり落ちたバスタオルで、下半身は見えないが、白い肌は少し赤みを帯びていた。 どこかで見たような気がした。 「きれいだね」 「やだあって言ってるでしょ」 「……」 「あっち向いてて」 慌ててバスタオルを引き上げ、胸に抱き込むようにした七瀬を見て、亮輔は思い出した。 ウィリアム・エッティの『水浴するミュージドーラ』だ。体を斜め前に突き出した裸の胸に、二つの乳房が豊かな量感を見せている絵だ。 「シャワー……してきてね」 七瀬は言いながら、ベッドに潜り込んだ。 亮輔はシャワー栓を手にしたが、思い直してバスタブに湯を満たした。 手足を伸ばすと、体からアルコールが抜けていくように思えた。心地よかった。それは、これから過ごす七瀬との初めての夜に起こるはずの、その種の快感にも似ているように思えた。 亮輔は、シーツの中にある七瀬の体を想像しながら、千秋の言った、絵を描いて欲しかったという言葉を思い出した。(モデル……)と口に出して言いながら、亮輔は七瀬を描いてみようと思った。七瀬のヌードをである。以前から考えていたことだったが、それは確かな思いに変わった。 |
第89回
部屋の灯りは落とされていた。開いたままのカーテンの間から、眼下に金粉を振りかけたような松江の夜が見えた。遠くに目をやると、北山の黒い塊で区切られてはいるが、星の散らばる遠い空に繋がっていた。雲ひとつない冬の空だった。 七瀬が体をずらすシーツの音がした。亮輔は、腰に巻いていたタオルを取ると、その横に滑り込んだ。 七瀬が強い力で、抱きついてきた。 「寝てたか?」 「ううん、寝てないよ。待ってたもの」 ほんとかな? と亮輔は言い、七瀬の熱い頬を右手の指でつついた。 壁に取り付けられたシェードから流れて出たオレンジ色の光が、七瀬の顔を照らしていた。 まるで子猫のように見えた。七瀬は指で亮輔の体中をさすり、時折、爪を立てた。痛い、と言いながら体を亮輔がずらすと、七瀬は小さく笑い、更に力を込めた。 亮輔は七瀬の上になり、長い髪の中に手を入れると両側へはねのけた。黒い髪が枕の上に広がった。 亮輔は、七瀬の中で溶けていった。 どれくらい眠ったのか、七瀬の頭の下に入れていた腕の痺れで目が覚めた。 少しずつ抜こうとすると、七瀬が(いや)というように体を寄せて目を開けた。 「起きたのか?」 「うん……」 亮輔は毛布をはねのけた。七瀬が体を捻った。亮輔は左肘で体を支え、上から覗き込んだ。 「描かせてくれないか?」 「私……を?」 「そう。どうしても描いてみたい」 「裸なのね」 「駄目か?」 「……」 ヘッドボードに埋められたデジタル時計の緑色の文字が、午前三時を表示していた。 「いいよ。私でよければ」 「七瀬でなくちゃ、駄目なんだ」 「分かったわ」 「モデル代は……」 七瀬は、左手で亮輔の口を押さえ、その後を言わせなかった。 「いらない」 「七瀬は、オーストラリアへ……」 「うん。それはあるけど、いいの」 亮輔は毛布を持ち上げ、二人の体を包んだ。夜はまだ続いていた。 |
第90回
七瀬と夜を過ごした水曜日から数えて、六日目だった。 月曜の朝の会社は、喧噪の中にあった。電話がひっきりなしに鳴る。亮輔の机の上にある電話が甲高い音を立てた。交換が米子の本山夏夫さんからだと告げた。 「よお、久し振り。元気かな?」 夏夫の声を聞いて、不意に七瀬と一緒だった夜が頭に浮かんだ。 電話だから、顔を見られているわけではないが、何となく面映ゆい。 もちろん、七瀬は夏夫の家族ではない。七瀬の家が夏夫と同じ仁多という関わりだけである。夏夫夫婦は、松江の大学に通っている七瀬の面倒を見てくれるようにと両親に頼まれていた。そのことから、一緒に住んでいるわけではないが、七瀬を家族の一員のようにしている。 「まあまあ……だな」 亮輔はそう言いながら、我ながらいい加減な返事だと思う。 「年末で、自動車会社も大変だろう」 言われるまでもなく、販売会社が一斉に広告を新聞に載せる時期だった。どこの会社も、季節に合わせて販売のイベントを考えるのだが、俗な言葉で言えば、年末商戦ということになる。 「ところで……」 夏夫が言い淀んだ。 「何か特別なことか?」 答えながら、まさか七瀬とのことを言い出すのではないだろうなと亮輔は思う。夏夫の家族は、七瀬のいわば親代わりのようなものだからだ。 「忙しい時に申し訳ないが、ちょっと顔を出して欲しいことがあって」 「何しに、どこへ……」 「バレエを見に行ってくれんかね」 「どこの試合だ?」 「何言ってる。バレーボールじゃない」 夏夫が言うのは、ロシアのバレエ公演のことだった。 「ロシアのノボシビルスク・バレエなんだが、義理でどうしても行かなきゃならない」 「代わりに、ということかな?」 「まあ、そういうことだが」 ロシア国立ノボシビルスク・バレエ団の日本ツアーがあり、出雲市で公演をする予定である。招待券があるから、七瀬と行かないかという電話だった。 亮輔は夏夫に、この間の七瀬とのことを見透かされているような気がした。だが、七瀬がそのことを言うわけはないはずだ。 |
第91回
夏夫の言うバレエ団は、ロシアの三大バレエ劇場の一つであるノボシビルスク・オペラ・バレエ劇場を本拠地に活動をしている。モスクワには十二のバレエ団があり、サンクトペテルブルクも同数である。ウクライナや旧ソ連諸国を含めると、ロシアには、六十を超えるバレエ団がある。 出雲で公演するのは、ロシア国内だけではなく全世界的に見ても非常に高い評価を得ているモスクワのバレエ団だ。 ノボシビルスクは、去年も日本に来て公演をした。今年が二度目で、チャイコフスキーの名作白鳥の湖≠公演するというのである。 夏夫の勤める北陽放送にも取材依頼があった。バレエ公演に限らず、いろいろなイベントには必ずと言っていいほど、テレビで報道して欲しいという話が入る。適当に放送で流すものもあれば、業界の関係もあって、どうしても取材をしなければいけない場合もある。 バレエの報道は何かの形でするが、一応、会場に顔を出す必要があるのだと夏夫は言うのだった。 夏夫は、テレビ部門の報道記者をしている。亮輔は、マスコミの職場にいる夏夫が羨ましいと思うことがある。高校生の頃だった。一時期、新聞記者になりたいと思ったことがあるのを思い出した。 「実はこの間……佐木君が家に来たのだ。その時にバレエの話をしたら、ぜひ行きたいと言うから、お前と一緒ならいいなどと思い付いて言ったのだ」 亮輔は特にバレエに興味があるわけではないが、ダンサーの動きを見ることも絵を描くのには参考になりはしないかと思った。だが、それはいわばこじつけであって、七瀬との時間を共有したいという気持ちが強い。 「そう言ったら、佐木君はひどく喜んでた」 「佐木さんが? それはまたどうして……」 亮輔は言いながら、七瀬の気持ちが分からないでもないから、よけいに夏夫に悪いと思う。 「どうか知らんが、まあ俺に言わせれば、お前は保護者代わりだ」 そう聞かされると、この間のことはいよいよ言いづらくなる。 「分かった。行くよ」 「十二月の二十三日だ。佐木君に言っとくから……」 年末は忙しい日が続くと思うのだが、それよりも、と亮輔は考える。 |
第92回
ノボシビルスクのバレエは、出雲の市民会館が会場である。 「亮輔さん」 入口に掲示してあるポスターを見ていた亮輔は、背中を押されて振り返った。 七瀬だった。 薄い茶色のワークジャケットにユーズドブルーのバギーパンツを穿いている。ピンクの水玉模様の付いたマフラーが似合っていた。 「やあ」 久し振りだった。 年末の商談会などの催しがあり、七瀬と連絡を取るのが精一杯で、ロイヤルホテル以来、会っていなかった。 七瀬が小さく首をかしげた。 亮輔は着替えてくればよかったと思った。ちょうど天皇誕生日で休日だったが、会社は年末の売り出しの日だった。午後二時の開演に間に合わせようと、休みを取って会社からそのまま来たのだ。いかにもサラリーマンという格好の紺色のスーツだ。 「待ったの?」 「いや……」 休日の午後ということもあって、九号線は混んでいなかった。予定より三十分も早く着いたのだが、七瀬には黙っていた。 「行こうよ」 七瀬が右腕を絡めた。 指定された席は、千五百は入ると思われる観客席のちょうど中間だったが、プレス席の表示があった。 「へぇー、凄い。報道関係の席なんだ」 七瀬が感心したような声を出した。既に座っていた何人かが、その声に振り返った。もちろん知った顔はないが、何となく落ち着かない。報道席に、男と女の二人連れは似合わなかった。 「米子から来たのか?」 そうよ、と言いながら、七瀬は貰ったばかりのパンフレットを見ている。 「七瀬……」 「え?」 七瀬の右手を握った。 「あ、そうだ。ちょっと待って」 七瀬が小型のバッグの中から膝掛けを取り出した。 「こうすればいいでしょ」 広げた膝掛けの下で、七瀬が手を探ってくる。肩掛けにもなりそうな小型のキャメルの下で七瀬の手が動いた。 「寒い時には、車の中でも使ってるの」 強く握られた七瀬の手は温かった。 |
第93回
ノボシビルスク・バレエ団は、パンフレットによると百十名の団員だとある。おそらく舞台に出るのは、その半分くらいだろう。団員だからといって、必ず舞台に立てるというものでもない。長い下積みの期間があって、ある日突然チャンスが訪れる。その時にどう自分をアピールするのかによって、日本などのツアーに参加できるかどうかが決まるかもしれないなどと、亮輔は想像してみる。 絵の世界も一緒ではないか。不意に、思ってもみなかった時に、自分の絵が認められるかもしれない。だが、それまでにどう努力してきたかが問題だ。 「オーケストラの席があるんだなあ」 七瀬はまた驚いたような言い方をした。舞台のすぐ下にボックス席が作られている。亮輔は、こういう公演を見に来たことがないから分からないが、普通なら録音テープを使うのではないだろうかと思う。 「亮輔さん、オーケストラの前だったら、よく見えるかもしれないね」 「さあ、どうだか」 「どうって?」 オーケストラ席に続く場所は、おそらく最も良い席になっていると思うが、あまりに近いと視界が遮られるのではないか。一階席の上に二階席がせり出していれば、その方が良いということもありそうだ。 特別に作られた劇場ならともかく、何でも使う目的のホールだから、不便なこともあるのだろう。 「あまり近いと、どうだろうな」 「そういえばそうね」 白鳥の湖≠ヘ、全部で四幕である。第一幕は、ある王国の城の庭園で、ジークフリート王子の成人を祝う祝宴の場から始まった。 バレエは、普通の演劇と違って台詞がない。だから、チャイコフスキーの音楽はもとよりだが、ストーリーを理解していないといけないのではないかと亮輔は思っていた。だが、心配するほどのことはなく、振り付けがよいのか、演出のよさによるのか、何となく分かる。不思議なものだと思った。 第一幕の最後は、王子が狩りに行くために森に出掛ける場面で終わった。 十五分間の休憩になり、かなりの観客が席を立った。 オーケストラの前の席にいた中年の男女二人連れが同時に立ち上がる。 「あ……」 女は紗納千秋だった。 |
第94回
亮輔の声が聞こえたらしい。 「何?」 七瀬が顔を向けた。 「何でもない……けど」 立とうと思ったが、七瀬に手を強く握られている。理由を付けて腰を上げるのも、呟きを聞かれた後だけに不自然だ。 「誰か知ってる人、居たの?」 「いや、別に」 座席の横を何人かが通り過ぎる。亮輔の見た二人は、既に姿が見えなかった。 「そうよね。ここ、出雲だもんね。亮輔さんの知ってる人なんか居ないんだ」 「そりゃあ、まあそうだ」 仕方なしに頷く。 夏の展覧会で初めて千秋に出会った。それから数えて三度目である。 日御碕で千秋を見たのも、偶然だが七瀬と一緒の時だった。見たというのか、多分そうだと思うのだが、亮輔は千秋だと信じている。 休憩時間がもう暫くで終わるというアナウンスがあり、あちこちの入口から観客が席に戻って来た。 「ねえ、第二幕は、白鳥の住みかで王子が白鳥の皇女オデットに出会って、好きになっていくとこなのよね」 「……」 「亮輔さん、ねぇったら」 ざわめいている客席に目をやっていた亮輔は、七瀬に横腹をつねられた。 「私の言うこと、聞いてないじゃない。どうしたのよ」 「ごめん。ちょっと考えごとしてた」 「ふーん、何かおかしい……」 七瀬と一緒にバレエを見に来ている。隣に七瀬が居て、しかも膝掛けの下では手を握られている。それでいて、亮輔は千秋のことを思っているのだ。七瀬は亮輔にとって、いわば特別の女性であるにも関わらずである。 男というものは、ある意味で気紛れである。ひとりの女と一緒に居ても、ふいと通り過ぎる女に目をやる。別の女に惹かれ、会ってみたい、親しくなりたいと望んだりする。お互いの都合さえよければ、のめり込んでしまうかもしれない。 なぜ千秋のことが、頭の中にいつも浮かぶのだろう。 夏のあの日もさしたる話はしていない。強いて言えば、モデルになりたいと千秋が言い、それがあまりに唐突であるような気がしたからなのだろうか。 |
第95回
いや、そうではなくて、細い顔によく似合った大きな目で見詰められたからかもしれないと思う。肩の下まである艶のある長い髪の匂いが、今もするようでもある。 いや違う。あの時に髪の匂いはしなかっ たのだ。空想の中で、千秋をもてあそぶ。 第二幕が始まった。千秋の座っていた席には誰も居ない。もちろん、隣にいた男の姿もない。 どうしたのだろうと、亮輔は苦しいような思いにとらわれる。 気付かれないように亮輔は、七瀬の横顔を見た。食い入るように舞台を見詰めている。考えていることを見透かされてはいないはずだが、ふっと七瀬に悪いような気がする。だが、千秋と話したわけでもない。会う約束をしたこともないのだからと、亮輔は何となく安心して舞台に目をやる。 白鳥たちは悪魔のロットバルトの手によって魔法を掛けられ、夜の間だけ普通の人間に戻るのである。ジークフリート王子は、その中にいるオデットの美しさに心を奪われ、救い出そうと考える。 それを見ながら亮輔は、また千秋のことを考える。隣にいた男は誰なのだろう。 ほんの一瞬、横顔が見えただけだが、薄いグレーのダブルのスーツで、年齢は五十代に見えた。体格がよかった。 第二幕が終わり、次の幕が上がっても千秋は戻っては来なかった。おそらく少しだけ見て帰ったのだろう。夏夫の話ではないが義理で来たのか。それにしても、何で津和野や山口から出雲に来たのだろう。 三時間近くに及ぶバレエは終わったが、亮輔は半分以上の時間を上の空で過ごしたように思った。 「よかったねえ。亮輔さん」 「うん、そうだな。さすがロシアのバレエだね」 言いながら、いい加減な返答だと気が付く。カーテンコールというのか、幾度となく繰り返される指揮者やバレリーナの登場に、いささかうんざりしているうちに、終わりのアナウンスがあった。 「行こう」 七瀬が亮輔の腕を取る。 「どうする?」 聞きながら亮輔は、後のことを決めていなかったことを思い出した。 「うん。今日はちょっと用事があるから、真っすぐ帰る。ごめんね」 明日はクリスマスイブである。恋人同士なら、どこかに行くのだろうと亮輔は思う。 |
第96回
出雲市民会館から外に出た。十二月も末になると、時として午後四時くらいから暗くなる日がある。 駐車場の薄ぼんやりとした街灯が、まだかなり残っている車の屋根を淡く照らしていた。 「本当にもう帰るのか?」 亮輔はポケットから車のキーを取り出し、リモコンでドアを開けて先端を口にくわえた。 キーを手に持ったままドアハンドルを引くと、キーがボディに当たって傷を付けることがある。ほかの社員は知らないが、亮輔は売り物の車に傷を付けたくないからそうするのだ。その癖があって、自分の車もキーを持ったまま、ボディには触らないようにしている。 「おかしい。でも、かっこいい」 七瀬が亮輔の口元を見て笑った。 「鍵をくわえることが?」 「うん。前から気が付いてたけど、亮輔さんて意外にデリカシーあるんだ」 「デリカシー……。ふーん、繊細ねえ」 わざと言い直して、七瀬の顔を見る。 「そう。でも、そういうとこ好きよ」 七瀬がすぼめた唇を突き出してきた。抱き寄せて、強く吸う。 「く……」 七瀬が荒い息をした。何人かが横を通り過ぎたが、誰も振り向きもしなかった。 「もう帰る?」 亮輔はまた繰り返す。 「うん。ちょっと約束もあるし……」 誰に会うのだろうと、亮輔は気になった。「米子で?」 「そうなの。それに暮れから正月には、どうせ仁多に帰らなくちゃいけないし、いろいろ準備もあって……」 どうしても都合が悪いというのが気になるが、仕方がない。 「じゃ、来年まで会えないってことか」 「亮輔さんも年末で忙しいでしょ?」 それは別だと言いたかった。 七瀬は山深い仁多の里で、どんな日を過ごすのだろうと思った。冬、仕事で仁多の町に何度も行くことがある。市内には雪がなくても、大東から木次の寺領を通り、樋の谷を越えると途端に雪が多くなる。 薄茶色のジャケットに紅いマフラーを首に巻き、雪の町を歩く七瀬を想像する。 「来年……だな」 「そうね……」 七瀬が右手を振り、車に乗った。 |
第97回
毎年のことだが冬になると、暖冬だという声が聞かれる。今年もそうだな、と亮輔は晴れた空を見上げた。冬用タイヤに交換するため、工場に入ってくる車が多い時期だが、やはり今年もまばらである。 亮輔の十二月の営業成績は、かなりなものだった。運送会社への納車が十台あったからだ。いわゆるメール便や小さな荷物配達のための軽ライトバンだったが、普通車に比べて利幅は少ないものの、まとまれば売れたという数の実績にはなった。 思いもよらなかった歩合を手にして、亮輔は米子の夏夫の家に行ってみようと思った。口実は夏夫との忘年会だった。 大晦日にあと五日という夕暮れの米子の町は、慌ただしい。松江とは、どことなく人の動きも違うような気がする。 「あら、お久し振り」 玄関に入ると、夏夫の妻の明子が花を活けていた。 白いストックとピンクのガーベラに、銀のモールなどをあしらっている。 「きれいですね。なかなかのものだなあ」 「下手だし、まだ出来てないですから」 「いえ、なかなかのものです。正月用ってとこですか?」 「ええ、そうなんですが。いつもは七瀬ちゃんと一緒にするんですが、今年はなぜか早く仁多に帰っちゃったんです」 「そうなんですか」 何かあったのだろうかと、亮輔は出雲でバレエを見た時に、七瀬と話したことを思い出す。かといって明子に問いただすのも、何となく気が引けるのである。 「この間、七瀬ちゃん、ちょっとだけ顔を覗かせたんです」 「……」 「すぐに帰ったんですけど」 「佐木さん、来たんですか。そうでしたか……。でも、いい花だなあ」 「早めに準備しとかないと、元日は朝早くから年賀に来る人がいるもんですから」 最初から夏夫と酒になった。 「今年は絵の方はどうだった?」 「今までで一番いい年かもしれない」 「なんで?」 聞かれて亮輔は、七瀬の顔を思い出す。絵というよりも、七瀬をモデルにして描いたことがな、と言いかけたが黙った。千秋の顔が浮かんだからだ。 「まあ、いろいろとな」 曖昧な言い方は駄目だと言いながら、夏夫が徳利を向ける。 |
第98回
七瀬とモデルということではなく、別の意味で会うようになったとは、夏夫には言いにくい。当然だが、明子の耳にも入る。夏夫達は七瀬の家族ではないのだから、いわば他人である。だから七瀬が誰とどうなろうと、とやかく言う筋合いはないだろうと思った。だが途端に、(田舎の高校から出て来て松江の大学に入ったから、面倒を見てくれと両親に言われたのだ)という夏夫の言葉を思い出した。 いずれにしても、男と女のことだから、わざわざ話すこともあるまいと亮輔は自分に言い聞かせる。 風が出てきたのか、庭の木の揺れる音がする。松江駅を出る時に見ていたテレビの天気予報は、今夜は雪になると言っていた。 明子が更に料理を持って来た。 「日本海の冬の味覚って言うけど松葉蟹です。亮輔さん食べて下さいね」 「ほお、蟹ですか。こんなご馳走……。凄い腕ですねえ」 「違うって。近所の料理屋から取っただけの話だ」 夏夫がそれでも嬉しそうに言う。 だが、亮輔は蟹の料理は苦手である。味がどうのというのではなく、身を取るのが下手なのだ。 七瀬と一緒なら、取り分けてくれるかなと、一瞬思う。 松葉蟹というのは山陰で水揚げされる蟹で、ズワイガニの雄のことをいう。 ズワイガニは、生産地で味わいが微妙に違うために、いろいろな名前があるのだ。 肉質がしっかりしていて旨味があり、腹にあるみそも美味い。 「ここら辺りの蟹が美味いのは、何でだろうな」 明子が口を開きかけたが、黙っていた。 「そりゃあ、日本海の深いところで育つやつだから、身が締まってるからさ」 夏夫が言いながら、明子の顔を見る。 「それって、よく分からないですけど、ともかく私達仁多でしょう。だから魚類はあまり食べたことなかったんですよ」 「そうだよなあ。まあ、ここは境港が近いから魚は生きのいいのがいつでも手に入るってわけだ」 「車なら十分くらいなものだろう」 空いた皿を持って台所へ行きかけた明子が振り返った。 「そうだわ。その蟹は落蟹ですって」 初めて聞く名前だった。 「落蟹?」 |
第99回
開けた襖を閉め、明子が盆を膝に載せて座った。 「漁の時に足が取れたりするのがあるでしょう」 言われてみればそうである。 「足や爪が、一本とか取れたものをそう言うんですって」 「それにしても蟹は蟹だ」 夏夫が、盃からぐい呑みに替えた。亮輔も注がれるままに、かなり飲んだような気がする。 「鮮度っていうか、身の詰まりなんかも全く変わらないんですよ」 「だから、ちょっと安いってとこだ」 「まあ、近所の料理屋さんだからですよ。ごめんなさいね、ちゃんとした蟹でなくて」 「いえ、いえ、そんな……」 夏夫が酒の催促をした。すぐに持って来ますと言って明子が部屋を出た。 「最近、七瀬君があまり来なくなったが、何かわけがあるのかな?」 亮輔はもちろん七瀬が夏夫の家に、どれくらいの頻度で来ているのかは知らない。 「いつも来るんじゃないのか?」 「この間、仁多に帰るからって来たが、その前にずっと姿が見えなかった」 「……」 「モデルは、あれからやってないか?」 「ああ、まだそういう話はない」 「話はない? 佐木君に会ったのか?」 明子が徳利を持って来た。 「そうそう。この間、七瀬ちゃんが来た時、嬉しそうにしてたわ。なんでって聞いたら、ふふって笑ったけど、なんも言わなかったのよ」 「まあ、若いから何でも嬉しいんだろう」 「亮輔さんは、七瀬ちゃんをどう思ってるの?」 不意に明子が聞いた。どう答えればいいのだろうと、亮輔は思案する。 「……」 「好きなんじゃないの?」 明子が、斜めに構えて亮輔を見た。 「なんだよ。それって……」 夏夫が驚いたような顔をした。 「モデルとしては……いいと思いますよ」 酒が頭の中を回り始めたような気がした。少し過ぎたかなと、手にした盃を机の上に置いた。 「違うのよ。モデルじゃなくて。亮輔さん、七瀬ちゃんが好きなんでしょう?」 「悪くはないですけど」 悪戯っぽい明子の目が、亮輔を見ている。 |
第100回
分かるのよ、と言いながら明子が徳利を手にする。 「別に何を聞いたってことではないけれども、女の勘かな」 「おい、本当かよ」 夏夫が、亮輔と明子の両方を見比べる。 亮輔は自分の年齢と七瀬のそれを考えてみる。ひと回りの違いがある。夏夫とは高校の同期である。夏夫には既に女の子が一人いる。小学校の三年生だと聞いていた。 亮輔は夏夫と同じ年齢だ。それを七瀬はどう思っているのだろうか。 「いえ、知りませんよ。でも、そんな気がするの」 「亮輔、どうなんだ」 「そりゃあ、嫌いじゃない」 「だから、どう好きかってことだ」 夏夫は酒のせいだろうが、かなり赤い顔をしている。 「どう好きかと言われてもなあ」 明子は、やはり笑っている。 「まあ、その話はいいじゃないの。亮輔さん、少し飲んだらどう?」 「いや、もうこれ以上飲むと帰れなくなるから……」 「泊まってってもいいですよ」 明子がまた酒を注いだ。 「明日も仕事だし、遅くなっても帰った方がいいんです」 ぐらりと体が揺れた。 泊めてもらってもいいいが、明日は朝から販売会議がある。それが終われば、一応は年末の休みということにはなる。だが、どこともそうだが、顧客のところにカレンダーや手帳などを配らなければならない。年の暮れを実感するのは、三十一日になってからだ。 夏夫の家をタクシーで出たのは、午後十時だった。 玄関からの光を背に夏夫と明子の二人が黒い影になって見えた。 タクシーは暖房をきついほど効かせていた。酒の酔いが、その暖かさで余計に増幅するようだった。 タクシーは、チェーンを巻いていた。鎖が道を噛み、苛立つような音を立てた。雪は積もっているというほどではない。黒い道は、うっすらと雪を被っていた。急ぎ足になると滑るだろうと思った。 ドアを開けて外に出ると、冷たい空気が一瞬頬を撫で、心地よかった。 米子駅からは、十時五十分に松江へ行く電車がある。松江には十一時二十分に着く。 |