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連載小説「原色の構図」 島根日日新聞掲載

◇第1回〜第10回   第11回以降は10回の後に分割

「素敵だわ……」
 小さく呟くような声を背中に聞いて、絵の前に立っていた伊折亮輔は振り返った。細い顔に大きな目がよく似合う女だった。肩のつい下まである長い髪は、洗ったばかりのように艶がある。それが目立つだけで、ごく普通の綿の白いシャツを着た、どこにでもいるような女だ。視線を下げていくと、股上の浅いデニムのジーンズがウェストの細い場所でなく、骨盤のあたりで止められて長い足に食い込んでいるように見えた。
「あなたの作品なんですか?」
 女が亮輔の方に首を傾げた。ネックレスが動いて光った。しずくの形をした青、紫、ピンクの小さな三つの石が揺れる。何という名の石か分からないが、亮輔には甘いキャンディのように見えた。
 松江の宍道湖岸にある松江現代美術館の第七小展示室では、伊折亮輔と相良美樹の二人展が開かれていた。亮輔の水彩画と美樹の陶器が、ほどよく配置されている。
 絵は二十点で四号から八号までの大きさである。陶器は、その数より数点多く並べられていた。
 亮輔は大学を出ると、松江市内にある東洋自動車販売会社に勤めた。車のセールスをしながら絵を描いている。
 陶器を展示している美樹は、高校を出ると広島県三次市にある窯業訓練校を終えてから岡山の窯元で八年を過ごした後、邑智郡の羽須美村口羽で窯を開いた。住んでいる所は上田という字名の集落で、その名を取って、上田窯と名付けている。
 美樹の作品は、いかにも女性らしいそれで、青釉薬を主体にした食器、花器、茶器などの日用品というところだ。二十点ばかり並べられた作品は変化に富み、力強い造形の片口、モダンな感じの紅茶器、いろいろな形をした花瓶などが、壁面に掛けられた亮輔の水彩画の下に並べられていた。
 絵と陶器を取り合わせた展覧会は、どちらかというとこの地方では珍しい方に属するかもしれなかった。
 女が聞いているのは、絵のことなのか陶器なのか分からなかった。黙っていると、女はもう一度同じことを言った。
 絵の横には、題名と亮輔の名前が書かれた小さなカードがある。陶器の横に置かれた名札にも相良美樹という文字がある。見ようによっては、男の名でもある。男と女の区別がつかず、亮輔のものと思ったかもしれないのだ。
「絵に決まってるじゃないですか」
 女は亮輔から絵に視線を移し、睨むような目をしたが、顔は笑っていた。
「あ、陶器のことかもしれないと思ったもので。相良さんは女性なのです」
「そうなんですか。私はてっきり男の人なんだと思ってました」
 美樹が居てくれるとよいと思ったが、あいにく 午前中だけで既に帰ってしまっていた。
「パンフレットに、性別は書いてなかったですね。でも、美しいという字があれば分からないこともない……」
 亮輔と女は、同時に小さい笑い声を上げた。ふっと距離が近くなったように思えた。
 女は、少し年上のようである。亮輔は三十五歳という自分の年齢と引き比べながらそう思った。女の長い髪が、年齢を若く見せている。僅かに茶色に染めているようにも見えた。いかにも染めたというのではなく、自分に似合う色を探してそうしているという感じだった。
「素敵ですね。私もこんなふうに描いてもらいたいわ」 
 女が見ている亮輔の絵は、平田市にある紅葉の鰐淵寺を背景にして、若い女の上半身を描いた八号の水彩である。
「モデルをやりたいってことですか?」
 亮輔は女のジーンズに目を這わせた。腰から下は布を跳ね返しそうな膨らみがある。描いてみたいと思った。亮輔は自分の性格からみて、自らの内面をいちばんよく表現できるのが人物画だと思っている。
 だが、これまで本格的に人物に取り組んだことはない。
 特に裸婦を描くということは難しい。描くことの前に、まずモデルを確保しなければならない。モデル料も安くはない。それでというわけでもないが、水彩での風景をテリトリーとして来たのだ。
「あら、いやだわ。初めての方にこんなこと言って」
 亮輔の視線を感じたのか、顔を赤らめた。
 女であっても、モデルはある意味で物に過ぎないのだと、一部の画家を名乗る者は言う。だが、ごく普通の人は、そうではない。人間として見ている。物としてというのは、一般の人の感覚ではない。
 裸を晒すモデルなら、なおさらである。確かに、モデルという言葉は小説や戯曲もそうだが、画家や彫刻家、写真家などが対象として扱う人間であり、制作上の素材である。だが、男であれば、全く生理的なものに繋がる反応なしに見るだろうか。
 女のヌードモデルを見て、エロスを感じないというのは嘘だと亮輔は思う。もちろん、ただそれだけではなく、それによって新しい対象としての発見がある。
 女は亮輔のそういう思いを見透かしたのだろう。
「いやだわ――なんて言っちゃいけませんね。絵を描かれる人を前にして……」
女は、子どもが言い訳をするような表情になった。(せっかくですから、少し見せていただきます)と女は言い、手にした展覧会のパンフレットに目を落とした。
 亮輔は話の接ぎ穂を失い、展示室の入口にある受付に戻った。
 台の上に置かれた芳名録が、少し斜めになっている。真っ直ぐにしようと思いながら、手に取った。
 紗納千秋――芳名録の最初の方に、墨字でそう書かれているのが目に入った。今日の五番目になる入場者だ。墨字と言っても、筆ペンで書かれたものだから、何となく頼りなげな文字に見える。
 亮輔は展示室を振り返った。パンフレットを持った女の姿だけである。ほかには誰も居ない。ということは、あの女が書いた文字だ。(紗納千秋と言う名前なのか……)と、亮輔は芳名録と女の後ろ姿を見比べた。
 紗納というのは、どう読むのか。おそらくサノだろうが、珍しい名前だ。そう思いながら、サノチアキと呟いてみる。
「ありがとうございました。いい展覧会ですね」
 前日までの芳名録を見ていると、女が戻って来た。お世辞でもないような言い方だった。
「まあ、どうぞ。紗納――千秋さんとおっしゃるんですか?」
 亮輔は、折りたたみの椅子を出した。
「そうです。さっき名前を書かせてもらったから、お分かりになったんですね」
 ありがとうございます、と小さな声で言いながら女は腰を下ろした。形のいい長い脚が、斜めにすっと伸びた。
「陶器と絵が、ほんとによくマッチしてますわ」
 亮輔の水彩画に陶器をあしらったらどうかと言ったのは、知り合いの画商である。
 夏の季節に水彩画を展示するなら、壁に掛けた絵の下に涼しげな陶器を配置したらどうかという意見だった。
 画商が話を持ちかけた陶器の作家は、相良美樹という。美樹は新進の陶芸家で、邑智郡で窯を開いている。
 美樹は、このところ中央のギャラリーなどからの注目を集めているし、面白い企画になると思うがどうだ、という話だった。
 作品は、色合いは、白いベールをかけたようなソフトなものが多いから、夏の季節に合う。コーヒーカップは、清流を思わせるペールアクアかペパーミントグリーン、ミントフィズなどが使われている。
 そう言われると、やってみたい気がした。
 亮輔のテーマは夏である。展示する予定の絵も、青系の多いそれだった。
 実際に並べてみると、画商の言うとおりだった。白地の陶器にあしらわれた、サンイエローも明るく映えていた。
 美樹も絵の展覧会に並べたのは初めてなのと言い、展示準備をしながら歓声を上げたくらいだ。
「風景が多いのですね。もう少し人物画……があるのかと思ってました」
 千秋は、展示室に体を回して目をやった。体が動き、爽やかなオレンジの香りがした。
「人物?」
「ええ、たとえばヌード。絵と言われれば、私はなぜかそう思ってしまうんです。画面にいる私を想像したりして……」
 亮輔は最初に女が言った言葉を思い出した。(こんなふうに描いてもらいたい)と言ったのだ。
 モデルの仕事と言っても、いろいろである。裸婦デッサンやクロッキーなどの美術モデルや、撮影会などの写真モデルもそうである。裸の場合もあり、着衣だけというのもある。
 絵を描いていると、モデル探しに苦労する。裸婦の――ということになると、なかなかに難しい。経費も掛かる。
「モデルをやりたいのですか?」
 期待を込めた口調になった。
「そう思ってましたけど、もう駄目なんです」
「どうして?」
「やりたいなと、若い時には思ったこともあったんです。でも、もう……体の線だって」
 そんなことはない、と言いかけたが亮輔は黙った。
「子どもも二人居ますし、もう少し私が若かったら……」
 裸になってみなければ分からないと言いかけたが、また黙った。自分でいつも思うのだが、こういうところで今ひとつ押しがない。女はモデルをやりたいと言っているのだ。
 モデルをやりたい、それも裸のである。一押しすれば、モデルになってくれるかもしれないのだが、それが出来ない。
 モデルを頼むことばかりではない。好みの女性がいても、付き合って欲しいと言えない。自分で損な性格だとは思うが、どうしようもない。
「私、若い時にアイスダンスをやってたんです。今はもう止めてしまいましたけど」
 それでなのか……と亮輔は思った。
 衣服の上から見ても、しなやかな体に思えたのだ。
「どうして止めたんですか?」
「自分に向いてないと思ったし、さっきも言ったんですが家庭を持って子どもが出来ると、無理でしょう」
「そんなことは……ないと思いますよ。スポーツは何であれ、もう駄目という年齢は無いように思うんですが」
「でも、もう止めたんですから」
 亮輔は、アイスダンスをリンクで見たことはない。だが、テレビの中継を見るたびに惹かれるポーズを発見することがある。
「そんなことやってたせいか、私、自分を見られることには馴れてます」
「でも、裸と、ちょっとでも着てるということは気持ちとして違うでしょう」
「そうですね。やったことがないから分からないですけど」
 モデルを頼む場合、プロならどうということはない、特にヌードの場合は、描き手とモデルというお互いの人間関係がまず大事である。その上で、描き手は、相手に対してどうしても描きたいのだという気持ちを理解してもらう。
「アイスダンスって、体の動きを見てもらうでしょう。だから、脱いでも同じかな、と思うんですけど」
「でも、ヌードモデルをしたことはないんでしょう?」
「ええ、もちろんありません。若い時の私を絵に描いてもらって残したいって思ったことは何度もあったんです」
 千秋は、そう言いながら腕時計を見た。
「あ、いけない。電車の時間がありますから、これで失礼します。津和野なんです」
 千秋は、(じゃあ……)と言いながらバッグを肩に掛け、立ち上がった。
 ロビーの自動ドアの前で立ち止まり、亮輔に向かって左手を胸の前で小さく振る。
 大型のガラスドアが千秋の後ろ姿を映し、すぐに消えた。
 ガラスを通した夏の陽射しが残った。
 明るい光を見ながら、亮輔は、大事なものを落としたような気がした
 芳名録に鹿足郡の住所が書かれているのを見ている。もう少し話したかったが、帰ると言われれば仕方がない。それに初対面だった。住所が残されているから、何かの形で連絡は取れるだろうと亮輔は思った。
 亮輔は毎年のように、銀行や郵便局のロビー、小さなギャラリーで展覧会を開いている。美術館で開くのは三度目だった。
 展覧会は、おいそれと出来るものではない。作品を適当に並べれば展覧会になるというものでもない。
 たとえば、テーマを考える、季節的なこともある。それが決まれば、制作もしなければならない。膨大な時間と労力、それに経費がかかった。年に二度も開ければ上出来だった。
 夕暮れが近づいた。あと一時間足らずで閉館である。終わったら、米子からやって来る本山夏夫と久し振りに、伊勢宮町で飲む約束になっていた。
 大橋川で北と南に二分されている松江の町に住む者の多くは、ことのほか、その川に愛着を持っている。だからというわけでもないだろうが、橋南と橋北という言い方で、松江を二つに分けているのだ。
 伊勢宮は、橋南地域にある。江戸時代までは水田か沼地に過ぎない場所であったが、明治の終わり頃に和多見にあった妓楼が移転して、新地遊郭と呼ばれるようになった土地である。
 黒門本通りと呼ばれた通りがあり、両側には幾つかの張り見世が並んでいた。太平洋戦争が終わって十四年後、遊郭が強制的に廃止され、居酒屋、料理屋が並ぶ夜の繁華街になる。
 夜の町という言い方からすると、橋北にある東本町もそうであった。だが、このところの不況のせいか、東本町は、JRの駅に近い伊勢宮に押されている。
 夏夫は、亮輔と高校が同じだった。仁多の生まれで、地元の中学校を出ると松江に出て来た。本来なら横田高校が近くにあるのだから、そこに行けばよいのだが、どこをどういう伝手を頼ったのか、家を離れて松江の、それも進学校と言われる東山高校に入ったのだ。よほどの目的があったのか、成績に自信があったのだろうと亮輔は思う。早稲田大学の史学科から、米子にある北陽放送に入った。テレビ部門の報道記者をしている。亮輔は、マスコミの職場にいる夏夫が羨ましいと思うことがある。
 新聞記者も同じだが、どこにでも出掛け、誰とでも気軽に話をする。職業柄そうなるのだろう。亮輔にはなかなか出来ない。 
 夏夫は、史学科だからということでもないだろうが、手すさびに、時折だが地方の新聞や雑誌に美術評論を書いている。
 約束の時間ちょうどになっていた。展示室を出ると、美術館のロビーに立って夕陽に彩られた宍道湖を眺めている夏夫の姿が見えた。
「やあ、待たせたか?」
 亮輔は、陽の陰になっている背中へ声を掛けた。ネクタイをし、グレーの背広を着ている。
 人に会う仕事だから仕方がないとは思うが、この暑いのに大変だなと亮輔は自分が着ているグリーンのポロシャツを見る。時には、絵の具が付いたままの上着を羽織って外にでることもある。 
 松江現代美術館は、営業を止めた銀行の建物を転用したものである。銀行が駅前に移転した跡のそれを活用したのだ。
 明治調の建物は、古い松江の雰囲気を何となく感じさせる。そのせいで、美術品の展示にはよく似合っていた。建物全体の天井がどこも高く、ヨーロッパの美術館のようにも見えた。
 湖岸に建っていることもあり、二階から眺めることが出来る宍道湖の夕陽の美しさで全国的に知られていた。広いロビーからも湖がひと目で見渡せる。夕方になると、輝くばかりの夕映えが、天井まで届いているガラスを通して射し込むのである。
 光線の具合によっては、それはステンドグラスのように映えて見えた。
 閉館時刻も、日没に合わせて決められている。だから、季節によって違っていた。
「いま来たばかりさ。この美術館は、いい場所にあるなあ、いつ来てもそう思う」
 夏夫が革製のソファーに腰を下ろしながら呟いた。ソファーや椅子ばかりではない。柱やそれに彫られた彫刻、さりげなく置かれた調度品などは、かつて銀行だったことを充分に思わせるものだった。
「宍道湖の夕陽を見るのには最高だよな。陽が落ちたら閉館というのも洒落てる。松江に住んでいてもそう思うから」
「そうだよな。今日は何時に閉館?」
 亮輔はロビーの大時計を見上げた。
「日没が七時二分だから、七時半というところだろう。あと一時間」
「陽が落ちてから三十分の延長ということか?」
 一年中、日没を閉館時刻の物差にしているのではない。三月から九月までの夕陽が最も美しい季節だけだ。そういう理由で時刻を決めているのは、おそらく他にはないはずである。
「日本で、いちばんきれいな夕陽は、ここじゃないかね。米子のごみごみしたところに住んでると余計にそう思う」
「そうだろうな」
「せっかく来たから、お前の絵を見るよ」
 五分ばかりで展示室から出て来た夏夫は、(行こうか)というように、右手で盃を干す格好をした。それで通じた。
「受付に誰も居なくなっていいのか?」
「あと一時間だし、事務室の人が時々見てくれるから大丈夫だ」
 美術館を出て、民家の間にある細い路地を通り抜ける。行き交う人が遠慮しながら通らねばならないほど狭い。松江の町にはそんな道が未だ多く残っているのだ。
 白潟本町の広い通りに出て、また狭苦しい通りを歩く。
 夕暮れとはいえ、昼の火照りが道路のあちこちに残っている。時折、ハンカチが必要になった。どこでもいいから、早くビール、それも生が飲みたいと亮輔は思った。
「どこに行く? 俺は松江を知らないから」
 手近なところに入りたいというような夏夫の雰囲気だった。
「そうでもないだろう。高校の三年間は住んでたのだから」
「まだ子どもだぜ。酒を飲む場所に出入りするのは大学に行ってからだ」
「そりゃまあ、そうだな。それでも時々、隠れて飲んだこともあるしな」
 亮輔が本格的に絵を描き始めたのは、松江にある県立青山高校の一年生の時である。中学校の頃から絵が好きだった。環境や税などのポスターにも応募して賞を貰ったこともある。
 中学校の美術担当教師は仲山篤二というこの地方では有名な画家で、亮輔の描いたものをよく誉めてくれたから、暇さえあれば絵を描いていた。
 どこの高校でもそうだが、入学式の終わるのを待ちかねたように、運動部や文化部の二年生や三年生が入部の勧誘をする。誘われるまでもなく、亮輔は美術部へ入ろうと決めていた。
 絵描きになるつもりはなかったが、中学生の時から親しんできた絵だったから、高校での部活動として当然のように美術部を選んだ。 
 高校の三年間、水彩や油彩を描きながら、殆どの時間を美術室で過ごした。授業をすっぽかしたこともある。
 絵を描くというのは、ある意味で孤独な作業である。黙って独りで絵を描いていれば、それだけで亮輔は楽しかった。友達との付き合いもあまりしなかった。
 だから、今になっても口下手で、女の相手を見つけるのも下手なのだろうと、いささか自嘲気味に思ったりもする。
 そのせいでもないだろうが、絵の方はかなりな成績を挙げていた。
 島根県の高校総合文化祭美術部門に水彩画を出し、二年続けて最高賞を取ったこともある。
 その高校の時に、夏夫と出会った。同じクラスで始まった新学期だった。仁多の中学校から来て、勝手の分からない夏夫の面倒を隣の席だというだけでみることになった。話してみると、なぜか馬が合った。
 高校を卒業すると、夏夫は東京に出て早稲田に入り、亮輔は地元の世徳大学文学部を選んだ。大学の四年間はお互いに行き来は少なかったが、夏夫が米子に帰り、北陽放送に勤めるようになると、再び頻繁に会うようになった。
 東京や大阪と違い、松江の町はどこへ行くにしても、タクシーを使うには近過ぎ、歩いて行けば何となく遠いという感じがする。つまりは狭いということなのだろう。
 五分と歩かないうちに、伊勢宮の町に出た。かつて人間の欲望を夜ごと吸い込んでいた花街だけに、今だに何となく猥雑な感じがする。もちろん、そういう店があるわけではない。
 しかし、一軒だけだが、昭和二年に遊郭として建てられた建築物が旅館として残っている。七年かけて資材を全国から集め、五年の歳月を費やして建築されたものである。平成十四年秋に、国の登録有形文化財建造物に指定された。
 前年の七月、偶然にも、『遊郭文化は日本の恥である』という、若い大学講師の意見が中央紙に載った。暫くして、それ対し、『恥ずべきは性倫理の空洞化』であるという、某大学名誉教授の反論が掲載された。
 公娼制度の中で生きた女性についての意見は分かるが、歌舞伎文楽を始め古典芸能から近代花柳小説までを売春礼讃文化として批判するのはどうかという主旨の反駁である。いずれも近代文学を専門とする識者の考えだから、それぞれに一理ある論争だった。
 後者の大学は明治初期、西欧の文化に対して東洋の精神文化が大切であるという考えのもとに創立され、前者は同時期にフランスの法学研究を主体にして開設された学校が母体となった大学である。
 亮輔は新聞を読んだ時、創立のポリシーが、そういうところにも関係するのだろうかと妙な勘ぐりをした。そこまでの関連はないだろうと自分で笑ってしまったが、それ以後、伊勢宮に来るたびに、そのことを思い出す。
「ここでいいだろう?」
 看板に書かれた愛川≠ニいう文字を亮輔は顎でしゃくってみせた。
 客は誰も居なかった。
 小さい店で、カウンターが六席、小上がりに机が三つある。座布団がそれぞの机に四つあるが、四人で座るには少し狭い。
「あら、お久し振りですね」
 カウンターの中から顔を上げた女将が、亮輔を見て驚いたような顔をした。言われてみれば、この三週間ばかり来ていない。展覧会の準備で忙しかったのだ。
「ああ、いろいろ忙しくて」
「お描きになってらっしゃるんでしょ?」
「今日も展覧会でね、こいつが来てくれて」
「ようこそ……」
 女将は、夏夫に頭を下げた。
「やあ、どうも……。誘われてね。いい店じゃないですか」
 夏夫は、たいていどこの店に行っても、そんなことを言う。それを聞くたびに、調子のいい奴だなと亮輔は苦笑する。
「二人だからカウンターでいいよ」
「そう言わずに、ゆっくりしてって下さい。こちらの方は初めてだし」
 カウンターの中から出て来た女将は、小上がりに座布団を二つ並べた。
「生ビールがいいでしょ?」
「瓶でいいです」
 夏夫がすかさず言った。
「……」
 亮輔は生が欲しかった。
「夕方、一番客で店に入って、生ビールは頼まない方がいいんだ。生ビールはマシンに入ってるだろ。前の日の最後に注いだビールの残りが管にたまっている可能性がある。だから、一杯目の生ビールの味は、どうかと思うね」
 夏夫が女将の背中を見ながら、小さな声になった。
「俺達、今日の初客だろ。瓶ビールを頼むというのがポイントさ」

◇第11回から第20回

 亮輔は女将に悪い気がした。
「ここは、そういうことはないさ。毎日、きちんと残りを洗い流してると思うね」
 女将が瓶ビールと小鉢を持って来た。
 夏夫が薄く笑った。
「岩がきです。夏だけのものですし、クリーミーですから、どうぞ」
「ほう。そりゃあいい。やっぱりいい店じゃないか」
「お前、相変わらず調子いいな」
 亮輔は、夏夫のコップにビールを注いだ。
「ところで、絵の方はどうだ?」
「どう――とは?」
「まだ東洋自動車に勤めてるだろ? それで絵が描けるかってことだ」
 亮輔は地元の世徳大学を出てから、直ぐに市内にある東洋自動車販売会社に勤めている。仕事は車のセールスだから、普通のサラリーマンのようにきちんとした時間帯の勤務ではない。客の要望なら、夜でもセールスの訪問をすることもある。
 車がよく売れた時代と違い、今は月に新車を四、五台も売れば優秀なセールスである。新聞には、車の試乗会や決算大幅値引きなどというチラシがいつも入っている。いかにも売れているようだが、思うほどに客は来ない。ショールームに沢山の客が来ているようでも、その時間帯は決まっているのだ。土曜、日曜はまだしも、平日など客の姿はあまりない。いきおい、仕事は夜も昼もないということになる。
「確かにな。本当に描こうと思えば、専念する時間が多くないと駄目だってことは分かってる」
「当たり前の話だが、生活がまず第一だからなあ」
「要するに、絵が売れるかどうかということだけど」
 展覧会は、そのためにするのだが、飛ぶように売れるというものではない。
 数年前に市内の画商の伝手だったが、東京銀座のギャラリーで個展をしたことがある。その時には二十点ばかり並べたうち、三点が売れただけだった。売れたというだけでもよい方だが、経費を差し引くとさほどのことはなかった。
 勤めを辞め、絵だけで生活できるかどうかと問われれば、考え込んでしまう。
「お前の水彩、というか風景の絵、俺はいいと思うんだがなあ」
 夏夫にも買ってもらったことがある。 
「本当は、もっと人物が描きたいのだ」
「人物ねえ……」
 亮輔が在学した世徳大学に美術部はあったが、毎週水曜と土曜日に部員が集まって制作をするという程度で、亮輔には魅力がなかった。学外展という名で年に三回ばかり展覧会があり、入学当初、その作品を見て、つまらない絵ばかりだと思った。油彩が殆どだったが、迫るものがない。
 反動というわけでもないが、亮輔は専攻のこともあって文芸部に入った。年に二度出す『世徳文学』という文芸雑誌の編集と、時折載せる短い小説を書いているうちに四年間はたちまち過ぎてしまった。
 亮輔は大学を卒業する時になって、絵から遠ざかっていたことを悔やんだ。大学を終え、なにがしかの会社に勤めて、それでどうなるのだと思ったからである。何十年か勤め、定年になって退職をする。もうその会社とは縁が切れる。その仕事が後に残るものにはならない。だとすると、あまりにも無意味ではないかと思った。
 亮輔は納屋を改造してアトリエを作り、夜になるとそこで制作を始めた。
 まず最初に、島根県の文化美術展に応募し、県知事賞を二度続けて取った。
 三年後、京都水彩画協会展に初出品し、優秀賞になった。その後、幾つかの国内展に出品し、そのいずれも入賞という成果を上げたのだ。
 京都展から三年経った夏、フランスのカンヌ国際絵画祭に出展した。テーマは東洋の美≠セったが、それにうまく合致した作品で独創的だという評価を受けたのだ。
 その翌年、コートダジュール南フランス芸術祭≠ェ、モナコ公国のレニエホールで行われて展示をした。亮輔は旅費を工面してフランスに行ったが、かなり多くの画家達と交流をするという収穫があった。
「何だよ。人物を描くのはまずいか?」
 夏夫はビールを飲み、暫く黙っていた。
 女将が小鉢を持って来た。
「これ、どうでしょう。蜆の酒蒸しですけど、お口に合いますかしら」
「ほお、珍しい。女将も一杯どう?」
 やはり、夏夫は如才がない。
「あ、ありがとうございます」
 女将はちょっと口をつけ、替わりに新しいグラスを取りだして来た。
「何かあれば、おっしゃって……」
 それだけ言い、カウンターの奥に消えた。
「最近のお前、かなり腕を挙げたなあ。結構、賞を取ってるんじゃないか?」
 夏夫は、そう言いながら酒蒸しに箸をつけた。
 亮輔は夏夫のグラスに、ビールを注ぐ。「まあな……」
「仕事、それも車のセールスなんぞやってると時間がないんじゃないか」
 またその話かと亮輔は思った。
「仕方ないだろうが――。絵では食えんのだから」
「どっちつかずってことだ」
 言われれば確かにそうである。それは自分でも分かっている。
「背に腹は代えられないと言うしな」
 亮輔は呟きながら、ビールを飲んだ。ぬるくなった感じがして、あまり美味くない。と言うよりも、夏夫の言葉が味に影響したのかもしれない。
 松江に住み、同じ年代の絵を描く仲間は、たいてい他に仕事を持っている。そのせいだということでもないだろうが、突出して名が出るということもない。そこそこに、描いてはいるが、さりとて仕事を辞めて専念するにはかなりな決断がいる。
「お前だって、北陽放送に勤めて、評論なんぞ書いてるから同じことだ」
「いや、違うね。あれは余技さ」
「割り切ってるってことか」
 まあ、そうだとでも言いたげに夏夫はグラスを目の前へ上げて見せた。
「余技と言えるのは楽なものだ」
「まあ、そう言うな。定年になってさ、北陽を辞めたら、本格的にやるから」
「だから、それが余技ってことだ」
 亮輔がそう言い、二人は大声で笑った。「楽しそうですね」
 女将が何ごとかと、カウンターから体を乗り出して言った。
「お二人は、昔からのお友達なんですか。随分とお親しそうで、羨ましいくらい」
「ああ、そうなんです。こいつは悪友でね。昔はいろいろ世話になったもんです」
 言いながら、夏夫は(なっ!)というように片目をつぶって見せた。
 亮輔がトイレに行って戻って来ると、夏夫は、カウンターに移り、女将相手に昔話を始めていた。
 熱燗の徳利が二本、それに盃が二つ置かれていた。
 聞くともなしに聞いていると、かなり誇張した話になっている。高校の時に、大学生のふりをして、飲み屋に入ったなどと言っている。そんなことはなかった筈だ。
 青山高校の二年になってから、夏夫は亮輔の家に下宿をしていた。それほど気が合う友達だった。
 夏夫が小遣いに困れば、亮輔の母が工面をしてやったこともある。あけすけで遠慮も何もしなかったら、同じ家に寝起きをする家族の一人のようでもあった。
 亮輔が当時住んでいたところは、松江大橋の北詰に近い東本町一丁目だった。夜の繁華街である。
 目の前に飲食店が並んでいる。夏夫が言うように、高校生の頃にそんな店に入って飲んだことがあるかもしれない。いや、そうではなくて、記憶している町のたたずまいから、ある意味のデジャビュなのかもしれない。
 その町は、いつの頃からか、誰が言い出したのかも分からないが(とうほんちょう)というのが通り名になった。
 音読みをすればそうなのだが、正しくは(ひがしほんまち)である。昔から住んでいる者には気に入らない言い方だ。勝手に読み方を変えるな、と亮輔は思う。タクシーの運転手などが、トーホンチョウ――などといかにもバタ臭く言うのを聞くと腹が立つ。
 県の東部にあるのだが、大根島が浮かんでいる海を中海と言う。なかうみ、なかのうみと普通は言うが、中海テレビというケーブルテレビは、(ちゅうかい)と言っている。これは固有名詞だから問題はない。
 亮輔は、酔客の声やタクシー騒音、夜っぴて明るい町に嫌気がさして、北山の麓、それも美保関町に近い所にある古い農家を手に入れ、移り住んだのが五年前だった。
 もともと住んでいた町が繁華街に変わった反発か、町の名の読み方からか、いずれにしても亮輔は東本町を通り越して伊勢宮で飲むことが多い。
 亮輔は、女将とのやり取りを聞きながら、そんなことを思い出していた。
「ところで……」
 そう言いながら女将との話が一段落したのか、夏夫が徳利を手にし、カウンターから戻って来た。
「さっきの人物を描くという話だが」
 ビールを切り上げ、酒になった。
 亮輔はこのところあまり酒を飲まないようにしている。酒は嫌いではない。だから飲むといくらでも入る。というより、体も頭も麻痺するからだ。そして、翌日、お定まりのように調子が出ず、勤めに出ても半日はぼんやりとしている。
「それがどうした……」
 亮輔は自分で盃に酒を注いだ。こうなると、飲み過ぎるのではないかとふと思う。
 多分、こうやって二人で飲むと、かなり遅い時間になるだろう。もっとも、夏夫は電車で米子に帰るのだから、深夜になることはない。そう思うと、暫くは腰を据えて飲んでもいいような気にもなる。
「いや、お前が人物を描きたいと言うんで、思い出したんだが、モデルをやりたいっていう女の子がいるんだ」
「女の……子?」
 夏夫が紹介してくれるのはいいが、モデルを使うということは、それなりの経費がかかる。一度切りというわけにもいかないから、長期になってもモデル代を捻出し続けることができるかどうかだ。もちろん、プロの場合とアマチュア、費やす時間によっても費用は違う。
「ああ、学生なんだ」
「学生って、大学のか?」
「そうだよ。松江の私立大学」
「というと?」
 松江には二つの私立大学がある。去年、福祉関係の大学が開校した。
 高齢化の進行によって、介護や福祉に対する需要が増え、それまであった福祉専門学校が大学に昇格したのだ。
 もう一つの大学は、亮輔が卒業した世徳である。
「世徳だよ」
「世徳……。そりゃあ、俺の出た学校じゃないか」
「それがどうした?」
 夏夫は、そう言えばそうだな、というような顔になった。
「学生がモデルをなあ、と思ったからな」
「まあ、バイトってとこだ」
 それにしてもモデル、それもヌードモデルということになると、余程のことがないと出来ないのではないかと亮輔は思う。
 十五年以上も前になる。世徳の美術部で、絵を描こうと思ったのだが止めた。発表された作品を見て、やる気を無くしたのだった。それならそれで、サークルに属せず、自分だけでやればいいようなものだが、そうはしなかった。優柔不断なのだと分かっている。
「裸婦が描きたいのだぜ」
「それはいいはずだ。着衣だろうと何だろうとするっていうことだった」
「バイトにしては報酬がいいから、モデルをやるということだろ」
 高い手当を要求されれば、亮輔には対応できない。プロなら一日で、二万から四万は必要になる。
 いろいろな展覧会で賞を幾つか取ったにしても、それで絵が売れるというわけでもない。収入は、東洋自動車販売に勤めている給料だけだ。結婚もせず子どもも居ないのだから、普通に言えば、恵まれている方だ。それに、定年までまだ何年もある公務員の父親を当てにしていることもあるからだ。農家から嫁いで来た母は、転居した家と一緒に幾ばくかの農地を手にし、農業まがいのことをしている。自給自足などという大袈裟なものではないが、スーパーで買わなくても済む程度のものは作っている。
 それはいいとして、売れるとも限らない絵のために、プロのモデルを使うのは、どうかと思う。ただ、何人かで一人のモデルを使い、費用を出し合えば安く上がる。一人でということになると辛い。
 アルバイトのモデルには幾らという相場があるわけでもない。だが、一日で五千円もあればいいだろうと、亮輔はこれまでの経験から思う。一日と言っても、せいぜい昼を挟んで四時間くらいあれば充分だ。その程度の費用なら何とかなる。
「モデル志望の彼女には、金額のことを聞いてはいないが、まあ、たいしたことはないはずだ」
「お前は、それでも評論なんぞ書いているから、多少のこと分かるだろうが」
「それでも――とは何だよ」
「あ、申し訳ない」
 亮輔は笑いながら、徳利を手にした。
「だが、そういう絵描きの内情までは、よく知らんのだよ」
 いつの間にか、店には客が増えていた。カウンターは、半分が埋まっている。振り返ると、亮輔達の後ろの小上がりには、もう一組の客が居た。中年の男と若い女だ。女は背中を見せている。横座りになった女の体がくねった姿勢になっている。どこかで見たような形だ。
 目をはずした瞬間に思い出す。
 半年ばかり前、大社町日御碕にある廃屋をスケッチに行った。もともと国民宿舎だった所だ。その帰りに出雲の高瀬川沿いにあるギャラリーに寄ったのだが、そこにあったパステルの裸婦絵に似た姿態だった。
「それで?」
 亮輔は、パステルの裸婦を頭から追い出した。
「その娘は、七瀬というんだ」
「七瀬……珍しい苗字だな」
「いや、苗字じゃない。名前だよ。フルネームは佐木七瀬」
 夏夫は刺身の皿に乗せられていた箸を一本取ると、ビールのコップに浸して机の上に名前を書いた。
 佐木七瀬と書かれている水の文字を見ながら、亮輔は、線が細く頼りなげな女の子を想像した。机の上に流れた細い水の糸は、見ているうちに乾いて消えた。
「佐木さんというのは、自分でも絵を描いてるのか?」
「そうらしい。世徳大学では心理学を専攻しているということだったが、課外では美術部に入って油絵を描いてるそうだ」
亮輔は、久し振りに美術部のことを思い出した。大学に入った時、美術部で絵を描こうと思ったが、止めたのだ。その美術部で、佐木という女の子は絵を描いているという。どんな絵を描いているのか、見たいと思った。
「何年生なんだ?」
「三年生というのか、三回生なのか言い方は知らんが、卒業まで一年半ほどあると聞いてる」
 大学に入って三年ならば、二十一である。しかも後輩ということになる。既に卒業してから十年以上経っているから、後輩や先輩と今更言えるほどでもないだろうが、その巡り合わせが面白いと亮輔は思う。
 それよりも、自分の絵に何かの変化が起こるのではないかという予感もある。
「何でアルバイトをしなきゃならないのかね」
「佐木君は家内の知り合いでね。だから、俺は詳しいことは分からん」
「その話もあって来たのか」
「そういうわけでもなかったが」
「いずれにしても、もう少し話が聞きたいから、近い内にお前の家に行くよ」
「そうだな……」
 夏夫は、天井を見上げ、(うん、それがいいかもしれないな)と呟いた。
 夏夫の家は、弓ヶ浜半島の付け根にある両三柳という町で、何度か訪ねたことがある。夏夫の妻は二歳下である。同じ仁多郡で、夏夫は上阿井、妻は三成だと聞いていた。中学校が同じだから、幼馴染みだったはずだ。そんな話を聞いたことがある。
 その話になると、必ず夏夫は、(お前、早く何とかしろ)とせかす。要するに、独身に区切りをつけろと、言いたいのである。
「いずれ、こっちから連絡するよ」
 夏夫は言いながら、店の時計を見ていた。午後九時になっている。上り二十三分の電車に乗れば、十時前には米子に着くはずだ。
 亮輔は夏夫と店を出た。色とりどりのネオンが輝きを落としている、狭い通りを歩く。誰もが酔っている。客を送りに出た女達も酔っている。日常でありながら、非日常のような世界だった。異界とも思える夜には、日常にはあり得ないドラマがあるのだろうと亮輔は思う。闇の世界が好きな者は、その魅力に惹かれ、底無しの街から離れられない。女達の表情から、そう思った。
 亮輔は、ネオンの灯りの先にある暗い空を見ていた。
 不意に紗納千秋の顔が浮かんだ。
「気になる人が来たのだ」
「展覧会にか?」
 夏夫なら、どういう女なのか調べてくれるかもしれない。鳥取県にある北陽放送は、この地方で最初に出来た民放である。ラジオ局も持っている。島根県も全エリアをカバーしているし、多分、石見の方にも支局くらいはあるだろうと亮輔は考える。
「何か言ったのか?」
 米子行きの時刻が気になるのか、夏夫は腕時計を見た。ちらりと見えたそれは、カルティエのサントスガルベだ。円い形の懐中時計しかなかった一九〇〇年代初頭に、角形のデザインで作られたサントスは、当時としては非常に斬新だったはずである。
 おそらく二十数万円はするだろう。とてもではないが買えないと亮輔は思った。
「名前は紗納で、さっきの佐木七瀬じゃないが、珍しい苗字だと思ったからな」
 亮輔は、手のひらに文字を書いてみせた。
「ああ、紗納。その名前は、この辺りにはないはずだ」
「そうだな。津和野って記帳してあった」
 夏夫が首を傾げた。
「津和野か? 紗納というのは、山口県の萩に一軒あるんだが、そこは萩焼の窯元で真彩窯と言う。写真の真に、彩りの彩だ」
「焼き物師……女性だけどな」
「女? ならば窯元の奥さんだよ。四十過ぎくらいの齢じゃなかったか?」
 それで陶器を並べた展覧会に来たのか、と亮輔は納得した。それにしても夏夫はよく知っている。
「そうだ。多分、それくらいだ。それにしても何で知ってる?」
「俺は、テレビ屋だ。餅は餅屋」
 窯元は萩市なのに、なぜ紗納千秋は、津和野の住所を書いたのか。自分の裸の絵を残したかったという唐突な話だから、いい加減な住所にしたかもしれない。不審そうな亮輔の気配を察したのか、夏夫は続けた。
「奥さんは……、えっと、名前は忘れたが」
「千秋だ」
「そうだった。その千秋さんというのは、才女というか、俗に言えば切れる人らしいな。不動産業をやってるって聞いたことがある」
 不動産……と亮輔は呟いた。そんなふうには見えなかった。
「よくは知らないけども、萩とか山口市にも幾つかビルがあるらしい。津和野にもホテルを建てたとか、これから建てるとか」
「それで津和野の住所なのかね」
「――だろうな。そういう仕事だから、あちこち飛び回ってるらしい」
「そうか……」
 そういう人が、アイスダンスをやっていたり、絵のモデルになってみたかったというのも珍しい。いや、そういう人というように、決めつけてはいけないのだろう。
 JR松江駅の前に来ていた。壁面の大時計は、九時十五分になっている。
「お前、その千秋っていう奥さんに興味があるのか?」
 黙ってしまった亮輔を見て、夏夫が悪戯っぽい目をして覗き込んだ。
「いや、そういうわけじゃない。珍しい人だと思ってな」
「だから――、ということだろうが」
 千秋と話したモデルのことは、黙っていることにした。話し出せば、米子行きは十時台に二つあるはずだから、もう一軒行ってゆっくり、ということになりかねない。
 それにしても、妙な日である。モデルの話が二つもあった。もちろん、それが具体的に今どうにかなるというものでもないが、何か新しい展開が見えるのかもしれないのである。佐木七瀬の話を聞いた時にもそう思った。
「ともかく、米子に帰ったら、石見支局を通じて分かることは調べてみるし、例の佐木君のこともあるんで、いずれ電話をするからな……」
 千秋のことについては、それを聞いてどうするということも考えてはいないが、亮輔は(まあ、頼むわな)と、駅舎に入る夏夫の背中に声を掛けた。
 駅前には、タクシーが客待ちをしていた。帰ろうかどうしようかと亮輔は、腕時計を見た。九時二十五分だった。電車は出たはずだ。亮輔は、夏夫が米子に着くまでの時刻まで付き合うかと、妙な理屈を付けて再び伊勢宮に足を向けた。特別な夜なのだからと、もう一つ辻褄を合わせる。
 家に帰り着いたのは、午後十一時過ぎだった。二階に灯りが点いている。父の真司が書斎にしている部屋だ。
 天井の高い農家だから屋根裏のようなところだが、大工を入れて小綺麗な部屋にして使っている。
 県の海洋研究センターに勤めている父は、海の資源に興味を持ち、趣味で研究者まがいのことをしている。一年後に手に入るはずの退職金を当てにして小さな船を買い、休みの日には海に出る。釣りをするのではない。海に流出した油などの汚染物質が、海洋生態系にどんな影響を及ぼすのかという調査や予測モデルの研究などをしているのだ。いわば、仕事の延長でもあった。
「遅かったな」
 書斎を覗くと、パソコンのキーを叩いていた父が振り返った。
「ああ、夏夫と飲んでたから」
「本山君は元気か?」
 父の真司は、ふと遠いところを見るような目になった。母の淳子もそうだが、いまだに夏夫と亮輔が高校生で仲の良かった頃の話をする。
「展覧会に来てくれて、伊勢宮で一杯」
「そりゃあ、よかった」
 亮輔は、いくら遅く帰っても父に怒られたことはない。
 父にしてみれば、幾つになっても子どもだが、亮輔は三十五歳である。その一人前の男を親だからといって、遅いの早いのと怒っても、どうなるものでもないと亮輔は思っている。
「展覧会はどうなんだ?」
 どうなんだ、と言うのは来場者が多いかどうかという意味だろう。
「まあまあだね」
 亮輔は、千秋のことを言おうと思ったが口をつぐんだ。女性の話になると、父はすぐに結婚に結びつける。このところ、よけいにそんな感じがするようになった。その話が始まると、煩わしい。結婚については、いずれはと亮輔は自分では思っているのだが、なかなかそうはうまく事が運ばない。とは思いながら、そのことが父や母の気持ちの上での負担になっていることは分かっている。
「まあまあか。ならばいいじゃないか」
「来てくれる人の数はともかく、展覧会で絵が売れるといいけどね」
「売れたのか?」
「半分ばかり……」
 展示した点数から言えばいい方だ。

第21回から第30回

 結婚もだが、父の真司は絵のことも心配してくれている。展覧会のたびに、来場者の数と売れ行きが気になるらしい。かと言って、経費を負担してくれたことはない。絵に関しては、自分のことは自分でやれ、ということなのだろう。
 二人展の会場は、そう広くはなかったから、壁面に二十点ほどしか掛けられない。しかし、その内の半分が売れたということは、これまでにないことだった。号数によって付けた値段は違うが、四万円から高くても六万円である。額縁付きだから、買う方からみれば、手頃な売値だと亮輔は思う。描いた風景も、松江の街のあちこちや周辺の農村である。そのことも、売れ行きをよくした理由のひとつかもしれない。
 相良美樹の陶器も、買い手が多かったらしい。約定済みの印が、かなり付いていた。
 亮輔は画商の勧めで、二人展を開いたことはよかったと思っている。画商の林大輔は、アートディーラーと名刺に刷り込んでいた。片仮名の名称は、松江市内で画材店を経営している生業のほかに、大画商という印象を与える効果をねらったのだろう。
 画家は画商に絵を売り、画商は画家に絵を描かせるための援助をするという構図がある。亮輔の展覧会のように、画家が直接に自分の絵をプレゼンテーションすることもあるのだが、画商の腕次第で売れたり売れなかったりすることもあるのだ。
 一方、双方の協力で、画家の創造的なエネルギーが引き出されることもある。
 もっとも画商が付いているということは、描き手としてそれなりの評価を受けているということでもあった。
 林の提案で開いた二人展は、亮輔と美樹の作品がうまく組み合わさった展示、つまり、異色の組み合わせとも言えるのではないか。入場者について言えば、全くジャンルの違う、陶器と絵のそれぞれに関心のある人が来たということになる。単純計算ということからすれば、倍の入場者ということになるかもしれない。
 亮輔にとっては勤めの給料以外に、久し振りの収入になるはずである。
 県立や市立の、いわゆる公共の美術館では作品を売ることは出来ない。二人展を開いた松江現代美術館は、私設のそれである。だから作品に価格を付けて売る。それでも、売り上げの幾ばくかは美術館に支払うことになるが。それはそれで仕方がない、というか当然だろう。自前のギャラリーなど持つことなどは不可能だからだ。
 父との話を適当に切り上げ、亮輔は自分の部屋に戻った。アトリエに続く八畳ほどの寝室兼書斎だ。
 アトリエは、納屋の二階を改造したものである。手直しといっても、さほどのことはしていない。剥き出しの天井や梁などを化粧ベニヤで覆い、床には濃い茶色の防水性のよいフローリングを貼った。北側は透明な一枚ガラスの窓にした。
窓に山麓が迫っている。目を上げていくと、熱い夏の陽を浴び、脂ぎったように光る緑色が山頂まで続いているのが見えた。
 太陽が雲に覆われると、たちまち黒々とした山になった。夏の晴れた日には、飽きることなく、それが繰り返された。
 アトリエを訪ねて来た誰もが、その広さと窓に広がる北山山系の雄大さに意表を突かれる。亮輔はごく普通だと思っているが、町中の狭い所に家を持っている者からすれば、驚くような景観なのだろう。
 天井も高い。広さは三十畳である。小さな作品ならまだしも、百号を超えるものになると、狭いところではどうにもならない。
 描いているときはいいのだが、画面から離れて見ようとすれば、数メートルの距離をおかねばならないからである。
 窓際には作業のためのテーブルや小さいソフアーを置き、左の奥には書棚を作った。その前には、キャンバスを架けた幾つかのイーゼル、数脚の椅子などが雑然と並ぶ。
 アトリエは北から入り込む光で、落ち着いた雰囲気を作っている。移って来た当初は整理をしていたつもりだったが、その内に大小のキャンバスが積み重ねられ、描きかけのデッサンや制作途中の絵が、あちこちに散らばるようになった。だが、作業部屋だから、それはそれでよいと思っている。
 家を手に入れたのは、父の真司である。まだ若い頃、さしたる目的もなしに松江の南郊の荒れた二千坪の山林を買っていた。
 二十年ばかり経って、そこが住宅団地になることになった。荒れ地が、かなりな値段で売れたのである。退職後は、繁華街ではなく静かな所に住みたいという思いでいた時に出合ったのが、今の農家だった。
 持ち主が東京に出るというので、周囲の畑も含めて安く買うことにした。父は山林を売った金をそれに充てたのだ。
 昭和の初めに建てられた農家は、母屋と廊下でつながった離れが一棟ある。入口を入った平屋の母屋は、土間を挟むようにした八つの和室がある。広い庭を合わせると、敷地は四百坪ばかりだった。
 米子の本山夏夫から電話があったのは、伊勢宮町の愛川≠ナ一緒に飲んでから一週間経った土曜日の夕方だった。
「よお、この間はご馳走になったけど、悪かったな」
 そう言われれば、あの日の勘定は亮輔持ちだった。暗黙の了解で、飲み代は交代制のようなことになっている。高校の時に、一緒に暮らしたことで、その辺りはどっちつかずだ。それにしても、いい時代だったなと、亮輔は思う。だからこそ、こうして何年経っても付き合いが続いている。
「今度はお前が払えよな」
 夏夫の笑い声が受話器に響いた。
「展覧会で、結構儲かったんじゃないか?」
 亮輔が笑う番だった。
「何言っとる。絵の材料代や会場費に消えてしまうし、モデル代も貯金しとかないとなあ」
「そう。そのモデルの話だけどな。例の佐木君だが、明日の日曜に俺の家に来ることになってる」
「それで?」
「いやあ、つまり初顔合わせということだが、都合はいいだろ」
 米子の夏夫の家に来い、ということである。明日のことを今日になってと思ったが、別にさしたる用事があるわけではない。
 いつも夏夫は自分で決めてしまう。その辺りが、何かを頼むにしても面倒がないし、都合がいい。楽と言えば、そうであった。以前から、夏夫はそういう性格だ。
「別にかまわないが……」
「この間の伊勢宮の返しということじゃないが、うちで一杯やりながら話そうかと思ってなあ」
「それはいいが、何で、その佐木さんというのがお前の家に来る?」
「前にも言ったろ。家内の知り合いだっていうこと」
 そう言われればそうだったと、亮輔は思い出す。
「佐木さんというのは、米子の人なのか?」
「待てよ。今そんなこと話してる暇はないんで、来た時に言うから」
「何時に行けばいい?」
 夏夫が指定したのは、松江駅を午後五時五十一分に出る電車だった。米子には約三十分後に着く。車で行きたいが、飲むとなると電車かバスである。
「俺が車で迎えに行くから」
 明日、会うことになる佐木七瀬は、どういう娘なのだろうと亮輔は思う。
 電車の到着は、午後六時二十分の定刻だった。亮輔が米子駅の改札を出ると、柱に寄りかかっていた夏夫が、やぁというように左手を挙げた。
「待たせたか?」
「いや、そんなことはない。それより、土産を持って来たのか。気を遣わなくてもいいのだが」
 亮輔は、松江駅の売店で酒を一本買っていた。簸上正宗の七冠馬だった。
「横田の酒だよ」
「七冠馬か。キレがあるというか辛口だからな。それにしても、わざわざ……」
「厚い友情というわけだ」
「何だよ。大袈裟な」
 たわいのない話をしているうちに、車は駅前から旗ヶ崎に出て右折した。
「相も変わらず、いい車に乗ってるな」
 夏夫が乗って来たのは、マツダのFFトリビュートだった。V6で排気量三〇〇〇のシルバーメタである。車は悪路や雪道に入ると前後の車輪に回転差が出来るが、その場合、自動的にエンジントルクを後輪に掛けて4WDにする。
 自動的というのは、要するにコンピューター制御だ。マニュアルの四駆より操作は易しいということになるが、性能を完全に引き出せるのだろうかと亮輔は思う。だが、三百万近い車だから、買うことも出来ない亮輔にしてみれば、文句を言っても始まらない。
「二か月前に替えた。取材で遠出をしたりするんで、大きいやつがいい」
「それなら会社の車を使うだろう」
「いや、取材というのは、俺の趣味の話だ」
 島根と鳥取の美術家についてまとめてみたいと言っていたのを思い出した。確か、もう五年くらい前の話だった。
「この辺りの画家や彫刻家の評伝を書くという、あのことか?」
「そう。だけども、勤めてると時間がない」
「どっちつかずか」
 夏夫が笑った。
「おい、そりゃあ、伊勢宮での俺のセリフじゃないか」
「そう言えばそうだ」
 車は、弓ヶ浜半島の付け根のようなところにある両三柳の町に出た。
 夏夫の家は夜見町に近い所にある。二階の窓から日本海と遠くに大山が見えるというのが、夏夫の自慢だ。
 玄関にはピンクのミュールが一足、つま先を亮輔の方に向けていた。
 銀やオレンジ色のラインストーンが並んだチェーンとスパンコールのストラップに目を惹かれた。中敷きは紅梅色で、薄いハート模様が、桜の花びらを散らしたようになっている。上品とも言えるが、淫らだと思えないこともない。靴ぐらいのことでどうして、こんなことを考えるのかと、亮輔は苦笑する。
 玄関から真っ直ぐ奥の部屋へ向かって廊下が延びている。左が六畳ほどの洋室で、右は八畳と六畳の和室が続いている。
 車を車庫に入れる音が聞こえたのか、奥から夏夫の妻、明子が短い髪に手をやりながら出て来た。ごく普通の白いTシャツに、ベージュのストレートパンツが背の高い明子をすっきりとした形に見せている。二十代の後半に思える。
 亮輔と夏夫は同じ年齢だが、明子は二歳下である。
「あら、いらっしゃい。お久し振り……」
 この前、ここに来たのはいつだったのだろうと、亮輔は思い出そうとする。
 確か、梅雨に入る頃だった。絵が一枚欲しいというので届けた。
 二十号の風景で、湯村温泉近くの斐伊川渓流を描いた作品だった。北陽放送のどこかの部屋に架けるから、と聞いていた。
 酒を明子に渡し、夏夫と二人で飲んだ話をしていると、車庫のシャッターを閉める音がした。
「お茶の準備をしますから」
 明子が片目をつぶりながら、洋室のドアに顔を向け、戻って来た夏夫と入れ違いに奥に消えた。
「佐木君、伊折が来たから……」
 夏夫が、洋室のドアを開けた。エアコンの効いた空気が、廊下に流れ出て、椅子に座って雑誌を見ていた娘が立ち上がった。
「佐木七瀬君だ」
 頭を下げながら立ち上がったのは、白いサマーセーターの娘だった。
「伊折亮輔画伯のご来訪……」
 夏夫のふざけた言い方に、七瀬が笑った。
「画伯ってものじゃないですけどね。売れない絵を描いてます。伊折亮輔です」
「いや、結構、売れてるらしいから、佐木君が描いてもらった絵も有名になるかもしれないよ。モデルのスターだ」
「まっ、おじさんったら……」
 七瀬が右手を挙げ、顔の前で振った。
「お前、おじさんか?」
「いや、それはな――」
 明子がコーヒーを持って入って来た。
 机の上には、トマトジュースの飲みかけがあった。七瀬が飲んでいたのだろう。半分程に減っている。座り直した七瀬の白いセーターと赤いジュースのコントラストが鮮やかだった。
「伊折さんの展覧会は、大成功だったそうですね。おめでとうございます」
 明子が、コーヒーカップを並べる手を止めて亮輔を見た。
「ええ、なんとか。半分ほど売れたんですよ。もっとも小さい絵だから、たいしたことはないんです。本山君には、いろいろとお世話になって……」
 夏夫とは、おい、お前という言い方で話が出来るが、明子にはそうはいかない。夏夫を間にした長い付き合いだが、それでも距離を置く。
「何も協力してないけどな。何かの機会に雑誌にでも書くよ」
「専門家みたいなこと言って……。ねえ、佐木さん、おかしいよね」
 亮輔は、七瀬の切れ長で幾分つり上がった眼に見詰められているのに気付いた。
「えっ……あ、そうですね」 
 七瀬は自分に向けられた明子の問い掛けに暫く気付かなかったらしく、白い頬を少しばかり赤くした。
「あっ、ごめんなさい。プロです」
 慌てて言い直した七瀬の言葉に、夏夫と亮輔は声を上げて笑った。
「おじさんって、佐木さんは親戚なんですか?」
 おじさん――と七瀬は言う。そういう言い方は、よほど親しいか縁続きの場合でしかない。あるいは、年齢の差からそう言っているのかもしれないと亮輔は思った。
「違いますの。私と郷里が同じなんで、高校の後輩なんです」
「家内も仁多だからさ。高校は一つしかないんで、同じ学校だということだよ」
「ああ、それで……」
「田舎の高校から松江の大学に入ったから、それで、面倒を見てくれって佐木君のご両親に言われたのだ」
 七瀬は、うなじに両手を入れ、長い髪を軽くはねた。微かに香水の匂いがした。シャネルの何かではないかと、亮輔は思った。「そんなこともあって、私、米子から松江に通ってるんです」
「世徳大学ですか?」
「え? よくご存じですね……」
 七瀬の大きな目が、ちらりと鋭さをのぞかせた。
 何となく眩しそうな目つきだった。
「伊折君に、ちらっと話したのさ。だから知ってる」
 言い訳をしているような夏夫の口ぶりだった。
「佐木さんは、世徳の心理学科だけど、英語が堪能なんですって」
「そんなあ、堪能だなんて。駄目なんです。もっと勉強したいって思ってるんです」
「じゃ、私、向こうで準備しますから。大事な話を先にしといてくださいね」
 明子は、空いたコーヒーカップを手にして部屋を出た。
「私、心理学科なんで、言ってみれば英語は専門外ってことになるんですけど、どうしても、英語が勉強したいんです」
「それで?」
「会話学校というのもありますけど、やっぱり日本じゃ駄目なんだと思うんです」
「何がどう、駄目なんです?」
 おおよその見当は付いたが、あえて聞いてみた。
「留学したいんです」
「どこへ?」
 七瀬は、卒業したらオーストラリアへ語学研修に行きたいのだと言う。
 卒業したら、英語の生かせる仕事に就きたい、そのためにはネイティブの英語とまではいかないにしても、そのスピードの会話についていけるくらいにはなりたい、というのがその理由だった。
「でも、どうしてアメリカではなくて、オーストラリアなんです?」
 七瀬は暫く黙っていた。
「一度、オーストラリアに三日ばかり行ったことがあるんです。その時に、いいとこだなあって思って」
「……」
 誰と、いつ行ったのかは言いたくないような様子だった。
「それに、オーストラリアの英語って訛ってるでしょ」
「訛ってる?」
 七瀬は、くすっと小さく笑った。えくぼが出来た。白く長い左手の指先で、そこを撫でた。癖なのかと亮輔は思った。その仕草は、淡い性的な魅力を持っていた。
「例えば、アルファベットのAは、アイという発音に近いんです。そんな感じ……」
「英語の出雲弁ってわけだ」
 何も言わずに聞いていた夏夫が、不意に言葉を挟んだ。亮輔は一瞬、夏夫の存在を忘れていたことに気が付いた。
 日本でも、南と北では発音や表現が違うように、英語圏は広いのだから、余計にそうなのだろうと亮輔は思った。
「日曜日がサンダイと聞こえて、ニュージーランドに行った時には、これって何? と思ったんです」
 オーストラリア英語は、発音ばかりではなく、イギリスやアメリカ英語とは少しばかり違ったインフォーマルな表現が多い。
 だから、それを知らないと混乱してしまうかもしれないが、それはそれでまた面白いのではないかと、七瀬は真顔で言った。
「それに、どうでもいいようなことですけど、オーストラリアに、カンタス航空ってのがあるんですが、何となく、この名前って好きなんです。むろん略語なんですけど」 亮輔は、機関銃のように話す七瀬に驚いたが、可愛いと思った。変わった感性を持つ娘だなとも思った。
「それで、バイトの話だが」
 夏夫がまた口を出した。
「あっ、すいません。そうでした……」
 オーストラリア留学の学費が欲しい。そのために絵のモデルをして費用を貯めたいと言う。他のアルバイトでもいいのだが、自分も絵を描いているし、関連のある仕事ならば気が楽だとも言った。
「ご両親に出してもらったら? 私ならそうするけどな」
 そう言う夏夫を亮輔はちらりと見た。夏夫には女の子が一人居るが、まだ小学生である。大きくなって、そんなことを言い出せば夏夫も反対しそうである。どの親も同じだろうと思う。
「駄目なんです。もともと絵を描くことも賛成はしてないんです」
「でも趣味ならいいじゃないですか」
「それはそうですけど……。それに絵じゃなくて、外国へ語学の勉強に行くなんて言い出せば猛反対で、費用だって負担してくれるわけないです」
 亮輔は、父のことを思い出した。七瀬の場合とは少し違うが、自分のことは自分でやれ、というのが父の考えだ。
 七瀬の両親は、おそらく好き勝手にやるというのは許さないというのだろう。
「それで、バイトをしてオーストラリアに行く費用をということですか」
「そうなんです。お願いできます?」
 大きな目の中で、栗の実のような瞳が輝いている。
「ただ……」
 夏夫が(何だ?)というような顔をした。
 ヌードが描きたいと言いたいのだが、そう答えれば、七瀬には唐突に聞こえるだろう。着衣で幾つか枚数をこなしていく内に、それでもいいという雰囲気になった時でも遅くはない。
 夏夫の話では、ヌードのモデルでもよいという話だったが、実際に裸を晒すということになると、ためらうのではないか。
 ただ、七瀬自身も絵を、それはどんな絵なのか分からないが描いている。であれば、描き手側からの経験もあるだろう。いずれにしても、急ぐことはない。亮輔は、矛先を変えることにした。
「ただ、モデル代がね。あまり多くは出せないかも……」
「相場でいいだろう」
 夏夫が取りなすように言う。
 相場と言っても、あるようでない。モデル事務所を通せば、それなりにはっきりしたものがあるが、今の場合は、個人的な関わりであり、それもプロではないからだ。「おじさんと伊折さんに、おまかせします」
 亮輔は、それもそうだと思う。素人のモデルが、幾らと最初から言えるものでもないし、ましてや明子の知り合いでもある。
「相場と言っても、いろいろあるし……。じゃあ、どうですか。とりあえず一時間が三千円ってことで。ただし……」
「あ、着衣ってことですね」
 それは、亮輔が言いたかったことではなかった。ただし、と言ったのは、ヌードの時には、また考えるという意味のことなのだった。
「まあ、先のことはまたその時ということにしたら。じゃ、佐木君、そういうことで」
「はい。よろしくお願いします」
 夏夫も亮輔の考えていることは分かっている。亮輔は、今日のところはここまでにしておこうと思った。
「準備できてますよ」
 見計らったように、明子が顔を出した。「いつ、どこでどうするかということは、飲みながら話そう」
 夏夫は、どうやら早く飲みたいらしい。
「じゃ、こっちで」
 夏夫に促されて八畳の和室に入ると、既に座卓の上には料理が並んでいた。
「佐木さんも飲むでしょ? 遅くなったら、泊まってってもいいわよ」
「いえ、タクシーで帰ります。車を置かせてもらえれば」
 もちろんよ、と言いながら、明子が七瀬にビールを注いだ。  
 さほど大きいとは思えないグラスのせいもあるだろうが、七瀬は最初の一杯を一気にあけた。若いせいだろうと、亮輔は思う。
 数人の酒席で、アルコールでなくお茶系の飲み物にしている人がいると、何となく興ざめである。しだいに酔っていく自分が冷静な目で眺められていると思うと、失敗などしては困るという気持ちがあって何となく不安になる。
 お互いに酔っているという雰囲気ならば、そういうことはないのだ。もっともこれは飲む側の言い草である。
 というわけでもないが、このところ、自分から進んで居酒屋などには行かないようになった。年齢のせいかとも考えたりする。 もちろん、独りで飲みたいと思うことがある。描いていた絵が思い通りに出来た時、逆に行き詰まり、どうしても絵筆が運ばない日などはそうだった。それにしても深酒をすることは、最近あまりない。
 亮輔は、七瀬を見ていてそんなことを思った。
「佐木さんは、結構、いける口なのですね」 向けられた七瀬の目に、亮輔は射抜かれているように思った。煌めくような、少しばかり反抗的な鋭さがある。
「いけるって言うか、嫌いじゃないですから、そう見えるかもしれないです」
「日本酒ですか? もしかして焼酎とか」
「いつも飲んでるのは……、いえ、いつもじゃないんですけど。飲む時には……、そうですね、焼酎のお湯割りかな」
「じゃ、強いってことだよね」
 言い方がくだけたことに気付いた。
「七瀬ちゃんとこのお父さんも強いからね。そのせいじゃないの?」
 明子の言い方が、いつの間にか佐木から七瀬ちゃんになっていた。食事の場になって、くだけたせいだろう。
 明子が、また七瀬にビールを注いだ。
「そうだ。もうちょっと詳しいことを決めとかないといけないんじゃないのか」
 グラスを手にした夏夫が、七瀬と亮輔を見た。
「私、どうしたらいいんでしょうか」
 亮輔は手帳をバッグから取りだし、九月の欄を見た。八月は、あと二日で終わりだ。七瀬にアトリエに来てもらうのは、九月になる。
「九月の中頃……日曜というのは、どうですか? 学校のこともあるだろうけど」
「いつだっていいんですけど、一回にどれくらいの時間なんでしょうか」

第31回

 最初からキャンバスにということはない。とりあえずデッサンである。となると、半日、それも四時間かと亮輔は思う。
 そのこともだが、最初は描くという作業より、モデル、つまり七瀬との意思疎通の方が大事だ。
「そうだね。アトリエに来てもらって、僕の描く絵の雰囲気をまず知ってもらうことから始めますか……」
「そうですね」
 絵を描いているだけあって、七瀬は亮輔の言う意味が分かったらしい。
「モデルは、ただ、ぼやっと突っ立ってりゃ、いいわけじゃないしな」
 夏夫が冗談めかした言い方をした。亮輔は、夏夫なりに雰囲気を和らげようとしているのだと思った。
「ぼやっととか、突っ立ってだなんて。変な言い方……。七瀬ちゃんに失礼よ」
 明子の言葉に、亮輔と七瀬は顔を見合わせて笑った。
 亮輔は、まず初めに七瀬と昼食でも一緒に食べようと思った。
「九月の十二日というのは、どうですか?日曜日だけど」
「ええ、いいです。で、どこに行けば?」
「二、三日前になったら、僕から連絡します。佐木さんの都合も、あるいは変わることもあるかもしれないし」
「そんなことは、ありません。決めたら、変更するなんてことしません。伊折さんこそ、別の予定を入れないでください」
 七瀬が、むっとしたような顔つきで鼻を膨らませた。それを見た夏夫が大袈裟に両手をひろげ、首をすくめて見せた。
 明子の頬が緩み、亮輔もつられて笑った。
「私、住んでるとこは、米子城の城跡近くで久米町なんです。大学には、そこから車、ダイハツのミラですけど、それで毎日通ってます」
「久米町は、米子城址の近くにある賃貸マンションですけど、ここの家に、まあ近いから、それで。ね、七瀬ちゃん」
 明子が、同意を求めるように七瀬を見た。
「ええ、そうなんです。田舎の家は大人数だったから、せめて四年間くらいは、独りで暮らしてみたかったんです」
 高校を出る頃になると、独立という程ではないだろうが、独り暮らしがしてみたいのだ。亮輔は、自分もそうだったことを思い出す。
「なんで米子から通うんですか?」
 七瀬の通う大学は、松江だ。

第32回

 わざわざ米子から大学に通わなくてもいいのではないか。無駄なことのように思える。もっとも、米子の方が、ほんの少しだけ関西に近いから、都会に近いという雰囲気があって、住みたいのかもしれない。
「だって、おじさんが監視しなきゃならないからです」
 そう言えば、七瀬の面倒をみてくれるようにと仁多に住む家族から頼まれたと夏夫が言っていた。
「おい、七瀬ちゃん。監視なんかしてないからな」
「そうかなあ」
 亮輔の隣に座っていた七瀬が体を乗り出すようにして、向かいの席にいる夏夫にわざとらしく顎を突き出して言った。
 明るい照明の下で体が動いたせいか、うなじの辺りにある産毛が金色に光った。桃の果皮に付いている短く小さな毛のようだった。
 アルコールが入ったせいか、七瀬の首筋は薄い紅を掃いている。皮膚の色と、輝く毛に、亮輔は心の奥底をくすぐられるような気がした。
 熟れる前の桃のようにも見える。手を触れると、転がり込んでくるかもしれないと思った。桃というのは、ある意味でセクシーである。それだけではなく、英語圏では、桃のようだと言えば、最高の褒め言葉だ。
 亮輔は、その思いを振り払うように頭を左右に二度、三度と振る。
「肩が凝るようになったか?」
 夏夫が、亮輔の様子を見て茶化すように言う。
「伊折さんは、いえ、先生はお子さん、何人なんですか?」
「え?」
「肩が凝るかなんて、おじさんが言うもんですから、それなりに……」
 不意打ちを食ったような気がした。しかも、伊折さんを先生に呼び変えている。
「先生――でなくていいよ。伊折で」
「いえ、いけません。私、モデルですから。伊折さん、いえ、先生は先生です」
 夏夫が、亮輔にビールを注ぐ。
「七瀬ちゃん、亮輔は、いや、先生は独身だよ。誘惑するなよ。お父さんから監視役を言い付けられているんだからな」
「おじさんが、先生だなんて言うとおかしい。でも、ほら、やっぱり監視することになってるからそう言ったんでしょ」
 寿司が出て、日本酒の徳利が並んだ。亮輔は、かなり飲んでいるのに気が付く。

第33回

 独身だと言われて、何とも思わなかったのは三十を一か二、過ぎた頃までだった。それから以後は、やはり気になるようになった。
「監視ねえ……」
 そう言いながら、最近の若い者に監視など無意味だと亮輔は思う。それにしても七瀬は、思ったことを何の衒いもなくはっきり口にする娘だ。
「独身だから、子どもが居るわけないでしょう。いや、案外、どっかに……」
 七瀬に対抗するわけではないが、つい軽口が出る。
「えっ、先生って、そんなんですか? 画家だからなあ、モデルと何かあるとか」
「……」
「七瀬ちゃん――」
 明子がたしなめるように言う。
 たわいのない話をしている内に、九時半になっていた。十時過ぎに松江行きの電車がある。
 呼んでもらったタクシーで、亮輔は夏夫の家を出た。
 米子駅に着いて空を見ると、少しばかり赤みを帯びた満月が、低いビルの先端に懸かっていた。
 これからの暮らしに、何か大きな変化を起こすような思いのする月だった。

 軽い頭痛を感じながら出社すると、社長からのメモが机の上にあった。(外へ出る前に社長室へ)とあり、行書というより崩れた感じで、美郷芳輝(みさとよしてる)とある。いつもその苗字を見ながら珍しいと思う。戦国時代にあった、どこかの大名のような名前のような気もする。
 亮輔の勤める東洋自動車販売は車ばかりではなく、関連の商品も扱っている。特に、カーナビゲーションは主力販売品だった。
このところ、一台でDVDやビデオなどが扱える機能を備えたカーナビが相次いで登場してきたからだ。
 東洋自動車では特定の車種ではなく、客の要望に応じて高級車から低価格車まで売っている。特定の自動車会社のディラーではないというのも特異な存在だった。それも美郷の経営方針の一つである。
 カーナビ販売も時代の流れを見越したものだった。高額商品だが、高級車を買う客は例外なくそれを付けた。
 亮輔は口に掌を当て、息を吐き出してみた。
 昨夜の酒の匂いは、消えている。

第34回

 社長の美郷は、机の上に広げた書類を見ていた。
「実はね。個人的というか、君に頼みたいことがありましてね」
 五十歳になったばかりだと聞いているが、そうは見えない。四十代半ばと言っても、おそらく誰も疑わないだろう。色艶のよい顔だった。さすがに髪には、幾筋かの白いものがある。
「まあ、どうぞ」
 本革のソファー、ボックスタイプのアームチェアが二脚、スツールとコーナーテーブルが、木目調のセンターテーブルを囲んでいる。全てが黒で統一されていた。
 和室で言えば二十畳ほどの部屋である。ガラス張りのパーテーションで仕切られたところに女の秘書がいる。
 コーヒーを運んで来た秘書の薄いブラウンに染めた長い髪が揺れた。
 窓から射し込む朝の陽射しの中で、コーヒーカップから立ち上る、ふわりとした白い湯気が光った。
「伊折さんは、絵を描いてますね」
 美郷が、絵のことを言うのは初めてである。もちろん、展覧会などの広告が新聞に載ったりする。だから、知らないはずはないのだが、あまり顔を合わせることのない社長だから、絵のことについて話をしたことはない。
 亮輔は、どちからと言えば、描いていることを同僚にも吹聴してはいない。趣味が本業で、会社の仕事を熱心にしているか、と問われそうだからである。もちろん、好意的にみてくれる者も幾人かはいるが、それにしても表と裏は分からない。
「描いて欲しいんですよ」
 パーテーションの半透明ガラスに、秘書が部屋を出ていく黒い影が映った。
「私にですか?」
「そう。君でなくてはいけないんです」
 壁には、絵が掛かっている。ドガの『稽古場の踊り子達』である。その絵は、窓から射し込む光の中で、数人の白い衣装の女が舞っている図柄だった。
「この部屋に、君の絵を掛けたいと思ってるので」
「いい絵があるじゃないですか」
 誰が見ても分かる複製画だ。亮輔は、そうは言わなかった。
 美郷がちらっと笑った。
「画家の君には直ぐ分かるでしょうが、これはいわゆるリプロデュースされたものです。しかもリースだから」

第35回

 ドガの絵に顔を向けながら、自嘲気味に美郷は言った。
「リースというのは無駄だからね。これでも月に一万円近いから」
 当然だが、絵の大きさによってリース料が違う。掛けられているのは、二十号のようだから、それくらいの料金は必要だろうと亮輔は思った。
「でも、なぜ私の絵を……ですか?」
「ご存知かもしれないが、山陰経済同友会という組織に私は入ってます。この間、その常任理事会があって……」
 美郷の言う同友会は、ある企業や特定業種の利害にこだわらず、山陰の経済問題について検討し、経済界がどうあるべきかという方向を見いだすために、昭和四十年の春に創立されたものである。美郷は、その島根支部長をしている。
「その会で、経済の基盤は若手の育成が大事だという話になりましてね。そのための一つとして、それぞれの会社の社員が特色を持たなくてはいけないのではないか、と私は力説したのです」
 美郷は、理事会でその話をしながら、自分の会社には伊折亮輔という画家がいるのを思い出したと言う。
 車の販売セールスだが、全く関わりのない絵描きという肩書きもある。経済とは関係がないかもしれないが、ある意味で特異な存在だ。社長室にリースの絵が掛けてあるが、その代わりに、我が社の社員の絵があれば来客にもアピールするし、自分の言ったことの裏付けになる、だから、亮輔に絵を描いて欲しいのだというのが美郷の用件だった。
「私の絵など、社長室には似合いませんよ。もっと立派な大家のものがいいでしょう」
「内容でなくて……と言うと君に悪いが、我が社の社員の絵ということに意味がね」「ありがたい話ですが……」
 亮輔は、七瀬の顔を思い出した。昨日も今日も絵の話である。米子駅で見た赤い月が頭に浮かんだ。
「難しいですか?」
 黙っている亮輔を見ながら、美郷は煙草に火を点けた。
「いえ、そんなことはありません。私でよければ、描かせていただきます」
 確か、東洋自動車販売には、絵を描いている者はいないはずだ。
「描く時間がなかったら、特別休暇ということも考えてもいいと思ってます」
「いえ、そんな。そこまでは」

第36回

 休暇を取ってよいと言われても困ることがある。給料のほかには、東洋自動車販売では、いわゆる歩合というものがあり、車一台売れば幾らかのばックがあった。休ん
でいたら、車は売れないから、それだけ減給ということにもなる。
「無料で描いてもらおうとは思っていません。相場というものが、よく分からないが、それなりのことはさせてもらおうと考えてはいるのです」
 亮輔の思いを見越したような顔だった。「……」
「いずれにしても、遠慮はいらないですから……。まあ、必要になったら言ってもらうということで」
「分かりました。ところで、どういう絵を描けばいいのでしょうか」
 それに答えず、美郷は煙草にまた手を伸ばした。いつも吸っている銘柄は、ホープのスーパーライトである。パッケージにライトとあるから、軽い煙草だ。おそらくニコチンは、コンマ幾らかに違いない。
 それにしても、煙草を吸わない亮輔にしてみれば、馴染めない臭いだ。
 このところ、喫煙者には風当たりが強くなり、軽さを強調した煙草の広告が目立つようになった。ニコチンやタールが低く軽い煙草は、日本ばかりでなく世界でも主流になっている。だが、軽いとはいえ、深く吸ったり、本数が増えたりすれば意味がないのではないか。
「できれば、風景の中にいる若い女性を描いて欲しいのです」
「場所としては、どんな所ということでしょうか」
 美郷が、ちらりと窓に目をやった。
「そう……。やはり、宍道湖とか堀川を背景にした方が、見る人も馴染みやすいでしょう。県外からの来客もありますからね」
「松江市内のどこかを背景にした、水と女性ということで考えてみます」
「そうだねえ。いずれにしても、まかせますから」
「ひとつだけ……。大きさはどうなんでしょうか」
「この絵より少し大きいくらいがいいかもしれない」
 指差したのは、壁面にあるドガの絵だ。「というと、三十号見当ということに」
「そんなもんでしょう。それも伊折君がいいように考えてくれますか」
 あらかたの話が終わったのを見計らったように、秘書が戻って来た。

第37回

 亮輔はアトリエの壁に、ウィリアム・エッティの『水浴するミュージドーラ』の色刷りの絵を掛けている。何かのポスターに使われていたのを拡大コピーし、自分で枠にはめたものだ。
 その絵は、スコットランドの詩人、ジェームズ・トムソンの長大な田園詩と言われる『四季』に題材を取ったものである。
 ミュージドーラという娘が、恋人デイモンに水浴する姿を覗き見られるという設定だ。視線を感じ、恥じらいのポーズをとっている娘の姿からは、緊張した雰囲気が伝わるように思う。
 肉感的なボリュームがあり、ずしりと重く若々しさが溢れている。まるで、彫刻のようでもある。だが、成熟した女を描いたということではないだろう。斜めになった顔からうかがえる表情は、少女のようだ。 左頬にかけて流れる長い一本一本の髪に、恥じらう感情が見える。清潔なエロチシズムがある。
 画家がそういうエロチシズムに興味を失ったら、もう駄目なのではないか。画家でなくても、誰でも同じことだ。
 以前からそうだが、亮輔はいつも美しいものが描きたいと思っている。静物にも美しさはあるのだが、やはり女性像に尽きる。
 描かれる裸婦は、理想的な肉体で、しかも、美しくエロティックでなくてはならない。美しい女と美しい絵は別物だという意見もあるが、観る側から言えば両方である。
 ミュージドーラのそれは、自分が表現したいと思っている素材と通じるものがあるから、亮輔は好きな作品の中の一つに入れているのだ。
 飽くことなく眺めていると、描きたいという意欲が湧いてくる。ミュージドーラの絵は、描こうという意欲へ供給される栄養でもある。
 アトリエのソファに腰掛け、ミュージドーラの肩に掛かる長い髪を見ていた亮輔は、突然、紗納千秋のことを思い出した。松江現代美術館での展示会で、絵を見ていた千秋も長い髪だった。
 夏夫の家を訪ねた時に、調べておいてくれるはずだった千秋のことを聞くはずだったが、そのままになってしまった。
 あの夜は酒のせいもあったが、七瀬の話ばかりで、千秋のことをお互いに思い出さなかったのだ。
 それにしても、千秋に出会ってから半月ばかりである。暫く忘れていたとはいえ、どうして、こうもこだわるのか。

第38回

 米子の局番、〇八五九で始まる北陽放送の電話番号を押した。
 総務部が出て、暫くして夏夫のデスクにつながった。
「やあ、どうも。ちょうどよかった。今から外に出るところだったのだ」
 ほかの電話が鳴る音やざわめきの中から掛けているらしく、かなりな大声である。
「失礼していて、申し訳ない。お礼の電話もしてなかった」
 つられて、亮輔も声が大きくなる。
「無事に家に帰ったかね? 途中で寄り道したとか……」
「いや、いや。充分なご馳走で。とてもじゃないがどこに寄ることもなく、ご帰還さ」「それにしても、独身ってのは気楽なもんだよな。誰も待ってる者が居ないから、どこに行こうと、何をしようと勝手だし」
 また、独身を夏夫が持ち出したと、亮輔は苦笑いをする。
「それはそうと、この間、うちの会社の社長から絵を描いてくれって頼まれてね」
 夏夫に、東洋自動車販売の美郷社長からの話を言っておこうと思った。結婚の話はともかく、夏夫は口は悪いが何かと心配はしてくれている。
 それにしても、考えてみると、内容を指定して一枚の絵を依頼されたことはこれまでにない。
「ほお、そりゃいい話だ」
「まあね。ただ、注文が付いてる」
「注文?」
「ああ、松江の風景を背景にして、女性を描いて欲しいというのだ」
 そこまで言って、亮輔は美郷が話を持ち出した時、七瀬の顔が浮かんだことに思い当たった。
「ちょうどいいじゃないか。佐木君をモデルにして描けばいい」
 まるで、待っていたかのように、絵を描く話が持ち込まれた。七瀬を思い出したが、その絵のモデルにということまでは考えてもいなかった。
 確かに夏夫の言うとおりであった。社長室で七瀬を思い浮かべたのも、そのことだったのだ。
 だが、なぜかモデルとしての七瀬が気持ちの中にすっきりと入り込まない。
「モデル……か」
 口の中で呟いたつもりだったが、夏夫の耳に届いたようだ。
「何か言ったか?」
「別に……」

第39回

 千秋の顔が、また浮かんだ。
 亮輔の絵を見た千秋は(私もこんなふうに描いてもらいたい)と言ったのだ。しかも、(人物画ならばヌードの……)とも。
 更に、モデルになってみたいと若い時には思っていたが、今はもう駄目なのだとも呟いたのだ。
 若いからよいとは必ずしも、そうは言えない。年齢が高かろうとどうであろうと、美しいものは美しいのである。
 以前に、習作でかなりなヌードを描いてきた。目の前にいるモデルは、いつも同じではない。その日によっても違うし、同じ日でも時刻、つまり光によって変わって見える。美しいと思うから描けるのである。
 モデルの体から香り立つ雰囲気、表情に惹かれるから描くのである。当然のことだが、描き手が好むイメージは、それぞれが全く同じではない。
「おい、どうした。急に黙ってしまって」
 夏夫の苛立たしそうな声が受話器に響いた。亮輔は思わず、それを耳から遠ざけた。「あ、いや、別に……」
 亮輔は、別に何でもないと、同じ返答ばかりしていることに気付いた。
「ちょっと考えごとを……」
「お前、このところおかしくはないか? まあいいけども。ところで、佐木君には?」
「まだ会ってない。十二日の約束だから」
 言いながら、亮輔はカレンダーを見た。日めくりが九月五日になっている。そろそろ七瀬に連絡をしなければいけない。
「ところで、電話してくれたのは?」
 亮輔は自分から夏夫に電話をしたものの、千秋のことが何となく言い出しにくい。「いつか言っていた紗納千秋……」
「そうそう、それを言うことを忘れていた。益田の石見支局に調べてもらったのだ」
「それで?」
 せき立てるような調子になった。
「ゆっくり話すから、急がすなよ」
「……」
「支局と言っても、まあサテライトみたいなもので、一人しか社員はいないけども」
「サテライトって?」
「ああ、サテライトオフィスと言ってるんだが、要するに米子の本社に情報を送る小さいオフィスっていうところだな。もっとも、英語じゃなくて和製英語だが」
「それは、どうでもいいが。で?」
「どうでもいいって言っても。お前が聞いたから、答えてるんだ。やっぱりお前、変だよ」

第40回

 亮輔は、千秋のことが早く聞きたい。
「紗納千秋さんという人は、この間、伊勢宮で飲んだ時に話したように、山口県の真彩窯の奥さんだ。萩焼の」
「それは聞いた。分かってる」
「おい――」
「あ、悪い、悪い」
 夏夫が電話の向こうで笑っているのが、見えるようだ。
「津和野に住んでるのだが、要するに、男で言えば単身赴任だな。もっとも山口は隣りだから、行き来するのに、どうということはないだろうが」
 話がなかなか進まない。
 夏夫がわざと焦らしているような気もしないではない。
「津和野の町に、殿町通りというのがあって、その裏通りというのか、ひとつ南側の通りに面した家に住んでる」
 津和野の殿町通りというのは、かつて家老屋敷が数多くあったところで、塀と掘割の調和が美しいことで知られている。
 堀割で泳いでいる鯉は、町のシンボルでもある。家によっては、そこから水を庭に通し、中まで引き込んでいるところもある。家の中に流れる川で、鯉が泳いでいるのだ。
「最高の場所じゃないか」
「そりゃあ、そうだろう。何せ不動産屋だからな」
「でも、何で津和野にひとりで住んでるのかね」
「不動産の仕事が忙しいからということだった。萩はもちろんだが、山口市とかにもマンションがあって、その管理会社もあるらしい。それに……」
「津和野には、ホテルを建てる計画があるという話だったな」 
 確か、夏夫はそう言ったはずだ。
「あ、あれな。そういうことだ」
 津和野は、山陰の小京都と言われている。だが、人口は約六千人で、土地の八割が山地で、農業や林業が主体だ。
 もっとも観光では名が売れている。そういう所だから、特色のあるホテルなら経営的にうまくいくという戦略があるのだろうが、実際にそれだけの需要があるのかどうかと、亮輔は素人ながら心配になる。
「それにしてもな。狭い津和野に新しいホテルをというのもな」
「辣腕の女性経営者だから、それは考えているだろう」
「ところで……」
 亮輔は、夏夫に聞いてみたいことがある。

第41回

 亮輔は千秋に連絡を取ってみたいのだ。「紗納千秋という人に、手紙を出してみたいのだが……」
「出せばいいじゃないか。何をこだわる?」 そう問われると、どう言えばいいのか困る。たった一度だけ、展覧会に来た千秋に、しかも数分話しただけだから、何をどう話題にしたらいいのか分からない。
 だが、千秋がヌードのモデルになりたかったというのが気になっている。できれば描いてみたいと思う。それにしても、何の関わりも無い相手にそうは言えないだろうと思う。
「住所は分かっている。芳名録に名前を書いてもらっているからな」
「そうだな。とりあえず展覧会に来てもらった礼状だな……」
 どの展覧会でもそうだが、受付には芳名録がおいてある。展覧会の主催者が、来場者に礼状や次回の案内状を送る資料として使う。
 最近は個人情報が云々されるので、名前を書くのをためらう場合もある。だが、素性の知れた展覧会などでは、まず悪用されることはない。もちろん、心配ならば書かなくても差し支えはない。だが、絵なり写真なりの展覧会に来て、記名しないのは主催者から見れば、それこそ気になるだろう。
 千秋は、名前と住所を書いている。夏夫が聞き合わせてくれたことからすると、書かれた津和野の住所は千秋の住まいに違いない。
「礼状か……。いつもそうだが、礼状は出しているし、次の展覧会の案内もそれを見て出すのだが」
「ならば、それでいいじゃないか」
「……」
「どうやら、いつものお前に似合わず、その女性に関心があるようだが、つまらないことを考えない方がいいと思うがね」
「いや、そんなんじゃない」
「そうかな? どうせ礼状は葉書で、最近作の絵を印刷したものだろうが、その横に何かをちょっと書いておけばいい」
「分かってるって」
 夏夫に言われるまでもなく、これまでそうして来たし、既に展覧会の礼状は芳名録を見て出している。だが、紗納千秋には、未だである。
「そんなことよりも、ともかく、いい絵を描くことだな。佐木君というモデルも見つかったことだし」
 時計を見ると、二十分が過ぎていた。

第42回

 亮輔が七瀬に会ったのは、夏夫と電話で話をしてから一週間後の日曜日であった。
 七瀬と約束をした場所は、宍道湖畔にある湖畔亭 だった。松江市と宍道町の中程に位置し、玉造にある温泉旅館が経営する店である。東京や大阪にも支店を出している名の知れた食事処だ。
 店の一部は、湖にせり出すような感じで建てられており、広い宍道湖の中に座っているような雰囲気が味わえる。
 約束の時刻は、午前十一時半だった。
 亮輔が湖畔亭≠フ駐車場に車を停めたのは、ちょうど十一時である。
 北山の麓にある自宅から、いつもの足にしているマツダのAZオフロードを走らせたのだが、日曜日のせいもあって、予定よりかなり早く着いた。
 絣の着物を着た若い店員が、予約席へ案内してくれた。だが、七瀬はまだ来ていなかった。
 二階は座敷になっているが、一階は全て椅子席である。昼の食事時間には少し早いのに、満席に近い。
「雑誌か新聞がある?」
 亮輔は、通りかかった女店員を呼び止めた。仄かな香の匂いがした。
「あ、はい。ございます。レジの隣にあるラックなんですが……。何かお持ちしましょうか」
「いや、いいです。取りに行きます」
 レジは入口に近い所だった。ラックには、週刊誌や地元の新聞、観光案内書などが並べられている。新聞の下に一冊の分厚い雑誌があった。『美苑』という名の美術雑誌である。東京の美芸出版社というところから出ているもので、A4判で写真や絵がふんだんに載せられている。雑誌にしては、ずしりとした重みもある。普通の雑誌ならどういう店にでも置いてあることが多いが、美術系のものがあるのは、珍しいと思いながらページを繰った。
 抽象絵画のページに目が止まった。曲線で構成された人体と、それに交差するように、大小幾つかの直線が背景に描かれた絵だ。それらはまるで幾何学模様だった。
 絵の下には、十字架の上の女≠ニいう題が付けられている。なるほど、と思った。
 カラフルな色面がせめぎ合う絵は、鮮やかな色彩がどこまでも続いていくようでもあった。
 亮輔は、抽象画を本格的に描いたことはない。何を自分が表現したいのか、分からなくなるのではという不安があるからだ。

第43回

 具象画は簡単に言えば、具体的な物がそれと分かるように描かれているものだ。当然だが、抽象はその逆ということになる。
 抽象絵画は、二十世紀以降のものだから、そういう意味では、歴史がまだ浅い。
 だから、絵に関わりのない知り合いは、よく分からない絵だと亮輔に言う。
「先生!」
 背中で声がした。
「伊折さん」
 名を呼ばれて気が付いた。先生と言われることは滅多にない。だから、自分が呼ばれたとは思っていなかったのだ。振り向くと、七瀬が立っていた。
 黒いロールカラーのシャツを肘までたくし上げ、これもグレーに近い黒のリングバックル付きのベルトで止めている。スカートはグレーのロングだ。九月の中旬だが、このところ少し気温が低い。
 まるで夏が秋の衣をまとい、空調の効いた店の中へ、ふわりと入って来たように思えた。
 亮輔は、茶色のジャケットに紺のズボンを穿いて来た。七瀬を見て、少しくだけていたのかなと思う。いつも営業という仕事柄、スーツを着ている。日曜くらいは、ラフな格好がいいと思ったのだ。
「お待たせして、すみません」
 腕時計を見ると、十一時二十分だった。
「待ってなんかいませんよ。いま来たところです」
 ラックの前に立ったまま、雑誌を長い間見ていたことになる。
「何を見てらっしゃるんですか?」  
「ああ、ちょっと……。美術雑誌なんですけどね」
 夏夫の家で会ってから二度目である。
 二人だけという意識もあってか、言い方があの時と少し違うと気付く。
「へえー。こんな雑誌があるんですね。初めて見ました。でも、なんでこんな店に置いてあるんでしょう」
「そう。僕も、美術雑誌があるのは……と思ったんですが」
「店のオーナーの趣味かな?」
 言いながら、七瀬が首を傾げた。
 長い髪が揺れる。
「さあ、どうだろう。ま、ともかく、予約してある席に」
 窓際のその場所は、宍道湖からの光が溢れているように見えた。
「わあ、きれい……」
 腰を下ろしながら、七瀬が声を上げた。

第44回

 海や湖に馴染みのない人の多くは、宍道湖を見て「海だね」と言う。もちろん、本物の海というわけではなく、広いという意味である。
 広く見えるのは、おそらく周囲の山並みが低いせいかもしれない。あるいは、静かな城下町松江のたたずまいと、どこまでも高く、深い出雲の空が、そう思わせるのだろう。
 出雲の空の下に沈む落日は、松江の街から見ると、いかにも遠くにあり、地平の中へ揺るやかに隠れていく。そのおおらかとも言える時間の流れが、眺める人々の心に広がりを感じさせるのである。
「青い鋼のようだね」
「何がですか?」
「空ですよ」
 七瀬が、切れ長の目を大きく見開いた。
「素敵な言い方。もしかして、先生って詩人じゃないですか?」
「まさか……」
「じゃあ、私も。そうだなあ」
「……」
「鋼の空を叩いたら、かーんと、音がするかもしれない」
「佐木君も詩人だよ」
 七瀬が(やだあ)と言いながら、亮輔の肩を軽く押した。
「あれ? 先生。さっき、佐木君も≠チて言いませんでした?」
「そうだったかな?」
「言われましたよ。ということは、先生、自分で詩人だって、認めたんですね」
「そういうことになるな」
 七瀬は、(おかしいわ)と言いながら笑った。その笑い声を宍道湖の波頭にきらめく光のようだと亮輔は思った。
「お待たせしました」
 椅子に座ると同時に、女の店員が料理を運んできた。
 亮輔は、湖畔≠ニ名付けられた昼の定食を予約しておいたのだ。
 鯛の造り、天麩羅、茶碗蒸し、鰻蒲焼き、もずく、しじみ汁などが盆に並んでいる。
「どうぞ。今日は僕のおごりだから」
「え? いいんですか? 嬉しいっ」
「これからのことを打ち合わせたいと思ってるし……」
「私、独りで暮らしてるから、よくスーパーの惣菜売り場で、出来合いのものを買って済ますんです」
 七瀬は、亮輔の言ったことに答えず、(いただきまーす)と言いながら手を合わせた。

第45回

 とりとめのない話をしているうちに食事が終わり、コーヒーが来た。
 七瀬と初めて会った時には、最初はアトリエに来てもらおうと考えていた。だが、夏夫の家で話しているうちに、食事を一緒にした方がいいと思った。こうして七瀬と会ってみると、最初からアトリエでというよりも、こういう場の方がよかったと亮輔は思う。
「ところで、これからのことだけども」
「あ、そうでした。今日はその話でした」「佐木さんは、どういう予定になってるんですか?」
 亮輔はそう言いながら、答えようのない質問だなと思った。
「どうって……」
 まずい問い掛けだった。漠然と、どういう予定かと問われても、どう返事をしていいのか分からない。
「佐木さんの大学の予定、というか、一週間のスケジュールというのか」
「先生、佐木さんと言うのはやめましょう。七瀬と呼ばれる方が好きですから」
「じゃ、七瀬君……。アトリエに来て欲しいんですが、いつならいいのかと思って」
 えっとですね、と言いながら七瀬が手帳を取り出した。
「普通の日ですか?」
 と言われると、夜しかない。自動車販売の営業という仕事だから、本当は夜と決めても何が入るか予測がつかない。つまりは、予定が立てられないのだ。
「勤めがあるからウイークデーはねえ」
「自動車の会社にお勤めでしたよね」
 夏夫の家で七瀬にそういう話をした記憶がある。
「普通の日なら夜しかないけど、お客さん相手の営業ということから言うと、時間を決めるのは難しいんで」
「だったら、土曜と日曜しかないですね」 不満そうな言い方だった。平日は講義があり、週末は遊びたいのかもしれない。
「講義のない曜日もあるんですけど」
 時々ならいいのだろうが、七瀬の土曜、日曜を全て束縛するわけにもいかない。
「でも、お金を貰うんですから、私の都合ばかり言ってちゃいけませんね」
「じゃあ、一応、土曜か日曜ということにして、平日でも仕事の都合を付けることにします」
 一年に何度かのことだが、週末に展示会を開くこともある。
 亮輔は仕方がないと思った。

第46回

 今まで、週末の仕事について、ことさら考えなかったが、これからはそうはいかないようだ。
 本気で描こうと思えば、仕事をしていては駄目かもしれない。伊勢宮で夏夫とそんな話をしたことを思い出した。
「ごめんなさい……」
「平日なら、いつが空いてるの?」
「月曜と木曜の午後は講義がないんです」
「何とか、それに合わせるようにしよう」 七瀬が、すみませんと呟いて頭を下げた。「それから、モデルのお礼だけども、この間、本山君の家で言ったように、一時間を三千円という計算にしましょう」
「はい。でも、スーパーなんかのバイトだと時給が千円にもなりませんから、三千円というのは凄いです」
 確かにそうかもしれない。喫茶店などに、アルバイト募集などという貼り紙があるのを見ると、たいてい七百円程度だ。
 もちろん、いずれヌードを描きたいと思っているから、三千円というのはその時のことも含めての話だ。危うくそのことを言いそうになった。だが、それを言うのは、少しばかり早い。   
 夏夫の話では、七瀬は着衣はもちろん、ヌードでもいいというように言っていたらしいが、本当にそうなのだろうかとも思ってみたりする。
 世徳大学の美術部で、七瀬は絵を描いている。裸婦も描いた経験はあるだろうから、ヌードのモデルになるという雰囲気は描き手側から、ある程度の予測がつくだろう。
 いずれにしても、七瀬と自分の間に、ある意味の距離がなくなった時に頼めばいいと亮輔は思った。
「それじゃ、とりあえず、来週の日曜の午後に来てくれますか?」
「はい。一時過ぎには行けると思います」
 会社での仕事がないはずの日曜である。
 亮輔は、七瀬に簡単な地図を書いて説明をした。 
「実はね。うちの会社の社長から頼まれた絵があるんです」
「描いて欲しいということですか?」
「そう……」
「何を描くんです?」
「松江の街に、若い女性が佇んでいる絵なんです。それも湖とか川を背景にした女性像というのが希望で、それで君を……」
「私がモデルになるんですか?」
「モデルという約束だから、そりゃあそうでしょう」 

第47回

 七瀬は、嬉しさに揺れるような微笑みを浮かべていた。
「今日は、この後の予定は?」
 亮輔は、宍道湖岸を車で走ってみようと思った。
「何もないですけど」
「時間があれば、宍道湖をひと回りしてみませんか?」
「先生の車で?」
「軽自動車だけどね」
 亮輔は、半年前に車を買い替えていた。いわゆる新古車である。新車と中古車の違いは走行距離ではなくて、登録されてナンバーが付いたことがあるかどうかだ。
 新古車という言葉は、自動車公正取引協議会によって、広告で使ってはいけないことになっている。車を買いたいという人に誤解を与えるような言葉で、新車なのか中古車かが紛らわしいからである。
 亮輔が手に入れたマツダのAZオフロードは、会社の宣伝用に使われていた試乗車である。それまで乗っていた、これもマツダのファミリアが三回目の車検の時期になり、買い替えを考えていた時に、タイミングよく会社が試乗車を手放すことにしたのだった。
 半年ばかりの試乗に使った車だから、走行距離はさほどでもない。ただ、車種や色は当然だが自分の好みと違う場合が殆どだ。それさえ目をつぶれば、少しばかり安く買える。仕事がら、いつもいろいろな車を見ていることもあるが、車は便利な足だと思っているから、こだわりもない。
「七瀬君の背景に、ちょうどいい場所が見つかるかもしれない」
「そうですね。でも、描かれる時に、その場所に私が居なきゃいけないんですか?」
「写真を撮っておくつもりだから」
「そうでしたね。私はカメラはあまり持ち歩かないんですが、スケッチブックだけはいつも手放さないようにしてます」
「スケッチでも写真でもいいと思うけど、やはり現場での感動がね」
「臨場感のある絵というのは、やはり第一印象の強さだと私も思います」
 宍道湖をひと巡りして、湖畔亭≠フ駐車場に帰って来たのは、夕方だった。
 背景によいと思った場所が幾つかあった。デジカメに記録した数は、約五十枚になっている。
「じゃ、先生、また日曜日に」
 駐車場から七瀬の車が、左のウインカーを点滅させて九号線に出た。

第48回

 七瀬をモデルにし、夏の女≠ニ題を付けた三十号の絵が出来上がったのは、十一月も終わりに近くなってからだった。
 夏の宍道湖を背景に、白いブラウスの七瀬が大輪の牡丹を胸に抱えて立っている。
 湖には、風が少しあるのか小さな波があり、それは幾本かの輝く短剣の切っ先が青い湖面から覗いているようでもあった。
 宍道湖を何枚かスケッチしたものをもとに、若い七瀬が画面に溶け込むようにとの思いを込めて描いたのだ。
「素晴らしいじゃないですか」
 社長室に飾った絵を見ながら、美郷が声を上げて亮輔を見た。
「そう言っていただければ……」
「モデルの女性は?」
「ええ、知り合いの人なんですが」
 ことさら名前を言う必要もないと亮輔は思った。
「少し気の強そうな目鼻立ちに、ちらっとあどけなさ……があるというか、天衣無縫という感じがしないでもないが」
 宍道湖を背景にした構図や色合いを見て欲しいと思ったが、美郷の関心はそこにはないようだった。
「目の強さが印象的だな。妙な言い方だが、淑女っていうか、いや、そうではなくて、少女なのか……」
 言われてみれば、そんな雰囲気もある。
「どこかで会ったことがあるような……」
「そうですか?」
 社長の美郷が、七瀬に会ったことはないだろうから、多分、既視感ではないか。
 描かれた人物像の視線が、見ている人の方に向かっているような絵に出くわす場合がそうだ。普通、人の目は、絵の中に明るい部分があると、まずどうしてもそこへ視線を持って行く傾向がある。
 七瀬の二つの黒目には、ハイライトを入れている。見ている人の目のバランスと七瀬の視線方向が一致していたとすれば、この絵の場合、美郷は見られていると感じたのだろう。それが、デジャビュになったのだと思われる。
 ルーブル美術館にあるレオナルド・ダ・ヴィンチのモナリザ≠フ微笑がそうだと言う人もある。もっとも、実際は微笑んでいないのに、謎の微笑と言われるのは、表面のひび割れが作り出した微妙な陰影なのだと、何かの本で亮輔は読んだ記憶がある。
 モナリザは、縦横八十センチに五十センチ程度の作品だが、傑作という評価から巨大な絵のように錯覚するのと同じである。

第49回

 美郷は煙草に火を点け、唇をすぼめながら煙を吐き出した。
「人物の服の下で、温かい血が流れているような錯覚がするねえ」
「大袈裟ですよ。社長」
「そうかもしれないが、そんな気がするよ」
 コーヒーを頼む、と秘書に言い、美郷はソファに腰を下ろした。客が座る側である。絵は、その真向かいに掛けられていた。
「まあ、どうぞ」
 美郷は煙草の火を灰皿にねじ込み、また一本取り出した。
「ところで、モデルの女性は何という人です?」
 亮輔は、言っていいものかどうか、一瞬迷う。
「佐木七瀬っていう人ですが」
 どんな字を書くのかという美郷に、手近にあったメモへ書いてみせた。
「学生さんです。世徳大学の」
 余計なことを言ったのかと、ふっとまた気になった。
「モデルと言っても当然プロじゃないわけで、私が頼んで描かせてもらっただけですから」
「そういえば、伊折君は世徳だったですね。そういう関係で?」
「そうじゃないですが、偶然の出会いで」
 どうやら美郷は、それがどうであったのかが知りたい様子だった。もっとも聞かれても言う必要はないと亮輔は思っている。
「偶然ですか。モデルになってくれる人だから、よほど親しいのかと思ったんだが」
「いえ、ちゃんと契約をして、そのお礼も払ってます」
 そうだった、思い出したという顔を美郷がした。
「それこそ、そのお礼はというか、絵の代金はどうしたらいいのですかね」
「と言われても……」
 最初に頼まれた時、確か相場が分からないので、というような意味のことを美郷は言ったのだった。
 見も知らぬ相手に代価を貰うのではない。いつも顔を合わせる会社の社長と社員の関係である。壁に掛けてもらうだけでも、よしとしなければいけないのかもしれない。しかし、美郷はある程度のことはすると言ったのだ。
 亮輔は、フランスで開かれた展覧会に出したことがあり、国内で入賞した絵もある。かといって、美術界で知名度が高いというわけでもない。

第50回

『美術市場』、『月刊美術』、『芸術新潮』など、数多くの美術情報誌が発刊されている。
 例えば、『美術年鑑』は、厚さが数センチの分厚いものだ。それぞれの画家が描いた絵の価格、彫刻家や陶芸家などの経歴、鑑定人のことや、作家の出身地一覧表なども載せられている。
「伊折君は、美術年鑑などに載ってますかね。申し訳ないが見たことがないもので」 美術年鑑に類するものは、幾つか出ている。それに載るようになれば、プロということだが、まだ掲載されたことがない。
「残念ながら……。載るようになりたいとは思っているのですが、なかなか難しいようです。絵が数多く売れるようになれば、別でしょうが」
「そうですか……」
 著名な、特に国内の賞を幾つか獲得すれば売れるようになるということもあるかもしれない。
 美術関係の雑誌や情報誌を出している出版社に何かの形で貢献すれば、あるいは画家として登載される可能性もある。しかし、これはまた実力と別の問題でもありそうだ。
「幾らにすれば、いいですかねえ」
 美郷は、思案する顔を見せた。
 年鑑にある絵の評価額は、当たり前のことだが流動的で、描かれたものによっても違う。売り手と買い手の関係で、評価額以上にも以下にもなる場合も考えられる。
 だから、一応の目安ということからすれば、美郷の言うように相場はないということでもある。ましてや、名の知れない地方の画家となればなおさらだ。
 亮輔は、これまでに絵を売ったことがあるわけで、そういうものを基準にして考える。となると、油彩の場合で、一号が五千円見当になるだろう。
 頼まれて描いたものと、そうではなく、積極的に売る場合とでも違う。
 更に、亮輔のように会社に雇われていると微妙でもある。
「一号で五千円というのはどうでしょうか」
「一号というと、この程度の大きさかな」
 美郷は、デスクの上からB5判の紙を持って来た。
「そんな程度の大きさです。人物や風景によって微妙に違うかもしれませんが」
「ということになると、十五万ですね」
 壁に掛けられている絵を亮輔は振り返って見た。
 七瀬が、笑いかけているように思えた。