笛の音 第131回〜最終回 平成15年11月1日〜
順子は、美音子と日向の関わりを知るはずがない。だが、見透かされているような気がする。 ――あなた宛の封筒を日向は投函しようとしていたのか、もしかして、あなたが来られれば渡そうと考えていたのか分かりませんが、いずれにしても、お届けした方がいいのではないかと思いました。同封したものが、それです。お受け取りください。―― 順子の言うその封筒は、宛先が仙台の新聞社気付になっている。 名刺を渡したことがある。去年の祭の夜だった。日向はそれを見て書いたのだろう。新聞社を辞めたことを日向には知らせてはいなかった。 日向に会ってから、五ヶ月しか経っていないが、随分遠いことのように思えた。 ――なぜか、日向は私の所へ、もう帰って来ないような気がします。探そうにも、どこをどうすればいいのか分かりません。椎葉の人ではないし、もちろん、家族でもないのです。私と日向は、あの人と私は、いわば行きずりというのか、時々訪ねて来るだけの関係なのですから、警察に届けたとしても、それだけのことでは探してくれないと思います。こうなってみると、あの人との関わりが薄く、儚いように思えます。―― 美音子はそこまで読んで、男と女の関係の不思議さを思う。順子に会った時、十年という長い間の関わりに二人の暮らしの重さを感じた。だが、今はそうとも言えない。 ――帰って来ないというのは、夫婦でもないのですから仕方がありません。春が近くなって、余計に不安です。日向が生きてはいないのではないかと考えたりするからです。たった一度しかお会いしていないあなたにこんなことを書くなんて、変な女だと思われるかもしれませんが、どうしてか、あなたとは以前から知り合っていたような、何か繋がりがあるような気がします。―― 第百三十二回 以前から知っていたような、更には関わりがあるように思う、と順子は書いている。日向の体が間にあるとすれば、関係はあるということになる。もっとも、そういうことを言えば、いかにも俗っぽいし、きりがないが、美音子は順子の無意識の底にあるものを感じる。 順子の手紙に目を落とす。 ――それはともかく、私は日向を待ちます。いつか必ず帰って来ると信じながら。―― 手紙は、そこで終わっていた。美音子は、同封されていた日向の封筒を手にした。封は切られていない。 出て来たのは、(笛に興味を持っているあなたに、資料を届けます。何かの参考になるのではないかと思うので。)と書かれたメモとパソコンで印字された数枚のプリントだった。その最後には、日向善生とペン字で署名がしてある。美音子は、去年、日向に貰った名刺を思い出した。手作りのそれだった。 資料の標題に、『笛作り工程順』と書かれている。 一、竹材 ア、百三十年から百八十年くらい前のも ので、十分に乾燥した篠竹とする。 直径は、一センチ五ミリから二セン チ五ミリ程度。 イ、節の間を使うが、管尻と頭の部分に 節がくるか、節から一センチくらい の内側を使う。太い方を頭と歌口に する。歌口から管尻にかけて、節を またいではいけない。 二、手順 ア、目的の笛の長さに切る。 イ、穴の場所を決め、印を付ける。竹は、 同じものはない。目安である。 ウ、錐で中心を開け、小刀で卵型に刳(く)る。孔の壁は垂直にする。 そこまで読み、美音子はため息をついた。これだけでは、もし作れと言われても何も出来ないのではないか。もちろん、作る気はないが、難しいものだと思う。 松江に帰ってから、有司に何度か電話をして話をしたことはあるが、一度も会ってはいなかった。勤めていた米子マシンサービスというパソコン用プリンターを扱う会社は二月で退職したという。ほったらかしになっていた畑などの仕事で、有司は忙しかったのだ。 有司と仙台で話をした時だった。仕事をしないと食べていけないだろう、と美音子が言い、有司は農業があるから、と楽天的だった。儲かる農業というのは難しいかもしれないが、食べていくことは出来るのだろう。それよりも有司の家族が喜ぶのは、家に居てくれることなのだ。 美音子が有司と会ったのは、純子から手紙が来た二日後だった。 三月も下旬になると、春の観光シーズンに入る。有司が会う場所として指定した県立美術館は、観光客が多くなる四月をねらって、多彩な展示が企画されていた。河井寛次郎、平塚運一の作品展、ドラえもん展や近代絵画展などもあり、かなりな人出があった。 「久し振りだなあ」 「何がなの? ここの喫茶店?」 「いや、美音ちゃんに会うのが――」 美術館の喫茶店は湖畔に面している。遙か西には出雲空港が霞んでいた。冬の間まどろんでいた日射しが、明るい春の陽に変わり、ガラス窓いっぱいに射し込んでいる。美音子は、薄い布のブラインドを少し降ろした。午後の長い日脚が、コーヒーカップを光らせている。 「お父さんはどうなの?」 「ん、まあまあだ。それはいいが、美音ちゃんは、これからどうする?」 多分、そう言うだろうと思っていた。有司は後ろを振り向かない性格だと美音子は思う。先へ、先へと考えている。そういう有司を美音子は不思議な気持ちで見る。その点からいうと自分はどうなのだろう。前後の見境い無くというと大袈裟だが、思い付いたらすぐに何でもやってしまうようなところがある。 七年間勤めた仙台の東北日日新聞社を辞めたのも、高校を出てから十年を超える日を過ごした街を離れたのもそうだ。 入社の日、体の中から湧き上がる意欲を感じた。そして緊張感の中で走り続けた。だが、それが何かでぷつりと切れたということである。 人間の一生には、契機というものがある。何かを思い付いたけれども逡巡し、止めてしまったことを後になって、あの時にこうしておけばよかったと後悔することがある。今までにも何度か、そんなことがあった。 書店で本を手に取る。買うかどうしようかと迷う。結局、買わずに店を出る。数日経って、不意にその本が必要になったりするのも似たようなことだ。その時に決断しておけばよかったと思う。 これからどうする? と有司に聞かれ、そんなことを美音子は思う。既に同じことを何度も言われている。 「私、新聞社を辞めたのは、何をするってはっきりと決めてそうしたというんじゃないけど」 「女ってのは、いいよな」 「何が?」 「家族を養うなんてことを考えなくてもいいからさ」 結婚して子どもが出来たら仕事をやめるという考え方は、ある調査によると四割近い。有司の言うのは、そういうことなのだろう。 「でも、帰って来てよかったと思う」 新聞社に居た時と違って、時間が流れているのかいないのか分からないような毎日である。同じことを日向の家を訪ねて思った。 「そりゃあ、そうだろうさ。で、美音ちゃんは毎日、何してる?」 「別に……」 答えながら、何もしていないことに気付く。だが、それはそれでいいと思っているのだ。父も母も何もいわない。穏やかとでも言える時が過ぎている。 遊び疲れて、日溜まりの中で微睡んでしまった子どもの頃のような気がするなかで、仙台に居る時に感じた焦りのようなものは、少しずつ薄れている。 「美音ちゃん、あれから、仁多の――笛の人の所に行ったのか?」 コーヒーカップに手を伸ばそうとしていた美音子は、ふと眠りを覚まされたような気がした。 「ううん、行ってない……」 何の気なしに聞いたのかもしれないが、不意打ちを食ったような思いがした。 「そうか――」 本当のことを言わずに済めば、その方がいい。どうしても必要な嘘もある。傷つけたくはない。日向の家に行ったと言えば、その後のことに触れることにもなりそうである。あのことを言わなかったとしても、何かを想像はするかもしれないが、直接そのことを有司に言えば、余計な傷を負わせてしまう。 「私、行ってみようかなあ」 おもねるような言い方になった。日向が帰っていないとしても、あの家がどうなっているか遠くから眺めるだけでもいいのではないか。 「俺も一緒に行こうか」 一人で行くと言えば、有司はどう思うだろう。 「でも――有ちゃん、忙しいでしょうに」 「そんなことはないさ。四月から学校に行くようになれば別だけどな」 ああ、そうだ、と思いながら美音子は有司の顔を見た。仙台で出会った時は、陰りのあるような顔だったが、いまは違う。生き生きとしている。高校生の頃の有司のようだった。美音子は、有司を羨ましいと思う。体を寄せたくなるような気がした。 「あ、そうだ。私、車を買ったの」 美音子は、仙台で乗っていたセドリックを売り払った。都会と違って、田舎では足がないと動きが取れない。買ったのはマツダの軽自動車だった。 美音子が有司と一緒に仁多の三津に行ったのは、三日後だった。 「本当に軽にしたのだな」 「ええ、仕事の無い者が普通車なんかに乗ってると、何か言われそうだからね」「そんなことはないさ」 「いずれは、遊んでる――なんて噂の種になるかも」 「だったら……」 「何?」 「なんでもない」 助手席から、珍しそうに車内を眺め回している。軽自動車だからなのか、女のそれでということなのだろうか。買ったのは、マツダAZオフロードの白色である。スズキから出ているジムニーのOEMで、マツダブランドで売られている。乗用車という分類だが、最近の丸みを帯びた形とはひと味違う。もともと米軍のジープから来たスタイルなのだ。 軽自動車の規格が初めて出来たのは昭和二十四年で、四サイクルエンジンは百五十tだった。昭和三十年十月、鈴木自動車工業からスズライトがデビューした。排気量が三百六十tになったからである。車を持つことが、ある意味でステータスだった時から半世紀が経ち、今や軽自動車は足代わりに使われている。 狭い道でも、駐車をするにしても楽である。軽自動車が地方でよく使われる理由だろう。美音子は勤めていないから、ということもあって、小さい車にしたのだ。それにしても、中江のような田舎では、確かに便利だった。 松江市内を抜け、忌部の峠を越えると大東町である。海潮小学校の前から左折して農道に入る。去年の秋は国道五十四号から三瓶に行き、それから仁多に行ったのだ。あれから半年が過ぎていた。 農道の桜が少しずつ咲き始めている。三成の町を通り過ぎて三津に着いた。 「確か、この辺りのはずよ」 三度目だ、とは有司に言えない。見覚えのある『日向笛庵』の標識があった。 車を停め、見上げると、あの日向の家がある。 「どうする?」 美音子は黙って暫く見詰める。 日向の家を見上げながら足を止めた美音子を見て、(どうする?)と有司が言うのは、行くかどうかということである。美音子は、どうしても去年の秋のことを思い出す。立ち止まったのは、後ろめたい気がしたからだ。有司の自分に対する気持ちが分かるから、余計にそうである。 だが、ここまで来て帰るというのは、不自然に思える。 「日向さんが居るかどうか、行ってみなきゃ分かんない」 美音子は、自分でそう言いながら、その言葉にぎこちなさを感じた。案の定、有司が不審な顔をする。 「居る?」 「あ、留守かもしれないじゃない」 「それはそうだが」 坂を上がり家の前まで来ると、雨戸が閉まったままである。入り口の戸に手を掛けたが、開かなかった。美音子は、何となく安心したような気持ちになり、ふっとため息をつく。 「やっぱり留守みたいね」 「裏は、どうなってるんだろ」 有司は後ろに回り、庭をのぞきこんでいた。日向が笛を吹いたところだ。 「いい庭だなあ」 美音子は、どう返事をしていいのか迷う。(うん、まあ)と、口ごもった。 「帰ろう。有ちゃん」 早く立ち去りたい気がして、有司をせかした。 「せっかく来たのにな」 「いいわよ、約束もしてなかったから」 「また訪ねたら……」 「そうするわ。帰りに木次へ行かない?」 木次の斐伊川堤防には、桜の並木がある。平成二年、日本さくらの会から、日本桜名所の百選に選ばれた。見頃には、桜のトンネルが出来て、中国地方では有名な桜の名所になっている。 「桜を見に? 行こう」 有司は美音子と一緒なら、どこにでも行くつもりらしい。 美音子は、坂を下りながら日向の家を振り返った。もう二度と、ここへ来ることはないような気がした。なぜそう思うのか、美音子は分からなかった。 夕景山が、午後の陽の中に沈んでいた。 三津から三一四号線に出て、湯村温泉を過ぎた。短いトンネルを抜け、真っ直ぐに行くと国道五四号線に出るのだが、右に曲がり、ひと山越せば近いのではないかと思った。 ウインカーを右に点滅させる。道は狭く曲がりくねり、急な坂が多くなった。 「三一四を真っ直ぐ行った方がよかったじゃないか?」 心配そうな有司の顔がバックミラーの端に映っている。 「私の運転だから、文句言わずに黙ってればいいの」 有司が笑った。 オートマチックのギヤを一つ落とし、美音子は車を走らせ続けた。 暫く行くと、どこでどう間違えたのか行き止まりになり、寺の境内のようなところに入り込んでいた。庫裡の庭だった。 「お寺じゃないか」 有司が呟いた時、その声を聞きつけたかのように、作務衣の住職らしい老人が縁側から顔を出した。 「お参りかな?」 「ちょっと道を間違えちゃって……」 「ここは西日登での。どこまで行かれるのかな?」 「木次の駅の方に出るつもりなんで」 「ああ、ここからは近いから、迷うことはないですけん」 美音子は有司とのやりとりを聞きながら、庫裡の横に車を停めた。 「有ちゃん。お参りして行こうよ」 「本堂は、宝蔵庫の先じゃから」 老人の視線を追うと、右手に平屋の建物があり、その左先には十メートルを超えるほどの大木があった。その横に観音堂が建っている。風に揺れた枝が、美音子を手招きをしたように見えた。 「あれは何という木なんですか?」 老人が(おや?)という顔をした。 美音子の目に映った木は、梛である。神社の境内に植え、神木としているところもある。葉を取り、供え物を盛ったりする。 葉は二枚ずつ対になって生え、また、切れにくいことから、男と女の縁を断つことのないようにと、女性が葉を鏡の裏に入れる風習を持つ地域もある。 「あの木のことを聞きなさる人は、めったにないですがの。ありゃあ、梛という名で――」 初めて聞く名だった。 「ごゆっくり――」 美音子と有司は、住職と思える老人の声を背に聞きながら、小さな池を左に見て、宝蔵庫の前から少し高くなった境内に上がった。本堂になっている観音堂の横に出た。参道に続いて右手には古びた鐘楼門がある。見下ろすと、かなり急な切石で作った石段の先には、不動明王の像と仁王門があった。 「本当は、ここから上がるのね」 集落や学校が、遙か下になって見える。 「こういう高い所にあるお寺は、どこも車の道を作ってるから、それを通って来てしまったわけだ」 眼下の家々を取り囲む奥出雲の山が、寺の場所の高さを際立たせていた。 「有ちゃん、どういう名のお寺だろう?」 「室山寺」 「何で知ってる?」 「庫裡のところに札があった」 「そう……。さっきの人、住職さんね」 本堂を廻ると、住職の言った梛の木が大きく枝を広げていた。更に高くなった場所に小さな五輪塔と地蔵が、ひっそりと佇んでいた。 「あの石積みとお地蔵さんは、何なんでしょうね」 有司は、梛の木を見上げていた。 「住職さんに聞いてみたら――」 「後で聞いてみるわ」 その二つは、寄り添っているように見えた。 繁った梛の葉が、明るい午後の太陽とは対照的に五輪塔と地蔵に暗い蔭を落としている。 「ねね、有ちゃん、これ梛の実なんだ」 美音子が拾い上げたのは、楕円に近い形をした実だった。胡桃くらいの大きさのものから、小さいのはピーナッツほどである。くすんだような茶色をしていた。触るとかなり固く、細い枝が付いている。 「ふーん。面白い実だな。孔が空いてる」 手に取った有司が、感心したような声を出した。 「ほんとだ」 美音子は実を振ってみたが、中は空っぽのようだった。散らばっている実を幾つか集めたが、いろいろな大きさがあるものの、どれにも小さな孔が空いている。「土笛!」 ミニチュアの土笛のように見えた。 島根県立美術館の展示で、土笛を見たことがある。卵形をした土製の素焼きの笛だった。上の方に吹き口の孔、前に四つ、後に二つの孔が開いていた。弥生時代前期の遺跡から出土するらしいが、島根県の土笛は全国の七割を占めるという。農耕祭器ではないかと言われている。 土笛は、紀元前二世紀から三世紀頃に中国から伝わったとされているが、二百年ほどで、突然日本からは姿を消してしまった、と美音子は何かの本で読んだ。 有司が、孔に唇を当てて息を吹き込んだ。優しくて柔らかな音が出た。横笛のような鋭い音でもない。ふわりと両手で抱かれるようなそれだった。 その小さな音は、寺の周囲に広がる杉林の中に吸い込まれて行くように思えた。もちろん、木の実だから土笛とは違うのだが、まさに小さな小さな木の笛だった。胸の奥から、せり上がる得体の知れないものを美音子は感じていた。 小さな笛の、たった一つの孔は掌の上から、美音子に何かを語りかけているようでもあった。唇を押し付けると、春の陽の匂いがした。 実は土色になっているので、地面の色と区別が付きにくいが、よく見ると、かなりな数が落ちていた。 「少し持って帰ろうよ」 美音子は拾った実をティッシュに包んだ。持って帰ってどうするというものでもないとは思ったが、このまま見捨ててしまうのは惜しかった。 実から伸びた短い枝は、手荒く扱うと折れそうだった。 「道に迷って、というわけでもないけど、ここに来てよかったじゃないか」 「そうよね。こんな実があるなんて知らなかったもの」 「でも、なんで孔が空いてるんだろうな。それもさ、一つだけってのが妙なんだなあ。何でだろう?」 「住職さんに聞いてみたらいいんじゃないの?」 「そうだな」 美音子は日向の家を訪ねた帰り、笛に似た木の実を見付けたことに不思議な因縁めいたものを感じていた。それもただの実ではない。吹けば音が出る。しかも、形まで土笛に似ているからだ。梛の実のことを日向は、知っているのだろうかと思った。 有司は、境内を歩き廻っている。 「随分古いお寺だなあ」 「そうよね。格式があるというのか、そういう感じよね」 鐘楼には、大きな鐘があった。おそらく毎日のように住職が決まった時刻に撞くのだろう。 夜が明けたかどうか定かでない刻、そして、夕闇がいつの間にかやってくる頃、鐘の音が荘厳な響きと共に、住む人達に安らぎを与えるに違いない。 そんな風景を想像すると、つい一と月程前まで、都会の喧噪の中で過ごして来たことが嘘のように思えた。 三津もそうだが、中江の里も穏やかである。美音子は、松江に帰って来てよかったと思う。 室山寺の境内には、穏やかな午後の陽が漂っていた。母が仙台の暮らしを止めたらと言い続けて来た理由は、こういうことだったのかもしれない。ましてや、美音子が勤めていたのは新聞社である。学芸部だったとはいうものの、かなり時間に追われる生活をしていた。それだけ神経を擦り減らす。母にはそんな仕事のことが分かるはずもないが、滅多に松江に帰ることもなかった自分の娘のことが不安になるのも頷ける。 ぼんやりと、そんなことを考えていると、不意に抱き寄せられた。有司の胸からは春の陽の匂いがする。 参詣人が一人もいない寺は、時間が止まっていた。境内だけではなく周囲の山々や杉林も、何もかもが眠っているように思えた。 美音子は暫く目を閉じた後、胸から顔を離して傾けた。待っていたように、有司の唇が美音子のそれに重なった。幾度となく繰り返したそのこととは違って、体が包み込まれるような新鮮さがあった。美音子は体の全てが、その扱いに困っているような感覚を見せたのを知った。腰に回された両手や触れられている唇が、去年の暮れに有司と過ごした数日の記憶を蘇らせていた。 吐息にも似た風が、落ちていた葉を揺らす。美音子は両手を有司の胸に押し当て、体を離した。 「有ちゃん、行こうか――」 見上げた有司の額に、小さな汗の粒がある。美音子は右手の小指で掬い取った。「そうだ。聞いてみなくちゃね」 手を掛けた庫裡の戸は、戸締まりがしてあるらしく動かなかった。 「留守みたいだな」 梛の実にある孔と地蔵のことを聞くはずだった。 「どうしても知りたいのに」 「また来たらいいさ」 またいつか来るとしたら、今日のように有司と一緒だろうと思う。 庫裡の横に停めていた車に乗り、梛の木を振り返った。本堂の周りの樹木に溶け込んでしまうと、何の変哲もない木だ。不思議な形をした実を付けるなどとは思いもよらない。 美音子はハンドルを両手で抱え、暫く眺めていた。 有司が言うように、もう一度、ここに来てみたいと思う。本堂の脇にある十一体の小さな地蔵に掛けられている赤い布の色が、緑の中で鮮やかだった。 「どうした? 木次に行くだろ」 言われてそうだったと、美音子は気が付く。 「そうよ。だって春だもの」 「春と言えば桜か……」 「何? つまらないこと言わないの」 寺を迂回するように作られた道を下りる。室山寺は、かなり高い所にあるのだった。名前は分からないが、連なる山々が目と同じ高さのように見えたからだ。 狭い道からはずれると、木次の町は思いもかけずすぐ近くだった。 「町が南と北に分かれてるって感じ――」 「そりゃあ、そうだろう。南の方は山手だから」 南側は山地である。北の方に続く平坦地に人口が集中し、町の中心的な場所になっている。 駅前に車を置き、斐伊川土手に上がった。堤防の桜並木は、二キロばかり続いている。桜は明治の終わり頃から植えられ始め、その植樹が本格的になったのは昭和になってからである。 「平日なのに、人が多いね」 足元に桜の花びらが散っている。 「学校が休みってこともあるかもしれないなあ」 「あ、そう言えば有ちゃん、来月から行くんだよね、学校――」 「ああ、福祉の専門学院な。美音ちゃんは、これからどうする?」 「私? そうね」 言いながら、美音子は有司と腕を組む。 これからどうする?――有司に何度とくなく聞かれている。その都度、曖昧な返事しかしていない。それにしても、有司は、なぜ同じことを尋ねるのだろう。どうする、と問いかけるのは、自分ならこうしたい、こうなって欲しいということがあるからだろう。 「未だ、なんも考えてないの」 「収入がないだろ」 言われて、美音子は仙台で有司と交わした会話を思い出す。(今の仕事を止める)と有司が言い、(食べていけないでしょう? どうするの)と美音子は半ば窘めるように笑ったことがある。その時、自分の家にはかなりな田畑がある。農業を続ける限り、食べるくらいは何とかなるのだ、と有司は答えたのだ。 「収入ねえ――。そりゃ無いわよ。でも当分は退職金なんかがあるから」 桜土手には、雪洞が数メートル置きに立てられていた。一つ一つに協賛者の名前が入っている。 「使うばかりじゃ、いずれ無くなる」 「いいわよ。どうにでもなるから」 有司が立ち止まる。 「俺がどうにかしてやろうか」 絡んでいた腕を外し、先になった美音子の背中を有司の声が追って来た。美音子は足を止めた。 「……」 どうにかしてやる?――美音子はその言葉を呟いてみた。数歩の間を置いて動かない二人をいぶかしげに見ながら、前からやって来た年寄りの夫婦らしい二人連れが、避けるように通り過ぎた。 「有ちゃん――」 振り返ると、俯いたまま、有司が黙って靴の先で桜の花びらを掻き寄せるようにしている。叱られた子どもが、何も言えず拗ねているように見えた。 「どういうこと?」 聞く必要もないことを口にしながら、美音子は仙台で幾度も聞いた有司の(好きだ)という言葉を思い出していた。 久し振りに出会った去年の祭りの夜から、美音子にとって有司はひどく近い存在になった。中学から高校にかけての二人の間は、思春期の子どもなら誰でも体験する淡く幼い恋物語のようなものだった。だが、いまは違う。 誰が言ったのか忘れたが、その出会いが自分の人生を根底から変えることがある、というような意味の言葉をどこかで見た記憶がある。その対象が有司だとは決められないが、どうやらそんな予感がする。そこまで思って美音子は、ふと日向の顔を記憶の中にたどる。有司がそうならば、日向も同じである。この半年の間、確かに美音子の暮らしは変わった。仙台での勤めをあっさりと辞めてしまったことが最も大きい変化だ。 「どういうことって聞かれても……」 また並んで歩き始めながら、有司は口ごもる。 「いいわよ。言わなくっても」 「俺さ――」 「有ちゃん。ありがと」 「……」 有司の言いたいことは、分かっている。だが、それにすぐ応える気持ちにはならない。焦らしているというわけではない。いずれはとは思いながら、なぜかもう少し時間が欲しい気がする。 美音子の気持ちの中では、有司と一緒に過ごしたいという思いがしだいに強くなっていることは間違いがない。 土手の半分近くまで歩いて来た。桜の木の間から、里熊大橋が透けて見えた。 午後の陽が傾きかけている。 「この前、誘ってくれた所に行こうか?」 「この前……ああ」 照れたような有司の顔を見て、美音子はまた腕を絡めた。 美音子が家に帰ったのは、もう少しで日が暮れるという午後六時過ぎだった。 家の庭に車を乗り入れた途端、洗濯物を取り込んでいる母に声を掛けられた。 「お帰り。郵便が来てるわ」 ついこの間、純子から手紙が来たばかりだ。それから二日くらい後だったが、有司と県立美術館の喫茶店で話をしたからよく覚えている。 立て続けに来たというわけでもないが、何かあったのかとも思う。それとも椎葉で作られたお土産のようなものか、などと思いながら美音子は、きっちりと包まれた小包を解く。 プチプチという商品名らしいが、ポリエチレンフィルムの緩衝材に包まれた一本の笛、それに添えるように新聞が一部、そして手紙が出て来た。 とりあえず手紙を開く。 ――雪もほとんど解け、椎葉の里にも春がやって来ました。 この間、手紙を差し上げてから一週間ばかりしか経っていないのですが、続けてこのような手紙を受け取られて驚かれることと思います。―― 美音子は、見えなくなっていた日向が帰って来たのだと思った。 ――日向善生が死にました。―― 何度も読み返したが、次の行には、確かにそう書かれていた。亡くなったのだ。なぜ? どこで? どうして? 美音子は急いで、その先を追う。 ――雪の中に居たのです。私の家の後ろに高い山があります。その谷の底に横たわっている日向を山に登った人が偶然に見付けたのです。なぜそんな所でと思われるでしょうが、私は笛を吹きに行ったのだと思います。日向は左手に笛を握っていたそうです。詳しいことは分からないのですが、よく外で、それも雪が降る中で笛を吹くのが好きでした。切れるように鋭い音がするからいいのだと、いつも言っていました。日向は雪が溶けるまで、その下で、しかも私の家のすぐ近くで眠っていたのです。―― 聞こえていた家中の全ての音が消え、美音子は、背中がしだいに冷たくなっていくのを感じていた。 新聞を手にした。(島根の笛師 転落死か)と書かれた小さな記事があった。 新聞は、『宮崎日報』という地方紙だった。十行ばかりの簡単な記事は、赤いマーカーで縁取られている。 それには、足を滑らせて谷に落ち、おそらく続いて起きた雪崩が被さったための窒息死ではないかと書かれている。 笛を握っていたことから警察の調べで、日向善生であることが分かったとも付け加えられていた。 純子の手紙には、日向が行きつけの那須宏太郎の店へ連絡が入ったとある。 ――事故として処理されたので、日向の遺体はどこかの警察に行ってしまったようです。私は、日向の家族でも何でもないのです。だから、骨も私の手には残りません。部屋を見回して見ても、有るのは日向の匂いと二人で使った幾つかの身の回りのものだけなのです。溢れて止まらない泪でそれも翳んでいます。 私独りが泣けばいいことですが、あなたまで引きずり込むような手紙を送ることになってすみません。 笛が幾つか残っていましたので、ひとつだけお届けします。―― 最後は、そう結ばれていた。 美音子は胸の中に大きな石を打ち込まれたような気がする。 「荷物は、何だったの?」 台所に行くと、母が聞いてきた。 「あ、笛を送ってもらったの」 「笛? 誰から? またどうして」 説明するのは面倒だった。 話し出せば、一気に何もかもぶちまけてしまいそうである。 「仙台に居たときの取材の関係よ」 「そうなの」 日向とは、いわば行き摺)りと言ってもいいくらいの関わりでしかない。だが、二度しか会っていないのに、重くのしかかる。 日向が美音子に残したのは、三津の家にあった笛の製作工程の紙片と一管の笛である。いずれも純子から送られて来た。 仁多の三津に居た、いや、居るはずだった日向からではなく、遠く宮崎の椎葉からそれは届いたのだ。そう思うと、美音子は不思議な気持ちになる。 「笛の勉強をしてみようかなあ」 不意に思い付いたような口調で、母に言ってみる。 「笛? 何でまた」 怪訝な顔だった。 「新聞社に居るときに、笛の記事を書いたことがあったのよ。それに、今、何もすることないでしょ。だから」 「そうよね。好きなことをしたらいいわ。ここに居てくれさえすれば、お父さんだって嬉しいだろうし」 やはりそうなのだ、と美音子は思う。 「だって、いつまでもってことにはならないよ」 「お嫁に行くってこと?」 庭先に車が停まる音がした。玄関の引き戸が開き、義兄の古山智裕の顔がのぞいた。 「美音子さん、帰ってるんだって?」 久し振りだった。去年の祭りの夜から会っていない。 「ええ、この間、っていうか、もうちょっと前にね」 母が義兄に笑顔を見せている。 「そりゃあ、祝賀会しなくちゃいけないじゃないですか」 何かあると、すぐに飲もうと言う。酒の席が好きなのだ。 「そう言えばそうね。たまには誰もが集まるといいかもね」 母は話すのが好きだからな、と美音子は思う。 「それはそうと、帰って来たってことは、そろそろかな?」 また口ぐせが始まったと、美音子は顔をしかめた。 「何のこと?」 わざと言ってみる。 「そりゃ、もう、ここのお母さんも心配しとられることだし――」 両親はもちろんだが、親戚の誰もが(美音子さんは、松江に帰って来たらしいが、どうするのだろう)と思っているに違いない。仕事のことも、結婚するかしないかということもそうだ。 「写真を持って来たことがあるが、考えておくって聞いてたけど」 仙台から帰った時に、母が智裕さんからあずかっていると言った見合いの写真のことだ。 「あ、そのことで来られたんですか?」 美音子は、改まった口調になった。 「それもあってねえ」 「だったら、もう……いいんです」 「もういいって、どういうこと?」 義兄が咎めるように言う。 「まだ早いし……」 「そんなことはないと思うけどね」 「美音ちゃんの好きにさせたら」 取りなし顔で母が言う。 「だけど、いつまでもという訳にもいかないだろうしね」 納得できないような義兄の顔だった。何か言わなければ収まりがつかない。 「私、笛を勉強しようと」 日向の顔が浮かんだ。 「笛? あの神楽なんかで使う?」 「そう、神楽ばかりじゃないけど」 「笛を吹くの?」 「それもだけど、笛――横笛を作ってみたいと思って、」 「松江市内で、笛を作ってる人が居るけどね」 「そうなんだ」 仁多の日向のところだけに目が向いていたが、近くにもそういう人がいるのだ。 「そりゃあ、松江には鼕行列があって、鼕の太鼓と笛はどうしても必要だから」 鼕行列は松江の伝統的な行事で、毎年十一月初めに行われる松江神社祭の一環である。鼕行列は屋根付きの山車と呼ばれる屋台に、鼕太鼓を乗せ、笛やチャンガラの囃しに合わせて打ち鳴らしながら市内を練り歩く。 美音子は、幼い頃を思い出した。電車とバスを乗り継ぎ、松江大橋の辺りまで行って鼕行列を見たのだ。もう長い間、見ていない。鼕行列もそうだが、ホーランエンヤを最後に見たのはいつのことだろう。随分、松江から遠ざかっていたのだと、今更のように思う。 「笛を作ってるとこって、どこにあるんです?」 「天神町だけど」 「笛の店をやってる人が居るんですね」 「いや、骨董店をやってる人なんだけども、趣味というか。でも、どっちが専門だか分からんが、結構、いいものを作ってるって聞いてたんで」 「趣味ですか。でも、そうでしょうね。笛が必要な人って、そんなには居ないだろうなあ」 美音子は、いつかその人を訪ねてみようと思った。 「あ、おいでました」 畑仕事から帰って来た父が、顔をのぞかせた。 「酒でも飲みませんか」 車で来ていると断る智裕を無理に引き留めた父と酒になった。いずれ送らなければいけないだろうと思いながら、美音子は酒を二人に一、二度注いでから、自分の部屋に引き上げた。 純子から来た手紙をもう一度読み返し、笛を取り出して見る。西陣織りと思える布で作られた袋の中にあるのは篠笛だった。籐巻きがあり、溝が残るくらいに漆が塗ってある。 暗くなった部屋の微かな明るさの中で、その笛は飴色に光っていた。日向が吹いたはずのその笛に、美音子は唇を乗せてみた。冷たかった。 題名は忘れたが、笛にまつわる小説が岡本綺堂の作品にあったことを美音子は思い出した。持ち主に祟る名笛があって、幾人かが次々と非業の死を遂げるというものだった。 ふっと日向の笑顔が浮かんだ。 花曇り、花の雨。そして、待ちわびた花の宿、花筵――松江の街で最初に咲く桜は、松江城の三の丸にある県立博物館のそれである。 一つ一つの花は小さいが、遠くから見ると歩道に赤い傘をさしかけたようにも見える。風に散る花びらの行方をぼんやりと目で追っていると、とろけるような暖かさが体を包む。 その樹から、花びらが道行く人の肩に止まるようになると、それに倣うかのようにあちらこちらと散り始める。 美音子が有司と朝日山に登ったのは、そんな日だった。 松江市東長江町と鹿島町佐陀本郷(さだほんごう)の境に立つ標高三百四十二メートルの朝日山は,出雲風土記にいう神名火山である。北は日本海で、恵曇の港に入る船は古代から神名火山を目印にしたのではないか。遠く西に三瓶、東にある大山が出雲の里を囲んでいるようにも見える。南の眼下には湖北の集落に続いて宍道湖が広がっている。 取り残されたように一つだけある木製のベンチは、春の陽をいっぱいに吸い込み、春の日溜まりの中にあった。 「久し振りだわ。ここに来たの」 美音子は腰を掛け、宍道湖を見下ろしながら呟いた。 「近くに居ても、なかなかここまで来ることはないからな」 「入学式は、いつだっけ?」 そう言いながら、美音子は、もう春だなと改めて思う。 「二日後」 「そう。内野まで何で通う?」 「晴れた日は自転車、雨なら車さ」 有司が行くはずの福祉医療専門学校は内野(うちの)の町だから、自転車なら十分くらいなものだろう。 「長閑ねえ」 「……」 美音子も黙ったまま、有司の左の肩に顔を寄せた。微かに汗の匂いがする。 松江に帰ってから幾度か有司と会った。それを重ねれば重ねるほど、穏やかな春の日溜まりの中に入り込み、体を包む和んだ気分が膨らんでいくように思えるのだ。 「仁多の……日向さんっていう人、どうしている?」 不意に有司が聞いてきた。 「……」 どう答えれば、どう言えばいいのだろうと美音子は思う。 有司にいらぬ憶測をさせることはない。母が尋ねた時のように、何も言わない方がよい。日向を探しに、椎葉まで行ったことまで話せば、なぜそうしなければいけなかったのだと思うに違いない。 誰でも心の中に閉じ込めておきたいことがある。ふいと思い出すこともあるだろうが、時の流れと共にしだいに消えてしまうような気もする。 「そうねえ……日向さん、どうして居なくなったんだろうね」 美音子は言いながら、日向のことがどうとも取れる返事だなと思う。 「今年の祭りに、来るだろうかな。あの神楽の夜のように――」 有司の左手で肩を抱かれた。 全ては祭りの夜からだった。 あれから半年が過ぎた。 長い時間が過ぎると、汚れた水がいつしか澄むように、何もかも美しいものに形を変えるだろう。 有司とはいつか、一緒に暮らすことになるかもしれない。多分それは間違いないと美音子は思う。そして、二人とも年老い、宍道湖から吹く風に乗って中江の里の空に舞い上がり、知らぬ間に消えていくだけなのだろう。日向がそうだったように。 口笛を吹くような小さく鋭い音がした。風が奏でた残響のようでもあった。 だが、美音子には、宍道湖の彼方にある奥出雲から聞こえてくる笛の音のように思えてならなかった。 |