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  笛の音 第81回〜第90回    平成15年7月8日〜

 その志ら梅という酒の銘柄は、宮城県でも名が通っている。松江で売られている酒のうち、やや辛口のものと味が似ていた。
 大ぶりの銚子を手にして、美音子は有司の盃に注いだ。
 店主が注文も聞かずに、黙ったままホヤの塩辛と津軽漬けを出してきた。美音子がいつも最初に食べるからだ。
「ふーん。常連なんだ」
 美音子は(そうでもない)というように、手にした銚子を振った。
「じゃ、乾杯!」
 有司の盃が、美音子のそれに当たって小さな音を立てた。カチリという音が、妙に澄んでいた。
 少し酒が入ると、美音子は饒舌になった。新聞社のこと、取材で失敗したことなどを矢継ぎ早に話した。有司は、時折(そうか)などと相槌を打っていたが、ほとんど黙って聞いているだけだった。
「もっと食べる?」
 有司が頷いたのを見て、美音子は牛たんを注文した。焼き肉屋で食べる塩焼きのそれではなく、この店はタレ漬けが特徴なのである。だから生臭さがなく、レモンを少しばかりかけて食べる。
「結構、いけるじゃないか。柔らかくなってる」
 時計を見ると、店に来てから一時間が経っていた。
「有ちゃん、相談ってのは何?」
 有司は、相談があって仙台に来たのだと空港で言った。
「うん。相談ってのか……。美音子は松江に帰る気はないんか」
「そうよねえ。私、もう十年を超えるから、そろそろ帰ってもいいかなあとは思ってる」
「帰ってもいいかな、でなくて、帰らなくちゃ」
「何で?」
「そりゃ――」
 有司は言い淀んだ。
 美音子は、有司が言った(そりゃ――)という言葉を以前に聞いたような気がした。確か……、と呟いた途端に記憶が呼び起こされた。
 祭の翌日、二人で行った三瓶だった。(帰って来いよ)と、あの時に有司が言ったのだ。なぜ仙台を引き揚げて松江に帰らなくてはいけないのかと、問い返した答えは有司からはなかった。
 有司は、何を言いたかったのだろうかと美音子は思う。
「確かって、何が」
 美音子の呟きが、聞こえたらしい。
「いいの、それは。だから、なぜそう思うのよ」
 有司は困ったような顔を見せた。
「親父もそうなんだけれども、美音子のとこも歳だろ。一緒に居た方がいいんじゃないかとさ」
 それはそうなのだが、別の所に住んでいるとはいえ、兄夫婦が居る。自分が帰らなくても差し当たりどうということはないはずである。だが、母は美音子に帰って欲しいと思っている。それは、間違いない。母がそうなら父もだろう。親にしてみれば、子どもは近くに居て欲しいのは当たり前である。
「――だよね。でも、私が居なくても兄貴がいるし。いまさら」
「分かってる。でも……」
「いつも喋り過ぎる有ちゃんらしくない」
 美音子は、固い表情の有司を睨んだ。
「喋り過ぎ? なんだよ。それ」
「まあ、いいから」
「俺……さ、好きなんだよ」
「何が?」
 有司の左肘が、美音子の脇腹を突いた。思いもよらなかった懐かしさが湧き上がった。それは、中学生から高校生の頃にかけて、いつも二人の間にあった、そこはかとない空気にも似ていた。
「有ちゃん……」
 美音子は、カウンターに置かれた二つの盃が滲み始めたのを見ていた。
 祭の夜以来、遠く離れた古里のことを何かと考えさせられている。神社で久し振りに見た神楽は、美音子の体の奥底から遠い子どもの日を浮き上がらせた。しかも母や有司は、帰って来いと言う。目の前の盃が滲むのは、そんな風景や思いが呼び起こした感傷だけではないかもしれない。
 そして今、(好きだ)と有司は言った。高校生の頃、(好き)などと口に出して言わなくても、そのことはお互いの胸の中にあり、暗黙の内に認めていたことなのだ。
 酒のせいで、不意に有司が言ったということではないのだろう。三瓶で何か言いかけて口ごもり、仙台に来てからも言葉の端々に幾度かそんなことがあったのは、そのことだったのだと美音子はやっと気が付いた。
 宮城学院大学のときには、北海道から来ていた二歳年上の学生と一緒に暮らしていたことがある。東北日日新聞社に勤めるようになってから暫くの間、妻や子どものいる男が恋人だった。二人共、美音子に(好きだ)と示しあわせたように言ったが、もうその言葉を聞かなくなってから、何年になるのだろう。久し振りに聞いたそれが、気持ちを揺らす。
「出ようか……」
 黙り込んでしまった美音子に、有司が囁いた。
「まだおんなしてくない」
 店主の(またおいで下さい)という声を背中に聞いて外に出る。空が青黒い海を映したように広がっていた。美音子の頬に小さな雨が落ちた。
「あれ? 天泣)――」
「ん?」
 有司が怪訝な顔を見せた。天泣は、雲がないのに降る細かい雨をいう。
 雨ではなくて、まだ乾かない涙だったかもしれないと美音子は思った。
「今夜、一緒に居てね」
 美音子は有司の左腕に右手を絡めて、歩き出した。
 秋から冬へかかる季節の訪れは、春とは違い北から南へと移る。仙台は晩秋の季節を迎えて夜の空気も冷たくなり、十一月も終わりになると気温は十度を切る。銀杏並木の下を誰もがコートの襟を立て、足早に通り過ぎて行く。
 居酒屋の『酒庵味彩』から、五分もかからずにホテルに戻って来た。茶色の壁面を見上げると、仙台セントラルホテルの白い文字がライトに照らされて浮き上がっている。
 寒い外から入るとロビーには、微かな暖房が入っていることが分かる。美音子は、ほっとするような気持ちの安らぎを覚えた。
「シングル取ってたから、フロントで部屋を変えてくる」
 美音子は有司がそう言うのを聞いて、(ああ、そうなんだ。今夜は一緒に居るのだ)と改めて思う。
 エレベーターで十階に上がる。オレンジ色の電光板に点滅する数字が最上階を示していた。
 部屋に入ると直ぐ左手にクローゼットがあり、続いて小さな机があった。反対側にはダブルのベットが置かれていた。ヘッドボードに二つの枕が立てかけられている。その白いカバーが眩しかった。
「あんまりいい部屋じゃなくて――」
「そんなこといいの。それより、これ……どうして!」
 壁面に一枚のタペストリーがあった。オレンジ色を背景に、宍道湖と嫁が島が織り込まれている。ロビーにも同じものがあり、気がついた有司がフロントで理由を聞くと、ホテルのオーナーは玉湯町の出身だからだ、ということらしかった。
「奇遇というのか、私達――」
 美音子は呟き、偶然に出会った鮮やかな色合いのそれを暫く見つめていた。
 有司の両腕が、後ろから美音子の胸を包んだ。それは、おずおずと差し延べられ、遠慮がちに美音子の二つの乳房を押さえていた。
 美音子は有司に背中から抱かれたまま、窓に映る仙台駅の灯りを見ていた。東北新幹線の光軸が、闇に消えていく。遙か下にある駅前のバスプールでは、玩具のようなバスが光の交錯の中に動いている。スローモーションの画面にも似ていた。有司との関係もそれに似て、ゆっくりと何かに向かって動いているように思える。
 有司の唇が、美音子の長い髪を啄むように動く。通り道があるのか腰の辺りへ走るものがある。更に、それは下腹部の奥を締め付けた。思わず(うっ)というくぐもった声が出た。
 髪を吸われて気持ちがいいという感覚は初めてである。これまで何人かの男に髪をいじられたことはあるのだが、その感触はなかった。有司だから、かもしれないと思う。
「いい匂いだ」
 言われて今朝は髪を洗わなかったのだ、と気が付く。
「うそ。汗臭いでしょ」
「そんなことはない。そうだったにしても美音子の匂いさ」
 そう言われて悪い気はしない。
「ねえ……」
 自分でも驚くほどの甘い感じの声になっていた。
 美音子は胸にある有司の手をはずして振り向き、目を閉じて体を寄せた。
 触れていた有司の唇が開き、舌がゆっくりと何かを探すように入り込んだ。美音子はそれに自分の舌を絡めて奥へ引き込み、そしてまた押し戻す。
 幾度か繰り返しているうちに、唾液が混じり合って唇の端から流れ落ちる。美音子は、有司の唇に舌を這わせて吸い取った。
「寝ようか。十時になってる」
 有司が体を離しながら言った言葉は、ひどくセクシャルだった。それは、当然だが性的な誘いであり、淫らな風景を想像させる。もちろん美音子は、どういう言い方をされても、自分で誘い、期待もしているのだから拒むこともない。
 有司に抱かれるのは、そう決めていたからどうということはないが、洗わなかった髪がやはり気になる。
 有司は、匂いがいいとは言ったが、それは気を遣ってのことだろう。
 晩秋とはいえ、あちこち歩き回ったのだから、髪もだが体も汗ばんでいる。
 有司の汗の匂いを美音子は好きである。それは中学生の時からだ。と言って、有司が同じだとは限らない。
「私、お風呂に入りたい」
「いいじゃない。そんな……あとでいい」
 有司の言う(あと)というのは、終わってからでいい――という意味だ。抱かれるならば、綺麗でいたい。それにしても、男というものは、どうして急ぐのだろうと美音子は思う。そういうことはどうでもいい、それよりも――ということなのだろう。もちろん、汗が滴り落ちるほどの行為が待っていることは分かっている。だからと言って、そんなことは問題ではないというのは、あまりに直截である。雄と雌の違いだ。
「駄目よ」
 不満そうな有司の顔だった。
「石鹸の匂いもいいんだよ」
 美音子はそう言いながら、いかにも蓮っ葉な言葉だと思う。これからのことを描画したような言い方だと気が付き、美音子は自分で言っておきながら、顔を赤らめる。
「ん……」
 素直に諦めた有司の表情を美音子は、可愛いと思った。こうなると、どうしても女が優位に立つ。
「来ないで――」
 美音子は、そう言いながらバスルームに入った。思っていたより、かなり広い。ダブルの部屋のせいだろうか、バスタブも一人ではもったいないくらいの大きさだ。このホテルはビジネス専用という触れ込みだが、細かいところにも気配りがしてある。美音子は、湯の中で思い切り体を伸ばし、乳房を両手で抱える。
 胸のそれは大きいというほどではないが、交差させた左右の手で下から持ち上げるようにすると、ぷっくりと膨らんだ形になる。両手の人差し指と中指で、二つの乳首を軽く挟むと少し固くなった。 乳房は隠すというより、どちからと言えば主張したい部分だと美音子は思う。自分で産んだ子どものためにある女だけのものだが、殆どの男の目には性的な対象として映る。もちろん、腰、背中から下にかけて続く二つの隆起、ほっそりとした足首を見て声をのむ男もいる。有司はどうなのだろう。この部屋に入ってからのことを思うと、髪かもしれない。
 大型の鏡が曇り、水滴が流れ落ち始めたのに気が付いた。かなりな時間が、経っていたらしかった。手早く髪を洗い、バスタオルを体に巻き付けて出た。
「ごめんね。長くなって」
 有司はベッドに寝そべり、テレビを見ていた。仙台ケーブルテレビのニュース画面が映っている。
「いつも、そう?」
「うんん。違う。今日は特別……かも」
 ふふ、と笑いながら美音子は鏡の前に座り、乾いたタオルで髪を拭いた。鏡の奥に有司の視線がある。男の目だった。
「きれいだ」
「何が?」
「美音子の髪――好きだよ」 
 やはりそうなのだ、と思った。頭を一度振って、髪を左の前に垂らした。乾いていない髪は、触ると掌の中で滑った。
「お風呂に入ったら?」
「うん」
 有司は起き上がり、カッターシャツを脱いだ。薄いブルーのシャツの胸ポケットにカルダンのロゴがある。肩と胸の筋肉が盛り上がり、夏の日焼けが残る肌と白いブリーフが対照的だった。
 有司がバスルームに消えた後、美音子は、黒いカンバスへ差し込んだ金色の画鋲のような星を窓から見ていた。
 夜が窓から覗いているようだった。
 外の音は何も聞こえない。高層ホテルで、しかも窓が二重になっているせいか、無響室に入っているように静かだった。
 耳に届くのは、有司が使っている微かな湯の音だけである。
 フットライトの淡い灯りの中で、美音子は佇んでいた。程なく湯から出て来る男を待っている。これまでに幾度か同じようなことがあったはずだが、全てが薄いヴェールに包まれたように覚束ない。
 ふっと日向の顔が浮かんだ。あの夜のことも定かではない。胸に残され、数日消えなかった赤い印のほかには――。
 美音子は目を閉じ、その影を振り払う。
 湯の音が止み、有司がバスルームから出て来る気配があった。
「美音子――」
 振り向く前に、有司の両手が美音子の胸を包んだ。二つの球体は掌の中だった。堅い体がバスタオルを通して押し付けられている。
 首筋をすっと、唇が刷いた。
(もう……)と言って体を捻った途端に、胸の前で留めていたタオルの結び目が解けた。黒い空を背景にして、白い裸が窓ガラスに浮かび上がる。
 一緒に夜を過ごそうと言ったのは、美音子である。もちろん、有司もそのつもりだったはずだ。遠い松江から仙台まで来て、蔵王を眺め、食事をして(じゃ、また)と帰るつもりはなかっただろう。 美音子が一緒に居たいと思ったのは、有司の優しさを感じたからだ。それは、このところ増幅して来た望郷の思いと重なっている。
「美音子――」
 耳元で囁かれた声は、かすれていた。(うん……)――向きを変えて有司の胸にすがった。白い布が足元に落ちた。窓ガラスに美音子の全てが映る。
 美音子は有司の腰を覆うタオルをはずし、現れた硬質の漲りに両手を被せた。
 どちらからということもなく、お互いがベッドに誘い込む。
 有司が仙台に来たのは、今日の昼である。電話が掛かって来たのは、その前々日だった。だから、有司と出会うということが分かってから、もう三日目になる。
 宮教大のキャンパスと居酒屋の『酒庵味彩』で、話を聞いたせいでもあるが、いずれは有司とこうなるのだという予感がしないでもなかった。もともと松江に居る時から好きだった有司だ。
 この部屋へも、美音子の方から言い出して来た。気持ちも体も、有司の手や指が触れさえすれば走り出すはずだ。
 人差し指で胸に(ユウジ)という仮名文字を書いてみた。有司の左手が、美音子の髪をまさぐる。指を絡められ軽く引かれた髪の付け根は体の芯まで届いているのか、腰の辺りがびくっと動いた。
「美音子――」
 美音子は体を起こし、有司の口を唇で塞いだ。唇を割ったのは、どちらが先だったのか、はっきりしなかった。美音子は自分から迎え入れたような気がする。 何度か舌を絡ませ、そして、果肉の内側をお互いに舌で探り合った。
 有司の歯が美音子の舌を軽く咬んだ。美音子の体の奥で何かが爆ぜた。思わず出た(うっ)という声は、舌を捉えられたままの喉で消えた。
 美音子は顔をずり下げ、有司の胸に唇を這わせる。石鹸に混じった有司の汗の匂いがした。暫くそのままにしていた体を引き起こされた美音子は、有司の胸に上半身を乗せた。
「重くない?」
 頭を軽く振った有司の手が腰まで行き、たぐり寄せる。美音子は、それを助けるように自分から有司の上になり、少し脚を開く。
 有司の指が滑り込んできた。体のあちこちに火が点いていくような感じがした。それは少しずつ、少しずつ広がって行った。
 美音子は体を起こし、自分から有司と一つになった。
 軽い寝息が聞こえる。カーテンの細い隙間から潜り込んだ朝陽が、隣りに寝ている有司の顔まで届いていた。
 美音子はベージュ色の天井を眺めながら襟足に両手を入れ、軽く頭を持ち上げて髪を跳ね上げた。長い髪がシーツの上に広がる。 
 どちらかともなく眠りについたのは、何時だったろう。明け方に近かい時刻ではなかったか。
 美音子の首筋から流れる汗が、下から見上げている有司の顔に滴り落ちた。体を入れ替えた後は、押し付けられた胸と乳房の間で汗がオリーブ油のように滑った。体中のあちこちがそうだった。それらの一つ一つが鮮明な形で記憶に残っている。反芻していると、体の底で有司の感触が甦った。
 有司とのそれは単なる結びつきではなく、お互いの気持ちや思いと共にあるものだった。美音子の心の動きが有司に伝わり、それがまた激しさを誘いながら返って来た。有司との夜は、そういう時間ではなかったかと美音子はいま思う。
 ベッドからそっと抜け出そうとしたが羽毛の掛け布団が動き、有司が目を覚ました気配があった。
 ん――と呟きながら、目を閉じたままの有司の左手が美音子を探している。
 美音子は有司の額に唇を軽く触れてベッドから下り、脱ぎ捨てていた下着を手早く付けて浴衣を羽織った。
「おはよう」
 二人で同時に言い、それが可笑しくて笑った。それが初めての朝の挨拶だった。
「今日どうする? 私、今日は休み……」
 起き上がった有司の裸に陽が当たる。「どうするって、今日一日しかない」
 そうだ、そうなのだ、有司の出張は明日までなのだ、と気が付いた。
「松島の方に連れてってあげる」
 どこでもよかった。美音子の休みは今日で終わりだ。一緒に居ることが出来ればそれでよかった。