小説「笛の音」もくじにもどる    トップにもどる

  笛の音 第71回〜第80回    平成15年6月14日〜

 仙台空港は、東北最大の国際空港である。美音子は眩いほどに輝く全面ガラス張りの出発ラウンジが好きである。用がなくても時々空港に来る。空港そのものがほかのそれとは違い、未来的な感覚をもっていることに気付いたからだ。ロビーの椅子に座り、何をするでもない時間を過ごしていると、異次元の世界に来ているような気もする。
 予定の時刻より、少し早めに来た美音子は、到着ロビーでぼんやりとしていた。
 国内線の到着ゲートは中二階である。そこからひとつ降りた一階のバゲージクレームで手荷物を受け取る。
 有司は荷物などないはずだから、早目に到着ロビーに出てくるだろうと美音子は思った。
 案内ボードの文字が変わり、成田発のANA3131便は午後十二時三十五分と、定刻到着を告げていた。有司が乗ってくるはずの便である。
 到着ゲートから足早に何人かが出て来た。茶色のスーツを着た有司が見えた。茶というのは、落ち着いた色のせいもあってあまり目立たない。三つ釦をきちんと留め、勾玉模様の入ったネクタイを締めている。肩には、パソコンを入れるための大型バッグを掛けていた。
「美音子――待ったかい?」
 かなり遠い距離から有司が声を掛けてきた。大きい声に何人かが振り返った。美音子は両手で頬を挟み、少し赤くなった顔を隠した。
「大きな声なんかしないでよ。恥ずかしいじゃない」
「なんで――。どうってことはないよ」
 暫く振りに会った最初の会話にしては、少しくだけていると美音子は思った。
 幼い頃から同じ町で育ってくると何年経っても変わらないのだろう。
「有ちゃん、これからどうするの?」
「仙台セントラルホテルってとこをリザーブしといたから……。仙台駅の前」
 駐車場は、空港の前である。
 空港ビルから駐車場に向かって歩きながら、美音子は不思議な気がした。松江から遙かに離れた東北で有司と二人で同じ空気を吸っている。ずっと以前から、いつもこうして一緒に歩いていたような、そんな思いがした。
「そうかあ、仙台駅に近いところのホテルを予約したんだ。どうして?」
「別に――。先にチェックインした方がいいのかなあ」
「そんなん、後でいいよ」
 有司が予約したというのはホテルはいかにも外観はビジネス風だが、意外に洒落た感覚があって、よくカップルが利用すると聞いていた。
 地方の小都市でもそうなのだが、駅前というのは常に開発が進む場所だ。
 宮城学院大学に進学した時から数えるともう十一年になる。十年ひと昔というが、駅前も随分と変わった。
「この間は、ありがとう」
「この間……って?」
「三瓶とか、ほら、鬼の舌震いに行ったじゃない」
 美音子は、有司にすげなくしたことを謝ったつもりだった。
「あ、いや、まあ――」
「なに、それ」
 有司の目は笑っていた。
 美音子が乗って来た車は、いつも使っているシルバーメタリックのセドリックである。
「でかい車に乗ってんだなあ」
「ぶつけられた時に安心だから。でも、中古。平成七年式のグランツーリスモなんだけどね」
「いちばん安いので三百万近いんだろ」
「だからあ、中古。それでも百五十万だったけどね」
 美音子は、レンタカーでもいいから、もう少しましな車に乗ってくればよかったと思った。
「松江の方はどうなの?」
 アクセルを踏み込み、美音子は聞いた。
 仙台空港インターチェンジから、仙台東部道路に入った。
「ああ、ちょっとなあ」
「なんかあったの?」
 有司の顔が翳ったように見えた。
「親父が事故で入院してる。ま、たいしたことはないんだが」
「事故って、交通事故?」
 十日ほど前の雨の日だった。出雲市に用事があって、有司のユーノスに乗って出た。帰り道、九号線から北山沿いの四三一号へ抜ける道路で左側の狭い道から飛び出して来た軽自動車が車の横腹に当たった。とっさにハンドルを右に切ったが、車は反対車線を突っ切り電柱に激突した。かなりな衝撃だったらしく、コンクリート製の電柱は途中から折れ、落下した破片がフロントガラスを割った。割れたウインドウに頭が当たり、十針も縫う大怪我をしたのだ。もちろん、車は大破である。――有司は、そう言った。
 大きい車は事故の時に安心だからだと、ついさっき言ったばかりだった。口にしなければよかったと思った。
「それ大事故だよ――」
「でも、命がどうってことはないんだし」
「けど、頭の怪我でしょ」
「頭の左に言語中枢ってのがあるらしいけど、そこが壊れてるとかで」
「それで?」
「……失語症みたいになるかも」
 言い淀んだ有司の声は、小さくなっていた。
「そういう人を取材したことあるから、ちょっとは知ってる」
 左脳の言語領域が冒されると、話す、聞く、読む、書くなどの機能に障害が起こる。いわば、言葉の分からない国に一人で旅行しているようなものだ。その国の言葉は聞こえているのだが、意味は分からず、もちろん話も出来ないという状況に似ている。
「で、俺、美音子に相談って言うか、聞いて欲しいことがあって……」
 有司の声は、湿っぽかった。
 空港で大きな声で自分を呼んだのは、辛さを隠すためではなかったかと、美音子はそれを聞いて思った。
「相談って?」
「車の中ではなあ」
「じゃ、青葉山に行くよ。久し振りに蔵王も見たいし」
「青葉山か……」
「仙台って言うか、東北に来たのは有ちゃん、初めてだもんね。私、好きなんだ。青葉山に行くの」
「青葉城恋唄ってのがあったこと知ってるよ。二十何年も前かな」
「古いなあ、有ちゃん」
「何言ってる。同じ歳じゃないか」
 美音子は、声を上げて笑った。有司の顔が和んだように見えた。
「私達がまだ子どもの頃だったもん。さとう宗幸って歌手が歌ってた」
 昭和五十三年、キングレコードから発売された『青葉城恋唄』は、レコード大賞新人賞や日本作詞大賞など多くの賞を取り、レコードは百万枚を超えた。仙台を中心にして歌っていた、さとう宗幸はこの一曲で全国区になった。
 仙台東部道路を仙台東インターチェンジで下り、市内を横断して青葉城に向かう。正しくは仙台城と言い、標高百三十
二メートルの青葉山に築かれている。
 関ヶ原の戦いの後、伊達政宗が慶長五年から八年にかけて築城し、それ以来、二百七十年の間、伊達一族六十二万石の居城となった。大手は広瀬川、搦め手は渓谷が自然の堀となっている。城は、明治の廃藩置県でなくなり、石垣や城壁だけが残った。大手門は入母屋造り本瓦ぶきの楼門だったが、昭和二十年の空襲で焼けた。その代わりというわけでもないだろうが、大手隅櫓が復元されている。
 本丸跡には、伊達政宗騎馬像が市内を眺めるように建ち、二の丸には東北大学、それに続いて宮城教育大学のキャンパスが広がっている。 
 駐車場に車を置き、伊達政宗の騎馬像、土井晩翠や島崎藤村の文学碑を見て廻った。青葉城の資料展示館などもあるのだが、有司は興味がないらしかった。美音子は何度も来ている。じっくり見たいというわけでもない。それよりも、有司の口数の少なさが気になっていた。
「有ちゃん、宮教大の方に行かない??」
「みやきょうだい?」
 有司に分かるはずはなかった。美音子は、おかしかった。祭の夜、朝日神社で久し振りに有司に会い、呼びかけられて仙台弁が出たことを思い出した。
「あ、ごめん、ごめん。分かるわけないよね。宮城教育大学のことをこの辺りの人はそういうの」
 宮城教育大学は、昭和四十年に出来た教員養成を目的とする大学である。
 大学の駐車場に車を乗り入れた。
「誰でも入っていいのか?」
「この車、プレスの表示があるからいいんだよ」
 新聞社という肩書きで、たいていのところにはかなり自由に出入り出来る。
「私、ここから見る蔵王が一番好きなの」
 美音子は、有司と並んで少しばかり白くなった蔵王を眺めた。東北の冬は早い。
「それで、どうなの……」
 有司は、ぼんやりと遠くの山を眺めていた。
「親父のことか?」
「言いなさいよ」
「……今の仕事止めようと思う」 
「止めてどうするの。食べていけないでしょうが」
「食べて?」
 有司は、一度繰り返してから笑った。
 美音子は笑い声を聞いて、ふっと気持ちが安らぐのを覚えた。有司との距離が、不意に近くなったような気がした。
「百姓だからな。それはいいんだ」
 確かにそうだ。だが、働き手が入院すれば、田圃や畑の管理を有司がしなければいけないだろうと美音子は思う。
 美音子の両親も、歳を取ると農業の仕事が辛いと言っていた。二歳上の兄も暫くは農業に手を染めることはないだろう。人手がないからと言って、放っておけば田圃や畑は荒れる。そう思うと、有司が農業をするというのは、ある意味でいいことなのである。
「いずれは、お父さんの代わりをしなきゃならなかったんだから」
「それはそうなんだ。長引くかもしれないしな」
「そう……」
「それで思うんだけど――」
 松江近郷の農家も近頃では、少ないロットでも新鮮さや安全性、さらには希少価値を売り物にしようとしている。流行りの朝市、青空市などの直接販売もひとつの例である。地産地消という掛け声もあり、農業にも視点を変えた取り組みがあれば、見通しは暗くないのではないか。
 有司は少しばかり饒舌になっていた。その話を聞きながら、美音子は遠くに霞む蔵王を古里の北山山系に重ねている。
「止めてどうするって話は?」
「学校に行こうと思う」
「学校! 有ちゃんが? 何の? どこの? まさか……」
「何だよ。当たり前だろ、そんな言い方するなよ」
 右に坐っている有司に肩を叩かれた。
 美音子は、(そうだった。左利きだった)と思った。
「そんなんじゃないけど」
「勉強くらいするさ」
 有司はスポーツは得意なものの、授業中いつも居心地が悪いような顔をしていた。休憩時間になると、すぐに校庭に飛び出して行く。授業が始まるチャイムぎりぎりに、白いトレーニングシャツを汗まみれにして教室に戻って来た。胸と背中、両腕の脇に黒い染みがある。すっと隣りを通り過ぎる時、汗の匂いが鼻腔をくすぐった。美音子は有司のその汗の匂いが好きだったのだ。
 確かにそれは若い男の匂いだった。夏のプールから上がり、教室に帰って来た時の体からは、甘酸っぱいような男の汗の匂いとカルキの香りが混じって立ち上っていた。それを美音子は目を閉じて思い切り吸い込んだのだ。
 美音子は、もう十何年も前のことになった中学校のことを思い出した。
「ともかく、どんな学校に行くつもり?」
「前に言ったことなかったかなあ。福祉の仕事がいいんじゃないかって――」
 そう聞いて、美音子は思い出した。三瓶高原ホテルで昼食をした時だった。
 有司が勤めているのは、米子にあるプリンターのアフターサービスの会社で、米子マシンサービスという名前である。結構、性に合ってるのだが、通うのに大変なこともあるし、父親が歳だから仕事を代わりたいという話をしていた。
「何かの資格を取るってこと?」
「そりゃそうさ。そういう関係の学校って結構あるんだよな、探してみると」
 美音子は日向を訪ねたとき、三成の町の小高い丘にリハビリテーションの専門学校が建っていたのを見た。
「そうよね。私……」
 そこまで言って美音子は口を噤んだ。仁多郡にもそういう学校がある、と言えば日向のところに行ったことを話さなければいけないことになる。
 美音子は言葉を探した。
「えっと、能義郡の広瀬に福祉の学校あるじゃない。島根総合福祉専門学校っていう……。米子からすぐでしょう」
「もっと近いとこにあるさ」
「どこよ」
 平成十年、廃校になった内野町の中学校跡に福祉の専門学校が出来た。内野の町は、松江しんじ湖温泉駅から七番目の駅、津の森を降りたところである。
「そうなんだ。知らなかった」
「長いこと仙台にいるからな。知らないのも当然だよな」
 帰って来いよ、と言われているような気がした。  
 十月の秋祭に美音子は、中江の古里に帰り、同級生の有司に久し振りに会った。そして、その夜、日向に出会う。
 更に数日後、仁多で聞いた地から湧き上がるような笛の音色が、美音子の気持ちを変え始めている。
「何の勉強をするの?」
「親父のことがあって……」
「……」
「やっぱり元のように仕事ができるようになって欲しいんで、そういう勉強すれば、というか資格を取るような科に行きたいなと思ってる」
「最近、よく聞くけど、なんとか療法士ってこと?」
「そう。作業療法士科なんてのがあるんだ。親父にも関係があると思う」
 有司の父親がどんな程度なのか、体がどう回復するのか、美音子は分からない。有司が行こうとしている学校では何の授業をするのかも詳しくは知らない。しかも、卒業したら仕事があるのかどうか、他人事ではあるが気になる。
「いつから行くの?」
「学校だから、来年の四月からが区切り」
「入学試験があるでしょ」
「それが、何回もあって……」
「どういうこと?」
 推薦で入る場合と試験を受けるという二つの方法があるのだが、推薦はともかく、試験の回数が十二月から三月まで四回もある。だから何度も受ける事が出来る。多分、大丈夫だと、有司はそう言って笑った。
「でも、勉強しなきゃ――な」
 そんなことを言う有司ではないと思っていた美音子は、不意に体の中から湧き上がるざわめきに気付いていた。それは、有司の気持ちを共有しているという歓びでもあった。 
「できるよ。というか、そうしなきゃ」「ああ、なんとか頑張るつもりだ」
 蔵王が薄い紫色になり始めていた。夕暮れが近かった。
 淡い紫色がしだいに濃くなり、遂には濃紺になった山がふっと近寄ったような気がした。
「帰ろう……か、有ちゃん」
 美音子は、有司の左肩に右手を置いて腰を浮かした。
「そうだな」
 有司は、その手に掴まり、二人一緒に立ち上がった。美音子は有司の手を温かいと思った。
 有司の指が、美音子の頬をすっとなぞった。
「泣いてる?」
「……」
「どうして?」
 悲しいのではない。夕暮れがそうさせたのかもしれないが、美音子は有司を優しいと思った。その涙だった。(親父も歳だから――)と言った有司の言葉をまた思い出したのだ。
 父親の事故は、偶然といえばそうなのだが、有司はその前から家族のことを考えていたのだ。美音子は家族という言葉を忘れていたのではないかと思う。独りで暮らしていると、何につけても自分のことしか考えない。高校を出ると直ぐ仙台に行き、もう十年以上も独り暮らしをして来た。祭の夜、帰って来た美音子を見た母の嬉しそうな顔が浮かんだ。(帰ってこいよ)と、有司が三瓶で言った言葉が頭の中をよぎった。
 そんなことを思った時、知らない内に涙が流れていたのだ。
「今夜――、一緒に居てくれない?」
 驚いたような有司の顔が、直ぐ目の前にあった。
 美音子のその言葉は、有司の胸の中でくぐもって消えた。顔を埋めたまま、有司に抱かれた。なぜか汗の匂いがした。
 美音子は目を閉じた。有司の唇が美音子のそれに重なった。美音子は有司の舌を絡め取ろうとでもするように、きつく吸いながら、夜気が蔵王の空に広がるのを感じていた。
 仙台セントラルホテル地下二階の駐車場に車を入れ、エレベーターで美音子は有司とフロントのある一階に上がった。
「美音子、食事どうする?」
「仙台を案内しないといけないよね。折角遠くから来たんだから」
「そうだよなあ。美音子が暮らしてる街を歩いてみたいし」
「バッグ、部屋に置いて来たら……」
「いいよ。フロントに預けとく」
 有司と一緒にエントランスに出ると、美音子は両手を広げて大きく息を吸った。欅の並木を透かして見上げた空には、月が粉々に砕けたかと思えるような星が欠片のように広がっていた。
 ホテルから左に行くと、青葉通りに出る。富士銀行とダイエーが並ぶ交差点を左に曲がった。路地に入ると、美音子がよく行く居酒屋がある。『酒庵味彩』は、カウンターだけの小さな店だ。美音子が勤める東北日日新聞社の学芸部長に勧められてから、ずっと来ている。夫婦だけでやっている店だがカラオケもなく、静かである。
「よくござったごだ」
 格子戸を開けると、店主の声がした。
 有司が怪訝な顔をした。
「よくいらっしゃいました、ってこと」
 美音子は笑って、有司の耳に口を寄せて囁いた。女将が、それを見て微笑んだ
仙台から松江に帰った祭の夜、有司に声を掛けられ、思わず宮城弁が出たことを思いだして、また笑った。
「お酒でしょ? 仙台の地酒あるの」
 美音子は、カウンターに有司と並んで座った。
「初めてだな。美音子と飲むの……」
 言われてみれば、そうだった。酒が飲める年齢になってからの同窓会にも出たことがない。
「志ら梅ってのがあるのよ。この近くの酒屋さんだけど」
 青葉区にも幾つかの酒造店がある。その中のひとつだ。