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  笛の音 第61回〜第70回    平成15年5月22日〜

 日向は、椎葉に来ると純子の家で寝泊まりをするようになった。空き家を純子が日向に貸せていることを村の誰もが知っていたから、そのことを不思議に思う者はいなかった。
 縁側に座って笛を作る。興が乗ると笛を吹く。笛の音は、山を下り村に届いた。いつしか日向が笛の制作者であることは知れていた。宏太郎が、あちこちでそんな話をするからでもあったが、鶴姫で日向が飲む機会が多いと自然らに知り合いが増える。同じように純子とのことも知れていた。だが、白い眼で見る者はいなかった
 神楽の季節が近づくと、村のあちこちで練習が始まる。日向は、いつもそんな集まりに顔を出した。
 下福良、大河内、不土野や松尾などの地区には、二十六の集落がある。山の色が最も鮮やかになる十一月中旬から雪がちらつく十二月になると、それぞれの地域で毎年のように神楽が始まる。
 椎葉の神楽は出雲系なのだが、二十六に分かれる椎葉神楽は、全てが同じではなく、それぞれに特徴がある。もともとから九州山地の奥深くに、多くの神楽があるはずがない。おそらく最初の幾つかが何かの理由で分散したのだろう。
 神楽を舞わない者は、焚火を囲みながら酒や焼酎を飲み、即興の唄を歌う。椎葉の神楽は見るだけではなく、そこに居る者の誰もが加わり、そして楽しむ村の祭である。笛と太鼓、木の台を叩く音が、夜明けまで響く。
 どこでもそうなのだが、椎葉でも最初は神職が神楽を舞った。だが、しだいに集落全体の祭になって行ったのだ。
「お酒、飲むでしょ?」
 純子が台所から声を掛けた。
 日向が椎葉に居る間、純子は一緒に暮らす。最初は廃屋のようになっていた家も、いつしか手入れが行き届いていた。 仁多の三津では、日向のこんな暮らしを誰も知らない。
 山に囲まれた村は、日の暮れるのが早い。縁側に出ると、点在する灯りが遙か下に見えた。
 どれくらいそうしていたのだろうか。純子が後ろに来ていたことにも気付かなかった。
「何してるの? 燗をしたわ」
「あ、……」
「いつもと違うのね。考えごと?」
「いや、別に――」
 とは言ったものの、やはり昨日のことが頭にある。朝方、一緒に寝ていた美音子の隣りから抜け出し、その日の内に純子のところに来た。十日は一緒にここで過ごすことになる。そのことが気にならないと言えば、嘘になる。
「用意をしてるのよ」
 自分でも気がつくほど、気怠い返事をして、日向は障子を閉めた。
 土間に続く、うちねと呼ばれる居間に戻ると、灯油の火鉢が赤い炎を上げていた。暖かい気候の宮崎だが、やはり山峡では夜になると、かなり冷える。だが、まだ炬燵を出すまででもない。
 純子が燗をした酒は、日向が仁多から持って来た簸上正宗である。椎葉では酒
というと焼酎のことで、稗のそれがいちばん美味い。寒の水で作ると長い間保存できると言われ、かってはどこの家でも自前の酒があった。いわゆる濁酒である。だが、美味いからと言って、最初から焼酎を飲むというのは、どうも性に合わない。
 純子が酒を注いだ。
「神楽の季節が近くなったわね」
 日向は頷きながら指を折った。ひと月もすると神楽が始まる。
「今年も、その時には帰ってくるでしょう? そうよね」
 日向は黙ったまま、酒を飲んだ。 
「今年も神楽は賑やかになりそうだって、みんなが言ってるわ」
「……」
「宮崎の大学から学生が研究に来るって」
 純子の話を聞きながら、日向は美音子が、仙台へ帰ったのだろうかと思った。
 美音子は日向を訪ねたその日の内に広島まで車を走らせ、空港から仙台行の飛行機に乗ると言っていた。多分、予定通り帰ったのだろうと日向は思うが、やはり気になる。あの夜、酒を飲まないかと美音子に声を掛けた。三成の飲み屋でもよかったが、三津から町まで出掛けるのは面倒だった。
 奥深い仁多の里、それも一軒家のようなところで男と女が二人で酒を飲む。その行きつく先を日向は期待していたわけではない。飲んだ後、町の旅館で泊まればいいのだと、日向は美音子に言ったのだ。だが、そうはならなかった。
「やっぱり、なんか変……」
「どうして?」
「だって、いつもと違って、ぼんやりしてる」
 確かにそうかもしれない。
 昨日の夜のことを美音子はどう思っているのだろうか。年齢が二十ばかり違う男と女が、そうなった。三十前の美音子からすれば、日向は相応しい相手ではないはずだ。だが、美音子は積極的だった。酒のせいだったのだろうか。そんな気もしないではない。日向はその思いを押しのけようと、盃に手を伸ばした。
「学生が神楽の研究に来るのか?」
 椎葉の神楽は、文部省によって昭和五十五年十二月、記録に残すべき無形民俗文化財とされ、翌年から三年間をかけた調査が始まった。その調査結果は、『椎葉神楽調査報告書』という膨大な資料としてまとまっている。
「そうらしいわ。それより私、あなたの住んでるとこに行ってみたいんだけど」
 盃を口に運んでいた手を止め、純子が日向の顔を見た。そんなことをいままで一度も純子は言ったことがなかった。
 日向は十二年前、妻を亡くした。脳内出血だった。疲労が蓄積しての結果だと言う医者の言葉が心に残り、それ以来独りで暮らしている。だから、純子が三津に来てもどうということはない。
 純子が仁多の三津に行きたいというのは、日向と一緒に暮らすということではない。十年も関わりのある男の生活を垣間見たいというだけのことだろう。
 日向は、椎葉で純子と一緒になってもいいと思う時がある。踏み切れないのは、三津に昔からの自分の家があり、生活があるからだ。
 日向は椎葉が気に入っている。かつて、陸の孤島といわれた椎葉だが、それを逆手に取って観光に力を入れた。神楽の研究に来る学生がいるというのも、そういうことからであろう。それなりに活気もあるのだ。
 椎葉は、村という名に似合わないほど広い。九州の村の中では最も面積が大きい。村の端から端まで、車を走らせると一時間半はかかるのだと日向は聞いたことがある。しかも、九州山脈の屋根と言われる国見岳、五勇山、向坂山、白岩山、三方山、扇山、市房山などの千六百メートル級の山に囲まれ、その脊梁は分水嶺にもなっているのである。
 隠れ里にも似た村で、古い家と昔からの家具に囲まれ、純子と一緒にこれからの暮らしを埋めてもいいのではないかと日向は考えないでもない。
「春になったら、国見岳辺りに行って、竹を探してみようと思う」
「そんな無理しなくても、竹屋さんにあるでしょうに」
「篠竹、それも女竹。節間を使うから長い竹がね。気に入ったものが、なかなかないからな」
 純子の酒を注ぐ手を眺めながら、昨日の夜は美音子がそうしたのだと、また思い出した。
 美音子は笛を吹いてみたい、笛を作ってみたいと言っていた。椎葉で暮らすなら、三津で教えて跡継ぎにしてもいいとも思う。そうすれば、美音子は仙台から帰ってくるのだろう。
 笛を作るというのは、男でなけねばならないことはない。
 日の暮れたのは知っていた。縁側から見下ろした村が、薄い闇の中に少しずつ灯りを増やしていた頃から飲んでいたのだ。だがいま、雪見障子の硝子から透けて見える庭は、剃刀で切り裂く隙もないほどの黒い闇だった。物音もしなかった。
「焼酎にします?」
 日向は日本酒を飲んだ後、焼酎の湯割りにする。
「椎葉の里でいいの?」
 椎葉の里という名の付いた焼酎の瓶には、鶴姫と大八郎の図柄が描かれている。椎葉の酒店でしか売られていない。二十度と二十五度の二種類があり、日向は椎葉に来た当時、強い方を飲んでいた。去年から二十度のものにしたのは、翌日まで酒が残るようになったからである。純子と一緒に飲むとどうしても過ごす。
「お風呂――よ」
 二杯飲んだところで、支度をしていたらしい純子に呼ばれた。薪風呂である。焚く材料は幾らでもあるのだ。薪作りは日向がした。石油バーナーを使えば便利なのだろうが、日向のこだわりだった。湯が柔らかいのである。ゆっくりつかった後の体の温まりようが違う。
 湯殿は母屋とは別棟で、裏庭に面した窓の下には薪が積まれている。
 湯につかっていると、頭にタオルを巻き、体をバスタオルで包んだ純子が入って来た。
「どうせ湯に入るのに、そんな」
「だって――」
 二人だけの湯殿に声が響いた。
 純子が背中を向けたまま、外したバスタオルをフックに掛けるのを日向は見ていた。酒のせいか、小さな肩からくびれた腰にかけて少し赤みを帯びている。
「あっち向いてて……」
 日向は、純子の子どもじみた恥じらいに、ふっと笑った。純子が体を寄せてくる。ざわと湯の音がした。日向は昨日の夜、風呂に入らなかったことを不意に思い出す。
 時雨が、美音子の部屋の窓を叩いている。久し振りに何の予定もない日曜の朝だった。窓のカーテンを開けると、冷たく湿った空気が頬を撫でた。
 仙台では、このところ秋が足早に駆け抜けるような気配がある。緯度が高いせいなのか、一日の気温の差が激しいからか、市内のあちこちにある欅並木の色づきがいかにも鮮やかだった。
 十月も終わりの週になっていた。この月を神有月というのは出雲だけである。全ての神々が出雲大社に集まるから、出雲以外は神は留守になってしまう。だから、他の地域では神去月、神楽月などという。いずれも十月の異名である。
 出雲から神々が、それぞれの土地に帰るのは十一月になる。神が帰るから神帰月だ。
 時雨月、初霜月、霜月の異名もある。霜月は、もともとは霜降月だったが、いつの間に(降)という文字が抜けて霜月になったとされている。文字通り寒い月であり、時雨の季節でもある。
 時雨というのは、秋や冬の季節に、風が強く吹き、急に降ったり止んだりする通り雨のことだが、この語源には様々な説がある。幸田露伴によると、(し)は風の古語、(ぐれ)は(狂い)の転化したものであるという。美音子は、そのことを仙台に来た最初の冬、大学の国文の授業で初めて知った。風が狂う、というのは、いかにも冬風の表情である。
 できるものならば、風になって日向のところに行きたい気もする。抱かれたいのではない。日向に出会ってから、今の仕事がいかにも興ざめたものに見えるようになったからだ。日向の仕事は、いや、暮らしはいかにも世俗を超えたもののように見える。そんな日常の中に入り込んでみたいのである。
 笛を作り、独り吹く。その音色が山峡に谺する。神楽の舞いに合わせる笛の音であるかもしれない。日向のところに行ってみたいと、また思った。
 去年、仙台で初雪を見たのは十一月十日、その前の年より十八日、いつもの年に比べても十三日も早かった。仙台管区気象台が観測を初めるようになってから、三番目の早さだったと新聞にあった。
 七回目の冬を仙台で過ごすことになるのだが、今年の雪も早いのだろうかと、コーヒーを沸かしながら美音子は思う。いずれにしてもあと一か月もすれば雪が積もる。仙台市内では雪がそう多いとは思わないが、冷えは厳しい。路面がよく凍結する。そんな日には、車で出ようかどうしようかと迷う。
 東北の季節は、春の菜の花から始まる。紫陽花が咲き、向日葵、蕎麦などの花がコスモスへと変わり、色づいた紅葉の季節が終わると、しだいに墨絵の世界へ入り込むのである。季節の変わっていくのが、手に取るように美音子には分かる。
「そうだよなあ、もう七年にもなるんだもんな」
 コーヒーカップから立ち上がる湯気に顔を埋めるようにして呟いた。
 携帯が鳴る微かな音が聞こえた。出ようか出まいかと迷う。新聞社から、出て来いという電話かもしれない。せっかくの日曜である。独りで過ごしたかった。暫く放っておいたが、催促するようにいつまでも響いている。仕方なく美音子は、立ち上がった。
「美音子――か?」
 受話器のマークの付いたボタンを押して耳に当てた途端、男の声が聞こえた。(美音子……? もっ、呼び捨てにして……)と自分で自分の名前を反芻しながら、誰だろうと思った。
「俺――、俺だけど、有司」
「あ、有ちゃん。えっ? 何で。どうしたの?」
「何でってのはないだろう。電話してもいいって言ったじゃないか」
「そりゃあ、まあ、そうだけど。で、いまどこ?」 
 美音子はそう言いながら、有司の顔を久し振りに思い出していた。
 有司に出会ったのは、祭の夜だった。翌日、誘われて三瓶に行き、昼食をした三瓶高原ホテルの部屋で、不意に抱きしめられて唇を吸われた。その後、仁多の鬼の舌震いまで足を伸ばし、さらに、ホテルに誘われた。もともと好きだった有司だから、そのことはどうということはないが、あまりに性急過ぎはしないか。
 帰り道、有司は黙ったままだった。意識して何も言わなかったというよりも、多分、どう言葉を繋いでいいのか分からなかったのではないか。
 男というものは、そんなものだろうと美音子は考えている。男は、自尊心の固まりでもあるが、その分だけ臆病でもあるのだ。
 女は男ほどには仕事ができないなどと、軽く見下したようなことを声高に言う男がいる。だが、そういう男に限って、女の優しさや繊細な気持ちの動きにはかなわないと思っている。多分、有司もそうなのだろうと美音子は思う。
「どこって、松江だよ」
「そうなんだ、そうだよね」
「実は……」
「この間、ごめんね――」
 美音子は、有司の言葉を遮った。
 突然に出た(ごめんね)が、どういう意味なのか、自分でも図りかねていた。誘われたのに嫌だと言ったことか、それとも仁多での日向とのことなのか、自分でもよく分からないままだった。両方かもしれない。
「ん? 何が」
 有司の返事は曖昧だった。
「それで……何?」
「諏訪に行くんだよ。出張だけど」
 美音子は、(スワ)と小さく呟いた。有司に聞こえたらしかった。
「長野の諏訪だよ。プリンターの工場があるんだ。仕事が終わったら仙台に行こうかと」
「ええっ! 何しに――」
 つまらない返事だと美音子は思った。
 有司が仙台に来たい、と言う。それを聞いて(何しに……)と答えるのは、考えてみればおかしい。何のために来るのか、来る必要はないのだと言っていることと同じではないか。何をくだらないことを言っているのだと美音子は思った。だが、有司は気が付かなかったらしい。
「出張は長野だけだよ。仕事が済んだら仙台まで回って、美音子に会いたいと思ってさ」
「ふーん」
「都合が悪いのか?」
 美音子は、ふと学芸部長の顔が浮かんだ。有司が来るなら、一日くらいは付き合わなくてはいけないだろう。となると休みを取らねばならない。部長は渋るかもしれない。
 月末は、書評や郷土出版などの特集記事が数本ある。社会部の記者ほど忙しくはないが、それでも何かと立て込んでいることには間違いはないのだ。
「悪くはないけど……」
「俺が行くと、怒る誰かががいるとか?」
 そう言われて、日向とのことが頭に浮かんだ。そんなことはないのだが、有司が知っているような気がする。
「馬鹿なこと言わないでよ。そんな人いるもんですか」
 言いながら、美音子はまた日向の顔を思い出す。
「忙しいだろ?」
 確かにそうである。だが、特集の大部分は配信専門の東京文化通信社から送られてくるフィーチャーで間に合わせればいい。入社した当時、記事は足で稼ぐのだと教えられた。横着になったというのか、最近では通信社やインターネットで手に入れた情報でお茶を濁している。有司の声を聞きながら、(潮時かな?)と思わないでもない。
「どうした?」
 有司の小さな声がした。黙ったままの時間が過ぎていたらしい。
「うん。いいよ。それで――いつ?」
 美音子は日向に出会って以来、自分の気持ちの中に生まれた得体の知れない焦りを引きずっている。未だ形として掴めないものの、笛と暮らしてみたいという思いもある。そのこともだが、来年は三十になるのだ。そろそろ松江に帰ってもいいような気もする。母の紗保が祭の夜、美音子に帰って来て欲しいというようなことを言っていた。仙台に来て七年になるが、今まで思いもしなかったことだ。松江に帰ってもいいか――と、そんなことを考えるようになったというのは、確かに潮時かもしれない。
「明日中には仕事が終わるんで、その次の日の朝、東京に出てさ、成田から仙台空港へ行こうかと思ってるけど」
「ということは、新幹線のあさまに乗るってことね」
「詳しいな」
「飛行機に乗るなら、新幹線がいいと思うよ。だって、東京から仙台は成田しかないもん。それに昼前の仙台行きなら早く諏訪を出ないと」
「ともかく、空港に着いたら電話する。迎えに来てくれるといいんだが」
 美音子は、せっかく来るのだから、行ってもいいと思った。
 仙台空港は都心に近いこともあって、かなり便利である。空港からバスでJRの館腰駅へ出て東北本線に乗れば、仙台駅まで三十分もあれば着く。
 空港からバスに乗ると仙台市内まで四十分かかる。バスなら千円で、時間的には同じだがタクシーは六千円近くになる。いずれにしても車の方が便利だ。
「いいよ。車で行ってあげる」
 美音子は、二日ばかり休暇を取ろうと思った。明日、出社したら部長に適当な理由を付けて頼めばいい。特集記事の方は何とでもなる。電話が切れると美音子は、(私も、随分いい加減になったな)と呟いて肩をすくめた。
 日曜日は、何もしないうちに暮れた。ワインでも飲もうと美音子は思った。