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  笛の音 第51回〜第60回  平成15年4月29日〜5月20日

 椎葉に限らないが、地理的に閉じ込められたような集落では同じ姓が多い。だから屋号か名を言うことになる。
 日向は、那須純子が付けた名の由来である物語を知らないわけではなかった。
 八百年前、壇ノ浦の戦いに敗れた平家は鎌倉の追っ手を逃れ、辿り着いたのが椎葉の里だった。安全だと思った隠れ里もいつしか源氏に知られ、源頼朝の命を受けた那須与一宗高の弟、那須大八郎宗久が追討に向かう。
 椎葉に向かった大八郎は険しい道を越え、隠れ住む平家の落人を発見する。大八郎が見たのは、かつての栄華を忘れ、戦意を無くしてひっそりと暮らす平家一門だった。大八郎は、討伐を果たしたことにして幕府へ報告するが、鎌倉に戻らず椎葉に留まる。大八郎は屋敷を構え、平家の守り神である厳島神社を建て、農耕を教えるなどして、落人と村作りに専念し、平清盛の末裔である鶴富姫と共に暮らす。だが、それを知った頼朝は、大八郎に鎌倉への帰還命令を出す。だが、鶴富姫は女の子を身籠もっていた。
 椎葉高男による『椎葉山根元記』は、こう伝えている。
 宏太郎が、また酒を注いだ。
「両親が死んでから後、あの娘は店の二階で寝泊まりしてるんで、住んでた家の方は、それこそ古くなって空き家ってとこです」
 古ければ、篠竹も使われているはずだ。煤竹があるかもしれない、と日向は思った。竹は、古ければ古いほど、よいと言うものでもない。百五十年ほど経ったものがちょうどよい。それより年数が過ぎていると、笛にするには脆いし、逆に年代の短いものは、癖がある。
 日向は宏太郎に、そう説明した。
「店に行ってみますか?」。
 宏太郎が簡単な地図を描いてくれた。
 もともと狭い村である。歩いてもさほどのことはない。少し歩くと、降りしきる雪の中に『鶴姫』の灯りが見えた。
 格子にガラスが嵌め込まれている引き戸を開けた。客はひとりも居なかった。小さな店だった。左手に五、六人ほどが座れるカウンターがあり、反対側には通路を挟んで三畳ばかりの小上がりが作られている。珍しく囲炉裏があった。
「こんね……」
 カウンターの下から声がして、女が立ち上がった。戸惑いと驚きに似た表情があった。だが、一瞬のことだった。
「こんね?」
 日向は思わず、同じ言葉を返していた。「あれ? そうなんだ。こっちの人じゃないんですね」
 三十半ばくらいの小柄な女だった。目が大きく、彫りの深い顔に長い髪が似合っていた。小さなガラス玉をドット柄にした黒のVネックのアンサンブルが、胸元を切り込んでいる。
「いらっしゃい」
 女が言い直し、日向は、さっき女が言った(こんね)の意味が分かった。
「寒いね」
 カウンターの椅子に腰を乗せながら日向は呟いた。
「まっこち、さみー」
 わざと使ったのよ、とでも言いたげに女は笑った。初めての店に入った時は、どう雰囲気に馴染んでいいのか戸惑うものだが、女の笑顔で日向のそれは消えた。「囲炉裏の方が――。どうぞ」
 炭が赤く燃えている。女は、大振りの徳利と盃だけを持って来た。
「よだきいからなんもせんとよ」
「どういう意味?」
「お客さんに、こんなこと言っちゃいけないんだけど――」
 標準語になった。日向は、知りたいという顔を見せた。
「寒いし、面倒だから何もしないってことです」
 日向は声を上げて笑った。
「あり合わせのものでいい」
「どちらから?」
 女が酒を注いだ。
 日向は宏太郎の店から紹介されて来たと言ったが、女が(どちらから)と聞いたのは、そのことではないと気が付いた。
「島根から――」
「島根?」
 女は山陰は知らないと言ったが、名乗った日向の名に興味があるらしかった。
「宮崎っていうか、こっちの方と関係があるんでしょうか?」
「さあ、どうだか」
 ひむか、というのは、宮崎地方の古い名前である。仁多が神話の里であることからすれば、あるいは遠い昔に、何かの繋がりがあったかも知れない。それにしても、と日向は思った。椎葉に来て、宏太郎に出会った。そして純子の店に来た。何かの因縁があるかもしれない。得体の知れない何かに引きずられているような気がした。
「私の純子というのは、よくある名ですけど、那須の姓は、ここでは殆どがそうなんですから、平凡な名前ってことに」
「那須純子――いい名じゃないの」
「純粋の純なんですけど、さあ、ほんとに素直かどうか。どうなんでしょうね。分かんない」
 純子は、(私も)と言いながら、日向に注がれた酒を一気に空けた。
「宏太郎さんに聞いたんだが、古い建物が空いてるって?」
「そんなこと言ったの。私の家、誰も住んでないんですよ。でも、何で?」
「笛の材料にね、煤竹が欲しいんで、多分あるんじゃないかと……」
「母屋と納屋があるんです。母屋は未だ壊すわけにはいかないけど」
 木の枝に積もった雪の落ちる重い音が、鈍く響いた。
「長いこと泊まるんですか?」
 純子が膝をくずして横座りになった。日向は、ふいと男の目になった。
「ああ、一週間くらい居るつもり」
「明日、行ってみます? 私も暫く様子を見てないので、ちょうどいい」
 空き家の様子を見に行くのだから、わざわざというわけではないのだろう。だが、日向にはそうは思えなかった。取って付けた理由のようでもあった。
「来たばかり、それも初めて会っただけで、そんな。いいのかな?」
「椎葉に来ようと思う人なら、いいに決まってます。それに宏太郎さんの紹介なら――」
「そう言ってもらえれば」
「だって、こんな山の中に来る方って……、悪い人なんかいませんよ」
 那須の大八郎だって、そうだったんでしょう、と言って純子は笑った。
 純子と酒を飲み、他愛無い話をしながら、日向は以前から何度も椎葉に来ているような気がした。
「純子さんのご主人は何をしてる人?」
「いませんよ。そんなの」
 母は癌で、五十五歳で亡くなった。独り娘だった純子は、それを機会に勤めていた宮崎市の建設会社を辞めて椎葉に戻ったのが五年前である。父は長距離トラックの運転手だったが、二年前、別府に近い九州横断道路で、反対車線から暴走して来たダンプカーと衝突して亡くなった。補償金と生命保険金が入った純子は、それで店を開いた。
「だから、独りで暮らすくらいの余裕はあるの」
「じゃ、何でこの店を?」
「時々、近くの人達が来て話して行くから、それで。だって、こんなとこで、何をするってこともないし」
「宮崎の方に出たら?」
「駄目。父さん達が生きて来たこの村で、ずっと暮らそうと思ってる」
 もともと嫌いじゃなかったお酒も強くなったのよ、と純子はまた笑った。
 その夜、『鶴姫』に客は一人もなかった。降りしきる雪の中を日向が泊まっている民宿『ひえつき』に帰ったのは、深夜だった。寝静まった宿の階段を音を立てずに上がった。  
 山の南側の斜面に沿って段状に石垣が作られ、椎葉の家々はそこに建てられている。僅かな平地を耕作地に、敷地は斜面を使っているのである。
 住宅の間取りは、そのこともあって、横一列に部屋が並ぶ形になった。だから間口は広く、奥行が短い。宮崎県の北西部に多く見られる並列型農家である。
「どじ」と呼ばれる土間に続いて、「うちね」の居間、「つぼね」の夫婦部屋、「でい」の客間、「ござ」という仏間が一列に並ぶ。北側には細かく柱が建てられて押入があるのは、崖崩れへの備えだ。
 純子の家は、店から更に百メートルばかり、斜面を上がった所にあった。周囲は雪に埋もれた林である。隣りと言える家は、かなり下に見える。まるで一軒家だった。
「こんな高いところにあるから、上がり下りだけでも大変なんですよねえ」
 かつて椎葉の人々は、尾根の近くに住んでいたのではないかと思われる。高い場所にもかかわらず、湧水もあり、傾斜も緩やかで豊かなブナ林が続く。時が流れるにつれ、人々はしだいに山の斜面を下りて来る。
 年の暮れというのに、純子は額に汗を光らせていた。首を傾げ、手の甲で拭った汗を純子は暫く眺めていた。
「まだこの上の方には、民家があるんです。高さが、標高っていうのか、千メートルくらいの尾根に立派な家があるんです。八十歳のおばあさんが独りで住んでます」
 家は、典型的な椎葉のそれだった。
 入口の戸を開けると、少しばかり饐えた匂いがする冷たい空気が日向の体を包んだ。土間に踏み込むと、四部屋の板戸が全て開け放たれていた。
「広いねえ」
「こんなとこに一人で居たら、怖いですよね。だから私、店の二階に居るんです」 人気の無いこともあって広々としてる。
 それぞれの部屋は、全て二十畳前後である。確かに、ひとりで暮らすには広過ぎもし、無駄のようでもある。だが、こういうところで笛を作り、椎葉の深い谷と千メートルを超える山々の連なりに、笛の音を響かせるのもよいのではないか、いい曲が出来るかもしれないと日向は広い部屋を見ながら思う。
「気に入ったな」
「え? 何がですか」
 押入の中をのぞき込んでいた純子が、体を曲げて振り返った。
「いや、この家がね」
「そうなんですか。だったら差し上げましょうか」
「まさか――」
「栗とか欅、桂の木なんかも使ってるんですよね。樅や栂なんかの大きいものが材料ですから、丈夫で長持ちしますよ。多分、私みたいに」
 そう言いながら笑った純子の目に、日向は蠱惑的な輝きを見たように思った。 その目は、ほんの少しばかりだが窪んでいる。大きい目がそうだから、何となく北欧系の顔に見えなくもない。濃い茶褐色の虹彩で見つめられると、誘われているように思える。
「いくら何でも、二百年は経っているんじゃないかな?」
「でしょうね。よく分からないけど」
 椎葉の家で使われる木材は、全て村で調達された。しかも、機械で削ったり切ったりするのではない。木挽きによる手作業である。だから、欄間はもちろんだが、柱と柱の間にある桁にまで彫刻の手も入り、何でもないような所にも欅の一枚板が使われていたりする。
 年数を経るに従って、柱一本に、板戸一枚に深みが出て来る。日向は、黒光りのする作り付けの棚に手をやりながら、そう思った。
 仁多の三津にある自分の家も古いが、この椎葉では全てが過去と共に生きている。こういう家に住みたいと、また思う。
「父を思い出したわ。そんなふうに、その辺りに父が立っていたような気がするの……小さい時の記憶」
「お父さんは、確か二年前に事故で……」
「そう。日向さんを初めて見た時、どこかで見たような――。暫くして、あ、父に似てるって」
「どこが?」
「雰囲気よ。父は童顔だったの。だから齢よりずっと若く見えたわ」
「もう若くはない」
「そんなことはないけど。そうだ、行って見ます? 納屋――って言うか、物置ですけど、日向さんの探している竹があると思うんです」
 純子の言う納屋は、少し離れた場所に半ば朽ちかけて建っていた。軋む戸を開けると、灯りが射し込んだ部分だけが明るくなった。その光の中で、板の間に筵や木箱が積み重ねられているのが見えた。物置特有の匂いがした。だが、ある爽やかさを含む独特のそれだった。黴が作る匂いであり、微生物が長い年月にわたって醸し出した菌の香りである。
 日向は、古い家屋に入るといつもそれを感じた。嫌いではない。むしろ、気持ちが落ち着くのを感じる。そこから匂い立つのは、もともと日本家屋特有のものであり、何かしら鎮静的な作用をもたらすのだろうと日向は思う。親しんでいる竹林や森の匂いにも似ている。
 屋根の裏は茅が剥きだしで、幾本かの木材や細い竹が支えていた。竹は、殆どが鈍く光る茶色のそれだった。
「この竹なんか、いいじゃないですか?」
 純子が、衣服や調度が入っていたと思える小型の長持ちの上に乗って、右手を梁の方に伸ばしている。
「危ないじゃないか」
 日向がそう言った途端だった。
「ひぇ――っ」
 悲鳴と一緒に、虫食いの痕のある長持ちの蓋がずれて落ち、純子の体がぐらりと横になった。
 虫が食い、ぼろぼろになっていた長持ちの縁が外れたのだ。
 純子の体が日向の胸に倒れ込む。受け止めたまま、日向も腰から積んであった筵の上に落ちた。純子の長い髪が漆黒の闇のように日向の顔に追い被さり、烈しいほどの女の匂いがした。髪のそれだったかもしれないが、日向には純子の体臭のように思えた。
 抱き合う形になったまま、お互いが一瞬息を飲む。純子の柔らかな体を日向は重いと思った。
「ごめんなさ――」
 日向は体を入れ替えると、純子のその声を唇で塞いだ。少しばかり躊躇した気配の後、純子の両手が日向を引き寄せる。
 外は雪の降る音がしていたが、日向は寒いとは思わなかった。
 どれくらいの時間が経ったのか分からなかったが、純子の首筋や胸に汗が流れているのを日向は見た。
 純子から離れ、仰向けになって天井に目をやると、吊り下げられた白い龍の頭が見えた。何に使ったものか分からない。紙で作ったらしいそれが、横たわった二人を見下ろしている。
「魔よけなんですって」
 日向の視線を純子が追っていた。
「この建物は、いつの頃までか知らないけど、産小屋に使われていたって聞いたことがあるの」
 明治の初め頃あたりまでは、母屋から離れた場所に産小屋が作られ、女達はそこで出産した。出産を不浄なものとし、それが家屋や家族の者に移らないようにと考えていたらしい。さらに、生まれた子どもの魂は、別の世界から来るものとされ、それを迎え入れる場が、産小屋でもあった。龍の頭は、女や子どもを護るために置かれたのだろうと日向は考える。そんな部屋で純子とこうなったことを不思議に思う。
 日向と純子が、男と女になったのはその時からだった。
 美音子と一晩を過ごし、夜の明けぬ内に日向は仁多の三津を出た。美音子には気付かれなかった筈だ。美音子の隣りから蒲団を抜け出すと、秋の冷たい空気が体の中に染み込んだ。美音子の掛けている蒲団が、胸の辺りで小さく上下している。その中にあるはずの形のいい双丘を日向は思い出した。かなり強く吸った記憶がある。その跡を見たい気がしたが、そうすれば美音子を起こすことになる。伸ばしかけた手を日向は引いた。
 美音子は笛の話を聞きに来た。酒になり、日向は笛を吹いた。美音子が酔いを見せたのは、たたらの話をした時からである。快い酔いの中で、美音子が誘ったように思ったのは、男の身勝手さなのだろうかと考える。美音子を抱いている間、純子のことを思い出すことはなかった。これも男の気随気儘、あるいは放恣とでも言うべきものなのだろうか。
 日向は家を出て坂を降り、車庫兼用の物置小屋に入れていたマツダのAZオフロードのエンジンを掛けた。
 美音子が起きれば多分そうするように、車を広島まで走らせた。美音子は空港で車を乗り捨てると言っていた。日向は広島駅から新幹線と日豊本線、バスを乗り継ぎ、椎葉まで来た。
 バスを降りると、直ぐに那須宏太郎が声を掛けてきた。(お帰り。純子さん、待ちくたびれているかもな)――宏太郎は、いつもそんな言い方をする。
 特別の意味を込めているのではないだろうが、日向にしてみれば、少しばかり気にはなる。
 純子を初めて抱いたのは十年前の年の暮れだった。思わぬ雪が降り、仁多に帰ることが出来なかった日である。あれから十年が経っている。
 純子は二十五だった。今年の誕生日が来ると三十五になる。純子の若い日を独り占めにして来た。那須の大八郎の頃から、椎葉の里は、男にとってそんな魅力があるのかもしれないと、またも勝手に思う。
 純子の家に行く間、何人かの村人と擦れ違った。殆どが顔見知りである。十年も椎葉に来ている。月の内、十日は椎葉で過ごす。一年間ならば、おおよそ四ヶ月は居る計算になった。
 日向は『鶴姫』の前で立ち止まった。だが、確かめるまでもなく、人の居る様子はない。純子はいつものように家で待っているはずだ。日向が来た最初の日は、店を休みにするのである。
 くねりながら続く細い道を上がった。やっと人が一人歩けるほどのそれである。暫く歩いて振り返った。九州山地の奥底を這うように流れる耳川に沿って並ぶ家々が、遙か下になっていた。
 日向は純子の家の前庭から、遠い山を眺めるのが好きである。もちろん高さは全く違うが、どこかそれは仁多の山並みを思わせた。三津にある日向の家も山の中腹にある。
 うっすらと滲んだ額の汗をハンカチで拭き、格子戸の上に掛けられた表札を見上げた。(那須)とだけ書いてある。椎葉では同じ姓が多いから、あまり意味がないな、といつものように思った。
 格子戸を開けた。この前来たのは九月の中旬だったから、ひと月振りになる。
 奥の部屋に居たらしい純子が、戸の開く音を聞いたのか小走りに出て来た。茶色のセーターを着ているせいか、小さな動物のように見えた。
「あ、お帰りなさい。迎えにも行かないで――」
 最後まで言わずに、純子が抱きついてきた。(お帰りなさい……か)と呟き、日向は宏太郎の言葉を思い出した。確かにそうでもある。 
「え? なんて言ったの?」
 純子が、日向の胸にこすりつけていた顔を上げた。
「いや……なんでもない」
 村の人から見れば、日向は、椎葉の住人である。頼まれて笛を作ることもあり、時には里人と一緒に笛を吹く。