小説「笛の音」もくじにもどる    トップにもどる

  笛の音 第31回〜    平成15年3月13日〜

 美音子が、有司と鬼の舌震いに行って二日経った。
 勤めている東北日日新聞社からもらった休暇は残り三日である。美音子は日向をどうしても訪ねたいと思った。
 仙台から帰った日の夜、朝日神社の神楽を見に行き、日向に出会った。というよりも出雲の笛師に遭遇した。日向に聞いた話をもとに、できれば記事にしてみたいと考えたのだ。
 美音子は電話で日向の予定を聞き、自分の都合を合わせた。休暇が終わる前日に訪ねる。その足で広島空港に行き、一日に二便あるいずれかの仙台行きに乗る。午前十一時半と午後七時のフライトだ。昼前は無理としても、最終便なら午後八時半には仙台に着く。休みの最後の日はゆっくりすることにして、次の日から出社する。美音子はそう決めて、日向の家を訪ねる時刻を午後一時にした。
 松江駅の南口でレンタカーを借りた。広島で乗り捨てればいい。
 借りた車は、以前から一度乗ってみたいと思っていたマツダのロードスターだ。色は、サンライトシルバーメタにした。一人で走るのだし、日向の住む仁多の三津までは狭い道とカーブが多いから、小さい車が楽である。
 シートに収まると座り心地はよく、体重をかけると柔らかな感触で沈み込んでいく。有司と一緒に乗ったユーノスもよかったが、ロードスターは更にいい。シートに乗っているというのでなく、包み込まれているという感じだ。長距離なら疲れは少ないだろう。コーナリングの時にも張り出したサイドサポートが体の揺れを最小限に抑えてくれた。仙台で通勤に使ってもいいが、オープンタイプだから東北の気候にはいささか合わない。
 美音子は、そんなことを考えながら大東町の海潮から農道に入った。磨き上げた青いガラスのような空を背景にして、明度の高い色が山の斜面を駆け上がっているように見える。紅葉の季節だった。
 日向の住んでいるところは、三津である。三成の町を通り過ぎ、八代の方には行かず、馬馳に向かう。峠らしいところを越えた。
 車をゆっくり走らせていると、道の左側に立てられた小さな道標のようなものが目に入った。『日向笛庵』とある。
 美音子は、神楽の夜に日向が言った(工房ってもんじゃない)という言葉を思い出し、頬が緩んだ。工房ではなく庵ならば、何となく日向の風貌にも似合っているかもしれないとも思う。
 庵というのは雅号にもよく使われ、斎というのもある。茶人や剣豪の名でよく見る軒というのもあるが、これらは建物に関わる文字として、禅宗の寺で使われていた。
 軒は軒先住まいをして修行中の身、庵は萱葺きの小屋で修行後、小さいが独立した寺の主人になったという意味である。斎は庵で更に修行を積み、大寺院で弟子を教育するというような場などの文字として使われる。
 日向も庵の主人なのだ、などと美音子は思った。確かに文字面からして、工房とは雰囲気が違う。
 日向の家は崖にへばりついたように見えた。どうやら、ちょっとした坂を登らねばならないようだった。
 車は田圃の脇に置いてきた。駐車禁止の標識も、人の影すらもない。誰も咎めるものはないのだろう。人で言えば、無口とでもいうことになるのかもしれない。物音ひとつしない。音という音は全て地の中に吸い込まれたようで、そのせいか耳の痺れる感じがした。
 汗が出る前に辿り着いた。庵とはいうが、どこにでもあるような田舎の家である。だが、驚いたことに、茅葺きの屋根だった。
 いまどき珍しいと思いながら、暫く見上げていると人の気配がした。
 上半分が格子にガラス、下が板の引き戸が開き、日向の顔が見えた。
「あ、本当に来ましたね」
 幾分、驚いたような言い方だった。
「え? 本当って?」
 せっかく来たのに、それはないだろうと美音子は思った。
「ん――、電話では来るって聞いたけど、若い娘さんがねえ。こんな山の中に、しかも笛に興味があるって言うんだから……。約束はしたもののね、まさか……と」
「約束は約束です。来ると言ったんだから来ました」
 少しばかり気色ばんだような物言いになった。挨拶もなく言い合いか、と美音子は笑った。笑いながらも日向が言った若いという言葉が気に入らなかった。
 女が三十前後になると、若いなどと言われれば、何となく気が滅入るのが普通である。いかにもわざとらしいような気もしないでもない。多分、それに反発して、むっとした口調になったのだ。
 だが、そんな言い方ができるのも、ずっと以前から知り合っていたように思えたからだ。既視感という言葉が頭に浮かび、何年も前どこかで知り合っていたことがあるような気がした。数日前の夜、朝日神社の拝殿で二言、三言、話しただけなのにである。
「上がってください。むさくるしいところですが」
 日向は玄関から踏み込んだ土間の右手にある踏み段に上がり、四畳ほどの細長い部屋を通って、中の間に入って行った。中の間の奥は、いわゆる表という部屋である。古い昔からの家は、どこでもそうなっている。
 踏み段はかなり高かった。美音子は困った。極端に短い革のミニスカートを穿いて来たからだ。色が黒なのも気になる。
 日向が背中を見せているのを目で捉えながら、上がり口の板に膝をついた。
 そんなことを思ったからか、スカートの奥に生暖かい風が吹き込んだような気がした。それを振り払うように、頭を二度ばかり横に振った。
 表の座敷からは、なだらかな山を背景に、大きな飛び石が並んでいる庭が見えた。それを囲むように粗い砂が敷き詰められ、奥に向かって広がる樹木の中に、石組み、築山、石灯籠がある。
「向こうの山は何というんです?」
 秋の太陽を背にして幾分暗く見える山が、美音子には黒い塊に思えた。
「名は夕景山。九百メートルくらいあるはずです」
 中国産地の奥深く入り込めば、確かにそうとも思える。
「隣の山とは、四百ばかり違うでしょうなあ。登るとすれば、かなり大変です。昔、城があったとも言うんですが」
「城が?」
「戦国時代のことですよ」
 外国の庭は、木や石がどちらかと言えば幾何学的に、整然と配置されている。それに対して、日本の伝統的な庭は、自然の一部を再現しようとする。
 水、池、石、樹木、築山などを取り合わせて変化を持たせる。どこでもというわけにはいかないが、遙か彼方の山や風景そのものを、庭の一部として取り入れる借景という庭作りもあるのだ。日向は、そうも言った。
「庭って自然のままのようだけど、ある意味で人工的でどうかな、と思うんですけど」
 美音子は、実家の庭を思い出した。祖父が、いつも庭の手入れをしていた。雑草一つなかった。
「人が手を加えることで、もっと自然が奥深くなることもあるんですよ」
「というと――」
「これは我流の庭なんで……。それはともかく、私には笛と庭が一つのものとしてあるのです」
 日向は更に何か言いたかったようだが、口をつぐんだ。
「まあ、いずれ詳しいことは――」
 石灯籠の影が、少しずつ長くなり始めていた。 
「あの――、できれば笛を作られる場所を……」
日向に話を聞いた後、ここから広島まで行かねばならない。横田に出て、三一四号線で庄原に行く。そこから中国自動車道に乗れば早いが、それでも時間に余裕があるというほどでもなかった。できればあまり遅くならない内に広島まで着きたい。
 座布団を出そうとしていた日向が振り返った。
「あ、そうですか。じゃ、美音子さんの言う工房、いや、作業場で」
 太い声で言った日向の顔は笑っていた。
「笛を作るのは、どこでも出来るんですよ。材料の竹と小刀があればいい。縁側でも座敷でもいいんです」
 言われてみればそうであった。機械で作るのではない。まさに手作りなのだ。
 作業場は庭を横切り、母屋からみて左手にあった。かつては、牛が飼われ、農具や脱穀機が置かれていたと思われる納屋に六畳ほどの板間が作られていた。  部屋のあちこちには、おびただしいほどの竹があった。二つの木箱を支えにして作業台らしくなっている幅広い厚手の板の上には壺や花瓶、大きめのマグカップなどがあり、長さの違う幾つかの竹が無造作に差し込まれている。
 日向が座ると思われる場所の後ろには棚が作られ、鉈や小刀などの道具が立てかけてあった。作業台の左手には、これも四段ばかりの棚があり、竹や作りかけの笛が乱雑に並んでいる。天井には、煤けた竹の束が紐で吊されていた。
 煤竹は草葺き屋根の天井に組み込まれた竹が、長い年月、それも五十年から百年近くかけて、囲炉裏などから出る煙で燻されたものである。
「青竹は駄目です。乾くと縮むんで、使い込んだ竹でないとね」
 飴色の竹を見上げている美音子の目を見て、日向がそう言った。 
 美音子の家にも、かつて囲炉裏があった。その上には確かに黒とも、飴色ともつかぬ色になったような竹が藁を支えていたのを覚えている。
 天井に使う竹といっても、豪雪地帯では、かなり太い竹が組み込まれているし、最近では古い家といえども屋根を瓦やトタンで葺いてしまうので、手に入れることが難しい。
「煤竹と言っても、なかなか手に入らないので、人工的に作ったものもあるんです」
 美音子は、京都のどこかの店で見た竹篭バッグを思い出した。
「そう言えば、私、竹で編んだバッグとか花器を京都で見たことがあります」
「ああいうのは、どこが良いかって言うと、やはり色でしょう。艶が何とも言えない雰囲気を出すのでね」
「使い込めば使い込むだけ、そうなるってことでしょうねえ」
「そうです。煤竹も近頃は、草葺きの屋根がなくなって、今じゃ本物を使った品物は少ないです」
 日向は、どこでどうやって笛に使う竹を手に入れるのだろう、と美音子は思った。
「座ってください」
 そう言われても、座るところもない。座ったとしても、いたるところに散らばっている竹屑が刺さりそうだった。
「独り暮らしなもんだから、使い勝手がいいように適当にやってるんですよ。その辺りのものを退かしてもらっていいですから……」
(独り暮らし……)――そう聞いて美音子は、構えていたものが消えたように思
った。きまり悪そうな、それでいて悪戯した子どもの言いわけのように聞こえたからだ。
 普通なら家族の声がし、匂いがするものである。言われて、それがなかったことに気付いた。ならば、男が独り住む家を訪ねたことになる。
 座る場所を探している美音子を見て、日向は折りたたみの椅子を持ってきた。 立ったままというわけにはいかない。美音子は、またしてもミニのスカートを穿いてきたことを悔いた。日向は、茣蓙に座っている。距離があるとはいえ、下から見上げられているような形になる。そう思って、横座りになった。それでも膝があからさまに見えるはずである。美音子は、日向にどう見られてもいいと諦めた。
「笛を吹いてみますか?」
 日向は立ち上がると、後ろの棚から一本の笛を取り出した。
「本当は、正座をして吹くんです。ま、いいけど」
 美音子の背中に廻ると、後ろから笛を差し出した。
「右手は、直角になるように上から被せる……」
 美音子の右手に添えられた手の指が、ざらついていた。
「中指がね、第一関節と第二関節の真ん中で指孔を押さえるように」
 日向の指に力が入った。
「左手は親指を笛の裏側に、そうだな、軽く添えるようにして、人差指、中指、薬指の指紋で押さえるという感じかな」
 抱えられような形になった。美音子の耳に、話す日向の息がかかる。くすぐられるような感じがして、美音子は体を捩った。忘れていた何かを思い出したような気がした。
「駄目、駄目。笛の尻が上がったり下がったりしちゃいけない」
(でも)、と美音子は口にしかけたが言えなかった。このままずっとそうしていて欲しいような気がした。空気が動いたような気がして、美音子は肩の力を抜いて目を閉じた。日向が、美音子の前に立っていた。
「下唇を歌口に少し被せて、唇を少し左右に薄く伸ばす。吹いたときに頬が膨らまないように……」
 美音子は、シャネルのルージュの中からゴールデンレッドを選んで濃い目に塗って来たことを思い出した。多分、笛に付くと思った。
「唇の隙間から息をやや斜めに、そうそう、下へと吹いて、歌口の向こうの縁に
息を乗せるんですよ」
 思い切って吹いた。女の悲鳴のような音が出ただけだった。
「いいじゃないですか。なかなか音は出ないもんです」
 日向に笑われるかと思ったが、そうではなかった。唇を離し、笛を見た。微かに赤い色がついている。見られないように、美音子はそっと指で撫でて落とした。
「横笛にも種類があるんで――」
 神楽笛、高麗笛、龍笛、能管、篠笛という五種類の横笛がある。龍笛などは平安時代から雅楽で使われた。雅楽は天と地の世界である。それを結ぶものが龍であった。だから龍笛という。篠笛はいつの頃から使われたということがはっきりしないが、古くからあったということだけは間違いがない。その篠笛は篠竹に穴を開けるのはもちろんだが、内側には漆が塗られている。素朴で、非常に簡単な楽器である。
 笛や太鼓を鳴らしながら田植えや稲刈りなどにまつわる祭事で、歌い舞い踊った。遠い昔から村祭りの楽しみの一つとして笛は使われたのである。
「大きさというか、長さもいろいろなものがあって……」
 棚に並べられた中から、日向が幾つかの笛を取り出した。
「もともと、自分で吹く笛は、その人が作ったから、生活用具だったんだ」
 篠笛はひとつの笛で基本的に二オクターブ半の範囲の音が出る。だから、一本では転調や移調がしにくいのでいろいろの長さの笛を使う。調子の低いもの、音の低いものから順番に一本調子、二本調子などと呼び、十二本調子まであって、指穴も六つと七つがある。
「竹は、どこから取って来られるのです?」
 美音子は、同じ質問を二度した。なぜか気になったからだ。竹は、どこにでもあるように思うが、日向はそうは言っていない。
「いろいろですが、遠くは九州の方――まで行くこともあるんです」
 九州、と言った日向は、その後を言い淀んだ。美音子には、そう思えた。
「そんなに遠くまで――なんでなのです?」
「暖かい地方だから……」
 太陽の光を充分に浴び、しかも、斜面の密生地に生育した竹がいい。生存競争が激しくて、そのために丈夫な竹になるからである。千葉や房総辺りなどに生えている節の長い女竹が、最もいい。もちろん、九州地方の竹も悪くはないが、あまり暖か過ぎる地方に育ったものは、楽器としては柔らか過ぎるのである。
 竹は甘味があり、蜂や虫が付くために、切るのは十一月頃が最適で、冬の間から長い期間をかけて寝かせる。
「吹いてみましょうか?」
 黙って話を聞いていた美音子の顔に尋ねていた。
「ぜひ聴かせてください」
 陽は既に夕景山の端から消えていた。「遅くなりはしませんか?」
「いえ、いいです」
 笛を取りに立った日向が振り返った。気が付くと、周りには何があるのか定かではないほどだった。
美音子は、あまり遅くならない内に広島まで行きたいと考えていたが、それはどうでもいいことのように思えた。それよりも、笛の音が聴きたかった。
「ここじゃ気持ちが乗らないので、座敷に行きましょう。作業場、いや、工房でで演奏するってのもね」
 作業場を工房に言い換えた日向の顔は、笑っていた。美音子は、その笑顔に包まれるような気がした。
 庭に出ると、都会に暮らす美音子には信じられてないくらいの闇があった。