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  笛の音 第1回〜第20回  平成15年1月1日〜2月15日

 バイクの音がした。暫くして、郵便受けの蓋を開け閉めする音が聞こえた。枕元の腕時計を探り、薄目を開けて見ると午前十時である。年賀状が来たのだと思いながら、美音子は蒲団にくるまったまま、背伸びをした。カーテンの隙間から漏れる冬の陽が眩しい。青葉区にある大崎八幡宮の初詣から帰ったのは、午前二時だった。仙台市の中でも、参拝者の多い神社である。蒲団から両手を頭の上に突き出し、体を伸ばした。(よいしょ)と声を出して起き上がりざま、美音子は笑った。思わぬかけ声が出たからである。(ああ、年か。ハイミスだよなあ……)と呟き、また笑った。
 低く設定していた空調の温度を上げ、勢いよく窓のカーテンを左右に開けると、いつものように白い蔵王が飛び込んで来た。美音子が住まいにしている仙南サンヒルズは、三階建ての賃貸マンションである。仙台市の南西部にあり、しかもやや高い場所のこともあって、かなり遠くまで見渡すことができた。大学を出て勤め始めたときからずっと住んでいる。もう七年も蔵王を眺めてきたのだ。独り暮らしには広過ぎる2LDKだが、気に入っていた。
 歯ブラシを口に入れ、首にはバスタオルを巻いたまま、年賀状を取りに出た。百枚ばかりだった。どれもこれも、決まり切ったように干支の未が絵になっている。半分ばかり繰ったところで、美音子の手が止まった。雪の中に佇む藁葺き屋根の民家を背景に、横笛が一本大きく描かれている。思わず美音子は溜息をついた。どんな印刷でそうなっているのか分からないが、屋根に積もった雪がカットグラスのように輝き、その上に、黒い褐色の笛が鮮やかに浮かんでいたからだ。日向善生と、青いインクで差し出し人の骨太な名前が書かれていた。日向の住む奥出雲の山里は、もう雪に埋もれてしまったのだろう、と美音子は思った。    
                                     注:美音子→みねこ  日向善生→ひむかよしお

 松江から出雲まで、宍道湖の北岸を私鉄の一畑電車が走っている。起点の松江しんじこ温泉駅から西に四つ目の駅が、長江である。美音子は、そこで降りた。
 祭の笛音が、訪れ始めた、夕闇を掻き分け、微かに聞こえた。駅を出て左に行き、更に右に折れる。舗装された一本道が、稲刈りの終わった田圃を右と左に区切り、一直線のまま山の麓で消えている。かつて、強い風の日には土埃の舞う道だった。北の山手に向かって歩き始めた美音子の耳に、笛と太鼓の音がしだいに大きくなって届く。道の両側には祭の幟が幾つか並んでいる。稲田を隔てて点在する家々から洩れる灯りは、秋の祭りを祝う賑やかな笑い声で煌めいていた。
 太鼓の音に混じる、高く鋭い笛の音は久し振りだった。最後に聞いたのはいつだったのか、と美音子は思った。中学生一年であったか、小学校の最後の年だったのかもしれない。どちらにしても、もう二十年も前のことになる。美音子は、記憶の底に残っているはずの音色を探したが思い出せなかった。ふと、後ろめたい気がした。いつしか古里を忘れるような暮らしをしていたからである。
 美音子が通った小学校は、家から二キロだった。中学になると、さらに距離は伸びて四キロにもなった。いま歩けと言われれば、二の足を踏む。高校は松江市内だったが、電車に十分ほど乗り、当時は北松江と名が付いていた終点で降りる。そこから更に四十分近くもかかって、市の東にある学校まで歩いて三年間、通ったのだ。
 湖岸から一キロばかり歩くと、朝日神社が左手にある。松江築城の頃から続く古い社で、百三十もの石段を昇り切った林の中に忽然と現れる。美音子の家は神社に続く石段を横目に見て、五百メートルばかり奥に入ったところだ。神社ほど古くはないが、屋号を垣代と呼び、昔から代々続く家である。   
注:垣代→かいしろ
 垣代は『日本書紀』にもある言葉で、仕切りをするために、幕を垂れ下げて垣の代わりをするという意味である。舞楽などでは舞台の下手に、垣のように並んで笛を吹く人をもいう。
 幼い頃、曾祖父から、先祖は戦国の武将尼子一族に属した楽人かもしれない、と屋号の由来について聞いたことがあった。
 だからというわけでもないが、美音子は、いまでも自分を屋号で呼ばれるのは好きである。何となく、その言葉から温かいものを感じるからだ。
 美音子の集落では、垣中、里垣、畑垣と、『垣』という文字を使う屋号が多い。 家の裏山に五輪塔があることを子どもの頃から知っていた。下から順に四角や円形、三角形の形になった五つの石が積み上げられている。多分、この集落は江戸の戦乱とも関わりがあり、『垣』も防備のために造られた土塁から来た文字なのだろう。他にも、木挽屋、綿屋など、職業から付けられたと思えるものもある。家屋敷のある場所とか特徴、職業の区別や戸主の名前などが元になっているのだ。だから、屋号は、それぞれの住居につけられた名字とは別の呼び名である。もともとは、同じ名字の多い集落で互いに呼び分けるための便宜上、もしくは自然発生的にできたものだろうと美音子は思っている。
 奥深い山間地域の集落では、同じ名字が半数を超えるところがある。そういうところでは屋号ならば、すぐにどこの誰ということが分かる。そこに住む人の会話の中にも、それぞれの家の通称として、屋号がごく普通に使われる。
 美音子は、『かいしろのミネちゃん』と呼ばれてきた。子どもの頃、見知らぬ年寄りに、『どこの子かね?』と聞かれたことがある。名前を言ったのだが、通じなかった。垣代の……、と答えたら、すぐに分かってもらえたことを今も鮮明に記憶している。
 石段前の道路には、たこ焼きと玩具の店が出ていた。薄暗い白熱電球が数個、テント張り屋台の天井からぶら下がり、店の前にたむろする何人かの影があった。
「昔は、こっだだべやなかった……」
 美音子は、呟きながら幼い日の記憶を呼び戻そうとした。確か、もっと賑やかだった。道路に沿って、幾つも店が並び、普段は夜になると真っ暗なその道が、まるで見慣れぬ別世界のようだった。集まって来る村人も多く、夜遅くまで祭の喧噪が続いていた。美音子は、夕方になると早目の夕食を終え、友だちと誘い合わせて家を飛び出す。それがいつもの祭の夜だったのである。何か月も、何日も前からその夜を想像し、胸が躍ったものだ。
「垣代の美音子じゃんか?」
 通り過ぎようとしたとき、背中に声がかかった。
「わあ、どだったいっちゃ。いぎなり……」
 振り向いた美音子は、そこまで言って慌てた。東北の訛、それも仙台弁が自然に出たからである。中学校の同級生田原有司が、薄暗がりの中に立っていた。
 ――なんなの? あんたの言ってることは、分かんない――
 仙台の大学に入った当時、よくこう言われた。話をするたびに、出雲弁が出て困った。だが、幸いなことに、東北の日本海側から来ている学生は、何となく分かってくれたのである。つまりは、ズーズー弁である。
 そんなときに必ず思い出すのは、松本清張の推理小説『砂の器』だった。印象に残っていたのは、日本方言地図が載せられていたページである。東北と島根県が同じ言葉だという印が付けられていた。しかも、島根は松江周辺だけが、東北と似ているという妙な地図だったので、いまでも記憶にある。
 千キロも離れた二つの地域で、全く同じではないにしろ、似たような言葉のあることが不思議だった。
 美音子は高校を出ると仙台市にある宮城学院大学日本文学科に進学した。東北、陸奥、風雪に閉じ込められた街という言葉やイメージに憧れたからである。だが、仙台駅から一歩踏みだし、立体歩道のペデストリアンデッキから美音子が見た街は、それまでの思いとはまるで違う巨大な街、それも東北随一の大都会だった。
 駅から一直線に幅の広い道路が延びている。青葉山につながる欅並木の大通りを見た美音子は、思わず深い息をついた。それと一緒に体の中から何かが抜け出て、消えて行ったような気がした。
 駅前には、銀行などのオフィスビルが建ち並ぶ。右手には仙台ホテル、左にはメトロポリタン仙台などのホテル群、中央にはアムス仙台西武が柔らかな陽光に包まれている。磨き上げられたビルのガラスは銀色に輝いていた。
(この街で暮らせる)――そう思うと胸が躍った。美音子は、深く吸った息を大きく吐くと、立体幾何とも思えるような建物が並ぶ街に向かって歩き出した。
 大学に近いという理由だけで桜ヶ丘のアパートを借り、バイクで通った。大学生活は快適だった。大学もだったが、それよりも仙台という街に惹かれた。青葉通、広瀬通、定禅寺通をメインにし、それを横切る形の数本の広い道路が碁盤の目を作っている。いちばん好きなのは、定禅寺通だった。
 ビルの谷間を縫う緑の帯は、杜でもあった。欅並木の中には、グレコの『夏の思い出』、クロチェッティの『水浴の女』などのブロンズ像が佇む。美音子は大学を卒業したら、この街に住もうと、ひと月も経たないうちに決めていた。
 四年間の学生生活を終えたが、帰ってくるようにという両親の願いを押し切り、東北日日新聞社に就職した。大きいというほどでもないが、それでも宮城県全域と岩手県南部をカバーする地方新聞社である。
 日本文学科出ということもあったのか、美音子は学芸部に配属され、異動もないままに七年が過ぎていた。今年の誕生日で二十九になった。来年は三十になる。(三十路の大台か)――その思いは、美音子に古里の秋祭りを思い出させた。今年は帰ってみよう、どうせ正月も帰らないのだからと、一週間の休みを取って松江に帰ったのだ。
「美音子、きれいになったなあ」
「何言ってんのよ。暗くて分からないくせに……」
「まあな。ともかく、今夜は神楽だぜ。見においでよ」
「そんで帰ってきたんよ」
「近頃ずっと佐陀の神楽だったがなあ、今年は佐世神楽だ……」
 島根県の神楽は、後継者不足や舞う機会が少なくなったこともあり、いまでは百二十九の団体しかない。それでも近くの県にくらべれば多いほうである。石見と違って出雲の神楽は佐陀神能と関わりが深く、能楽風の色彩が濃い。今年は朝日神社の氏子が相談して、ストーリー性の強い大東町の佐世神楽に替えてみようということになった。
 有司はそこまで一気に言うと、黙って美音子の顔を見た。何か言いたげだった。
「何よ」
「ん、なんでもない。じゃ、今夜な」
 有司は中学校を卒業すると、平田市の農業高校に進んだ。美音子は松江の高校に通っていたが、たいていの日曜には示し合わせて、二人であちこち遊び歩いていた。その内、三年になって美音子が大学を目指すようになると、会う回数が減り、疎遠になった。高校を卒業した三月の上旬、有司から誘いの電話が掛かってきたが、仙台行きに追われていた美音子は、(いずれそのうちに……)と言い、それきりになった。屋台の灯りを背にし、暗がりの中に向かって歩きながら、そんなことを思い出していた。
 美音子の家は、道路から少しばかり入り込んだところである。標高約三百五十メートルの朝日山に続く土地で、庭の先に川が流れていた。敷地の中にしては広いと思える二メートルばかりの幅がある。夏でも山からの流れは白い飛沫を上げて途切れず、川に沿って建てられた離れ座敷に居ると、いつでも水音が聞こえた。そのためか、姓は水本である。
 客が来ているらしかった。まだ十月なのだが、山手になるとさすがに気温が下がる。閉められている表座敷の雪見障子を通して、笑い声が聞こえた。(ああ、祭だなあ)と、美音子は思った。祭といえば酒である。酒が入れば賑やかになる。
 客は、姉が嫁いでいる松江からだった。
「やあ、美音子さん、お帰り。祭で?」
 義兄の古山智裕が、襖を開け放した三間続きの座敷の奥で父と酒を飲んでいた。美音子は顔をしかめた。めったに会うことはない義兄だが、美音子を見るといつも、(早いこと嫁に行かにゃあ)と言うのである。嫁に行け、という言い方が気に入らない。行こうが行くまいが、指図されることはない、と美音子は少しばかり腹を立てる。一人娘ならともかく、兄がいるので、家を継ぐということは父も母も考えてはいない。どこに住もうと何をしようと自由なはずだと思っているのだ。仙台の大学に行くと言ったときも、皆が驚き呆れたのを押しのけ、美音子は自分の思いを通したのである。
 姉の光枝は、義兄がそんな話を持ち出すときいつも(いいわよ。美音ちゃんの好きなように生きれば……)と味方になってくれるのである。姉が酒を注ぎながら、胸の前で手のひらを小さく振っているのが見えた。
「後でお酒を注ぎに行くからね」
 美音子は台所に入った。
「あれえ、台所……。改造したんだ」
 煮物をしていたらしい母の紗保が振り返った。嬉しそうな笑顔だった。
「あら、お帰り。早かったじゃない」
「これ……何――」
 見馴れたガスコンロがなかった。あるのは、ただ平らな台だけである。
「電化よ。お風呂も」
「オール電化ってわけ?」
「お父さんも私も、だんだんと歳取るからねえ――」
 美音子の両親は同い年で、去年は一緒に還暦の祝いをした。父は小学校の校長だったが、定年まで勤めた。休みの日には田圃や畑に出たが、退職してからは、それまでどちらかと言うと、母にまかせていた農業を毎日の仕事にしている。
 二歳上の兄は、義兄が経営する松江の工務店で設計の仕事をしていた。小学生の子どもが二人居ることもあり、市内に家を借りて住んでいるのだ。いずれは帰って来るだろうが、いまのところ田畑の仕事までは手を出したくないらしい。
「ガスとか薪を止めてね、電気だけなのよ。便利よ。危なくもないし」
「そう……。手入れも簡単かもね」
「でも、底の丸い鍋なんかは、あんまりよくないみたい。中華鍋とか、安物のフライパンなんかは」
「どうして?」
「平たいものでないと熱がしっかり伝わらないのよ」
 美音子は洗い物を手伝いながら、母の話を聞いた。
 煮炊きも風呂も田舎のことだから、薪は当たり前のことだった。お金を出して燃料を買うこともなかった。裏山に行けば何でも手に入った。だが、これからさらに歳を取っていくことを考えると、早い内に便利で安全なものにしておいた方がいい。足腰が不自由になるのは目に見えている。それも二人で暮らしているのだから、余計に何かと心配だ。
 母の話を聞いていると、仙台を切り上げ、帰って来て欲しいと言っているように思えた。母の頬に影が落ちていた。

 石段を上がる。息が切れた。(子どもの頃は、駆け上がったはずだった……)と思った途端に頬が緩んだ。二十代の初めは、まだよかったような気がする。ましてや小学生、中学生の時には、誰がいちばん先に神社まで行けるのかと、競争したものだ。祭の夜は、特にそうだった。狭い境内に肩を寄せるようにして並んでいる店の中で、自分のいちばん欲しいものが友達に買い占められてしまうような気がしたからである。前の年に、小遣いが足らず、どうしても買えなかった品物が頭に浮かぶ。今年は、それが並べられているのだろうか、あるいは、もっといいものがあるかもしれない、などと思いながら石段を二段飛びで上がったものだ。
 石段の途中まで来た美音子は、そんなことを思い出して立ち止まり、振り返った。石段の両側には真鍮の手すりが取り付けられ、それが、美音子を吸い込むように闇の下まで続いていた。幾つかの黒い影が、石段を上がってくる。その頭の先に、屋台の白熱灯が揺らいでいる。
 境内は、どこからこれだけ来たのかと思えるほどの人数で埋まっていた。神楽殿では既に「清目」が終わり、「山神祭」に変わっていた。出雲神楽は、七座に始まり、式三番、神能と続く。五十ばかりの神楽団体があり、それぞれに内容は違う。
だが、最初は直面、つまり素面の舞があり、それがすむと、着面の神楽になることだけは、はっきりとしている。面をかぶると、人の舞ではなく神のそれになる。神楽は芝居や劇のように観るものではなく、祭の日に神主が神を招き、神に額ずくものとして始まったのだ。
「遅かったじゃん」
 そんなことを思って神楽を見ていた美音子は、その声に驚いて振り返った。有司だった。一瞬誰か分からなかった。
「明日、なんか予定あるかい」     
 グレーのジャケットだったはずなのに、茶系の背広を着ていた。
 予定があるのか、と聞いた有司の声は遠慮がちだった。
「私……?」
「ほかに誰がいる」
 有司は笑いながら、左手の人差し指で美音子の額を軽く突いた。そうだった、左利きだった、と気が付いた。高校生の時、よく手をつないで歩いたが、美音子はいつも有司の左側にいた。十年前のことだ。あの頃は、気にもしないことだったが、なぜいまそれを思い出したのだろう。ほかにも忘れていることがありそうな気がする。思い出せなかった。
「明日、三瓶に行ってみないか?」
 有司が両手で口を囲い、わざとらしく小さな声を出した。
「明日? なんで」
「なんでって――、秋だろ。紅葉を見に行くのよ」 
 明日と言われても、格別何があるわけでもなかった。勤めている新聞社の休暇を取ったのは、祭にかこつけてのことだったからだ。帰っている間にあちこち行ってみるのもいいかもしれない、と美音子は思った。それも、相手は久し振りの有司だ。二人で出掛けるのも悪くはない。
 背が高く、中学校の運動部では何をやらせても人には負けなかった有司を美音子は好きだった。校庭や体育館で走り回っている有司の短く刈り上げた髪から汗が流れて光るのを見ると、心臓を手で掴まれるような気になったものだ。男臭さも嫌いではなかった。そういう匂いを感じる時、少しばかり大人になったような気がした。忘れていたのは、そのことだったかもしれない。そう思った。
「明日の十時。駅で待ってる。車あるから」
 神主の装束をつけた男が、拝殿から手招きをしているのが見えた。淡い光の中を透かすようにして見ると、宮司の息子だった。名前は信昭で、確か、学年でいうと二年上のはずである。
 神主の格好をしている信昭は、背中の灯りを受け、影のように大きく見えた。
「分かった」
 美音子は、返事を待っている有司と拝殿にいる信昭のどちらへともなく頷いた。有司は、(じゃあ――な)と言って、今度は肩を叩いた。左の肩だった。
 美音子は、有司から離れると、拝殿に続く白木の踏み段に足を掛けた。祭のために造り直したのだろうか。神社そのものが古びているせいか、いかにも新しく見える。背中に有司の視線を感じた。
「ここへ上がってください。よく見えます」
 場違いなほどの大きな声に、拝殿にいた八人ばかりの男たちが、神楽から目を離して振り向いた。幾人かは見知った顔だった。
 拝殿に上がり、軽く会釈をして座った。向かって右手に社務所があり、それに並んで神楽殿がある。そこだけが特別に明るい。
「お久し振りです。神主をされてるんですか?」
「いや、そうじゃなくて、学校に勤めてるんじゃけど、時々駆り出されて、こんな格好をしてるんです」
「でも、専門職でしょ」
「専門って言うのかねえ」
 笑いながら言う信昭の声を聞いたのか、近くに座っていた男の黒い背中が少し動いて振り返った。太い黒縁の眼鏡をかけた顔が穏やかだった。五十ばかりかと思えたが、濃紺の作務衣が似合ってい
た。少ないとはいえない黒い髪には、数本の白髪が交じっているが、ことさら目立つほどでもない。
「あ、紹介します。日向さんです」
 信昭が美音子と男の両方を見比べるようにして言った。男は黙って頭を下げた。
「垣代の美音子です」
 美音子は、思わず屋号が出たことに自分でも驚いた。
 もちろん仙台に居るときには、縁のない屋号である。帰って来たばかりなのに、自然に出てくるのは、古里にはそう言わせる雰囲気があるのだろうかと思う。
「あ、水本の……」
 訂正しようとしたその後を信昭が引き取った。出鼻をくじかれたような気がして、美音子は顔をしかめた。
「こちら、水本さんです」
 鼻白んだ美音子の顔を見たのか、信昭の性急さを面白がったのか、日向は小さく笑っていた。
「垣代って言うのは、水本さんとこの屋号なんですが、それからすると、昔は楽人ということだったかもしれません」
 美音子は、気に入らない。そんなことまで言う必要もないはずである。だが、田舎なら、そんなものか、それとも信昭には少しばかり酒が入っているせいかもしれないとも思う。
 日向の眉が動いた。
「楽人?」 
「ええ、昔からそんな言い伝えのようなものがありまして」
 日に焼け、角張った顔のせいもあるが、眼鏡の奥から見つめている日向の目が鋭く光ったようだった。優しそうに見えながら、そうでもない雰囲気だった。体中から出ている精気のようなものを美音子は感じた。
 背は高くはないように見えるが、姿勢よく座っているせいか大柄にも思える。
「私は詳しいことは知りませんが、美音子さんとこの先祖はそうなんだと、この辺りでは言われてます」
「……」
「それがですね――」
 信昭が、垣という文字の付いた屋号の話を始めた。日向は聞いているようなそうでもない顔を美音子に向けた。
 話は、終わりそうにない。それを打ち切るように、美音子は社名入りの名刺を取り出した。
 日向は、美音子の名刺を目から少し遠ざけて見ていた。
「仙台でお仕事ですか……。随分、遠い所で」
「ええ、大学が、あっちだったもので」
 日向が差し出した名刺は、パソコンで作った手製のものだった。
 日向善生という名前の右横に、笛作家・奏者≠ニあり、住まいは、仁多郡仁多町三津になっている。
 美音子は、学芸記者の目になっていた。東北と山陰の笛の話がまとめられないか、と思ったのだ。
 去年の九月、仙台市青葉区八幡にある大崎八幡神社の能神楽を取材したことがある。
 舞いは能に近かったが、それはとかもく笛の音に惹かれた。空気を切り裂くような清冽な音だった。そのこともあって今年の初詣はその神社にしたのだ。
「笛をお作りになるのですね?」
「あ、まあね。素人みたいなもんです。たいした笛じゃないですが……」
「いえ、いえ、そんな……。現に今日の神楽で使ってる笛も日向さんの作品ですよ」
 日向が言い終わらぬうちに、後ろにいた信昭が、肩越しに口を出してきた。美音子は、(また……)と、見えないのを幸い、顔をしかめた。日向にちらと見られたような気がした。
 美音子が、勤めている東北日日新聞に書いた記事は、民俗芸能の衰退を柱にしたものだった。
 東北ばかりではない。出雲の地域でもそうだと思うが、神楽などの伝統文化は、古くから集落や狭い範囲の地域単位で行われてきた。特に神楽は、それぞれの地域にある神社と結びつき、村や同族、縁者などによって受け継がれて来たのである。それは農耕に関わる信仰でもあった。豊作を祈り、収穫に感謝する心を形にして現す祭祀だった。

 大崎八幡の能神楽を見ながら、美音子は、子どもの頃に聞いた天照大神と天岩戸の神話を懐かく思い出した。
 神話はともかく、平安の中期から行われていた新嘗祭での宴のひとつとして行われたのが始まりと聞いてはいたが、それが全国各地にどのようにして伝わったのか、そこまで調べていない。
 全国的に伝統文化が消えて行くことが懸念されているが、美音子の住む東北も例外ではなく、神楽の保存ということが言われていた。
 神楽が神社や農耕と関わりのある地域と結びついたものだとすると、神楽を受け継ぐ者が居なくなるという現実が問題だった。農村からの人口流出と無縁ではないはずだからである。
 特に、囃子や笛などというものは、若い人向きではないのかもしれないと美音子は思う。笛を吹く者が居なくなるということは、神楽が消えることでもある。
 驚いたことに、笛を作る人が目の前にいる。美音子は、どうしても記事にしたいと思った。
 舞台は、最後の八戸になっていた。須佐之男命が奇稲田姫を妻にし、大東町にある須賀の地に来て、八雲立つ出雲八重垣妻ごみに八重垣つくるその八重垣を、と詠んで宮造りをした場面である。
 極彩色の衣装にに包まれた舞い手が金色に輝く袖を大きく振り、腕や剣に巻き付ける。そのまま舞台の手すりに群がる子どもたちに向かい、いかにもわざとらしく倒れかかる。
 大声を上げて逃げる回る子どもたちも舞い手もそれを楽しんでいるように見えた。(ああ、神楽の夜だ)と美音子は思い、気持が安らぐのを覚えた。
 笛の音が更に高くなり、太鼓と銅拍子が調子を合わせた。日向は信昭を振り向きもせず、笛の音を聞いているようだった。目を瞑っている横顔が、いかにも厳しかった。
 神楽が終わり、仕切っていた年配の男が舞台から挨拶を始めた。出雲は、古代文化の宝庫であり、神楽もその一つである、というようなことを言っている。
 地方に伝承されるさまざまな民俗芸能には、その土地の風土が色濃く投影されているはずである。その中で、最も古い歴史を持つのは神楽であろう。源流を斐伊川に求める出雲の神楽は、『古事記』に題材を取り、出雲神話の世界を豊かに再現しているのだと美音子は思う。
 携帯を取り出して時刻を見ると、午後十時前だった。子どもの頃は、夜が更けるまで神楽があり、遅くまで起きていたような気がする。時刻に対する子どもの触覚は大人とは違うのであろうが、十時というのは、神楽の夜にしてはいささか早い時間かもしれなかった。
 拝殿の数人が座を立った。(それじゃ、片づけの方をよろしくお願いします)と、踏み段を降りる男たちに信昭が言っている。相当な量になる神楽の道具を地元の者が何人かで担ぎ、百三十もある石段を下りるのである。いかにも神が天から降りるという感じがする。
「日向さん。工房を見せていただけませんか」
 前置きもなく、美音子は腰を浮かした日向に言った。自分でも唐突だとはおもったが、言わずには居られなかった。
「工房……ってもんじゃないですよ」
 立ち上がった日向は、思ったほど背は高くなかった。百六十センチの美音子と殆ど変わらない。最近の若い男と比較するからだが、背が低いなと思った。
「かまいません、いつでもどうぞ。三成の町から少し西になります」
 日向の白い足袋が白木の踏み段を下り、下駄の上に乗った。拝殿に向き直って頭を下げると、石段に向かって歩き出した。冷え始めた夜気をかき分けるように石段を下りて行く背中が、美音子には、幅広く、大きく見えた。

 長江駅に通じる線路下の道で、有司は青いセダンと一緒に待っていた。
 電車が通り過ぎる。都会の私鉄にでもあるような、鮮やかな青色と白に塗り分けられた車体だった。以前は、くすんだ茶色の古びた車輌ばかりだったのに、と美音子は遠ざかる二両編成の電車を暫く眺めていた。
 振り返ると、どこまでも果てしなく広がる宍道湖に、漁をしているのだろうか、幾つかの小さな船が浮かんでいる。秋の陽射しを浴びた湖面は、波も漁船も動かず、まるで貼り絵のように思えた。
 毎日のように締め切り時間に追われている新聞社の仕事が、ここでは絵空事のようだった。
 三日前、仙台の東北日日新聞学芸部でノートパソコンのキーを叩いていたのに、と美音子は不思議な気がする。
 流れるでもなく、止まるのでもないと思えるような時間を相手に、古里で好きなことをして暮らすのも悪くないのかもしれないと、これまで考えてもみなかったことを美音子は思う。
 台所で笑顔の中にふと寂しげな表情を見せた、母の顔が浮かんだ。
 有司は、車の色に合わせたわけでもないだろうが、青い色のシャツに白いジャケットを着ていた。
 横目で有司を見ながら、美音子は乗ってきた自転車を古びた小屋の中に入れた。高校生のとき、松江の高校にそうして通ったのだ。
 朽ちかけたような自転車小屋、小さな駅舎、周りの民家、何もかも変わってはいなかった。
「悪いな。こんな車で」
 照れくさそうに笑う童顔に、あの頃の面影が流れた。
 車は、言っているほどには古くもなく、手入れがいいのか、むしろ新車のように見えた。
「これ、なんて車なの?」
 美音子は、車のエンブレムを指でなぞった。ワックスがかけてあるらしく、粘りつくような感じがした。
「これ、ユーノス300って名前だけどな。知らないだろ?」
「外車なの? まさかね」
「こいつ――」
 後ろに居た有司に、背骨の上の方を押された。背中から腰にかけて、ざわと波が立ったような気がした。
「十四年前に出た車だよ。全国で千台も売れてなかったって聞いてる」
「じゃ、そういうことからすれば、珍しい車だね」 
 マツダという自動車メーカーが、ユーノスブランドを付け、平成元年の秋から二年半ばかりの間に生産した四ドアハードトップである。
 このところ、レクリエーショナル・ビークルから頭文字を取ったRVと略称で呼ばれる、レジャー目的で作られた車が主流だ。日本で最初に、RVブームの火を付けたのは、三菱自動車が昭和五十七年に売り出したパジェロだった。座席の場所と荷物置き場が一体になった、いわばワゴン車である。箱形の車は、美音子の好みではない。仙台では、これも少し型は古いがセドリックに乗っている。
「――ま、そういうことだ」
 有司は、聞きもしないのに車の説明をした。美音子には、それが言い訳がましく聞こえ、おかしかった。高校生のときもそうだった。知っている限りのことをやたらに話してくれた。
「親父が乗ってたのを貰ったんだ」
「そう。いいじゃない、走れば。――て言うか乗せてくれればいいんだから」
 国道五四号線を走り、恩谷の晴雲トンネル手前で右折する。三瓶山東の原に着いたのは昼前だった。既に十数台の車が止まっていた。紅葉の時期だから当たり前といえばそうだが、美音子は人気のない閑散とした風景を想像していたのだ。
 リフトに乗って見下ろすと、周囲の山が色づいているのがよく見えた。木々の間から見え隠れする男三瓶は、紅葉が幾分遅いらしく、斑模様のようにも見える。
 東北の秋は、山陰に比べればさすがに早い。高い山はあまりないのだが、緯度のせいもあるのか、標高の割りには紅葉が早いのである。更に、一日の寒暖の差が激しいために、鮮やかな色に染め上げられる。
 美音子は、仙台のマンションから見える蔵王を思い出した。
「この辺りの山って、なだらかよねえ」
「……」
「東北の山はね、きつい感じがするの」
「なんで?」
「多分、雪が多いから、山を削るんじゃないかなあ」
「……」
 輝くススキが風に揺れている。有司は、ぼんやりした顔で遠くに広がるブナ林を眺めていた。
「なあ、美音子――」
 有司は、言いよどんだ。
「松江に帰る気はないんか」
「帰るって、なによ、それ――」
「ずっと、あっちに居るつもりか?」
「仙台のこと? まあ、一応はね」
 美音子は、そう言いながら、(誰も、だんだんと歳を取るからねえ)と言った母の顔を思い出した。松江に帰って来てから、ことあるごとにその言葉を思う。
「帰って来いよ。美音子」
「どうして?」
「そりゃ、お前……」
 美音子は呼び捨てにされたり、(お前)などと有司に言われていることに気が付いた。中学生の時から、ずっとそうだった。高校生あたりならどうということはないだろうが、今でもそんな言い方をする有司が不思議に思えた。
「だからなによ」
 有司はそれきり黙ってしまった。
 三瓶自然館の新館で三本の埋没杉を見て、西の原へ回った。
「美音子。三瓶町ってのが、ほかにもあること知ってるか?」
 美音子は(また……説明する)と思い、おかしかった。知ったかぶりというわけでもないだろうが、教えてやろうという気持ちが何となく可愛くもある。
「ほかって、どこ?」
「愛媛さ。愛媛県の西の方だな」
「そうなんだ。知らなかった」
 有司が誰かとそこに行ったのではないかと思った。女かな?――ふと、そんな気がした。
 定の松と片腕の松の横を通り過ぎると、左手の小高いところに白い建物が見えた。『三瓶高原ホテル』と書かれた看板が出ている。
「ここで昼にしよう」
「へえ、こんなとこあるんだ」
 美音子は車を降りて助手席のドアにもたれたまま、四階建てのホテルを眺めた。何度か来たことがあるはずの三瓶だが、泊まったことはなかったせいもあって、この建物には気が付かなかった。しかも、道路から少し高い場所にあり、車で走っていると見落とすかもしれない。
 ロビーは吹き抜けで、開放感があった。巨大なガラスを通して広い庭が見える。奥に向かって敷き詰められた白い砂の間に、形のよい松が幾本か植えられていた。その先の小さな崖状になったところに滝が見えた。積み上げた石垣から流れ落ちる人工滝だったが、庭園の中に造られていることもあって違和感はない。
「行こう――」
 美音子は、その声に振り返った。有司が従業員と一緒に立っていた。庭を眺めている間に、昼食の場所をフロントで聞いたのだろう。
 案内されたのは、二階の和室だった。
「有ちゃん。なんでこんな部屋に……」
 思わず美音子は、有ちゃんと呼び、それに自分で驚いていた。
 部屋で食事をする、ということを美音子は予想などしていなかった。男と女が一つの部屋で何時間かを過ごす。たとえ、食事だけであったとしても、普通は、それが特別な関係への始まりになるかもしれないと美音子は思う。無意識のうちに、(有ちゃん)という言い方になった。少し前までは、姓を言ったり、有司君などと呼んでいた。突然変わったのは、そういうことなのではないか。
 格子になった部屋の引き戸を開け、(どうぞ)と言った従業員が、ためらっている美音子を見て、訝しげな顔をしている。
 案内されてしまえば、いまさら(ここは駄目だ)とも言えない。
「いいじゃないか。どこだって」
「でも――」
 控えの間に続いて、奥には十畳ばかりの部屋がある。窓から見える紅葉が眩しかった。
「すぐにご準備いたします。しばらくお待ちください」
 従業員は、襖を閉めて出て行った。 
 窓際の椅子に美音子は座った。有司は、部屋の中央に置かれた座卓で、急須にポットからお湯を淹れている。
「いいよ。そんな、お茶なんて」
 こんなとき、普通は女がするのだろうと美音子は思ったが、椅子から立たなかった。相談もせず、そういう雰囲気もなく、部屋で昼食をすることにした有司に、ほんの少し腹を立てていたからだ。もちろん、有司を嫌いではない。中学から高校にかけて、お互いに惹かれ合っていたことを忘れてもいない。
 お茶を湯に馴染ませようと思ったのか、有司が急須を左右に動かしながら、美音子を見た。
「ルームさん、変な顔してたぜ」
 強く振り過ぎたのか、急須の注ぎ口から湯が飛び出した。
「男が慣れないことしなくていいよ」
 美音子は言いながら、笑っていた。
「ね、ルームさんて何?」
「ああ、ルームさんってのは……」